
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:1~3)
実を結ばないものは取り除かれ、実を結ぶものは刈り込まれる。
刈り込みをされるのは農夫である神様。私たちには何が必要であり、何が不要なのか良く分かっていないからである。だから、刈り込みは主にお任せすることになる。
自分の中の不要なもの、イエス様が召し上がるための実を結ばせないもの、栄養を横取りしているものを切り取ってくださる。その鋏は切れ味の鋭いみことば。その鋏は身を委ねる者には、痛みの中にも平安があり、甘い後味が残るものである。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)
しかし、主は決してそのことを同意無くなさらない。私たちが「アーメン」と言わないなら、刈り込みは私たちの身に起こらない。
なぜそう言えるのか・・もし自動的に主がなさるなら、キリスト者はもっともっと多くの実を結んでいるだろうと思うから・・。
私たちはみことばによってきよいのである。聞いたみことば「アーメン」したみことばによってのみきよいのである。
みことばを行うことは主に拠るから、まず受け入れることが初めの一歩であり、終わりの一歩である。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)
刈り込みが終わったら祈ります。
祈りは、期待と、願いと、哀願と、赦しと、取りなしと、主にある希望によって・・。