
「からし種の信仰とは、イエスさまのこと。御父に対する信仰によって、小さな細胞となってマリヤのお腹に来てくださったイエスさまのこと。そして、そのいのちを受け入れたマリヤのこと。」とあった。saltさんのメッセージ「イエスのたとえ話⑤」
私は恥ずかしい。自分には幾らか信仰があると思っていたから・・・。私はただ、この世に疲れた、弱いなんの価値もない一人にすぎず、イエスさまのことばに一縷の望みをかけて付いてきた群衆。そして空きっ腹に、主が裂かれたパンを頂いていのちを得た者。一体その何が私の信仰なのか・・・。
それでも、私は良い麦であり、御国の子だといわれるのは、それは初めから主がそのように私を造ってくださったのであり、なにひとつ自分から出たことではない。このことはなんと安心なことだろう。
イエスさまの犠牲と忍耐によって赦されている者。信仰の完成者であるイエスを、受け継いだ者にすぎないから、もし、ひとかけらの信仰が瞬間現れたとしても、それはイエスさまの信仰だった。私の信仰ではない。私には信仰はないというそのことが、いくらかやっとわかってきた。
自分を誇ってはいないと繰り返しても、「私の信仰による選び」なんて思っている部分が臭い匂いを放っていたのだろうなぁ・・・。
それでも主は「平安があなたがたにあるように」と、今日の日差しのように穏やかに私のここに居てくださる。
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