佐久良私語 さくらのささめごと

佐久良私語は櫻斎宗匠の折々の思いを綴ったものです。

得浅斎と跡見花蹊の交流

2015-08-12 11:44:50 | 折々の記(2015年)
『跡見花蹊日記』には、茶の湯以外での花蹊と得浅斎との交流が多く認められている。文久元年(一八六一)の六月十五日の項には、次のような記述がある。
私、木津さまへ参り、お千枝さまの舞ノ地致し、暫遊んで帰り候
お千枝とは明治十二年(一八七九)に亡くなった遊心と考えられる。この日、花蹊は木津家で舞の伴奏音楽である地方の稽古をお千枝に付け、その後しばらく遊んで帰宅している。また、そして得浅斎のもう一人の娘でお蓮とも懇意で、「お蓮さまと三庭見物に歩く、今年はよほど淋しく候也」と「三庭」は不明であるが庭園と思われ、二人で見物に行っている。そしてこの年の風情が例年に比べ寂しかったと記している。他にも、「お千枝さまと同道にて細矢へ参り、お茶呼れ」お千枝とともに得浅斎の門人細矢宗祝を訪れ茶を飲んでいる。そして、花蹊は後藤の帰りに木津を訪れ、「本木津さまへ預け」て遊びにいったり、「七ツ時迄遊ふ」とか「木津宗詮へ行、有所遊にて馳走、日暮て帰り候」と日記にはしばしば木津で遊ぶとの記述があり、日頃絵の染筆や、塾での講義、また自身も後藤松陰のもとで漢学を学ぶ花蹊にとっては、木津の娘たちと遊ぶことで気晴らしをしていたと考えられる。そしてある時は、「色々京師の面白き咄し致し、コテコテして終日暮す」とあり、得浅斎が京都の面白い土産話を花蹊にし、終日、濃厚な会話をしている。ちなみに。「コテコテ」とは程度が甚だしいとか、嫌という程とか濃いとかの意味の「こってりした」という形容詞からきていて、「こってりこってり」が詰まった好意的なニュアンスの上方の言葉である。花蹊は茶の稽古や絵の話しだけでなく、得浅斎と世間話などもしていた。
そして得浅斎の娘お蓮の嫁入りの記述がある。お蓮は表千家の吸江斎の後見を勤めた二代住山楊甫の息二代江甫こうほの室となり。明治五年((一八七二)五月十四日に亡くなっている。
文久三年(一八六三)八月八日の「七ツ時」、すなわち午後四時前に、花蹊は木津家に呼ばれ、早々に赴いたところ、この夜お蓮の嫁入荷物が住山家に運ばれるので、描き上がったばかりの雛絵を持参し、杉戸の絵を認めた。その場には木津の社中の加島屋の隠居広岡と米夫妻と木津家の代稽古の堀宗三、大仙なる人物と森はる子、そして仲人の勘助が同席していた。細矢宗祝の点前で茶を飲み、その後、一同祝酒を大騒ぎで飲んでいる。そして翌九日、日暮れから木津家に赴き、この夜お蓮の嫁入りに立ち会い、嫁入り終了後に帰宅している。今日迄、蓮が住山に嫁いだこと以外何一つ伝わっていなかったのであるが、花蹊の日記には婚礼の日にちや媒酌人の名前が記されていて、誠に貴重な記録である。
花蹊と得浅斎の関係が誠に懇意だったことがわかる記述として、「木津さまへ参り、風呂戴」とか「風呂入に木津さまへまいり」とあり、木津家にしばしばもらい湯していた。今日のように風呂が大半の家に普及している環境からは想像できないことであるが、昔は風呂のない家が多く、ごく親しい家の風呂に入らせてもらうことが多かった。また、三之助(跡見重威)を同道して木津に赴き、深夜三更さんこう(午前零時から二時間・子の刻・丙夜)まで酒を饗され、下男を木津家に一宿させてもらっている。他にも「御酒吸」などと記されていて、しばしば酒飯を木津家でよばれている。
そして、文久二年(一九六二)の七月八日には、前日より腹痛に苦しんでいた花蹊は、得浅斎の息子の孝助に木津村の母を呼びにいってもらっている。そして七月十日にも、体調を崩した花蹊が、孝助に木津村の母幾野を呼びにいってもたった。ところが幾野も病気で中之島の跡見家に出てくることができない状態であった。木津家からは幾野の病状の報せもないので、具合の悪い花蹊自ら木津家に幾野の病状を訪ねに赴いた。幾野の病状が芳しくなくいことを知り、花蹊の自身の体調も悪かったので、そのまま木津家で寝たり起きたりし、昼食に粥をよばれた旨が記されている。また、この日と翌日は、一人暮らしの花蹊を気遣ってお千枝が花蹊の家に二日間泊まっている。他にもお千枝は花蹊宅に泊まることがしばしばあったようである。そして孝助も花蹊の用事をつとめている。ちなみに、孝助は、文久二年(一八六二)の七月二十六日に、「梶木町より孝助死去しらせに参る」と孝助が此日に亡くなっていて、重敬が木津家に弔問に赴いている。
