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粟屋かよ子・Ψ(プサイ)が拓く世界を求めて

量子力学の理解を深めつつ、新しい世界観を模索して気の向くままに書きたいと思います。
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科学の非科学化現象

2025-05-03 14:42:53 | 日記
科学基礎論学会発表(2025年6月22日)の要旨が出来上がりましたので紹介します。

趣旨:人類史上未曾有の危機的時代に突入しつつある現在、その危機の原因を探りこれを克服する方向を示すべき科学が、すでにその使命を放棄しているかのような様相を呈していること(=科学の非科学化現象)を明確にしたい。

Ⅰ. 近代科学の歴史的位置
①西洋におけるNatural Philosophy という出発点
 近世哲学の祖デカルトの物心二元論(心身二元論:人間の身体~自動機械)
                             → 宗教と科学の分離
  『方法序説』(理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法)(1637)
   数学を基にした4つの規則:
明証性の規則/ 分析の規則/ 総合の規則/ 枚挙の規則 → 機械論的方法
                   
②自然科学の確立と発展
ニュートン『プリンキピア』(自然哲学の数学的原理)(1687)
  (天上と地上の機械論的統一)ニュートン力学~ マックスウェル電磁気学
→ 19世紀末:古典物理学の完成(マクロ世界の掌握)→機械論的自然観の確立
③科学と技術の連携・統合 → 産業革命(第一次、第二次:軽、重工業の機械化)
          →大量生産、自動化(機械論の全盛期、常識としての機械論)
    機械論=機械をモデルとして対象を考察する態度(物質的な諸要素の集合とその
              決定論的運動)~目的論、生気論、超自然と対立)
  ↓
 *西洋による世界支配が進む:原料供給・市場としての植民地など                
 *科学・技術の発達により神を真面目に信じる人の減少
   → ニーチェ「神は死んだ」(『喜ばしき知識』第五書・われら恐れを知らぬもの)(1886)

Ⅱ. 破綻した機械論とテクノロジーの暴走
①20世紀科学のミクロ世界への侵入
      ミクロ世界~量子力学という形式(数式)はできたが、機械論と矛盾。
      マクロ世界とミクロ世界を認識論的に統一する哲学が未確立
       →ノイマン『量子力学の数学的基礎』(1932)
          観測問題の提起とAbstract Ego による「妥協」;物心平行論の擁護
                       
②第二次世界大戦:核爆弾の製造・投下(←機械論的発想)
           ~人類史的危機の到来の始まり~思考停止の始まり
  『狂ったサル』セント・ジェルジ(The Crazy Ape and What Next?)(1970)
  「科学者という蛮族」高橋源一郎(サンデー毎日2024/4/21映画『オッペンハイマー』)

③戦後、第三次産業革命(コンピュータ革命):哲学(世界観)なき機械論の暴走
地上の物質の根源である核の破壊。生命の物質的根源である遺伝子の機械論的操作。
トータルに見れば、人間の知性・知能そのものを劣化させつつある現在のAI開発。
   これらが現在の地球人類を危機的状況に追い込んでいる。
Ⅲ. 現代科学の非科学化現象~「部分的機械論(部分的実証主義)+オカルト」の横行
①量子的世界の異質性の誤った理解
・対象の状態は、抽象的な複素ヒルベルト空間内のベクトルとして表されているにもか
 かわらず、リアルな3次元空間にすりかえて理解(イメージ)している。
  (例:重ね合せの原理→シュレーディンガーの猫?、多世界論→パラレルワールド?)
・測定の瞬間(測定値を得た瞬間)における、非因果的変化――いわゆる波束の収縮―
 という確率事象を古典的な確率(存在確率)にすりかえて理解(イメージ)している。
 実際は、測定装置を設定して初めて得られる発見確率であり、測定と同時にその(認
 識のための)ヒルベルト空間は消える(不要となる)。
 この確率事象が、人間が制御できる能力の本質的限界を示すものであるという自覚が
 ない(例:原発や放射能汚染に対する楽観論)。
 (高林武彦『量子力学――観測と解釈問題』2001年、参照)

②ミクロとマクロを統一した全体を見通す哲学(自然観、世界観)がないため、個別部
分の実証主義的研究で満足し、最終的にこれらを機械的に、或はオカルト的につなげてゆくと
いう非科学を許している。
そこで現代人にとっては、ミクロ世界を利用したテクノロジーはマジックに近くなる。
しかもこれえが「科学的」と称し押し付けられるため、人々はますます真の理解から遠ざけられ、非科学が一層進むことになる。
 
③核開発に見られる機械論的・非科学的発想が人類滅亡の危機を招いている
地球上の生命活動の基礎である物理・化学的反応は基本的に核の安定の下で行われる。
その核の破壊から莫大なエネルギーが得られる(この部分は正しい機械論)事を兵器
として利用したことは人類にとって致命的――正に、猿が鉄砲を持ったようなもの。
   その後は核兵器開発競争や原発(事故)等の放射能汚染拡大という自滅路線を進んでいる。

