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♪ラクガキ天国♪

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カネでも「中田英寿」は超一流!

2006年08月09日 | 中田英寿
ランキングジャパン
中田英寿の凄さを年棒で示してみました。

2000年。ジダン(13億6千万円)、バティスツータ(10億円)、ロナウド(8億6800万円)
中田(7億9000万円)・・・8位

2001年。ジダン(16億円)、ベッカム(12億1500万円)、バティスツータ(11億9000円)
中田(11億1000万円)・・・4位

2002年。ベッカム(20億円)、ジダン(18億7300万円)、ロナウド(15億6500万円)
中田(12億5200万円)・・・6位

2003年。ベッカム(30億円)、ロナウド(22億6500万円)、ジダン(19億円)
中田(11億2800万円)・・・11位

2004,2005年、中田は20位圏外。

2003年まで、フィーゴやトッティ、Wカップ得点王のクローゼらスーパースターより年棒が高かったとは

中田英寿さんの今後に大注目

今日、オシム・ジャパンのサッカー親善試合があるようですが、どうなんでしょうか

小野が中田英寿の継承者?

2006年07月05日 | 中田英寿
中田英寿の後継者が小野中村俊輔は大丈夫かいな

「僕らが引っ張る」小野決意新た
2006年7月5日(水) 6時5分 スポーツニッポン

 浦和MF小野は引退表明した中田について「あの人に勝る人はいない。サッカー面でも人間としても目標とすべき人だった。いなくなるのは寂しいが、お疲れさまとしか言いようがない」。ともに3大会連続W杯に出場した先輩の決断に複雑な心境をのぞかせた。新生日本代表では主力として期待されるだけに「これからは僕らが引っ張っていく」と決意も示した。小野らは4日、シュツットガルト近郊での合宿を打ち上げ日本に向けて出発した。

 ≪同じ年・宮本は複雑≫G大阪のW杯日本代表DF宮本が、中田の現役引退表明について「同じ年で14歳の時から一緒にやってきて先に去るという寂しさは感じる。引き際には彼なりの考えがあったと思うから尊重したい」と複雑な心境を明かした。そして「最後の試合で一緒にできなかったのが心残りです」と中田最後の試合となったブラジル戦が出場停止だったことを残念がった。W杯の3試合については「自分のミスでボールを失うシーンが多かった。W杯で神経質になってしまった。まだ大会が続いているのに日本で試合を見る悔しさがある」と反省しながら「さらにいい選手になれるようやっていきたい」と前を見据えていた。

 ≪ねぎらう川口「頑張ってくれた」≫中田の引退について、アトランタ五輪時代からの“戦友”である磐田GK川口は「少しタイミングは早かったかも。でも本当に頑張ってくれた。しっかり休養して、第2の人生を歩んでほしい」とはなむけの言葉を送った。またMF福西は「世界のサッカーに追いつこうと真っ先に海外に行って切り開いた。その貢献度はすごいこと」と称えた。98年、02年大会の日本代表FW中山は「日本代表では厳しい言葉を掛けていたが、ありがたい言葉だった」と振り返った。

 ≪岡ちゃんエール≫合宿先の北海道で中田引退のニュースを知った横浜・岡田監督は「非常に寂しい気がする」と驚いた。98年W杯フランス大会で監督と選手として戦い、中田を高く評価する指揮官は「彼のことだから考えた末のことなので尊重してほしい。新しいことにチャレンジすると思うので頑張ってほしい」とエールを送った。また中田とともに日本代表を引っ張ったDF中沢は「お疲れさまでした。まだできると思いますが…」と言葉にならない様子だった。

高校2年で描いた人生設計のままに

2006年07月05日 | 中田英寿
衝撃の走った電撃引退表明も、中田英寿(29)本人にすれば「人生設計通り」の決断だった。Jリーガーになる前から、選手としてピークを過ぎる30歳前後にスパイクを脱ぎ、大学に進学する青写真を描いていた。サッカーとは一線を画し、ビジネスの世界で活躍する希望を抱きながら、その準備を進めるとみられる。

