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趣味と思いつき

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悔やめど悟れず

2021-04-08 20:27:15 | 掌編小説
 猫を轢いてしまった。
 会社からの帰りだった。上司の持ってきた案件のせいで残業をしなければ到底終わらない量の仕事が溜まっていて、連日22時前後に会社を出ており、その日も例外ではなかった。「こんなことになったのはそのせい」というわけではないが、要因の一つではあると思う。蓄積された疲労と寝不足で前方への注意が疎かになっていた。
 「山道では、動物が急に飛び出す」というのは知識として知ってはいたし、気を付けていたが、まさか市街地でも飛び出してくるなんて考えもしなかった。あっと気付いたときには既に遅く、座席から体へと嫌な感触と音が伝わった。「動物を轢いた」という自覚が出たのは、それより十数メートル程走ってからだった。ハンドルを握る手が震え、声が出ない。しかし、自分の行動は案外冷静だった。まず後続車がいないことを確認し、路肩に車を停めた。そして後部座席に丸めてあった大きめのレジ袋を手に取り、車から降りて走って轢いた動物のもとへ向かった。
 感触からなんとなくわかっていたが、その動物は息絶えていた。スマホのライトで照らしてみると、どうやら黒猫のようだ。首輪はついておらず、毛並みからして野良だろうことがわかる。
 眩暈がした。
 気のせいかもしれないが、その表情はとても苦しそうに、痛そうに見えた。ごめん、本当にごめん…と心の中で謝りながら、持っていたレジ袋越しに抱きかかえる。まだ、ほんのり温かい。
(そうか、俺…動物を、猫を今、殺したんだ…。)
体中に辺りの空気が纏わりつき、俺の首を絞めた。息が苦しい。
(ついさっきまで生きてたのに…)
黒猫の体は、ぴくりとも動かない。こういうときは、「動物を路肩に寄せて#9910へ連絡する」と教習所で教わった記憶がある。そうすべきであろうことは、よくわかっている。しかし俺は、レジ袋をそのまま裏返し、動かない黒猫の体をくるんだ。そして、抱きかかえたまま車へと戻った。いけないとはわかっているが、自己満足だとわかっているが、せめて弔いは自分でしたい。吐き出せない息が、体の中で毒素となってじわじわと体内を侵食していく。

 車に入り黒猫を助手席に寝かせ、実家へ電話をかける。今住んでいる家はアパートなので、埋めてあげられる場所がない。しかし、実家ならそれなりに広い庭がある。そこに埋めさせてもらえないだろうかと考えたのだ。電話は3コール程でつながった。
「もしもし。ごめん、母さん、いきなりなんだけど…」
母の声もろくに聞かず言わせず、俺は要件をかいつまんで話した。最初は母も驚いていたし、かわいそうだけど置いてこいと何度か言われたが、どうしてもと頼むと了承してくれた。実家までは車で一時間弱程、近いとは言えない距離で、その道中での事故を心配してか、気を付けて来なさいねと優しく言い、母は電話を切った。俺はスマホをポケットになおし、車のエンジンをかける。助手席のエアコンの吹き出し口から暖かい風が出てくるのを確認してから、向きを限界まで下げた。

 実家までの運転はひどくしんどかったが、なんとか帰り着いた。俺は出迎えてくれた母への挨拶もそこそこに、庭の隅っこに穴を掘る作業に入った。母は最初それを眺めていたが、気が付いたら部屋へと戻っていた。
 スコップを土に突き立てる度に、罪の意識が俺の背中に重くのしかかる。その重さに耐えきれず嘔吐き、そこで穴の深さはもう十分であることに気が付いた。そっと黒猫を中に眠らせる。体はもうすっかり冷え切っていた。できるだけ優しく土を被せ、出来上がった背の低い土山に向かって手を合わる。背中が余計重く感じた。
 ふらつきながらも立ち上がり、玄関の扉を開けると真っ黒な毛玉が足にまとわりついた。温かい。毛玉は目を細めてにゃおぅと声をあげた。
「ただいま、ジジ」
頭をなで、抱きかかえる。ジジはごろごろとご機嫌に喉を鳴らし、よれよれのスーツに包まれた腕に身を任せる。俺は、ジジの左前足をそっとなでた。もう動くことない足だ。