④バイオテクノロジーにおける、一面的で機械論的発想による開発――カット&ペース
ト(命なき機械論)の遺伝子操作など――が40億年という歴史によって形成されて
きた生命や生態系の秩序の崩壊をもたらす可能性(危険性)がある。
   (例:人工的遺伝子ワクチンの世界規模の接種)

⑤現在のITとりわけAIの急激な開発は主として市場原理(軍事を含む)によるもので
あり、結果的に社会の混乱、社会的病理現象、知の劣化を招いている。
AIは極めて有効な側面もあるが、AGI(汎用人工知能)という幻の目標の下に、非
公開の危険な開発競争が世界を蝕んでいる。
 (フェイクニュース、ネット依存症、ネット犯罪、エコーチェンバー効果、格差と分
   断の進行、自分の頭で考えることを止める、等々)

⑥地球環境汚染や気候変動(の一部)もグローバルな人間活動によるものであるが、こ
れらは典型的な地球規模の複雑系で、極めて多くのパラメーターによるコンピュータ
ー解析のシミュレーションを用いざるを得ず、一般人にはその真偽の判定が難しい。
そこで、場合によりその結果をとりあえずは信じるしかないが、この方法が有効であ
るためには、科学者や技術者が少なくとも人類に対して公平無私である必要がある。
そのためには戦争のない平和な世界の実現が大前提となる。

山口敬之によるトランプ政権の分析

2025-04-28 15:27:56 | 日記
松田政策研究所チャンネル「ジャーナリスト山口さん登場! トランプが目指す世界! その中核としてのAI」(2025/4/25夜)(山口敬之と松田学の対談)より

1.トランプがめざしているもの
 一見すると、トランプはアメリカ・ファーストによるエゴイズムで、世界に混乱を起こしている
 だけのように見えるがそうではない。トランプのめざすものは
①政治グローバリズムとの対決:
グローバリズムそのものがDS(ディープステート)によって作られた誤った世界秩序、とい
う明確な方針の下に、就任して3カ月はUSAIDを入口として、DSの巣窟だったアメリカ政
府の機関を次々と廃止。
 
②経済的グローバリズムからの脱却:
 3カ月たった今は、経済的グローバリズムからの脱却をめざしている。
 グローバリズムというものが世界を不幸にしているという信念の下に動いている。

③昨年11月7日、イーロン・マスクがアップロードした写真(トランプとマスクと彼の息子
 が映っている)に書いてある単語にトランプ政権のめざすものを読み解く重要な鍵がある;
白い帽子のトランプ、黒い帽子のマスク、両手を真横に広げ十字の形をしてマスクに肩車さ
れている息子の写真。
その下にラテン語で書かれた「NOVUS ORDO SECLORUM(ノヴス・オルド・セクロー
ルム)」(新世界秩序:1ドル紙幣の裏のピラミッドの下にある文字と同じ)――より正確な
訳は「時代の新秩序」。

2.DSの歴史
 昨年11月のマスクのツィートには重要なことがいくつも書かれた。
 彼は「世界支配の手は1913年にスタートした」というロン・ポールのツィートに「その通りだ」
 とツィートしている。

 1913年にFRB(連邦準備制度理事会=アメリカ中央銀行制度)の設立、(連邦レベルで)所得税
     の導入が決まった。
     これがDSによるアメリカ侵略の始まり、国民支配の手の始まり。
 FRB、CIA、FBI、国連などの政界秩序、これこそが不幸の始まりであり、DSの始まりだった
 のだから、それからの脱却を計ること。
 つまりトランプ政権が解体しようとしているのは第一次大戦前後に始まった世界秩序。
 そのリストのうちの政治的部分が最初の3カ月で相当ていど進んだ。
 
 4月2日からは経済的部分。
 これも元々、ガットウルグアイラウンドに始まって、WTO IMF、世界銀行などが、自由主義
 経済が良いに決まっているという論理を立てて、各国の独立性を破壊してきた。
 これは弱肉強食の資本の論理であり、世界分業という経済的グローバリゼーションによって、そ
 れぞれの国民の自立は損なわれ、文化も破壊される。
 さらには、いろいろな戦争や感染症も起こしてゆく。
 しかも(世界史の授業で習うように)「世界大戦はブロック経済によって引き起こされた → ブ
 ロック経済は悪」という教育(洗脳)をしたのもDS側。

3.中国との闘い
 最終的にトランプ政権は、世界覇権を中国に取らせない、共産主義者に世界を支配させないとい
 う強い意志をもって発足した。
 グローバリゼーションによって、現在の世界経済、アメリカ経済は中国の生産力や供給力なしに
 は、1日も立ち行かなくなってしまっている。
 アメリカには軍事産業と半導体などの高度な技術集約型の産業だけが残り、その他は壊滅状態。
 