文久二年(一八六二)八月五日に、「梶木町十七吉子の六日さりにて、父さま行れ、一更ニ帰られ候」とある。八月一日に三代聿斎宗泉(宗詮)が誕生している。この記述の十七吉となきちは三代宗詮の幼名である。「六日さり(だれ)」とは、昔は出産を穢れの一つとされ、産後三日目に産婆または身内の女性が産室で木の盥の湯に塩を入れて身体を拭い、六日目には身体を洗い、そして赤ん坊の産毛を剃り、名付けを行った。これを「六日さり(だれ)」といい、親戚や近所・知人はこの日をめどに祝儀の品を持参して祝いを行った。この日は重敬が十七吉出生の祝いに木津家を訪れ、祝いの膳を食べて一更(午後七時から八時までの間)に帰宅している。なお、十七吉という名前のいわれは、得浅斎の十七番目の子という意味で命名されている
文久二年(一八六二)十月二十四日、花蹊はお蓮やお千枝と細谷宗祝の茶事に招かれている。この日の朝、花蹊は中之島の跡見塾で子供たちに講義をし、辻家で身ごしらえをして梶木町の木津家に赴き、お千枝とお蓮同道で、細谷家に赴き、正午の茶事に参席した。花蹊が正客でお千枝が次客、お蓮が詰を勤めている。そして「後、薄茶手前、千枝さま遊し候。誠におもしろき事也」とあり、濃茶のあと、お千枝が薄茶点前をしている。花蹊はこのことがよほど面白かったようである。他にも木津の二人の娘たちと稽古をしたり、花月をしたりしている。
幕末になると将軍家の大奥や大名家の女性たちの間では茶の湯を嗜むことが広く行われ、武者小路千家でも、高松松平家の妻妾や女中の入門や許状が発行された記録があり、また一啜斎の伝書『宗守流茶道伝』には「女中点前」として女性の点前について記したものがある。また、石州流の大口樵翁おおぐちしょうおうが『刀自袂』を著し女性の茶の湯を奨励し、武者小路千家では、直斎の室宗真そうしんや、一条家で献茶をつとめ家元代行的な活動した好々斎室の宗栄が知られている。花蹊が大坂で活動していた幕末期には、多くの富裕町人たちの子女も茶の湯を嗜んでいたようで、女性のみで茶事に招かれているこの記録はまことに興味深いものである。又、彼女たちにとっての茶の湯は、のちに花蹊が東京の跡見女学校で女性の嗜みとして「点茶」という科目を設け、女性の行儀作法ために茶の湯を学ぶというのではなく、女性の娯楽が制限された時代の楽しみの一つであったことがわかる。
そして、得浅斎とも直接行動を共にしている記録が残されている。その一つが文久二年(一八六二)八月二十八日、七ツ時(午後四時)前に、得浅斎が願泉寺に参拝し、跡見さま(唯専寺)に立寄り院主と話しをし、花蹊は得浅斎とともに梶木町の木津家まで一緒に帰り、多分この夜は木津家に泊まっている。
また、文久三年(一八六三)、徳川家茂が上洛した時に孝明天皇が攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社に行幸した。その時、花蹊は得浅斎やお千枝、お蓮らと見物のために上洛している。三月五日の朝、得浅斎が京都から戻り、花蹊を呼び、京都の父重敬の話しを伝えた「此十一日上様、将軍様御供にて加茂へ御参りあらせられ候ゆへ、右様な事は稀なる事、中々なき事ゆへ、拝見に上京する様申居られ候」と、この十一日に孝明天皇が将軍徳川家持茂を供として下上賀茂神社に参詣する。このようなことは滅多にないことなので、ぜひとも上洛して拝見するようにとの内容であった。そして八日の朝、花蹊は梶木町の得浅斎のもとを訪れ、得浅斎と上京の相談をし、薄茶を一服飲んでいる。その場には前日から大坂に出てきていた堺の跡見親族吉井と千草屋平瀬家の別家の赤松道堅が同席していた。それから辻家に教えにいき、下の弟の元之助(跡見愛四郎)が呼びにきたので、早々に帰宅したところ、木津村の智明院と美つへなる人物が来ていて、早速に旅支度をして隣家の豊島、元之助、前出の智明院、美つへ、因州から来ていた十助同道の上、昼頃大坂を出立し、日暮れに中城(茨木市中ノ条)に到着し、田尻氏の家に一宿している。十二日には得浅斎たちと下鴨神社に行幸の跡を見物に行っている。得浅斎はこの前代未聞の出来事を見るために二人の娘たちを伴っての上洛であった。
花蹊は得浅斎や田淵らと頼母子講たのもしこうをしていた。頼母子講とは、講員が掛金を定期的に出し合い、入札または抽選で毎回その中の一人が交代で所定の金額を受け取る組織である。
以上のように、『跡見花蹊日記』から、花蹊は得浅斎に茶の湯を師事するだけではなく、その娘たちと姉妹のように親しくまじわり、木津家と家族同様の交際をしていたことがわかる。若い娘がけなげに一人暮らしで中之島の塾で教授・運営している花蹊を、得浅斎は娘のように慈しみそしてかわいがり、跡見家と木津家は家族的な付き合いをしていたのである。

