
私が何かをしようと思うと、まず、すべてに主人の許可を必要とする。時間も制限を受ける。主人はお酒も飲まず、賭け事もせず、まじめ一方なので羽目を外したことがない。「あまり楽しくてつい・・」なんて言い訳は通じない。しかし、そのことは聖書から逸れてはいなことが感謝。
パウロは
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」
「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:22.24)
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」(コロサイ3:18)
と言っている。
妻にとって夫に従うことは、時に非合理的で、バカバカしくて、窮屈で、理不尽である。でも、これってキリスト信仰そのものだということに気が付いた。だから、「キリストに従うように・・」なのだと。これは、決して時代によって変わることではなく、信仰を守るために、日常生活の中で主から受ける訓練なのだと。
主が命じられる規制は、愛するゆえの守りであり、成長のための養育、そのことを守り行うとき、結果は主がすべての責任を取ってくださる。女が男よりも多くの規制を受けているということは、その弱さのゆえに多くの守りの中にいるということだろう。エバの失敗を繰り返さないようにと・・。
そう思えば少々の不自由さはむしろ安心につながっているのだと思え、家庭の平和を楽しむことになる。
そうこうするうちに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」この主の約束の成就が、家庭や親族の中に広がってゆくことになるのだと・・。
集会に来られていた姉妹は、洗礼のことについてsaltさんに話しておられた。彼女の恐れは良くわかる。信仰生活では主にあって、みことばによって夫に従うのであり、イエスさまに従うことはすべてに優先する。
信仰の順序において、夫に立ち向かう勇気が必要になることがあるけれど、それも後に振り返るとき、すべては家庭の祝福のためであったと知る、彼女を主はどんなときも守ってくださるけれど、初めにみことばへの従順を選ぶことは彼女自身に任されている。
出席してくださった長い間の友である姉妹は、ご自身の信仰生活を証ししてくださって、彼女を励ましてくださっていた。
saltさんはすべての言葉をみことばから導いてくださり、確かな神の約束をやさしく語ってくださって、「私たちの幸せは死んでからのことだけではなく、今この世で主と共に生きて幸せであること」この言葉が嬉しかったなぁ・・。
モーセの詩編
どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。
あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。
あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。
私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」(詩編90:14~17)
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