 でもDS側としては、米ドルを刷ればいいじゃんという話になる――FRBが全部抑えているか
 ら、世界で作ったものを買ってくればいいと。
 これグローバリゼーション通り、それを担ってきたのがWTOとIMFと世界銀行。
 いまの国連は「地球はひとつ、皆が分業して仲むつまじく暮らしてゆけば全てハッピー」と言う
 が、これは空想!
 だって中国、違うでしょ。
 3000発のミサイルを持ってるんですよ。
 そういう国がいざとなって牙をむく可能性がある時に、その国の生産物がなければ立ち行かない
 経済では、もはや対抗できず奴隷になるだけ。 

 トランプ政権のターゲットは、いわゆるグローバリゼーションを見事に利用して巨大化した中国
 をどうやって抑え込んでゆくかということ。
 だからパナマ運河、グリーンランド、ウクライナのレアアースに彼らは注目せざるを得ない。
 パナマと北極海路を中国に抑えられたらアメリカ経済は破綻するし、さらに中国は世界のレアア
 ースの大部分(約70%)を生産している。
 いずれにしても彼らは、中国と最終的に経済戦争状態になった時に自立できるブロック経済体制 
 を作ろうとしている。    
 
4.中核としてのAI開発
 第一次大戦頃からの秩序を破壊してどのような世界をめざすのか?
 そこで出たのが、超知能のAIが世界の新秩序を作るのではないかという発想。
 AGI(Artificial General Intelligence=汎用人工知能:人間またはそれ以上の知能をもち、多様
 なタスクをこなす)の作製に中国は爆走している。
 最初の1個のAGIをどこが作るか、アメリカと中国のどちらが作るかで世界が全く違ってくる。

 AGIは人間のように自分で何でもでき、しかも人間よりもはるかに高い知能を持つ(とされる)。
 ただし、それが民主的なグループ(国家)によってか、或は独裁的なグループ(国家)によって
 作られるかで、出来上がったAGIも全く違ってくる。
 現在、コンピューターの能力などは非公開になりつつあり、実際、スーパーコンピューターの公
 表されている世界順位は日本の富岳が一位のままである――あり得ない。
 どうやら、トランプ大統領の在任中にAGI出現の可能性もあり得るというシナリオまである。
 そこで、トランプは目下最先端を走っているサム・アルトマン(OpenAI最高経営責任者;チャ
 ットGPTの開発者)をホワイトハウスに呼んだ。
 孫正義も約15兆円のAI投資の約束を表明した(昨年12月)。
 
 現在のノイマン型のコンピューターによる開発では時間がかかりすぎる。
 脳内のニューロンのシナプスと接続させるという方法も考えられている。
 中国は脳に外からデバイスをつけた改良を加速させているという。
 しかしこのようなアプローチができるのは中国だけで、民主国家でのこのようなアプローチは無
 理――中国は臓器売買も進んでいる国である。
 急がないと中国が先にゴールを切るのではないかというあせりもあり、矢継ぎ早の関税をかけた
 とのこと――本命は中国。
 これまで反トランプであったAI開発者で、トランプに乗り換えた研究者も少なくない。
 中国に先を越されて、彼らの奴隷になるよりましというわけだ。
 いずれにせよ、現在、大きな分かれ道に立っているという自覚がトランプにはある。


以上が話の大筋であり、私にとっては大いに得心がいく部分も少なくなかったが、最後のAGIの議論には十分な注意が必要と思った。
確かに、中国がとんでもないことをやらかす可能性は大きいと思う。
実際、禁止されているにもかかわらず中国で「世界初のデザイナーベビー」を誕生させ、世界的な波紋を呼んだ事件は記憶に新しい(2018年11月)。
さらには全世界を混乱に陥れた――現在も続いている――新型コロナウイルスによるパンデミックの発生源は、今や武漢ウイルス研究所であることがほぼ確実になっている。

ただし私は、AGIに関していえば、文字通りのAGIは決して作り得ないと思っている。
なぜならAGIは意識を持たないからである――そもそも意識は生命体にしか存在しない。
意識は生命体(認識の主体)が、周りの世界の境界(認識の地平)を広げるときに発生する――認識が自分に関してなされる時は自己意識という。
従って、現在のAGI開発は、「AGIは作れる」という錯覚の上に成り立っていると思う。
しかし、たとえ錯覚といえども、「開発」の途上でとんでもないものが出現する可能性はある。
現在のAI開発ですら、何度も指摘してきたように、混乱と危険性を孕んでいるのであるから。

このAGI合戦で思い出されるのが、量子コンピューター合戦である。
どうやらその裏の顔は、量子暗号の先陣争いらしい。
この技術を最初に有効に実現したグループは、世界中の暗号を解読でき、自らの暗号は(さらに協力な二番手が現れるまでは)決して解読されないというシナリオになっている。
だからこそ、いかに高価で、いかに実現性が薄くとも、しのぎを削って開発合戦をしているのであろう。