 ジジは、俺が大学生の頃に拾った猫だ。車通りの多い道路のど真ん中で、声をあげることなく横たわっていた。
(ああ、かわいそうに…。あ、かわいそうと思ったらついてきてしまうんだっけ)
と考えながら通り過ぎようとしたとき、頭がぴくりと動くのが見えた。慌てて車を停め、抱きかかえると力なくぐったりと体重を預けられる。左前足を車に踏まれたのだろうことが一目でわかった。近くの動物病院に連れていくと、「命に別状はないが、轢かれた足はもう動くことはない」という旨のことを、優しく、しかしはっきりと伝えられた。
「この子はしばらく入院させて様子を見ます。元気が戻ってきたら、島田さんに迎えにきていただきたいと思います。そしてこの子は…どうしますか、里親を探しますか?それとも島田さんが保護されますか?」
そうか、と思った。放っておけなくて連れてきたが、それはこの子猫を保護する責任を俺が担ったということだ。この時点では飼うと決まったわけではなかったので、曖昧な返事をして退院までに決めておく旨を伝えたが、なんだかんだで飼うことになるのだろうなということは薄々感じていた。そして事実、ジジは今俺の腕の中にいる。
 ジジはその黒い身をよじらせ、俺の腕から逃れようとする。落ちそうになるジジをそっと下ろして、その後を追う形でリビングへと向かった。
「母さん、ただいま。」
母は夕飯を用意してくれていた。
「おかえり、紀春。ごはんまだでしょ、食べていきなさい。あ、今日はもう泊ってく?」
「ああ、うん。泊ってもいいかな。」
「もちろんでしょ。じゃあほら、ごはん食べてお風呂入っておいで。」
食器がテーブルに並べられる。まともな料理を食べるのなんて久しぶりだ。お腹がくぅ、と情けない声をあげる。自分の周りを覆っている空気が、少しだけ優しくなったような気がした。
「うん、ありがとう。」
俺は泣きそうになる顔を母から逸らして、ジャケットを脱いだ。

 ご飯を平らげお風呂から上がると、ジジがまたじゃれついてきた。ソファに座ると、すかさず膝に乗ってくる。喉を指先でくいくいと撫でると、ごろごろと満足げに目を閉じた。ジジの体は温かくて、ふわふわしていた。轢いてしまった黒猫とは正反対だ。ジジの大きな瞳がこちらを見つめてくる。俺は、指先で長い髭をかいくぐり、頬をそっとなでた。「瞬間」の感覚が蘇る。にゃあーん。ジジが心配そうに声をあげ、俺の手をざらりと舐めた。
「ごめんな、ジジ。」
ジジに謝ったってしょうがないが、謝りたかった。謝ることで許してほしかった。何に、誰にか。それはわからない。
「ごめん…。」
生温かい感触が頬から顎へと伝う。ジジがすんすんとにおいを嗅ぎ、膝から降りて母の方へ走っていった。空っぽになった膝から消えていく温もりと、温度を失いつつある黒猫を抱えたときのほの温かさが重なる。とめどなく零れる涙と嗚咽が、自分の中で冷ややかに響いた。

 気が付いたら俺はソファで眠っていた。母がかけてくれたであろう毛布をずらそうとしたが、その上でジジがすやすやと寝息を立てていたのでやめた。時間を確認すると、四時半だった。実家から職場までは距離があるのでちょうどいい時間かもしれない。母はまだ寝ているだろう。俺はジジと母を起こさないように庭に出て、昨日築いた小さな土山に手を合わせた。母やジジのおかげで、だいぶ気持ちが楽になっていた。しかし、心のどこかで「楽になっていいのか」と思う自分がいて、じわじわと心は蝕まれていく。
 母にLINEでお礼と家を発つことを伝え、ジジをひとなでしてから家を出た。車に乗り込む前にぐるりと車体全体を見回す。新たな傷はついていない。安心しつつ車を発進させ、近くのコンビニの駐車場に入った。惣菜パンをひとつとコーヒー、そして猫用の固形おやつを買う。朝食と、昨日轢いてしまった猫へのおそなえだ。埋めた実家の方におそなえしようと思ったが、野良猫が寄ってきそうなのでやめた。代わりに、現場の方におそなえをしよう。自己満足なのはわかっている。だけど、もしかしたらあの黒猫の兄弟たちや仲間がいて、いなくなったその黒猫を探しているかもしれない。そう思うと、現場にも何かしておきたい。
 再び車に乗り込み、長い道のりを走る。空気は澄み切っていて肌寒かったが、窓をあけた。眠気が飛んでちょうどいい。体内に溜まっているもやが、冷気に晒され徐々に形を成していく。

