玄武館の碑
【玄武館】 玄武館(げんぶかん)は、千葉周作によって現在の東京都千代田区神田東松下町(神田須田町郵便局の前あたり)に開かれた北辰一刀流の道場。
【玄武館跡の住所】東京都千代田区神田東松下町23辺り 玄武館跡の場所はここ
玄武館跡地の場所
玄武冠跡地:神田須田町郵便局前から写す 平成25年5月3日撮影
玄武館跡地の説明掲示
玄武冠跡地にある右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)と冠した碑
「右文」は学問・文学を重んじ尊ぶこと、「尚武」は武道・武勇を重んじること、の意
玄武冠跡地にある右文尚武の碑
碑の左に「千葉周作先生玄武館の址」の文言を拡大
碑文の文章となる。×の字は判読できなかった。
「千葉周作先生玄武館の址」
【玄武館】 玄武館(げんぶかん)は、千葉周作によって現在の東京都千代田区神田東松下町(神田須田町郵便局の前あたり)に開かれた北辰一刀流の道場。
【玄武館跡の住所】東京都千代田区神田東松下町23辺り 玄武館跡の場所はここ
玄武館跡地の場所
玄武冠跡地:神田須田町郵便局前から写す 平成25年5月3日撮影
玄武館跡地の説明掲示
玄武冠跡地にある右文尚武(ゆうぶんしょうぶ)と冠した碑
「右文」は学問・文学を重んじ尊ぶこと、「尚武」は武道・武勇を重んじること、の意
玄武冠跡地にある右文尚武の碑
碑の左に「千葉周作先生玄武館の址」の文言を拡大
碑文の文章となる。×の字は判読できなかった。
「千葉周作先生玄武館の址」
千葉周作先生は幕末に於ける剣道の達人で 寛政六年正月元日宮城県栗原郡郡花山村に生まれた。
幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を学んだが 後松戸の住人浅利又七郎義信の門に入って小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従つて秘術を授かる 心氣力三者一致の妙諦を悟るに至った ここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も実用に敵する組型を創定しこれを北辰一刀流称した。
玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵 齋藤彌九郎の塾と名を齋し××江戸の三大道場いわれた のちに水戸藩主徳川齊昭 慶篤の二公に仕へたが期する所は人材の養成にあった。弟子数千人 中には海保帆平 櫻田良佐 庄司辯吉等知名の剣客がおり また坂本龍馬 清川八郎等の勤王家も輩出した 安政二年一二月十日病没 享年六十二 墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る 先生人となり 剛毅風貌魁悟 身長六尺に近く 眼光炯炯として人を謝絶すべからざる威厳があった。
幼時父幸右衛門に北辰夢想流の剣法を学んだが 後松戸の住人浅利又七郎義信の門に入って小野派一刀流を修め更にその師中西忠兵衛に従つて秘術を授かる 心氣力三者一致の妙諦を悟るに至った ここに夢想流と一刀流とを取捨折衷して最も実用に敵する組型を創定しこれを北辰一刀流称した。
玄武館を神田お玉が池に開き桃井春蔵 齋藤彌九郎の塾と名を齋し××江戸の三大道場いわれた のちに水戸藩主徳川齊昭 慶篤の二公に仕へたが期する所は人材の養成にあった。弟子数千人 中には海保帆平 櫻田良佐 庄司辯吉等知名の剣客がおり また坂本龍馬 清川八郎等の勤王家も輩出した 安政二年一二月十日病没 享年六十二 墓は豊島区巣鴨本妙寺に在る 先生人となり 剛毅風貌魁悟 身長六尺に近く 眼光炯炯として人を謝絶すべからざる威厳があった。
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