写真は上から、
『細見京絵図大全』
孝明天皇賀茂行幸絵巻(上賀茂神社)

跡見花蹊の茶の湯

2015-08-12 11:35:49 | 折々の記(2015年)
 跡見花蹊が得浅斎にいつ入門したのかは不明であるが、『跡見花蹊日記』の文久元年(一八六一)六月一日の項に、
 此八ツ時より木津さま御茶之湯に参り
とあるのが初出である。花蹊二十一歳の時である。その後、八月十四日には、
 新三郎さまと同道にて木津へ参り、竹の四方棚稽古見て帰り候。軸月下門宗守 岸岱 花白萩
とあり、この日は、直斎好みの竹柱四方棚の稽古を見て帰っている。なお、床の掛物は好々斎が着賛した岸岱の「月下門」の図であった。月下門とは唐の詩人賈島かとうが驢馬に乗って詩を作っているうちに、「僧は推おす月下の門」という句を思いついた。その句の「推す」という語とは別に「敲たたく」という語を思いつき、どちらが良いか手でその動作をしながら悩んでいた。そこに知京兆府事(長安の都知事)韓愈かんゆの行列の中に突っ込んでしまった。すぐに賈島は捕えられて韓愈の前に引き出され、つぶさにその経緯を申し立てた。名だたる名文家であった韓愈は「それは「敲く」にした方がよかろう」と言い、二人はそこから意気投合して、馬を並べて詩について語り合ったという故事を描いた図であったと思われる。ちなみにこれが故事成語「推敲」のもとの話しである。なお、岸岱は江戸時代後期の絵師で、岸派の二代目で、禁裏の安政度造営の際に障壁画の制作に参加している。茶の湯は好々斎・以心斎の門下として武者小路の千家の茶の湯を相当学んだようで、嘉永四年(一八五一)十二月に以心斎から乱飾の許状を受けている。
 『跡見花蹊日記』には、「竹の四方棚稽古」とか小袋棚一手前(点前)稽古する」、「袋棚にて濃茶稽古する」、「又炭手前する」「皆々一手前して、夜花月する」など稽古に関する記述が多数見ることができる。なお、時には「茶の稽古する、夜三更迄」と午後の十一時まで稽古したり、また朝から終日稽古をしたりすることもあったようである。「茶の稽古新席て致し、又馳走に成、一更に帰り」と、稽古のあと食事を振る舞われることもあったようである。なお、木津家の資料には残されていないが、得浅斎の代になり、新たな茶席が建てられたことが此記述からわかる。『跡見花蹊日記』には、文久元年(一八六一)から文久三年まで、二十一歳から二十三歳までの三年間に、花蹊が得浅斎のもとでの茶の湯の稽古の記録をみることができる。
 ちなみに、文久元年八月十三日の記述に、
 三之助、元之助、木津さまの長巻(長緒)之稽古に参られ候
とある。三之助は上の弟跡見重威しげたけ、元之助は下の弟跡見愛四郎のことで、花蹊の二人の弟たちも同じく得浅斎のもとで武者小路千家の茶の湯を学んでいたことがわかる。
 文久元年十月十四日には、
 竹の四方棚にて茶の稽古、又炭手前、此日宗匠留守中にて、堀さまにをしへてもらい候
とあり、得浅斎の代稽古を堀宗三が勤めていることがわかる。堀宗三は安政二年(一八五五)に、小習六ヶ条と唐物点の許状を受けている。
写真は弟跡見重威

