浅草神社 通称 三社権現 、三社様 旧社格 郷社 東京都台東区浅草
【住 所】東京都台東区浅草2-3-1 "Mapion"
【御祭神】
【由 緒】
【境内社】被官稲荷神社 ⇒被官稲荷神社
【境外社・兼務社】浅草富士浅間神社 ⇒浅草富士浅間神社
浅草神社 令和6年2月2日撮影
浅草神社の社号標と鳥居(明治18年9月に建立)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c5/b9f401c0c23c5fe8e9771ffa4ad778e2.jpg)
手水舎
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ac/179a07a35ce45b8971a1c64c61a16ea5.jpg)
手水舎 龍神
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浅草神社の狛犬
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浅草神社の社殿
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社殿前の神額
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社殿前の彫刻
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神楽殿
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神輿庫 (三社祭で担がれる宮神輿「一之宮」「二之宮」「三之宮」を保管)
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ご神木の槐
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神木『槐』の木の由来
槐は中国原産のマメ科の落葉喬木で、葉は藤に似て、夏、黄白色の花をつけ、高さ十メートルに及ぶ。古来中国では宮廷の庭に三本の槐を植え三公のつく位置を示したといわれる通り、高貴の木として珍重された樹木である。
浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩は推古天皇三十六 年(六二八年)三月十八日、隅田川で漁をしていた 檜前浜成、竹成の二兄弟によって網得され川辺の槐の木の切株に安置されたが、その主、上師仲知の教導により、三人共々深く観世音に帰依し、草堂を結び自邸を寺にかえたのが浅草寺の始まりと伝えられている。その後この三人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神として祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、 槐は浅草寺にとっても当社にとっても非常に因縁の深い木である。
その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶える事がない。 まことに不思議な縁を感じおさせる木である。
昭和六十二年九月
浅草神社奉賛会
浅草観光連盟
由緒書き
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御社殿
現在の御社殿は慶安二年(一六四九)に徳川三代将軍家光公より寄進・建立されたもので、本殿に幣殿を附属させ、渡りの間で繋いだ拝殿からなる権現造り風の様相を呈し、柱や壁等各部の漆塗りと随所には極彩色を用いた彫刻・刳形が施され、その細部に至る手法は時代の象徴を示しています。 江戸の大火をはじめ関東大震災や東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、昭和二十一年に国宝建造物に、 更に昭和二十六年には国の重要文化財に指定され、 江戸初期を代表して現存する貴重な木造建築物です。 これまでも各時代に修復作業が度々行われており、 現代においては昭和三十六~三十八年の昭和の修営、 平成六~八年の平成の大修営に依って、その壮厳さが見事に復刻・再現されました。
三社祭
浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やか な神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。
祭礼最終日は、「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、早朝より神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、日没後に境内に戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終 わります。
祭礼期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、神社で は各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。
【住 所】東京都台東区浅草2-3-1 "Mapion"
【御祭神】
土師真中知命 (はじのまなかちのみこと)
檜前浜成命 (ひのくまのはまなりのみこと)
檜前武成命 (ひのくまのたけなりのみこと)
相殿 東照宮(徳川家康)
相殿 大国主命
【創 建】舒明天皇11年(639年)檜前浜成命 (ひのくまのはまなりのみこと)
檜前武成命 (ひのくまのたけなりのみこと)
相殿 東照宮(徳川家康)
相殿 大国主命
【由 緒】
推古天皇三十六年(六二八)三月十八日の朝、後師の檜前浜成・武成兄弟が、浅草浦(現在の隅田川)で漁労に精を出していたところ、その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけで、幾度か海中に投げ入れ場所を変えても同じ事の繰り返しです。流石に兄弟は不思議に思い、その尊像を拝持して今の駒形より上陸し槐の木の切株に安置しました。 当時、郷土の文化人であった土師真中知に一見を請うたところ、現世御利益の尊い聖観世音菩薩の仏像であると告げられました。いわゆるこれが浅草寺の起源となります。
土師氏は間もなく剃髪して僧侶となり、自宅を新たに寺と構え、先の観音像を奉安し、供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の土師氏は間もなく刺刺して慣となり、自宅を新たに 寺と構え、先の観音を突し、供養の傍ら民 の敷化に生を捧げました。
後世となり土師氏の子孫が観世音菩薩の夢告を蒙り、郷土発展の功労者である祖先等を浅草寺の傍らに鎮守するようにと告げられ、前述三氏を郷土神として祀る三社権現社が創建されました。
