石ころ

聖書は永遠に続く喜びの書(ピリピ4章)

 

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(4)

 

聖書は喜びの書、神からの福音。その良き便りには、尽きることのない神と人の喜びに満ちている。神がすべての人に用意してくださったプレゼント。

ただ、その完全な喜びは肉の目には見えず、聖霊に拠って初めて悟るものである。
キリストの十字架の福音は、聖霊のバプテスマによって完全に悟ることが出来る。

 

聖霊のバプテスマによって霊が開かれた時、キリストの御わざを「私」の救いと、「私」に成就される永遠の約束であると、個人的に、あり得ない祝福をたまわるのである。
神はこのことを「求めなさい」と命じられる。

 

みことばの命令に真摯であるなら、完全を求めて主に叫ばざるを得ないのだ。福音の中身を知りたいと、キリストの御救いを、その恵みを全部受けたいと願い求めるようになるだろう。

 

神の御子であるイエス・キリストが、あれほどの犠牲を払ってくださったのである。一人ひとりがその福音を真に知るなら、その愛のプレゼントを確かに受け取った時、すべての世の悩みや恨みや痛みは洗い清められ、キリストに在る喜びに躍り上がって、幼子のように賛美するようになるのだ。

 

あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(5~6)

 

からだに、魂に、霊に焼き付けられた喜びの確かさのゆえに、もう自分自身にこだわる必要はなくなって、聖霊の導きは喜びとなり、従順することが希望となるのだ。


それは人の資質には依らず、誰であっても、うちに居られる聖霊の交わりの中で、消え去ることのない喜びが続き、その確信と平安によって神の完全に近づいて行くようになる。

 

キリストが十字架を通って、送ってくださった助け主なる聖霊の神は、弱さのうちにひたすら救いを求める者に、愚かさの中で真理を求める者に、罪の中で神の義に渇いて呻く者に来てくださる、力ある助け主である。

 

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16~18)

 

十字架の救いの喜びは、感謝にも祈りにも先だって、神を喜ばせるものである。
弟子たちが遣わされた時、神の権威を用いると悪霊さえも服従したことを喜ぶ弟子に、イエスは喜んで祈られた。

 

イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(ルカ10:21)

 

聖霊によって新しく生まれた者は幼子であり、日々イエスのみことばに親しむ中で育てられて行くのである。
神の権威を用いることは従順によるのであり、その経験による喜びの中で神の御名をあがめ、用いられた光栄を感謝しつつ、御国に向かって世を行進しているのだ。慕わしくも愛なる永遠に向かって!

 

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。(Ⅰペテロ1:8)


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