
キュウリとトマトの苗を買って来た。生協で配達してもらった土を植木鉢に入れて植えるだけだが、それでも土や植木鉢を運び底石を集め、立ったりしゃがんだり、持ち上げたり下ろしたり・・結構力も要る。
その時、奥歯を食いしばっていることに気付いた。入れたばかりの歯・・。
私は詩編を朗読するのが好きだけれど、歯が揃っていない時はフガフガすることに気付いた。舌もなめらかに動かないので、注意深く読まなければなければならない。
その経験は初めてだったのでちょっとショックだった。部分入れ歯を入れたらまた練習が必要になるのだろうなぁ・・。
歳と共に不自由は増えて、それを受け入れて行く忍耐が必要になってゆく。
ブランドタッチでなめらかな入力を勝手に誇っていたけれど、今は時々指が曲がらなくなる。関節が痛み、こわばって打てないキーがあったりする。こうして・・歳と共に誇りは奪われて行く。色々な面で、生々しく自力が剥ぎ取られて行くのだ。
アブラハムやサラには老いがなかった。
老いなければ体の不自由を味合わうこともなく、ますます物事に熟練して、最期まで誇りを保ち続けて生きるだろう。
うっかり忘れたり、時間がかかってしまって迷惑をかけることもない。しかし・・今不自由をしていても、老いることがなくなったとしてそれが単純に素晴らしいとは思えないのも事実。
粧っていたもの、身を守ってきた鎧のようなものが剥ぎ取られ、有無を言わせず弱くされて行く事で、若い頃には気付かなかった優しさやき、許されていることの感謝を覚えるこが増えて来た。謙遜なんて自らは決して得られない私だから余計にそう思う。
また、迫って来ている終わりを感じた時、守りから解き放たれて打って出られる勝負もあり、そこに至ってもなを年齢に抗うばかりは、なぜかみすぼらしく感じることもある。
神様が許された弱さでもあるから、そこで是非経験したい「みことば」もある。どの様なときも、主の備えを経験する恵みが散りばめられているキリスト者の生涯、忍耐という訓練も通るけれど、そこにも新しく主に育てられる望みがあるのだ。
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう(Ⅱコリント12:9)