木津家と跡見家

2015-08-12 11:33:33 | 折々の記(2015年)
 花蹊の父重敬は松斎同様木津村出身で、跡見家の先祖が創建し一族が代々住職を勤める菩提寺である唯専寺(浄土真宗本願寺派)は松斎の実家である願泉寺とは通りを挟んだ向かいに位置している。跡見家もその付近に屋敷を構え、重敬と松斎は旧知の仲で、重敬は茶の湯を松斎に師事したと考えられる。また、重敬は伊達千広に和歌を師事し、千広は得浅斎とも懇意な間柄であった。
 『跡見花蹊日記』によると、重敬はしばしば梶木町の木津家を訪れた記録が残されている。当時、重敬は姉小路家に仕えていて、中之島の跡見塾は花蹊が営んでいた。重敬は京都から大坂に下ると頻繁に得浅斎のもとを訪ねている。文久元年(一八六一)四月二十五日に、次のように記されている。
 四月二十五日
 此日、勝蔵さま参られ候。八ツ時、木津さまより呼に来り、父様と同道にて木津さまへ参られ候。甚馳走頂戴サレ、一更に堺お
 吟さまと皆々帰られ候。
この日、花蹊の叔父跡見勝蔵が中之島の花蹊のもとを訪れていた。そこに得浅斎に呼ばれて、父重敬が勝蔵を同道して梶木町の木津家に行き、食事の饗応を受けている。なお、この時、重敬は京都住んでいて、大阪の花蹊の家に滞在していた。
 また手紙のやり取りもあったようで、「父さまよりの文見せ、安心致され候」と、得浅斎になにか心配事があり、京都からの重敬の手紙により安心したとある。重敬も勤皇の志士たちと交流があり、得浅斎と勤皇に関するやり取りが行われていたと思われる。そして重敬は松斎と得浅斎の二代にわたり茶の湯を師事していたと考えられる。

