そうかん日誌 ~Du 11eme arrondissement de Paris

タイトルを「りょうかん日誌」から「そうかん日誌」に変更しました。

23年ぶりの再会

2015-04-21 | Weblog
日曜、月曜と、平成元年から平成4年まで永平寺で安居を同じくした瀧澤邦仁師より晋山結制にお招きを頂いたので、まだ新入生を迎えて間もない4月中で、寮のことが少々心配ではありましたが、大学に休暇願を出して、岩手県は奥州市安養寺様に拝登して参りました。

瀧澤師とは、安居は一年違うものの、永平寺吉祥閣の寮長部屋で寝起きをともにしたご縁で、乞暇以来年賀状のやりとりをしていましたが、実際に会うのは平成4年に私がお山を下りて実に23年ぶりのことでした。今回は一世一代の慶事に招いてもらえて大変嬉しかった。久しぶりに会う師は昔年の面影を多く残しておられましたが、やはり年月は人に重みを加え、威儀も厳かに、大変立派に晋山を円成されました。

また、瀧澤師と同様、その席でやはり23年ぶりに南直哉老師とも再会が叶いました。

南師は、昭和63年に私が永平寺に上山した時に、既に安居5年目だった方で、私の安居生活4年間のうちおよそ半分の通算2年間、国際部という部署で大変お世話になりました。本山にいる間、一緒にいる時間が一番長かったのは、恐らくこの方だろうと思います。

本当に久しぶりの再会でしたが、風貌も物腰も当時と変わらず、「いやあ、お変わりありませんねえ」「おお、20年以上経つのに、あなたも全然変わらないねえ」とお互いに言い合ったことでした。実は何度も南師にご挨拶に伺おうと思っていながら、乞暇以来一度も叶わずにいたのでした。

南師は永平寺に、大衆時代、役寮時代を通算して20年近く安居され、現在は福井のお寺の御住職のかたわら、青森県恐山の院代をお務めで、安居中から、『語る禅僧(朝日新聞社)』『「正法眼蔵」を読む(講談社選書メチエ)』『自分を見つめる禅問答(角川文庫)』『恐山:死者のいる場所(新潮新書)』『〈問い〉の問答(玄侑宗久師との共著 佼成出版社)』など数々の本を上梓され、現在、講演活動なども活発にこなしておられます。

私は昭和31年生まれ、南師は33年生まれで年が近く、しかも同じく在家出身ということもあってか、この方とはウマが合って、国際部時代はよく寮舎でお話をしました。一部のあまり行履の如法でない雲衲衆にとっては、名前を聞いただけで震え上がるほど厳しい古参和尚さんでしたが、実は大変明るく話好きで、また語りの上手な方だったので、会話のキャッチボールが楽しく、いつも話が弾みました。

話題は多岐に及びました。南師が少年時代に病弱で天井を眺めながらいつも死について考えていたこと、新聞社の入社試験の時のこと、存在するとはどういうことか、認識するとはどういうことか、人間にとって言語とはなにか、問い続けることの意味、修行の意味とはなにか、坐禅における呼吸のありかた、坐禅時の精神状態の変容のこと、礼拝の意味、嗣法の意味、二祖様(孤雲懐奘禅師)の業績について、十二縁起について、仏性について、アートマンについて、道元禅師の時間論について、現代における国家とはなにか、いわゆる超常現象について、当時勃興していたオウム真理教の麻原は何を目指しているのか(当時は地下鉄サリン事件のはるか前)等々、いろいろなことを話しながら、一仏教僧として様々なことを考えるヒントを、その時期に南師から沢山頂きました。

他の多くの方々同様、本山の安居生活は私の人生に決定的に大きな影響を与えましたが、南師に邂逅できただけでも、私が永平寺に安居した意味は充分にあったと思っています。自ら『宗門のアウトサイダー』と称されているように、この方に対する評価は様々あるようですが、私はこの方とのご縁を盲亀浮木と捉え、本当に有り難く思います。

寮生諸君も、この寮で、また本山等の修行道場において、素晴らしい出会いがあることでしょう。その出会いを生涯大切にして下さい。

写真は安養寺様にて南師と。ご覧の通りの長身と短躯のコンビなので、永平寺時代は「国際部のデコボココンビ」、「C3POとR2D2」などと陰で呼ばれていたようです。
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