 中田が、中田らしくピッチを去った。高校2年で描いた人生設計のままに-。

 12年前、韮崎高で成績が常にトップクラスだった中田は、進路の選択を迫られていた。「東大を狙えますよ」。担任教師の言葉に、母は「大学に行って」と懇願したという。だが中田は首を振った。「大学は30歳を過ぎても行けるけど、サッカーは今しかできない。だから高校を卒業したらプロになる」。当時、サッカー部の監督だった田原一孝氏は、その時の様子を「何の迷いもなかったですね。Jリーグのクラブからスカウトが来ても、すべてクラブの練習に行って、ベルマーレ平塚と契約した時も『3年後に海外のクラブへ移籍する』という条件を付けたほどですから」と振り返る。

 宣言通り98年夏にはセリエAペルージャへ完全移籍した。Jリーグへ復帰する意思は毛頭なく、イタリア語を覚え、同時に英語も学んだ。海外でプレーし、その国の文化や言語に触れることが、自身のキャリアアップにつながると考えていた。

 02年1月3日付の日刊スポーツのインタビューで、中田は「引退後」について話している。「どちらかというとサッカー以外の仕事をやってみたい」「興味は1つじゃないので(略)。サッカーのステップはこの先を考えれば小さいもので多種多様な職業がありますから」…。平塚入団後、簿記を勉強し、税理士や公認会計士の資格を取ろうとしたこともあった。関係者にも「サッカーだけの人生で終わりたくない」と常々、もらしていた。ボールを追う日々の中、「第2の人生」への準備は着々と進められてきた。最近では心理学とデザインに強い興味を示し、海外メディア向けのインタビューには「サッカーをやめたら、まず大学に行きたい」と話していた。関係者によると、現役時代の大半を過ごした欧州を離れ、米国の大学に通いながら、生活する計画もあるという。ニューヨーク市内にビルを購入したという情報もある。

人生とは旅であり、旅とは人生である by 中田英寿

2006年07月04日 | 中田英寿
「人生とは旅であり、旅とは人生である」う~ん、哲学者みたいな文章ですね。昨日の衝撃発表後、ブラジル戦後に中田英寿選手が10分ほどピッチに倒れこんだ後、インタビューに応じてくれましたが、びっくりして今も鮮明に記憶していること

「一次リーグ敗退の要因は何だと思いますか?」
「日本のサッカーができなかったことと、個々の能力が劣っていたことだと思います」
「1勝もできなかったことについて・・・」
「あの、今、話聞いてましたか?」

リポーターは事実上、同じ質問を二回したにもかかわらず、疲れ切ってる中で落ち着いたクールな中田選手の応対にビックリしましたこの人、頭いいなって

中田英寿選手の引退発表文から、中田選手が伝えたかったことはこれだけじゃないかな、と思ったものを以下に引用します。

・ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術(すべ)を知らなかったこと。それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。

・けれどみんなからのmail(メール)をすべて読んで、俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。

・今後、プロの選手としてピッチに立つことはないけれどサッカーをやめることは絶対にないだろう。旅先の路地で、草むらで、小さなグラウンドで、誰かと言葉を交わす代わりにボールを蹴るだろう。子供の頃の瑞々しい気持ちを持って――。