 事故をした現場へ着いた。車を降りて歩くと、凛とした風が俺を追い越していく。その風に誘われるように俺は「その場所」に立ち、猫用のおやつを道の端にそっとおいて、手を合わせた。形を成したもやは、鋭く尖って俺の中で暴れている。立ち上がると、眩暈がした。視界が一瞬黒く染まり、直後中心から外側に向かって解放された。何回か、瞬きをする。解き放たれた世界には色がついていた。
 車に戻り、会社に向かおうとエンジンをかけ、さっきまで自分が立っていた場所に目を向けると、一匹の黒猫が走ってきて、俺の置いたおやつのにおいを数回嗅いだ後、恐る恐る口にした。スマホの画面を点ける。まだまだ時間には余裕がある。俺はその黒猫がおやつを完食するまで見守ることにした。
 気持ちの整理は、未だつかない。

チューハイ

2021-04-03 15:08:00 | 掌編小説
 シャンプーが切れた。
 体を洗い終わってから気が付いた。シャンプーはいつも美咲が用意してくれていたので、完全に失念していた。
 もう一度予備がないか確認したが、案の定なかった。髪なんて一日洗わなかったところでそんな変わらないだろうとは思ったが、洗わないのは気分が悪かったし、明日は仕事が休みということも相まって、近くのコンビニまで買いに行くことにした。
 バスタオルを手に取り、体に押し当てる。そういえばこれも美咲が買っていたものだ。もうあれから数ヵ月経つというのに、そんなことは今まで考えなかった。シャンプーから芋づる式に記憶が引っ張り出されたのだろう。
 薄手のジャージに袖を通し、サンダルを履く。靴箱の上では、二年前の美咲と俺が呑気に笑っている。それを眺めていると、心臓が内側からえぐられるようで、吐き気がした。無理やり写真から目を引きはがすと、錆びついた扉に手をかける。ギギ、と嫌な音が鼓膜に刺さり、それと同時に凛とした風が部屋に流れ込んだ。

 七年の月日というのは、思っていたよりも遥かに短かった。これから先の未来もずっと一緒に過ごすと思い込んでいたからそう感じるのだろうか。それとも、「もう十分」というほどの思い出をため込むには、もっともっと時間が必要なのだろうか。どちらにせよ、この虚ろを埋める手段なんて存在しない。してはいけない。だって美咲は、もういないのだから。世界中を探したって、どこにも。
 こういうことを考え出すと、ドツボにはまってしまう。もう28年も生きているから、自分の取り扱いくらいわかっていた。ポケットからイヤホンを取り出し、適当な音楽を耳に流しこむ。意識を曲に集中させ、脳に張り付いた思考を振り落とすことに専念する。
 しかし、イヤホンをしてから電柱を四本ほど横切ったというのに、気持ちの切り替えがうまくいかない。仕方がないので、イヤホンを外して胸ポケットへぐちゃぐちゃにねじ込み(ねえ、朝陽)、無理やり思考を未来へ(来週の火曜、仕事休みになったんだけど)と移す。――せっかくコンビニ(朝陽は空いてる?)に行くのだから、久しぶりにビールと、何(温泉に行きたいんだ…)かおつまみを買おう。それと、何か分厚い(そっか…じゃあ次は一緒に行こうね)本でも買おう。そし(え?うん、わかってる。気を付けるよ)て――

「いらっしゃいませこんばんはー」

コンビニ店員の声で、我に返った。いつの間にか着いていたようだ。気持ちは依然としてぐちゃぐちゃのままだったが、自分のいる空間に他の人がいると考えると、不思議と思考は冷静になった。
 ひとまず、ビールを探す。別になんでもよかったが、少し奮発して第三でも発泡酒でもなく、本物のビールを買うことにした。そのままおつまみコーナーでさきいかとうずらのくんたまを手に取り、書籍コーナーで一番分厚い本と、読みやすそうなライト文芸を脇に挟んだ。
 後はシャンプーを買うだけだ。シャンプーコーナーに目をやると、いつものシャンプーがある。ピンクのパッケージで、甘い香りのする、いかにも女性向けのシャンプー。一度手に取りかけて、躊躇した。別のシャンプーを買おうか。だって、もう美咲がこのシャンプーを使うことなんてないのだから…。
 思考と体が固まって動かない。いつもは店内でやたらうるさい合宿免許のCMが、やけに遠くから聞こえる。なぜだか、美咲の顔がフラッシュバックして頭を駆け巡った。視界が歪む。目を閉じてしまいたいが、それさえ億劫に感じる。辛うじて、男物のシャンプーへと目を向けた。
(ねえ、朝陽。)
美咲の声が頭に響いた。その瞬間、何かが手から零れ落ちた。
(これ、ちょっとだけちょうだい。)
さきいかだった。美咲がよくねだっては嬉しそうに食べていた。俺が「ビールは飲めないのに」とからかうと、決まって「飲めないんじゃなくて飲まないだけ」と言い返して…
 俺は、落ちたさきいかを拾うと、いつものピンクのパッケージのシャンプーを手に取り、本を棚に戻した。本棚の奥のガラス窓には、顔をくしゃくしゃにした俺が映っている。
(朝陽ってほんと、思ってること顔に出ないよね。)
そんなことないよ。この顔を見てくれよ。
 ジャージの袖で目元を拭い、冷蔵庫へ目を向ける。少しだけ悩んで、チューハイを一本手に取った。期間限定の洋梨チューハイ。美咲はきっと、好きだと思う。