いよいよ気狂いじみた世界の到来である。

金山巨石群を訪ねて

2025-04-02 15:42:14 | 日記
   男世界のかなめは宇宙 
   女世界のかなめは生命(いのち)
   生命なき宇宙はむなしい 
     それを悟りと称して、したり顔する者も多いが
   宇宙なき生命もまた無意味 
     それはカオスの中を、いたずらに動き回るに等しい

3月28日、私は子や孫ら総勢7人で岐阜県下呂市金山町にある金山巨石群を訪れた。
リサーチセンターで、研究員による丁寧なガイド――この巨石群の存在の意義を伝えたいという熱情が今も伝わってくる――を受けた後、現地に向かった。
現地では、運よく管理をしておられる方にも会え、ここでも一つひとつ丁寧に(彼自身の見解も交えながら)案内してもらうことができた。

周囲の山や川を背に見た巨石の群れは、まるで自然が作った巨大なオブジェのように静かにたたずみ、数千年の時を刻んでいた。
よじ登ったり降りたりしながら、知れば知るほどその意味の壮大さに圧倒されていった:
・冬至や春分/秋分の頃に沈む太陽光を観測する「岩屋岩蔭(いわやいわかげ)巨石群」
・夏至や春分/秋分の頃に昇る太陽光を観測する「線刻(せんこく)石のある巨石群」
・冬至の頃に昇る太陽光の観測をする「東の山巨石群」――これは一山隔てた向こうで今回はパス
さらに、
・北極星を観察する巨石
・北斗七星が描かれた巨石(岩屋岩蔭巨石群内)
等を擁していた。

そこで見えてきたものは:
①川をはさんで3つの山を背に巨岩群を配置するというスケールの大きさ
②うるう年を知るための石組みも存在するほどの緻密な科学性
③ピラミッド型の(自然に対立する)建造物ではなく、岩石の曲面など自然を生かした、現代に 
  も通じる芸術性
④年間通じて、集落の人々が集まり――周辺地域には8000年前からの住居跡や石鏃(石のやじ
  り)や土器などが多数出土――太陽や星を観察しあったであろう天体観測所としての役割
というところか。

私は頭も身体もぐらぐらになりながら帰路についた。
帰宅後ほどなくして睡魔におそわれ眠りについたが、深夜にふと目が覚めた。
その時すでに、私の中で長年にわたってくすぶっていた男と女の対立に対する、大いなる和解が成立していたことに気づいた。
実際私は、縄文土偶の意味を知った時も――3月17日のブログ「縄文土偶の意味するもの」参照――即ち、女たちの苦しみとその克服の過程で霊性を獲得していったのではないかという説を知った時も、では一体、男たちはその間、何をしていたのだろうかといぶかったのだ。
ここで、女たちの苦しみが異常児の出産に限らないことを確認しておきたい。
縄文時代の平均寿命は男女とも31歳ていどで、生後1年未満の乳児を埋葬した墓は成人の6倍を超えていたとされる。
たとえ健常児で生まれても、多くの子らを看取らねばならなかった。

つまり、こうである。
男たちは、例えば金山のこの地に住む男たちは――むろん中には女たちも――天体運行の秘密・秩序を正確に読み取ろうと懸命に努力し、しかもその神秘の姿を集落全員で確認できるよう、巨石を用いた天体観測所を組み立てていったのである。
一体どうやってこのような巨石群を選び出し、運びこみ、組み合わせ、削っていったのか、謎は多く残されているが、いずれにせよここには、当時の集落の壮大なる宇宙観が息づいている。
しかもその知を独占し、政治的に利用するような支配階級もいなかった。
男も女も、老いも若きも、大人も子どもも、この“知の殿堂”に集い、天体の動きを確認しあった。
因みに、約26000年周期の地軸の歳差運動のため、彼らが観ていた北極星は、現在の「こぐま座α星ポラリス」ではなく「りゅう座α星トゥバン」ではないかという可能性も紹介してあった。

こうしていま私は、縄文時代がなぜ1万年以上も平和を維持することができたのかという問に対する答えに、さらに一歩近づくことができたような気がしている。   


P.S. 今年の科学基礎論学会年会(6月22日-23日)は東北大学で開催されるが――私は「科学
の非科学化現象」を発表する予定――その帰路に、青森県の三内丸山遺跡を訪ねるつもり。
因みに、私の発表要旨は
「人類史上未曾有の危機的時代に突入しつつある現在、その危機の原因を探りこれを克服する
方向を示すべき科学が、既にその使命を放棄しているかのような様相を呈していること(科学
の非科学化)を明確にしたい」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

 

ヘーゲルの薔薇と縄文土偶

2025-03-26 16:30:28 | 日記
NHKテレビ番組「100分de名著」3月の放送として「ヘーゲル『精神現象学』」(斎藤幸平:東大准教授)――2023年5月のアンコール放送とか――が放映されていました。
大学紛争の頃、先輩をチューターに『精神現象学』を自主ゼミでとりあげたことを思い出しました。
しかしヘーゲル独特の言葉づかいでちりばめられ、とてつもなく難解で、ゼミはいつしか自然消滅した記憶があります。
今回の斎藤氏による解説は拍子抜けするほど易しく、どうなってるのかとテキストを求めました。
そして、テキスト(斎藤幸平)を読むうちに、現在の私の課題意識と大いに重なるのではないかと思えてきました。