そして、すべて「俺」と表現していること。以前は「僕」だったはず。

言葉の重さと難しさを改めて実感しました



まだ、誰にも伝わってないです

2006年07月03日 | 中田英寿
衝撃的で言葉が出ません。信じられなくて。こんな、いきなり言われても。後日、私なりの意見をブログします


<中田英寿>現役引退を表明 “新たな自分”探しの旅にと
2006年7月3日(月) 21時53分 毎日新聞

 サッカー日本代表MFの中田英寿選手(29)=イングランド・ボルトン=が3日、現役引退を表明した。自身の公式ホームページ(HP)上で明らかにした。中田選手は「何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない」としつつ、「プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい」と、引退理由について語った。
 HPによると、中田選手は「半年ほど前からこのドイツワールドカップを最後に約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた」と、日本代表が1次リーグで敗退したワールドカップ(W杯)ドイツ大会を最後に第一線から退く決意を固めていたという。中田選手の所属事務所・サニーサイドアップ(東京都渋谷区)は、W杯での日本代表敗退後に話し合って慰留したが、中田選手の意思は変わらなかった。
 中田選手は「俺(おれ)の気持ちを分かってくれている“みんな”が、きっと次の代表、Jリーグ、そして日本サッカーの将来を支えてくれると信じている。だから俺は安心して旅立つことができる」と、サッカー関係者やファンへのメッセージをつづっている。
 中田選手は山梨県出身。95年、韮崎高からベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)入り。98年W杯フランス大会後、イタリア1部・セリエAのペルージャに移籍。イタリア、イングランドで8季、6クラブでプレーした。W杯は98年大会から3大会連続出場。国際Aマッチ77試合で11ゴールを挙げている。
 ◇中田英選手のホームページから
 “人生とは旅であり、旅とは人生である”
  2006・7・3
~1985年12月1日―2006年6月22日~
 俺(おれ)が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。
 あの頃(ころ)はボールを蹴ることに夢中になり、必死でゴールを決めることだけを目指した。そして、ひたすらゲームを楽しんだ。サッカーボールは常に傍(かたわ)らにあった。
 この旅がこんなに長くなるとは俺自身思いも寄らなかった。山梨の県選抜から関東選抜、U―15、U―17、ユース、そしてJリーグの一員へ。その後、自分のサッカー人生の大半を占める欧州へ渡った。
 五輪代表、日本代表へも招聘(へい)され世界中のあらゆる場所でいくつものゲームを戦った。
サッカーはどんなときも俺の心の中心にあった。サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。
 もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。それ故に、与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい“経験”となり、“糧”となり、自分を成長させてくれた。
 半年ほど前からこのドイツワールドカップを最後に約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた。
 何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない。今言えることは、プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい。そう思ったからだった。
 サッカーは世界で最大のスポーツ。それだけに、多くのファンがいて、また多くのジャーナリストがいる。選手は多くの期待や注目を集め、そして勝利の為(ため)の責任を負う。時には、自分には何でも出来ると錯覚するほどの賞賛を浴び、時には、自分の存在価値を全て否定させられるような批判に苛(さいな)まれる。
 プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも子供のころに持っていたボールに対する瑞々(みずみず)しい感情は失われていった。
 けれど、プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後、サッカーを愛して止まない自分が確かにいることが分かった。自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。
 それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。
 これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為、ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振る舞った。しかし最後の最後、俺の心に存在した壁は崩れすべてが一気に溢(あふ)れ出した。
 ブラジル戦の後、最後の芝生の感触を心に刻みつつ込み上げてきた気持ちを落ち着かせたのだが、最後にスタンドのサポーターへ挨拶(あいさつ)をした時、もう一度その感情が噴き上がってきた。
 そして、思った。
 どこの国のどんなスタジアムにもやってきて声を嗄(か)らし全身全霊で応援してくれたファン――。世界各国のどのピッチにいても聞こえてきた「NAKATA」の声援――。本当にみんながいたからこそ、10年もの長い旅を続けてこられたんだ、と……。
 サッカーという旅のなかでも「日本代表」は、俺にとって特別な場所だった。
 最後となるドイツでの戦いの中では、選手たち、スタッフ、そしてファンのみんなに「俺は一体何を伝えられることが出来るのだろうか」、それだけを考えてプレーしてきた。
 俺は今大会、日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く、その上スピードもある。ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術(すべ)を知らなかったこと。それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。
 ワールドカップがこのような結果に終わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。俺がこれまでサッカーを通じてみんなに何を見せられたのか、何を感じさせられたのか、この大会の後にいろいろと考えた。正直、俺が少しでも何かを伝えることが出来たのか……ちょっと自信がなかった。
 けれどみんなからのmail(メール)をすべて読んで、俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。それが分かった今、プロになってからの俺の“姿勢”は間違っていなかったと自信を持って言える。
 何も伝えられないまま代表そしてサッカーから離れる、というのはとても辛いことだと感じていた。しかし、俺の気持ちを分かってくれている“みんな”がきっと次の代表、Jリーグ、そして日本サッカーの将来を支えてくれると信じている。
 だから今、俺は、安心して旅立つことができる。
 最後にこれだけは伝えたい。
 これまで抱き続けてきた“誇り”は、これからも俺の人生の基盤になるだろうし、自信になると思う。でもこれは、みんなからの“声”があったからこそ守ることが出来たものだと思う。
 みんなの声を胸に、誇りを失わずに生きていく。
 そう思えればこそ、この先の新たな旅でどんな困難なことがあろうと乗り越えていけると信じられる。
 新しい旅はこれから始まる。
 今後、プロの選手としてピッチに立つことはないけれどサッカーをやめることは絶対にないだろう。旅先の路地で、草むらで、小さなグラウンドで、誰かと言葉を交わす代わりにボールを蹴るだろう。子供の頃の瑞々しい気持ちを持って――。
 これまで一緒にプレーしてきたすべての選手、関わってきてくれたすべての人々、そして最後まで信じ応援し続けてきてくれたみんなに、心の底から一言を。
“ありがとう”
ひで

yahooよりそのまま引用

1トップで中田英をトップ下で使え!!!