死人に口なし

2021-04-03 07:29:45 | 掌編小説
 扉を開けると、世界はモノクロに覆われていた。
 ――天気予報では晴れと言っていたが、どうやら外れたようだ。しかし雨が降っていないのは不幸中の幸いかもしれない。少し肌寒さを感じ、何か羽織るものを取りに部屋に戻る。何を着るか少し悩んだ末、くすんだラベンダー色のカーディガンに袖を通した。
 扉の鍵をかけながら頭の中で忘れ物がないか最終確認を行い、愛車に乗り込む。去年買った軽自動車で、そのくせオープンカーという中々面白い車だ。車にこだわりはないが見た目が可愛くて買い、今ではとても気に入っていた。
 エンジンをかけ、カーナビで目的地である隣県の温泉旅館を検索する。今日は日帰り入浴のみだが、いつか泊まってみたいとずっと考えていた憧れの宿だ。曇り空は残念だが、それさえどうでもよくなるほど気持ちは弾んでいた。ハンドルを握る。愛車は滑らかに動き出した。
 心地よい振動に身を任せながら、前方への注意もそこそこに、思考は別の世界へ飛び込んでいった。先週食べた洋梨のタルトのこと、一昨日読んだ恋愛小説のこと。想像は徐々に今に近づき、そして昨日の出来事へと移っていった。
視界がよりいっそうモノクロに染まる。
仕事でそれなりなミスをした、やや煩わしい記憶。珍しく上司にお小言をもらって、ややへこんでいた。いや、ミスしたことも、お小言を言われたこともへこみはしたが、一番へこんだのはそれを見た同僚の一言だったかもしれない。
「美咲ってさ、めちゃめちゃ楽観的…ていうか能天気だよねー。悩み事とかあんまりなさそう。」
彼女は悪気なくそう言った。だけど、なんか落ち込んだ。なぜ能天気と感じたのかはよくわからないが、「もしかしたら怒られているときにヘラヘラしてたかな」とか、「このくらいのミスならいいやって態度だったかな」とか、色々と考えてしまう。
 しばらくもやもやしているうちに、気が付けば鉛色の空は所々に青色を覗かせていた。窓の外に目をやり、なんとなく少しの間を挟んでルーフを開け、太陽の光を車内いっぱいに取り込む。なんだが、もやもや悩んでいたのが馬鹿らしくなった。こういう所が「能天気」と言われる所以なのかもしれない。じゃあもう、能天気でもいいや。今日私は憧れの温泉に行くのだ。能天気だろうが何だろうが、温泉の前では些細な問題だ。さっきまでの落ち込みは嘘のように、気持ちが晴れやかになった。
 しかし、そんな能天気な自分だけど、たまに「死」を考えるときがある。何も本気で死のうと思うわけではないが、「もし今自分が死んだら、周りの人はどんな反応をするだろう。」と考えて、なんとなく死にたくなる。理由なんてない。ただ、私が死んだら…お母さんとお父さんは泣いてくれるかもしれない、友達はどうだろう、泣く子と意地でも泣かず笑顔で見送ってくれる子にわかれそうだな、あ、でも朝陽は絶対泣きもしないし笑いもしないだろうな、心の中では一番悲しんでくれそうだけどな…。想像して、その場面を見てみたくなる。だけど、実際に死んだところでその場面は見れないし、まだまだ死にたくはないので実際に行動に移したことはまだない。
 大学の頃、この話を友人にしたことがある。彼女は、
「あー、うん。あるある。たまに考えるときあるよ。なんとなくね。」
と言っていた。自分だけじゃないんだ、と少し安心したのを覚えている。もしかしたら話を合わせてくれただけかもしれないけれど、その考えを否定されなかったことが嬉しかった。