奇しくも、明治元年の神仏分離により社名を三社明神 社と改め、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められま した。そして今でも、氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。 下記写真の境内掲示を写す
【例祭:三社祭】5月17日土師氏は間もなく剃髪して僧侶となり、自宅を新たに寺と構え、先の観音像を奉安し、供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の土師氏は間もなく刺刺して慣となり、自宅を新たに 寺と構え、先の観音を突し、供養の傍ら民 の敷化に生を捧げました。
後世となり土師氏の子孫が観世音菩薩の夢告を蒙り、郷土発展の功労者である祖先等を浅草寺の傍らに鎮守するようにと告げられ、前述三氏を郷土神として祀る三社権現社が創建されました。
奇しくも、明治元年の神仏分離により社名を三社明神 社と改め、同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められま した。そして今でも、氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。 下記写真の境内掲示を写す
【境内社】被官稲荷神社 ⇒被官稲荷神社
【境外社・兼務社】浅草富士浅間神社 ⇒浅草富士浅間神社
浅草神社 令和6年2月2日撮影
浅草神社の社号標と鳥居(明治18年9月に建立)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c5/b9f401c0c23c5fe8e9771ffa4ad778e2.jpg)
手水舎
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ac/179a07a35ce45b8971a1c64c61a16ea5.jpg)
手水舎 龍神
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/82/270960139e20cf78dafbf524758e3553.jpg)
浅草神社の狛犬
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/b6/dfe0d43b01b61cc6828d074bbcde0fee.jpg)
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浅草神社の社殿
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社殿前の神額
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社殿前の彫刻
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神楽殿
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神輿庫 (三社祭で担がれる宮神輿「一之宮」「二之宮」「三之宮」を保管)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/78/a9f1dadad27ed7fbdbbdff63da437a6c.jpg)
ご神木の槐
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/bc/d49bccd847f794bde4b3a6eca97d98f1.jpg)
神木『槐』の木の由来
槐は中国原産のマメ科の落葉喬木で、葉は藤に似て、夏、黄白色の花をつけ、高さ十メートルに及ぶ。古来中国では宮廷の庭に三本の槐を植え三公のつく位置を示したといわれる通り、高貴の木として珍重された樹木である。
浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩は推古天皇三十六 年(六二八年)三月十八日、隅田川で漁をしていた 檜前浜成、竹成の二兄弟によって網得され川辺の槐の木の切株に安置されたが、その主、上師仲知の教導により、三人共々深く観世音に帰依し、草堂を結び自邸を寺にかえたのが浅草寺の始まりと伝えられている。その後この三人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神として祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、 槐は浅草寺にとっても当社にとっても非常に因縁の深い木である。
その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶える事がない。 まことに不思議な縁を感じおさせる木である。
昭和六十二年九月
浅草神社奉賛会
浅草観光連盟
由緒書き
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/20/d9bef69fb96e068dec27a3169ca07770.jpg)
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御社殿
現在の御社殿は慶安二年(一六四九)に徳川三代将軍家光公より寄進・建立されたもので、本殿に幣殿を附属させ、渡りの間で繋いだ拝殿からなる権現造り風の様相を呈し、柱や壁等各部の漆塗りと随所には極彩色を用いた彫刻・刳形が施され、その細部に至る手法は時代の象徴を示しています。 江戸の大火をはじめ関東大震災や東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、昭和二十一年に国宝建造物に、 更に昭和二十六年には国の重要文化財に指定され、 江戸初期を代表して現存する貴重な木造建築物です。 これまでも各時代に修復作業が度々行われており、 現代においては昭和三十六~三十八年の昭和の修営、 平成六~八年の平成の大修営に依って、その壮厳さが見事に復刻・再現されました。
三社祭
浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やか な神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。
祭礼最終日は、「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、早朝より神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、日没後に境内に戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終 わります。
祭礼期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、神社で は各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。