2006年06月21日 | 中田英寿
決勝トーナメント進出のために、ブラジルに2点差以上で勝たなければいけないという崖っぷちに立たされた日本。ジーコ監督はシステムを変更すると言っているが、点を取れない=FWの決定力のなさに結びつけるのはどうだろうか。クロアチア戦で決定的なチャンスを柳沢が決められなかったことに批判が集中しているが、確率論で言えば、もっと決定的なチャンスを演出できれば得点できていたのではなかろうか。

そもそも、中田英をボランチで使ってることに疑問を感じる。

思い切って、FW高原の1トップで中田英をトップ下に置く。そして、中村、小笠原。中田英の持ち味は、やはり得点能力。彼を攻撃に集中させるしか、2点差でブラジルに勝つことは不可能だろう。

FWを3人にするより、よっぽど期待できる布陣だと思うが。

えへへ、久しぶりにまじめに書いちゃいました

中田英寿 Wカップサッカー日本代表の感想

2006年06月05日 | 中田英寿
昨日、日本VSマルタの試合を見ていたのですが、勝ったのは良かったんですけど、内容がいまいちのような

結局FWは高原と柳沢ということ、相手チームが守備的なシステムを取って来た時の決定力のなさ。まあ、勝ったんだからいいでしょ

私は中田英寿をボランチで使うのは賛成できません

FW:高原、柳沢
MF:中村、中田英、加地、福西、小野
DF:三都主、宮本、中沢

で、ボランチは福西と小野にするのがベストかと
素人の意見ですけど

以下、中田英のインタビュー
中田激怒「収穫ない」チームバッサリ
2006年6月5日(月) 6時5分 スポーツニッポン

 中田がふがいない最終試合に激怒した。日本代表は4日、W杯前の最終試合として世界ランク125位のマルタ代表と対戦した。FW玉田圭司(26)の106秒弾で先制したものの、その後は格下相手に攻守ともに精彩を欠く内容で1―0の辛勝。本番に弾みを付けるどころか課題を残す結果となり、大黒柱の中田英寿(29)は試合後「収穫はない。走らないことにはサッカーはできない」と厳しい口調でチームを批判した。

 【日本1―0マルタ】中田が震えていた。こみあげる怒りを抑えることができないようだった。世界ランク125位のマルタを相手に、W杯前の最後の試合で1点しか奪えなかった事実。「課題は?」と聞かれるとすぐに、顔を紅潮させ一気にまくし立てた。

 「収穫はないですね。W杯だから練習をしているわけではない。高い位置から早めのプレスをかけて、やりたかった。まずは走らないことにはサッカーはできない。走れていないので、ほかのことをやろうという段階ではない。W杯を戦うための準備ができていない」

 吐き捨てるような口調が怒りの大きさを表していた。前半わずか1分46秒で中田が起点となったパスで玉田が先制弾。しかしその後の攻撃は沈黙した。象徴的なシーンがあった。後半22分、カウンター攻撃に転じた際、左サイドの中田浩が上がっていなかったことに、大きく首をひねった。それだけではない。守備でも、攻撃でも明らかに5月30日のドイツ戦とは違っていた。

 追加点を奪うために、4―4―2、初の4―2―3―1とシステムを替えたものの、ゴールを奪えなかった。中田の目にはアグレッシブに映っていなかった。ドイツ戦の試合後には「内容は十分。結果は残念だけど、ゴール前のパス回しとセンタリングはできた。やり方のイメージはあってきた」といつもの辛口ではなく、珍しく手放しで評価した。それだけに、この日の内容には納得がいかなかった。

