
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。(マタイ5:14~15)
キリスト者の光はみことばであり、それは世を生きる時の足の灯火、道の光である。イエスさまに出会ってみことばの御力を経験した者はその喜びを隠すことができず、世に高く掲げて希望の在りかを知らせるようになる。
みことばの光は世の罪を照らし出して、イエスさまの十字架に拠る救いに導く。だがその光は、キリストに従うことと拒絶することを炙り出す光でもある。そのことを恐れては救いを知らせる光を掲げることができなくなる。
キリスト者は光を掲げる燭台である。燭台を高く掲げるほど光は遠くまで届くが、燭台そのものは光の下に隠されることは大きな守りである。
みことばによって、人々が天におらる神をあがめるようになるために、救われた人々がいたる所でみことばの光を高く掲げることはなんと美しい光景だろう・・、それは主の喜び。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)
キリスト者の「良い行い」とはみことばに依存して世を生きることである。それは聖さであり、そこで世の知らない平安をたまわる。
聖霊によって示されたみことばに家にいる人々全部を引き連れて従う時、家族であり得ない平安を経験するようになる。
用いられないみことばはアクセサリーにすぎず、十字架の首飾りである。枡の下に置いた灯火はそれを隠す人の顔を照らす。それはまるで、イエスを「知らない」と言った時の焚き火の側のペテロのようだ。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ14:27)