跡見花蹊

2015-08-12 11:22:21 | 折々の記(2015年)
 日本で最初の私立女子学校を創設し、また日本画家であり書家でもあった跡見花蹊あとみかけいは得浅斎の門下の一人として武者小路千家の茶の湯を学んでいた。跡見学園のホームページによると、跡見花蹊は天保十一年(一八四〇)、摂津国木津村(大阪市浪速区)の寺子屋を営む父跡見重敬しげよしと母幾野いくのの二女として生まれ、瀧野たきのと命名されている。父の跡見重敬は木津村の郷士で、伊達千広門下で和歌をよくしたとある。
 当時、国内は大飢饉がもたらした不況下にあり、各地では一揆が相次いで起こり、跡見家も庄屋を務めたほどの名望家であったがすでに家運は衰え、花蹊出生時には暮らし向きは貧しいものであった。幼時から学問に興味を持ち、四歳から両親に書を習い始め、十二歳の頃に円山派の画家・石垣東山いしがきとうざんに入門して絵画を学び、十七歳で京都に遊学し、漢籍と詩文、書を頼山陽門下の宮原みやはら節庵せつあんに、絵画は円山まるやま応立おうりゅう・中島なかじま来章らいしょうから円山派(写生派)を、日根ひね対山たいざんからは南宗派(文人派)をそれぞれ学び、花蹊はそれを生かした独自の画風を作り上げた。しかし経済的には苦しく、この間の学費は全て扇面絵付けなどの内職で得た収入をあてていた。
 安政六年(一八五九)に父重敬が公卿・姉小路家あねがこうじけに仕えたため、安政六年(一八五九)に父が中之島(大阪市北区)に開いていた私塾「跡見塾」を受け継ぎ、独力で女子教育に着手した。この跡見塾が今日の跡見学園の原点である。慶応元年(一八六五)に塾を京都に移し、門下生に稽古をつける傍ら自らも書画や漢学の修行を続け、多くの門人に書画を教授した。
 明治三年(一八七〇)、京都の私塾を閉じて東京に移住し、神田猿楽町で私塾を開き、同八年(一八七五)には神田(現在の東京都千代田区)に「跡見女学校」を開校した。跡見女学校では、古来の文化や風俗を重視し、国語、漢籍、算術、習字、裁縫、挿花、点茶、絵画等の教科を取入れ、知識習得だけにとどまらない情操教育を図った。すでに京都で女子教育者として名声の高かった花蹊のもとには、多くの上流家庭の子女が集まり教えを受けた。また、赤坂御所において女官の教育にもあたった。
 花蹊は、教育者としてだけでなく日本画家・書家としても活躍した。明治五年(一八七二)と同二十六年(一八九三)明治天皇の天覧での揮毫の栄誉に預かり、学校経営者としてのみならず画家としても名を馳せた。書家としても「跡見流」といわれる独自の書風を築き上げている。
 花蹊は自らの学問を探求し、また多くの子女教育に多大な貢献をし大正十五年(一九二六)八十七歳で没している。