 そうこうしているうちに、温泉宿のある街に着いた。建物はどれも古く、寂れたシャッター街という印象だ。そういえば、人が住まなくなると家は一気に老朽化すると聞いたことがある。きっと、街もそうなのだろう。通りを歩く人は見当たらなかった。
 ナビによるとここからもう少し走るらしい。山の中にある宿なので、当然といえば当然だ。静かな街路を進む。
 しばらくすると、道路の奥にひとつの建物が目に入った。他の建物と比べてやけに綺麗で、手入れが行き届いている。一体何だろうか。近づくと「家族葬」の文字が像を結ぶ。なるほど、葬儀場か。なんだってこの建物だけ小綺麗にされているのかと少し疑問に思ったが、考えても意味がないのでやめた。
 道なりに進む。
 すると、またやけに綺麗な建物が見えてきた。まさかと思い目を凝らすと、やはり葬儀場だった。こんなに近くに葬儀場があるものだろうか、ほぼコンビニくらいの間隔だ。なんとなく異質だが、そんなこともあるだろうと葬儀場の横を通り過ぎ、カーブに差し掛かった。目線を前方へと戻し、道の奥を見据える。そこに見えた建物は、またもや葬儀場だった。ここまでくると不気味だ。
 結局、宿に着くまでに見かけた葬儀場の数は優に20を超えていた。


 宿は、市街地からやや離れた山中にあった。近くを川が流れているらしく、川のせせらぎが聞こえる。昔ながらといった感じの風情ある造りの受付には、妙齢の女性が無表情で立っていた。
「あの、すみません。日帰りで温泉を利用したいんですけど。」
声をかけた瞬間女性は途端に笑顔になり、
「ああ、ようこそいらっしゃいました。若い方は珍しいものですから。」
少し驚いてしまいました、ふふふ。そう笑って温泉施設の説明を始めた。声はとても落ち着いており、聞いているとなんとなく安心感がある。無表情のときは大人びていた印象だったが、こうしてみると年齢相応で、むしろ少し幼さがみえる。
「――以上ですが、なにかご質問はありますか?」
いえ、と答えようとして、先程の葬儀場が頭を過ぎった。質問があれば是非、とにこにこ笑う彼女の顔を見ていると、どんな質問でも答えてくれそうだ。
「あの、全然温泉とは関係ないんですけど…。」
「ああ、はい。なんでしょうか?」
彼女の長いまつげの奥の瞳が、こちらをまっすぐに見据えている。
「ここに来るまでの間に、葬儀場がやたらたくさんあって…。どれも綺麗だったし。何か少し気になってしまって。」
「やっぱり。それかなぁと思いました。」
笑顔のまま、彼女は答えた。
「単純に、人がたくさん亡くなるんです。ここらへんは。」
あっけらかんとしている。
「たくさん…?えっと、それは何でですか?」
「さあ…。」
笑顔が消えた。
「ただ、自損事故とかが多いですよ。あとは、自殺とか。亡くなった人は喋りませんから、理由はわかりませんが。」
上目遣いでこちらを見る。
「お姉さんは、‘’もし今自分が死んだら皆どんな反応するかな‘’って考えたこと、あります?」
「え…」
「私は、たまに考えることがあります。それで死ぬなんて、馬鹿らしいことですけどね。」
ふっと彼女の口の端が優しく上がる。
「でも、そういう些細なことなのかもしれませんね。」
そう言って目を伏せた。


 私は、温泉には入らずそのまま帰ることにした。急にこの街が不気味に思えて、すぐに帰らなくてはいけない気がした。
 愛車のエンジンをかけ、ルーフは閉じたままアクセルにのせた足を傾ける。いつもは心地よい振動が、何だか気持ち悪かった。
 しかし、街を抜けると徐々に「もったいないことをしたな」という気持ちが強くなってきた。再び宿に戻ろうかと考えたが、もうかなりの距離を戻ってきてしまったのでまた引き返すのも憚られる。
 まあ、いいだろう。次は宿泊で訪れて、嫌というほど温泉に浸かればいい。今日はもう寄り道しながら帰ることにしよう。
 あ、近くに牧場があるなぁ。久しぶりにアイスクリームでも食べようか。ああでもあっちの渓谷を見に行くのもいいかも。あーあ、朝陽と来られたらもっと楽しかったのに…。あ、そうだ、朝陽に何かお土産を買って帰ろう。喜びそうなの何かあるかなぁ。
 何だか楽しくなってきた。ハンドルを握る手から少しだけ力を抜き、ルーフを開けると、『交通事故注意』の看板が目に入った。世界はモノクロに覆われている。
 …もしこのまま帰らなかったら朝陽は心配するだろうか。優しい朝陽のことだから、「やっぱり自分も行けばよかった」って思うんだろうか…。途中で交通事故にでもあって、病院に運ばれたりしたら…朝陽は怒るかな、お母さんは泣いちゃうかも。お父さんはどうかなぁ…意外と朝陽と一緒になって怒ったりす