ここでテキストの目次――毎週月曜日(再放送は金曜日)の計4回分――は以下の通りです:
[はじめに] 社会の分断を乗り越える思想
第1回 奴隷の絶望の先に――「弁証法」と「承認」
第2回 論破がもたらすもの――「疎外」と「教養」
第3回 理性は薔薇で踊りだす――「啓蒙」と「信仰」
第4回 それでも共に生きていく――「告白」と「赦し」

まず、この講座は「はじめに」のタイトルからも分かるように、格差と分断のカオス状態で方向性を見失ったかのような現代にあって、ヘーゲル哲学を現代に生かそうという意図で開かれています。
というのも、ヘーゲル(1770-1831)が生きた時代のヨーロッパ社会自体が対立や分裂の混乱状態にあり、まさに現代に通じるものがあるからです。
即ち、ドイツは分裂状態にあり、産業革命により資本主義が勃興し経済格差が広がり、フランス革命により身分制が崩壊し、さらには科学の発展により人々の心の拠り所となっていた宗教的価値観も求心力を失っていました。
こうした急速な不安定化のなかで、どうすれば社会の対立や分断を乗り越え、調和を取り戻せるかという問いがヘーゲルの哲学的な出発点だったと斎藤氏は言います(p.18)。
因みにヘーゲルが強く憧れていたのが古代ギリシャの都市国家ということですが、私にとっては縄文時代です。

そもそもヘーゲルは、社会に対立が生じるのは、近代に特徴的な現象と考えていました。
身分や性別などによって役割や価値観が伝統的に固定されていた前近代社会と違って、「自由で独立した個人」という理想像をかかげる近代社会では、価値観を共有できない個人間の対立が生じるようになります。
斎藤氏は「ここには、近代社会の自由がもたらす難題があります。
つまり、人間は一人では生きていけず他者の存在が必要な一方で、自由な諸個人は他者と完全に理解しあることができず対立や衝突を不可避に生む、というジレンマです」(p.19)と言います。

ところがヘーゲルは、このジレンマに取り組むにあたって、「調和」や「同一性」ではなく、「矛盾」「対立」「否定」についてとことん突き詰めて考えることを重要視したのです。
これがヘーゲルの方法の大きな特徴の一つ(弁証法)です。
他方で私は、縄文時代の一万年以上にわたる平和と調和を保った――しかも古代ギリシャのような性差別も奴隷制もない――社会の実現を、半ば未開である故の自然の賜物のように素朴に思っていました。
けれども、「自然」から「文化」へのメルクマールと言われるインセスト・タブーという秩序が確立するまで、女たちによって作られ続けた土偶を考えると(前回ブログ参照)、この平和・調和は半ば意図的に努力して形成されてきたのではないかと思えてきます。
それが同時に、日本人の和の精神を形成してきた大きな要因の一つといえるのではないでしょうか。
この解明には、ヘーゲル的な手法が有効かもしれません。

ここでは、ヘーゲル特有の用語法にもとづく議論は避け、理解しやすい結論を列記します。
①動物的欲望を乗り越えた自己意識は、自分はいよいよ自立した存在だと確信し、それを現実に
 証明したいと考える。
 まず対象や他者からの制約を排除し、世界を意のままにしたい「私」として表れてくる。
 ➡ 世界を意のままにしたい「私」同士の闘い。(p.35)

② 私たちは、旧来の(男性的、新自由主義的)自立の価値観に合わせて男女平等やケア労働の賃
 上げを目指すのではなく、「ケアこそが自立である」と、ヘーゲル的に反転させて社会を変えて
 いく必要がある。
 他者への依存や他者からの介入を排除し、世界を支配することが自立ではない。
 むしろ、他者と新たな依存関係を結び、安心や自尊心を育むケア実践こそが自立。(p.40)

③ 生産と成長を偏重してきた社会は、ケアやメンテナンスをGDPに寄与しない「非生産的」な
 活動として周辺化してきた。
 そして、ケアを無駄扱いする価値観が使い捨て社会を生み、プラスチックごみ汚染をはじめとす
 環境危機や気候変動の問題を大きくしている。
 だからこそ、「生産こそが非生産的(破壊)である」という弁証法的な把握が必要。(p.41)

④ (人間関係において)本当の自由を得るための3つの条件:
 ・二人の関係が「対象的」(対等平等)であること
 ・相手の自立性も一定程度は否定しなければいけない(←相手が好き勝手に振舞うのも困る)
 ・自分もみずからの自立性を自己否定する(→相互承認) (p.42)

