行ってきます・とただいま・の間。

2013,1に長男から貰った、SONY NEX-F3で撮っています。
その日の事柄と撮りたて写真で残してます。

そんな中で。

2015年03月25日 10時38分19秒 | 日記

このごたごたした中で、フトアゴヒゲトカゲのTちゃんが、今年2度目の産卵の兆候が出ていました。
昨年も今ごろ、立ち産卵をしてびっくりしました。
2度目は楽なのだろうかと、想像していましたが、本当に良い子で、夕べ全てが終わり、部屋も元通りになった夜に産卵しました。
人が出たり入ったりする音を聞きながら、誰も来てくれない部屋でただ、出たい出たいとかりかりしていました。
Tちゃんに関わる時間が無いなんて今まで長くても丸1日でした。
それが5日間も・・・・
偉かったね。。とさっき温浴をしました。
待っていましたとばかりに、42℃ほどのお湯に浸かりながらごくごくと飲みました。。
そしてコオロギも、たくさん食べました~^^

これで今年も産卵を終えてのんびりした生活になると思います。。ねぇ、Tちゃん。。

 

こちらは、四十九日の日取りも昨日決めてきました。
死亡届け後、埋葬完了の届けを役場にし、諸々の手続きをしました。
またこれがこまごまとあるもので。。
主人の戸籍抄本を取るにあたり本籍地までいかなければならなくなったり。

私のラパンの車検を変更してもらったことで、納車も昨日の夕方に。
最低の線でお願いしたつもりでも、車検が通らないからと言われれば仕方のないこと。
痛い出費が待っているぅ。。

 

今日は、午後から、厚生年金事務所へ主人と2人で行きます。
義父が微々たる金額でも厚生年金を貰っていたようです。そちらへ死亡したことを申請に行きます。



父の十三回忌の気持ちもめちゃくちゃでしたよ。
妹と旦那様は義父の枕元にお見舞いを持ってきてくれて、告別式だけに来ると言ってました。
父のお墓参りに行くからと。

ああいう席での血の濃い順とこれから新たに親戚になった方たち。。
作り上げるものが出てくる私たち夫婦の年代なのですね。。

 

話はちょっと戻ります。
町では30年前にタイムカプセル行事をしたそうで、それが丁度今年2月でした。
開封の大イベントが開催されました。
その通知が我が家にもあったのです。
主人があちこちに顔を出しているから呼ばれたのだろうと思っていましたが、義父から主人宛に手紙があると。

もうそういうことに、恐怖を感じる主人。
当日行くこともしない。
やがて郵便で我が家にその30年の時を超えて届きました。
なのにっ。それも開封しない主人。

そんなこんなしているうちに、こうなってしまった義父。
主人の弟夫婦と、妹さんが残ってくれた時に、今まだ荼毘する前に父親の気持ちを知っておくことが大事じゃないのか。
今じゃなくちゃ後悔するぞという一致した意見で開封。その手も震える有様。
弟さんがその手紙を私たち5人の前で読み上げてくれました。

30年前。
それはまさしく私たちが結婚した翌年の2月でした。
妹さんの自筆でした。
すっかり忘れていたと言ってました。

その中身は、当時私と主人の結婚には1つ問題というかひっかかるものが有りました。
そのことをオブラートに包んだように書いてありました。
また、ここに家を建てること、人に笑われずしていけというものでした。

その手紙で一瞬にして義父の子供たちは、繋がりましたね。。

親子ほど強いものはないです。
私がここにきて25年。義父がひっかかるものに何も問題が起こらないように精一杯努めてきた自分は、やはりただの嫁でした。

自分が今、息子にお嫁さんが来てくれる年。
願うことは、義父と同じです。

そうやって繰り返していくものです。

 

でも、私は、葬儀でお坊さんが、

「この桜の咲く季節に・・・・」と法話を始めたときは、

 