此中斎の後見

2015-08-12 09:56:28 | 折々の記(2015年)
以心斎が家元としての働きができなくなったため、新たに以心斎に養子を迎えることとなった。『日記抜録』の天保十二年(一八四一)八月十三日に、大綱の古稀の祝いに黄梅院を訪れた松斎が、表千家十代吸江斎の次男慈眼を以心斎の養子に迎えたい旨を話し、そのことを聞いて大綱は大層喜んでいる。そして松斎からこの養子縁組の取り持ちを依頼された大綱は、吸江斎の後見であった住山楊甫を通じ短期間に精力的に周旋し、この縁談が順調に運んだようである。ところが、翌十三年(一八四二)十一月十一日に慈眼が亡くなり、この縁組は立ち消えとなってしまった。千家には他に適切な人材がなく、『日記抜録』の天保十四年(一八四三)七月一日に改めて持ち上がった縁談について記されている。それは新善法寺家の次男留丸との縁組であった。このたびも松斎が大綱に肝いりを依頼し、大綱はそれを諾い、不審庵に話しに行っている。またこの折、松斎は釣書を持参していて、大綱は日記にその写しを控えている。「父 新善法寺権僧正」とあり、留丸の父は新善法寺劭清である。新善法寺家は石清水八幡宮の社家の一つで、明治まで同宮の社務を司る最高位(現在の宮司)社務検校を代々つとめてきた三家(田中、善法寺、新善法寺)のひとつである。これらの家は代々子女を御所に入れ、公武の名家との婚姻を通じ、大層な権勢を誇る名家であった。留丸の父劭清は新善法寺家の十八代目にあたり、天保九年(一八三八)社務検校になり、嘉永三年(一八五〇)には僧正に転任し、嘉永七年(一八五四)に亡くなっている。この縁談が起きた時は権僧正であった。母は公家の五条條為徳の娘仲姫、兄は権少僧都澄清である。ちなみに澄清は慶応四年(一八六八)に還俗して南武胤と改名し、従五位下の叙任を受けている。当人の留丸は、武者小路千家入家の折には留之丞と名乗り、のちに方清、宗守と改名し、此中斎と号している。なお武者小路千家と新善法寺家の関係は、新善法寺家が松斎の社中であったと考えられ、当時の『石清水八幡宮宮侍日記』によると、新善法寺家では茶の湯が盛んだったようで、留丸も武者小路千家入家以前に、武者小路千家の茶の湯に親しんでいたと思われる。
 今回の縁談について『日記抜録』天保十四年(一八四三)七月八日に、此中斎の養子の件につき、大綱は松斎や宗栄・以心斎と打ち合わせをし、その後も武者小路千家と黄梅院を盛んに行き来して打ち合わせをしている。同十五年(一八八四)五月一日、得浅斎が黄梅院を訪ね、七月十二日に入家することを伝えている。ところが翌二日、どのようなことがあったのかは不明であるが、この縁組に関する松斎の取り計らいが宜しくないとのことから、大綱は松斎に絶交書を与えている。ただし、入家は予定通り十二日に行われている。十二月二十三日、此中斎が大綱に家督相続したことを報告し、翌年の二月二十四日には以心斎が宗安、此中斎が宗守に改名した旨を伝えに行っている。なお「松平家譜」には、以心斎はまだ老年というわけではないが、近年、眼病のため不自由な身となり、高松での勤めを果たすことが困難であるとの趣旨が高松侯の耳に達し、十分に勤めていないが、「茶道格別之筋之者」ということで、此中斎と入れ替わることが許されている。この時、以心斎は十八歳であったが、高松藩では二十一歳ということになっていた。なお同じく「松平家譜」の此中斎の項には、やはり「茶道格別之家筋」とのことから、まだ年齢的には不足でありながらも、以心斎に代わって、これまで通りの禄と役職を継承することを許可し、同日、正式に此中斎が宗守と改名したことが記録されている。
 此中斎の家督相続にあたり、以心斎の時と同じく松斎はその後見をつとめて此中斎を支えている。襲名の記念に造られた道具の箱の甲に「此中斎家督之節贈之」と書付を行った飛来一閑作になる「一啜斎好折曲平棗写」や「一翁好炭斗写」・「直斎好亀香合写」が残されている。
 その後、松斎から大沢宗二に此中斎の後見を交代するのであるが、詳細は不明であるが、「松平家譜」嘉永五年(一八五二)二月二十一日に(「登士録」では二十六日)、「茶道不向ニ在之其上心得方不宜由」ということで、此中斎は高松侯から永の御暇を出され、千家からは離縁されて実家に差し戻されている。そうしたことから現在、此中斎は武者小路千家の歴代には含まれていない。そのような事情から此中斎についての事績はほとんど残されておらず、松斎と此中斎に関する事柄として、嘉永二年(一八四九)三月六日に営まれた利休後妻の宗恩二百五十年忌をつとめ、同三年(一八五〇)には、松斎が此中斎と共に平瀬士陽の口切茶事に招かれ、一方庵扁額と常什釜を持参した記録が残されている。
 此中斎離縁後、武者小路千家は表千家から吸江斎の息子である一指斎を再養子として迎えている。そして、実家に戻った此中斎は、石清水八幡宮の社侍林祥晴の養子となり、林清晴と名を改めている。地域の自治を支えるリーダー的存在として活躍し、武者小路千家との交流もあり、明治十九年(一八八六)一月には改めて一指斎に入門し、八幡の地で武者小路千家の茶の湯を教授しつつ以心斎や一指斎を支えている。
 なお、この頃の松斎は、嘉永元年(一八四八)二月に梶木町の自宅が罹災し、同年九月に営まれた藤村庸軒百五十年忌にあたり、「つき上けに面影ありて窓の月」の発句短冊を西翁院に奉納している(「庸軒遠慕帖」)。同三年(一八五〇)八月、二年がかりの普請を終え新居に移り、九月十一日から新席披露の茶事を行っている。