⑤ ヘーゲルは、相互承認を放棄すれば社会の自由は消失してしまうと警告している。
 近代で人類が手にしたのは「自由の意識における進歩」だ。
 即ち、人類の意識が進歩して自由が「実現」されるようになったのでなく、啓蒙思想の広まりや
 フランス革命といった「現実の歴史」を通して「自由とは何か」を「理解」できるようになった。
 こうした精神の歴史的歩みの一つの到達点が相互承認であり、それこそが自由の扉を開く鍵だと
 認識できるようになった。
 現実の社会で自由が「実現」するかどうかは、私たちの選択にかかっている。我々の課題!(p.131)
 
以上ですが、私の率直な感想は――ヘーゲルの難しい議論は別として――「世界を支配したい」という欲望は男性に特徴的に表れるものではないかということです。
現在も連日、戦禍の報道と共に、トランプ、プーチン、ゼレンスキー、ネタニヤフ等の虚々実々の交渉やその論評がネット上に飛び交っていますが、全くの野蛮そのものと言いたくなります。
かつて、私の女友達は「男が同じ人種と思えない」と述懐したことがあります。
女性には生来的に「相互承認」の気質が強いと思っています。
それは恐らく母性からくるかと思います――我が子をみごもり生み育てるということ自体、既に他者の主権を受け入れているということです。
これはもう生物としてそうなっているということです――むろん個人差はあり、それは男性にも女性ホルモンがあり、女性にも男性ホルモンがあるのと同様です。
いずれにせよ、これは現代の隠された最大のテーマのような気がします。


縄文土偶の意味するもの

2025-03-17 17:47:47 | 日記
以前から、縄文文化に対する私の思いを語ってきた。
それは近年の、とりわけ「北海道・北東北の縄文遺跡群」のユネスコ世界文化遺産の登録(2021年7月)ともかかわって発生した、縄文ブームに触発されただけではない。
むしろ、現代世界の混沌――テクノロジーの暴走や核の使用をチラつかせながらの出口の見えない紛争・戦争状態――を前にしたとき、1万年以上も平和が続いた文明社会であったという縄文時代の叡智、とりわけその世界観に学びたいと切実に思ったからでもある。

この長期にわたる平和の維持を可能にした要因として、私がもつ大まかなイメージとしては:
・母系制社会→男女間をはじめ基本的に差別構造がない(cf. 弱者に優しい母系制のボノボ社会)
・豊かな食糧(狩猟、漁労、採集)←豊かで安定した自然(氷河期終了後)
・定住生活(農耕・牧畜でないにもかかわらず)→自然の循環の一部という知恵(cf. 日本最古の
 神社の1つ長野県上田市の生島足島(イクシマタルシマ)神社;生きる力、足るを知る心を祀る)
・弥生時代:大陸から大量の渡来人~戦争文化・父系(権)制社会の到来;これは現代まで続く
   (cf, 日本の国産み神話で、イザナミが縄文、イザナギが弥生を表すという説もある)

そして現代のテクノロジーを支えている思想(世界観)はといえば、それは「破綻した機械論」とでも呼べるものだと思う。
機械論そのものは、デカルトやニュートンによって提唱され、近代科学を導き発展させてきた中心的な思想である。
実際、マクロ世界の振舞いについては、19世紀末までには機械論的自然観で説明可能と見られた。。
ここで、マクロ世界というのは通常の我々の目に見えるあらゆる物質の振舞いを含み、機械論は既に我々の常識ともなっている――例えば、因果律に従うとか、全体は部分の和であるとか。
だからこそ科学は技術とも深く結びつき、産業革命を強力に押しすすめる原動力ともなった。
当然この時期は西洋による(科学・技術の力をベースとした)世界支配が確立した時代でもあった。

ところが20世紀に入り、科学がミクロ世界(電子、原子、分子など)にまで侵入した時、その振舞いはマクロ世界とは根本的に違って、機械論という常識に反する異様なものであった。
当時の物理学者は四半世紀を通じて、何とかこれを記述する量子力学という数学形式に到達した。しかしこれが我々のもつ、マクロ世界の直観的イメージ=機械論と余りに乖離しているため、その解釈に対しては大いに紛糾し統一した像に至らず、その状況は基本的に現代まで続いている。

