鉄砲洲稲荷神社 旧郷社 中央区湊
【住 所】 東京都中央区湊1-6-7 地図表示:GOOGLE
【御祭神】主祭神 稚産霊神( わくむすびのかみ)、豊受姫大神( とようけひめのかみ)、宇迦之御魂大神( うがのみたまのかみ)。
【創 建】841年 平安時代初期
【由 緒】(神社HPより)
【鉄砲洲の由来】
【文化財】
鐵砲洲稲荷神社 平成25年6月23日撮影
鳥井

社殿 昭和10年建築

本殿

神楽殿 昭和10年建築

社務所 昭和10年建築

富士塚


【住 所】 東京都中央区湊1-6-7 地図表示:GOOGLE
【御祭神】主祭神 稚産霊神( わくむすびのかみ)、豊受姫大神( とようけひめのかみ)、宇迦之御魂大神( うがのみたまのかみ)。
【創 建】841年 平安時代初期
【由 緒】(神社HPより)
鐵砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。
それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。
その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。
徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。
江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。
それよりさかのぼる841年、平安時代初期にこの地の住民がうち続く凶作に教えられるところがあって、自らの産土の国魂神を祀り、万有の命を生かし成したまえる大御親神生成の大神として感謝し、日々の御守護を祈願したものです。
その後、埋立てが進み現在の京橋あたりに御遷座になり、さらに1520年代末に氏子崇敬者の願いによって、新しい海岸であった今の新京橋へ遷座し八町堀稲荷神社と称しました。室町時代の末期のことであります。
徳川幕府が開かれいよいよ埋立てが進み、寛永元年1624年、これまた氏子崇敬者の願いによってこの鐵砲洲に生成太神を御遷座申し上げ、それまであった八幡神社を摂社として今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築きました。たび重なる海側への御遷座は、そもそも御鎮座の地に湊があったからです。
江戸時代に至っては、米・塩・酒・薪・炭を初めほとんどの消費物資は鐵砲洲の湊へ入ってきたため、鐵砲洲生成太神の名は船乗人の海上守護の神として全国に広まり、今なお『冬至開運祈願祭』に授与する「金銀富貴」の神礼は日本中の人々から拝戴されています。
【鉄砲洲の由来】
境内にある富士塚(富士山の熔岩を用いた)は区内唯一の富士塚で、頂上には末社鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。
寛政2年(1790年)には富士塚が築造され、神社遷座2年後の明治3年(1870年)に新地に移築され、明治7年(1874年)再築された。以降明治18年(1885年)、昭和3年(1928年)、昭和11年(1936年)と3度境内内で移築された。富士塚の現在の高さは5.4mである。
寛政2年(1790年)には富士塚が築造され、神社遷座2年後の明治3年(1870年)に新地に移築され、明治7年(1874年)再築された。以降明治18年(1885年)、昭和3年(1928年)、昭和11年(1936年)と3度境内内で移築された。富士塚の現在の高さは5.4mである。
【文化財】
鐵砲洲稲荷神社社殿 (中央区民登録文化財)昭和10年(1935年)以降本殿や神楽殿が再興され、昭和初期の神社の形式を今に伝える。
鐵砲洲稲荷神社の富士塚(中央区民登録文化財)
鐵砲洲稲荷神社の富士塚力石(中央区民登録文化財)
鐵砲洲稲荷神社の富士塚(中央区民登録文化財)
鐵砲洲稲荷神社の富士塚力石(中央区民登録文化財)
鐵砲洲稲荷神社 平成25年6月23日撮影
鳥井

社殿 昭和10年建築


本殿

神楽殿 昭和10年建築

社務所 昭和10年建築

富士塚


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