 ドイツに入ってからはチームの緊張感のなさに警鐘を鳴らしていた。5月29日の練習後には外国人記者の質問に「自分が間違っているのかもしれないが、チームはまだ仲良しすぎる」と戦う集団になりきれていないことに不満を示していた。W杯の厳しさを知っているからこその言葉だった。この日の会見の最後にさらにこう付け加えた。「あとは気持ちの問題で、それぞれ個人が感じないことにはどうにもならない。自分のコンディションを上げることに集中したい」――。もう自分のことだけに集中するとも受け取れるような突き放す態度。オーストラリア戦まであと1週間しかない。中田のメッセージが、ジーコジャパンのメンバーに伝わるのか。残された時間はわずかだ。

 ≪中田と一問一答≫

 ――収穫はあったか?

 「収穫はないですね。課題はどういうプレーをするか以前に、走らないことにはプレーはできない」

 ――この試合でやりたいと思ったことは?

 「高い位置から早めにプレスをかけて、速いボールを回しでゴールすることを狙っていたが、できなかった」

 ――こうしておけば良かったということは?

 「先ほども言った通り、走れない。ほかのことをやろうという段階ではない」

 ――前線に速いパスを出しても追いつけていない選手がいたが、それは走っていないからか?

 「別にそういうことじゃないと思いますけど」

 ――ロッカールームの中でチームで反省はしたか?

 「いや別に」

 ――これから皆さんで話し合う予定は?

 「そういう機会があれば」



中田英寿

2006年05月09日 | 中田英寿
中田ボルトン退団「戦術合わない…」
2006年5月9日(火) 10時7分 日刊スポーツ

 【ボルトン(英国)8日=春日洋平通信員】サッカー日本代表MF中田英寿(29)がイングランド・プレミアリーグのボルトンを退団する見通しとなった。住居を引き払うため、運送会社を手配したことが分かった。7日には今季最終戦のバーミンガム戦に先発出場したが、53分間で途中交代。試合後には同僚のMFバズテが中田英と別れのあいさつを交わしたことを明かにした。1カ月後の6月9日に開幕するW杯は、移籍先を見つけるための戦いにもなる。
 クラブの決定とは別に、中田英はチームを去る決意を固めていた。ボルトンに隣接するマンチェスターにある自宅を引き払うため、日系企業の現地法人である運送会社を手配。生活の場所を移す覚悟を固めた。
 最後のバーミンガム戦では5試合連続で先発出場したが、後半8分に交代。ボルトン中田英のキャリアが終わった。21試合1得点2アシスト。イタリア・セリエAフィオレンティーナから1年間の期限付きで移籍したが、望むような結果を残すことはできなかった。
 最終戦でゴールを決めたMFバズテは「試合後のロッカールームでは、チームを去る選手たちにサヨナラを言った。寂しいけれど、これもサッカーの宿命だから」と、インタビューで話した。「それは誰ですか」という質問に、「オコチャとヌゴッティ、そしてナカタだよ」と答えた。
 退団選手に関して、ボルトンのルーベン広報部長は「火曜日(9日)にすべてを発表する」とコメント。今日、「R&T」(リテイン・アンド・トランスファー=残留と放出)と呼ばれるリストを発表することを明らかにした。関係者によれば、中田英は放出リストの方に入れられ、形式的に「フィオレンティーナとの交渉次第」との一文が添えられるという。
 試合後の打ち上げパーティーに出席したクラブ幹部は「中田英は大幅な給与カット(推定で3億4000万円から2億円)を受け入れてここに来たが、来季も残留するというなら、さらに大幅なカットを受け入れて、スカッドプレーヤー(レギュラーではないクラスの選手)として残るしか可能性はない」と言い切る。だが、それはプライドが許さない。それに加え中田英は、代理人のブランキーニ氏に「ロングボールが飛び交うボルトンは自分に合わない」と、戦術が合わないことも伝えている。
 同代理人は、移籍先を問う英メディアに「まだ早すぎる。W杯が終わってからだ」と返答した。その言葉通り、W杯が中田英の移籍探しの場になる。欧州移籍を目指して戦い、ペルージャへの移籍を勝ち取った8年前のフランス大会と同じだ。最初に出場したW杯と同じ状況に回帰して、ドイツに乗り込むことになる。

W杯で、きっとまた欧州の各リーグが「獲得したい」と言い出すでしょう。