本来であれば、まずはマクロ世界とミクロ世界の(認識論的に)統一された新しい世界観を構築することに最大限の力を注ぐべきであったのだが、2つの世界大戦、原爆投下、戦後の冷戦下における核兵器開発競争、爆発的なデジタル革命の推進などにより、現実には軍・産・医市場の強力な圧力の下で、分断された個別領域に(量子力学も含めた)個別知識を機械的に適用するという風潮がはびこった――核兵器開発はその最たる例である。
これはトータルに見れば、およそ非科学的な結果をもたらし得るのであって、従って私はこれを推し進めている思想を「破綻した機械論」と名づけたが、今やこの事態は極めて危険な思想状況に陥っていると言わねばならない。
なぜなら、新しい技術は多くの場合、人類の生存にとって致命的な威力をもち得るからである。
これを可能にしたものこそ、ミクロ世界への科学・技術の安易な機械論的侵入である。
例えば、
・生命活動(化学反応)を保障する“原子核の安定性”を壊す核開発 → 核戦争?
・生命界の秩序を壊す遺伝子操作 → 生態系の崩壊?
・誤ったAIの開発(前回ブログ参照)→ 人間の知能・知性の劣化?
等、これまで私が“ミスマッチ”なる用語を用いて紹介してきた事態が発生している。
総じてこの「破綻した機械論」によって突き動かされている現世界は、各個人や集団が相互にバラバラに、それぞれの欲望や支配欲にかられて無秩序に狂奔している現代社会の姿そのものといえる――むろん、その中には今はやりのグローバリストなる集団もいることになる。
いわゆる「今だけ金だけ自分だけ」の社会である。

さて、「破綻した機械論」の限界を克服した新しい世界観――それは自然の領域(とりわけ物理学)では、マクロ世界とミクロ世界を統一する課題が含まれているべきであるが――を探る上で、私は回向返照の退歩に学んで(ブログ2025/1/6「激動の年を退歩で迎える」参照)、縄文時代にまでたどり着いたわけだ。
ここには無論かなりの飛躍があり、これをつなぐ作業は未だ手つかずに近いことは認めている。
しかし、それにしても私の縄文時代に対するイメージが、多分に素朴で牧歌的すぎたということに最近気づいた。
それは縄文土偶に関することであるが、今回はそれを吐露したい。

私は、この奇妙な形態をもつ縄文土偶に接するにつれ、しだいに深く心惹かれていくようになった。
とりわけそれらが、どれ一つとして同じものがなく――形が似ていたり(同種)、模様が同じパターン(とくに縄文模様)などとは別に――一つひとつ手作りで作ったらしい製作者(おそらく女性)の感触、彼女らの息づかいまで伝わってきそうな実在感に打たれた。
といってもそれは全くの写実というわけでもなく、また単なる抽象でもない。
すでに約2万点が発掘され、そのほとんどは故意に壊された状態で発見されている。
しかも雑な作りの小さな土偶も無数にあり、それらは土に還って消滅したものも多いとか。
現代にも通用する高い美意識、芸術性をもつ完成度の高いものがある――有名な「縄文のヴィーナス」や、つがる市亀ヶ岡遺跡の「遮光器土偶」など――一方で、多くの庶民(女たち)がそれぞれの思いでおしゃべりしながら腕をふるったのではないかと思えること自体に私は感動した。
そしていよいよ、これらの土偶が何を表しているのかといぶかった。

むろんテレビやYouTube等では、各地の縄文遺跡資料館の学芸員や専門家、はたまた素人による解説がいろいろとなされているが、果たして土偶が何を表現しているのかに関しては、結局は統一見解が確立していないという点では一致しているようだ。
ところが最近、田中英道氏(東北大名誉教授)の『縄文文化のフォルモロジー(形象学)――日高見国の文化』(2024年6月発行)を読んで大変な衝撃を受けた――田中氏については、2021年2月5日のブログ「日本古代史は大きく書き換わるか」ですでに若干の紹介をしている。

氏は言う。
「固定観念を捨て、土偶の形象をありのまま見ることから私は始めています。
まずすべての土偶に共通することは、顔の目鼻立ちが普通ではなく、いずれも手足が短く小さくなっていることです。
つまり、体のつくりが正常な人間には見えないのです。
すると、この形態異常はこれらが異形人を表現したという以外には考えられず、その異常性を素直に指摘するほかありません」(p.66)。                                                                                                                            
こうして彼は次々と、具体的に土偶を観察してゆく。
例えば「青森県の三内丸山から出土した「十字型土偶」といわれる高さ32.8センチの土偶の顔を見ると、眼が縁取られ、そこに縞状の線がつけられています。
これは、以後の縄文土器の一つの特徴となる隈取りです。
これだけでは何をあらわしているか述べることはできませんが、開いた口を見てうかがい知れることは認知症的な顔です。
この顔はほとんどすべての三内丸山の土偶にうかがわれるもので、頭部だけの土偶は口を丸く開け、小さな眼が隈取られてダウン症を示しているように観察できます。
ダウン症とは、成長・発達の生涯で、先天性の心疾患を伴うことが多い病気です」と続く(p.67)。

