佐久良私語 さくらのささめごと

佐久良私語は櫻斎宗匠の折々の思いを綴ったものです。

卜翠会研修

2016-04-06 22:29:11 | 折々の記(2016年)
2016年3月19日
木津宗詮社中卜翠会研修にて、大徳寺塔頭玉林院さんの格別のご高配で重文の本堂、茶室蓑庵、霞床、南明庵を特別拝観させていただきました。 聚光院の利休さんのお墓も参拝しました。ありがとうございました!
非公開の茶室を見学。外との仕切りは薄い襖だけ。茶室に座していても、山野に居るような気分。これを物資のない、いつ焼かれるかわからない戦時下で作った京都人のVision、尊敬します。












記念すべき日‼

2016-04-06 22:27:52 | 折々の記(2016年)
2016年3月16日

記念すべき日‼
当家の二代得浅斎の晩年は不遇な人生を歩みました。播州高砂の善竜立寺に生まれ、初代松斎の養嗣子となり、松斎を支え、勤皇に勤しみ、その働きも十分認められず明治を迎えました。
そして明治4年(1871)4月、50歳の時に嫡男の宗税を亡くして絶望の淵に突き落とされ、初代松斎以来の伏見町の家を手放し、河内の若江に移住して農業で身を立てました。そのことを孫の花笑斎は特に「隠居」と書き留めています。それに引き続き最愛の娘で表千家の住山江甫に嫁いだ蓮が翌年の5月に没しました。これらのことが得浅斎の晩年の人生を決定づけました。
そうした中でも、得浅斎は若江で細々と茶の湯を続け、そして残された三代聿斎に真台子を相伝し、自分に課せられた責務を果たしたのです。
明治27年(1894)、若江を引払い大阪の大国町に転居し、糸屋を商い、翌28年9月20日、七十年の波乱に富んだ人生を閉じています。樹深院宗雲居士。
死に臨んだ得浅斎の心境は、自分の役目を果たし、晴れ晴れとした心境であったと考えられます。その心境を詠んだ辞世の歌がこの軸です。

先考の辞世記憶のまゝ
われの世は
勝手ながらに
望みなし
地獄極楽
神のまにまにまに

この本紙は息子である聿斎が菓子を載せる懐紙に認めたものです。聿斎の記憶に残る得浅斎の辞世を後日覚えとして記したものです。
昨年、卜深庵二百年を記念して『木津宗詮 武者小路千家とともに』を執筆した折りの調査で偶然発見されたものです。よくぞ聿斎はこのメモ書きしていてくれたと感謝しました!それまで何の記録もなかったものを‼︎
歴代で最も記録の残されていない得浅斎の最も大切な事績を!
本日、その表具ができてきました!我が家の最大の家宝です‼️

菜の花

2016-04-06 22:25:09 | 折々の記(2016年)
2016年3月16日
菜の花
天正19年2月23日に利休さんは豊臣秀吉の勘気を蒙り堺に蟄居させられます。
その時、連座を恐れる多くの門人のなかで、古田織部と細川忠興だけが淀の渡しに見送りました。利休さんはそのことに感激した旨の手紙を残しています。
流儀では28日に聚光院で利休忌を営みます。茶席閑隠席の床には、利休さんの画像と花入に菜の花と彼岸桜が必ず入れられます。
利休さんも淀川に咲く菜の花を眺めつつ堺に落ちていったのでしょう。



方広寺の梵鐘

2016-04-06 22:20:09 | 折々の記(2016年)
2016年3月15日
方広寺の梵鐘
大坂の陣の発端としなった方広寺の梵鐘です。豊臣秀吉の発願で建立された方広寺大仏殿は、慶長元年(1596)の大地震で倒壊しました。その再建を息子の秀頼の手によって進められ、その時に鋳造されたのがこの鐘です。
問題となったのは、この鐘に刻まれた白く枠取りされたところの「国家安康」「君臣豊楽」の銘が問題となりました。この銘文の一節が、「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だと家康が激怒したと伝えられています。
それにしても巨大な鐘です‼︎




明治の神仏分離後の写真です。雨ざらしの頃のもの。
大きさがよくわかります!あまり知られていません。

最初で最後の豊国神社の社務職萩原兼従(かねより)を祀る神海神社。
徳川氏の時代になり廃絶された豊国神社を去り、吉田家の分家として萩原家を創設した人です。現在は吉田神社の末社となっています。


方広寺は豊臣家が秀吉、秀頼の二代にわたりその権勢をフルに投入して造営した寺です。そののち幾度か罹災するものの明治維新の時には、その広大な寺域に天保年間に再建された木造の大仏とその仮殿がありました。
明治2年(1869)、明治政府は境内地の南半分、三十三間堂の別当寺であった宝生院と、妙法院の脇門跡日厳院の敷地をあわせて収公し、皇室歴代の位牌と念持仏を奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂である恭明宮(きょうめいぐう)の造営を着手しました。現在の京都国立博物館の所です。
その場所には、唯一秀頼造営当初のもので、槻材の丹塗の桃山建築の鐘楼があったそうです。殿舎建築の邪魔になるということで壊され、木材は潰し売りにされました。
豊臣家の怨念のこもった梵鐘は、高さ一丈五尺(3,18m)周囲二丈七尺(6,24m)重量二万二千貫目(82t)もの巨大なもので、潰すこともできず、明治17年(1884)に方広寺が鐘楼を再建するまで露天にさらされていました。
前の写真はその当時のものです。横の人物と比較するといかに大きいかがわかります!

火燈

2016-04-06 22:18:14 | 折々の記(2016年)
2016年3月5日
火燈
神社で祭の時に先導が足下を照らすのに用いる「火燈」です。他にも御神前の雪洞,松明等に明かりを灯す時の火種として用いられるものです。
古くは火燈の中の蝋燭には、火鑽り臼(ひきりうす)というものを火鑽り杵 (ひきりきね)で揉み、摩擦によって火を起こした清浄な忌火を火種として灯していました。それは神様に関わる灯火具や神饌、また奉仕する神職が食べる斎食を調理するのに使われます。今日はそうした古来の方法で火を起こすのは伊勢の神宮や出雲大社、八坂神社など限られた神社でしか行われていません。
この神社では便法として特に祓いを受けた専用のマッチを「浄火」として用いられているそうです。火鑽り臼で火を鑽るのも火打石で火を鑽るのも同じく摩擦によって火を起こすのだからマッチも全く同じ理屈です。時代に即した対応に感心しました。
将来、浄火専用のライターも出現する、いや既に存在するのかもしれません!