2016年3月15日
方広寺の梵鐘
大坂の陣の発端としなった方広寺の梵鐘です。豊臣秀吉の発願で建立された方広寺大仏殿は、慶長元年(1596)の大地震で倒壊しました。その再建を息子の秀頼の手によって進められ、その時に鋳造されたのがこの鐘です。
問題となったのは、この鐘に刻まれた白く枠取りされたところの「国家安康」「君臣豊楽」の銘が問題となりました。この銘文の一節が、「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だと家康が激怒したと伝えられています。
それにしても巨大な鐘です‼︎
明治の神仏分離後の写真です。雨ざらしの頃のもの。
大きさがよくわかります!あまり知られていません。
最初で最後の豊国神社の社務職萩原兼従(かねより)を祀る神海神社。
徳川氏の時代になり廃絶された豊国神社を去り、吉田家の分家として萩原家を創設した人です。現在は吉田神社の末社となっています。
方広寺は豊臣家が秀吉、秀頼の二代にわたりその権勢をフルに投入して造営した寺です。そののち幾度か罹災するものの明治維新の時には、その広大な寺域に天保年間に再建された木造の大仏とその仮殿がありました。
明治2年(1869)、明治政府は境内地の南半分、三十三間堂の別当寺であった宝生院と、妙法院の脇門跡日厳院の敷地をあわせて収公し、皇室歴代の位牌と念持仏を奉安する宮内省管轄の霊廟・仏堂である恭明宮(きょうめいぐう)の造営を着手しました。現在の京都国立博物館の所です。
その場所には、唯一秀頼造営当初のもので、槻材の丹塗の桃山建築の鐘楼があったそうです。殿舎建築の邪魔になるということで壊され、木材は潰し売りにされました。
豊臣家の怨念のこもった梵鐘は、高さ一丈五尺(3,18m)周囲二丈七尺(6,24m)重量二万二千貫目(82t)もの巨大なもので、潰すこともできず、明治17年(1884)に方広寺が鐘楼を再建するまで露天にさらされていました。
前の写真はその当時のものです。横の人物と比較するといかに大きいかがわかります!