しかも氏は、このような土偶の姿は日本だけではなく、世界の先史時代の土偶に共通すると説く。
中南米にある異形人像、北米の仮面とトーテムの異形人像、アフリカ美術の異形人、等々の具体的な紹介・解説を通じて、ここには縄文土偶との共通性が少なくないという。
そして氏は、障害者や病者が「神話」においては神の伝達者になると言った人類学者レヴィ=ストロースの指摘を引用しながら、「原始時代においては、疾病や障害や狂気は、神に遣わされた者、神を背負いし者、神に近き者へと聖別されたのです」という(p.82)。
ここで氏は、「身体障害者、異形人を畏怖の対象、あるいは異化効果をもたらすシンボルとしてではなく、健康や正常の反対物として、基本的には排除や憐みの対象として見下す」のは近代の発想であり、「縄文土偶は、そのような意味で決して憐みではなく、畏怖・敬愛の対象として造られているはず」(p.89)と強調する。
さらには「・・・2つの感情、つまり畏敬と恐怖、崇拝と忌避の両方を抱くことになります。
一方の理由だけでは、この出土場所が必ずしも特別な場所ではないことを説明できないからです」(pp.68-69)とも。

さて、私が真にショックをうけたのはここからである。 
それは「日本の異形人像に見る“神話”的根拠」の項(p.77)から始まる。 
つまりこうである。
日本の『古事記』の国生み神話には、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神が国生みの最初にヒルコ(水蛭子)を生んでしまい、葦の船に乗せて流し捨てるというくだりがある。

詳細は略すが、氏はここで
「イザナギ、イザナミは兄妹の近親相姦であるため、そこからこのような異常児が生まれるのは十分可能性のあることですが、少なくとも神武天皇までの時代は、近親相姦が一般化していたようです。
・・・
文化人類学の多くの学者は、インセスト・タブーが既成のあらゆる人間社会において、形の違いはあるにしても必ず存在すると述べています。
フロイトも「トーテムとタブー」を書いて、この禁止とトーテムを結びつけています。
しかし、このタブーにいたるまで、そこに人類としての長い経験があったこと、つまり虚弱な子孫の誕生への反省とその原因究明の長い過程があったと考えられます。
その間、近親婚によって生まれる子孫たちがいたということについては、ほとんど注意を払われていないのは疑問です。
そこにいたるまでの恐ろしい経験が人類史にあり、それが土偶という形、鎮魂という形、崇拝という意味で表現されていたと考えられます。
このような指摘は決して想像だけの問題ではないでしょう。
まさに、縄文時代はその時期にあたっていたはずです」(pp.78-82)と述べる。

氏はさらに、世界各地の異形人像と神話とインセスト・タブーの関わりの分析をしてゆくが、ここでは割愛する。
因みに、古代ギリシャ社会では、障害のある子供を養うことを禁じた法律があり、古代ローマの王政末期には「奇形の子供は殺すように命じる」という法があったという。
しかしエジプトにおいては、異形の者が神に加わっており(べス、プタハ)、多数の墓地から障害者のミイラが見つかっている。
また、ローマ誕生のとき、ロムルス(伝説上の初代王)はどんな子供でも最初に生まれた子供を殺すことを禁じている――つまり、それほど子殺しは一般的に見られたといえる。(P.100)

文化人類学では、インセスト・タブー(近親相姦禁忌)を人間の「自然」から「文化」へ移る1つの指標にしているようであるが(p.79)、それにしても未開から文明へのプロセスで人類にはとてつもない試練が待ちかまえていたことになる。
そして、インセスト・タブーが確立するまで、どのようにして社会の秩序を保ってゆくかは大きな課題であったろう。
身を賭して子を生むという直接の当事者である女たちが、土器作りの合間に、残った粘土を用いて、「育ちゆく」異形の子らを模して、小さな土偶を作り出していったのが始まりだったのだろうか。
わが身に降りかかった事態に戸惑い、葛藤の末ようやく受け入れ、やがてそれらは宗教的ともいえる精神的高み、つまり畏怖と敬愛の対象となっていったのだろうか――とりわけ日本では。

田中氏によれば、「こうした異形者信仰は神道といわず、世界のアニミズムに共通しているといっていいでしょう。
しかし、日本人の信仰においては、火焔土器の自然信仰と、土偶を神とする御霊信仰の両方をもっており、その表現の多様性、独自性は日本人の寛容さ、やさしさを示している独自な表現といえます」(p.149)。
とすれば日本人の深い心性とは、縄文人たちの長く苦しい問いかけの末の賜物ともいえよう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
いずれにせよ、この種の土偶(縄文土偶)は、弥生時代には姿を消す。
さらに、これらの土偶のほとんどは故意に壊された状態にされるのは何故か、という疑問は依然として残されたままである。

私の現在の情報量では、これ以上は考えが発散するだけなので、更なる考察は別の機会にしたい。
ただし、田中氏が「縄文土偶が、当時、母系家族にありがちな近親相姦によって生まれた異形の女性の姿が凝縮されたものである」(p.203)と推測していることについて1つコメントしておきたい。
山極壽一氏(京大名誉教授)は2001年4月7日第5回シンポ『近親性交とその禁忌』(進化人類学分科会で講演「インセストの回避がつくる社会関係」を行い、その中で
「母系社会と父系社会を比較すると、雌の移籍が出産後に停止する父系社会のほうが、成熟した近親の雌雄が共存する可能性が高く、インセストの起こる機会が多いと考えられる」と指摘されており、田中氏とは逆になってくる。