1.木造太田道灌坐像 (東京都北区赤羽西)
2.太田道灌像 (埼玉県川越市役所前)
3.太田姫稲荷神社 (東京都千代田区神田駿河台)
1.木造太田道灌坐像 (北区飛鳥山博物館所蔵の道灌坐像:複製
【場所】北区赤羽西1-21-17
「右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に制作されました。
太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44・5センチ、構造は檜材の寄木像です。頭部は前後2材矧(は)ぎで玉眼を嵌入(かんにゅう)し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺(じょうしょうじ)第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
像は、道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました」
平成8年3月 北区教育委員会
(北区指定有形文化財)の北区教育委員会 掲示より
令和4年4月10日 追記・加入
木造太田道灌坐像は、現在の静勝寺境内の道灌堂の厨子内の安置されています。
静勝寺境内一帯は 太田道灌が築城したといわれる戦国時代の稲付城跡の砦跡です。
稲付城は、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれた。
道灌の死後、この城には孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
稲村城址の標石 平成24年12月6日撮影
階段を上ると正面に道灌堂
道灌堂
木造太田道灌坐像(北区飛鳥山博物館の画像をキャプチャー)
引用・参照:北区博物館HP
2.太田道灌像 川越市役所前:川越城大手門跡
(太田道灌は、川越城、江戸城を築城した室町時代の武将)
3.太田姫稲荷神社:太田姫は道灌の娘 写真など[Click here !↗]
慶禄元年(1596)太田資長(後の道灌)が、娘の疱瘡の平癒を祈願、姫は全快したことから城内に社を建立
慶長11年(1606年)江戸城増築に伴い、この「一口稲荷」を現在の駿河台の一角、聖橋の袂に遷座
明治5年(1872年)東京府より村社に定められ、その名も太田姫稲荷神社と改名
2.太田道灌像 (埼玉県川越市役所前)
3.太田姫稲荷神社 (東京都千代田区神田駿河台)
1.木造太田道灌坐像 (北区飛鳥山博物館所蔵の道灌坐像:複製
【場所】北区赤羽西1-21-17
「右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に制作されました。
太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44・5センチ、構造は檜材の寄木像です。頭部は前後2材矧(は)ぎで玉眼を嵌入(かんにゅう)し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺(じょうしょうじ)第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
像は、道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました」
平成8年3月 北区教育委員会
(北区指定有形文化財)の北区教育委員会 掲示より
令和4年4月10日 追記・加入
木造太田道灌坐像は、現在の静勝寺境内の道灌堂の厨子内の安置されています。
静勝寺境内一帯は 太田道灌が築城したといわれる戦国時代の稲付城跡の砦跡です。
稲付城は、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれた。
道灌の死後、この城には孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
稲村城址の標石 平成24年12月6日撮影
階段を上ると正面に道灌堂
道灌堂
木造太田道灌坐像(北区飛鳥山博物館の画像をキャプチャー)
引用・参照:北区博物館HP
2.太田道灌像 川越市役所前:川越城大手門跡
(太田道灌は、川越城、江戸城を築城した室町時代の武将)
3.太田姫稲荷神社:太田姫は道灌の娘 写真など[Click here !↗]
慶禄元年(1596)太田資長(後の道灌)が、娘の疱瘡の平癒を祈願、姫は全快したことから城内に社を建立
慶長11年(1606年)江戸城増築に伴い、この「一口稲荷」を現在の駿河台の一角、聖橋の袂に遷座
明治5年(1872年)東京府より村社に定められ、その名も太田姫稲荷神社と改名
「ヤマブキ〈新宿御苑〉」の記事から道灌に着目してしまいました。m(_ _)m
当ブログにも、何篇か採用しています。
新宿中央公園内に道灌の山吹の故事を題材にした像がありました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/b0b89b2c3b513818a3094c60fe1cae33
やはり、新宿の西向天神社境内には、伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑がありました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/eaec5bc75b01f3c28c875a4810eb2b68
ハイ、歩いていて偶然に見つけました。
「ヤマブキ〈新宿御苑〉」の記事から道灌に着目してしまいました。m(_ _)m
当ブログにも、何篇か採用しています。
新宿中央公園内に道灌の山吹の故事を題材にした像がありました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/b0b89b2c3b513818a3094c60fe1cae33
やはり、新宿の西向天神社境内には、伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑がありました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/eaec5bc75b01f3c28c875a4810eb2b68
ハイ、歩いていて偶然に見つけました。