猥雑記(ハンナマ鍋の妄想・妄言)

ハンナマ状態になってきた所で鍋を取り替えます。

安部首相辞任_うん、うまい手だ

2007-09-13 | 事件ですかぁ?
今日一日、安部首相辞任の報道で一色となった。
無責任だとか、なぜこの時期に?と、批判する言葉が並べられているが、
賢明、よい判断だった。

ニュースを聞いたときには確かにびっくりした。
だが、よくよく考えてみるとある意図であるならば、これは効果的な辞め方なのだろう。
問題が山積しているのに・・と批判されているが、そんなものはなるようにしかならない。首相の能力で全てを解決するわけではない。むしろそうであっては道を誤る事の多い強権支配政治、民主政治ではない。内閣そのものはコントローラーであって実際の処理はほぼ自動的に行政が行う。抱える政治不信と政治的空白期間と比べるとどれほどのものか。

まず1つ
ところで、安部首相個人に重大な過失が有ったのかと言うとそうでもない。
あげるとするならば、いわゆる、「取り巻き大臣の任命責任」と言うもの。
だがそれは野党と報道が作り出した新たなルールではないか?

2つめ
今、野党が問題にしている事柄は、国の勢いを加速する物だろうか、それとも否か。
単純なこの問に関して言えば、否だろう。確かにほとんどがルールに関する物で、与党の一番苦手な事柄ばかり。政局にするにはうってつけだ。国民はこのようなネタに縛り付けられている。

3つめ
また、その材料となる大臣を追い落とすネタといえば、失言に領収書。

国政を運用する能力を求められる要職であるはずなのに、それとはほとんど無関係なところでの評価基準。そして、その能力と比較して、あまりにもみみっちい。報道も、このネタの追い廻しが当たり前となってしまったが、馬鹿げている。政治に必要なのはデモクラシーなのだが、そのための道具でしかない情報公開が、個人の恥部まで公開するスッポンポン情報にまでエスカレートしている様は悲しいほどだ。

それゆえに、それはひどく高いハードルなのだろう。選挙に勝ち抜くかなければ議員になれないことから、どこの支持母体であろうと不特定多数を集める以上、支持母体は聖人君子ばかりではない。野党であろうと例外ではないだろう。公明や共産であろうと単一的組織母体の中で制御が効いているだけに過ぎない。そのような基準をクリアする清潔な人材の母体は、自由な発想で行動する民主主義とは違う、どこか怪しい強力な戒律によってコントロールされているに違いない。そのことから、元々自民党の議員には、支持団体の関係から聖人君子ルールには弱い。

4つめ
この聖人君子ネタで互いに足を引っ張り合う事をどこまでつづけるのか。どこかで大衆が気が付かなければならないのだ。

安部首相の非常によいと思われることは、責任批判されてもおかしな反論をしなかったこと。これは多分安部が、首相と言う立場をに関してのある理想像を持っていたのだと思う。首相の立場と、評価を得たい個人的な尺度と比較するとき、どちらに重さ置いていたか。多分、彼は全体主義傾向だったのだろう、個人的な事は犠牲にしていた傾向が見られる。タカ派と呼ばれる人は共通してそういう傾向を持つ。

民主党の小沢一郎などは、どちらかと言えば、役職は当人個人の存在を満足させるのに、また彼のモチベーションのエネルギー源なのだろう。発する言葉は国の内外問わず誰に対しても条件ばかりで、全体の流れを方向付けるものとは言いがたい。事前に報道批判をかわせるだけの小細工をしている所を見ると、それは非常に作為的で、そこが相手を攻撃するネタ、政局に持ち込むネタだと強く意識しているからに他ならない。これらから見ると、彼は政局がすべてなのだろう。

つまり、自分たちの力を拡大させるために利用できるものは何でも利用している。政治は、よりよい国の行く方向を論じるものだが、それよりも自分たちの立場が重要視される。選挙を経るために、仲良くみんなで議員たちの能力を発揮して問題解決するようには行かない。醜いのだが、これも仕方がない。他党の足を引っ張るしかないのだろう。

しかし、今はそのようなことをしている時期ではない。国防に関しても経済に関しても、日本の好転はおろか現状維持もおぼつかない状況である。しかしながら与党の中にもそのような観点で動くものも少ない。野党のように国内勢力拡大に終始しているのでは、この先はない。阿部はこう思い悩んでいたのだと推察する。

5つめ
そこで、効果的な手はなにか。一度、妙な風潮を断ち切ること、なんにしても非協力的だった与党を確実に挙党体制に戻すこと、問題が山積している現状と、聖人君子ネタよりも優先的に、どうしても解決しなければならないことを国民に周知させること、などなど・・。

支持されている内閣であればそれらは報道を通じて可能だが、支持されていないのであれば、何を言っても野党に効果的に逆利用されるだけなのだ。

ならば、いとも簡単に報道に操作される平和ボケした国民や議員に一度危機感を持たせるのは悪い手ではない。辞めどきが悪い、なぜ今なのだ?との疑問の声は、逆に言えば最も効果的だったとも言える。

確かに他にも継続と言う選択肢はあった。だがその選択肢の行く末は目に見えている。それは現状よりもよいものかどうかを考えると、彼が考える到達点には程遠いものだったに違いない。

無責任などと言う評価は安部個人にかかるものだが、もともと安部は自分への批判にはあまり執着がない。政治は首相一人で行ってるものでもないし、首相が生きようと死のうと、ある程度自動的に継続できるものだ。それよりも国全体の「引き締め効果」を狙った。いや、それしか手がなかったのだろう。

野党やその他の者は、投げ出したとか無責任とか、揶揄するに違いない。それは彼らが一番恐れる評価であるからだが、阿部にはこれからの政治生命を失う評価をも超えて、与野党の範疇も超え、身を捨ててまでやらなければならない事があった。この時期と言う確信犯的選択がそれを物語っている。気が弱いだけならむしろこの時期を選ぶ事はないだろう。病気などが原因ではない。病気との口実にしたいのは阿部側ではなく、足を引っ張ってきた与野党と報道だ。

そして効果はすでに芽生えてきたように見える。各地方の首長、誰もが「このまま維持する」すると言い切った。中央とのパイプを口にしていた者でも、だ。民主党も言い訳をせずにいられないらしく、今までのようなただの政局争いから各論の是非を問う姿勢路線に変更せざるを得なくなった。ポスト阿部の座を狙うあまりに、国政のブレーキとなっていた党内有力者の争いを加速させ国民の目に明確に映るようにした。「今日の支持率」と政治を変動数字で表し相場やゲームのように軽くあつかう風潮にした事の反省もでてきた。


この究極の手を行うかどうか、ぎりぎりまで悩んでいた。僕はよい手を選んだと思っている。
さらに言えば、安部個人は歴代の首相の誰よりも、聖人君子だったのではないかとさえ思える。

6つめ
なぜ国民は支持しなかったのか、その反省点はそのまま改善点なのだろう。


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