そうだよ、平成15年のこの春に父と私たち姉妹はお別れしたんだよ。
今年は13回忌だよ、なんで合わせるんだよ・・・・
と、違う涙を堪えました。


粛々と記録。

2015年03月25日 10時10分17秒 | 日記

ある朝突然。

施設に入って4年が過ぎ今年5年目に入った同居の義父。
施設より早朝4時前に主人の携帯に連絡が入りました。
夜間の見回り、紙おむつの交換の時はいつもどおり、明け方には、呼吸をしていない。
すぐさま行こうと起きたが、施設の人は自宅待機を支持しています。
系列の病院へ確認するというが、待った時間は、7時まで。
医師と連絡が付かないという。
そりゃあ、医師の診察がなければ、書類も出せないだろうが、この時点で家族は枕元に行くのではないでしょうか・・ね。
結局、電話を貰って主人と長男が病院へ行く。職員さんが義父を乗せて病院へ。

それまでの2時間で、私は義父を寝かせる部屋を確保しなければなりません。
今まで、主人の妹さんと多少の片付けはしていましたが、実際はどこも中途半端です。
床の間に陣取る2竿の義父・義母の箪笥が続く部屋の通り道に立ちふさがり、Tちゃんの水槽も諸々がある。
義父が寝室としていた部屋には、私が寝床としている。

今年班長である我が家ですが、その仕事ができずに近所の方にお願いをし、班内の皆さん14軒が9時半に見えた。
それまでにお茶の用意を完了。
そのうち、このたびの通夜告別式を取り仕切ってくれるJAの方が来る。
諸々・・諸々取り決めていく。

今まで、といっても、この3つ前までの班内葬儀は自宅で執り行っていた。
私が嫁いできて早や25年のうち、班長だった時は11軒の葬儀の御手伝いをしてきました。
義母が亡くなったときから、斎場を使うことになりました。
そしてまた今回、班内の方々も、高齢になり一人暮らしの方も増えました。
その方を2日も手伝いとして1軒から1人出すというのは大変なことだと、また我が家から簡素化することになっていきました。

日取りは、友引が入り、彼岸中ということもあり、お寺の住職の都合を聞き3日置いた22日(日)夕刻が通夜。
そして、翌月曜日が告別式となりました。
告別式にも、火葬場の都合により荼毘したあとに、となりました。

その間。
親戚・皆様にお知らせをし、何人で見えるのかの確認。
朝からいらっしゃるのか、式だけに参加なのかで、清めの宴の数、引き物の数をきちんと合わせていきました。
余分に用意しても引き取り可能なものは多く、また食べ物が少なくては失礼になると帳尻あわせに神経を使う葬儀とはなんぞや・・・・

 

 

告別式のあと、お別れをするのが順番でしょうが、斎場の都合ということで、皆さんに上げてもらった花を使うことがなかったため、家にこれだけ飾ることができました。

この地方では、告別式に初七日までが終わります。その後埋葬まですませます。
ですから、この祭壇には、義父はいません。
それでも、四十九日まではこのまま飾っておきます。

 

内職のスペースが無い・・・
いつもの内職の方は近所ですから、考慮してくださり、落ち着いてからで良いと言ってもらいました。
POPのほうも、そのようになりました。

何かあれば止まる東京の伯父さん・叔母さん。
ちょっと痴呆が出て私のところに自転車で「なだれが来るから助けて」と来た叔母さんも、昨年12月に倒れた叔母さん宅からもパーキンソン病の伯父さんを連れて娘さんが来てくださいました。
皆さん高齢になり、ひとりでは来られなくなりました。
娘さんや息子さん(主人の従兄弟)がそれぞれに付いてきてくださいました。

泊まる部屋も無くなり、斎場の宿泊サポートも利用することにしました。
今までは考えられないです。
どんな狭くなろうと自宅に寝ていましたから。。

そして、我が家の三男とお嫁さんも。。
お嫁さんのご両親まで、ずっと付いていてくださいました。お疲れ様でした。
知らない中で参列くださり感謝です。
お嫁さんも、つわりが治まりお父さんお母さんと一緒で心強かったと思います。

義父の孫7人。ひ孫3人に囲まれて無事に霊山へ旅立ちました。