Be Natural

気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

出張ついでに遠くへ行きたい【常磐線&磐越東線】

2024-05-09 17:19:10 | 旅行

2024年のGW前半は

数か月前から依頼を受けていた仕事が入り

 

4月28日に前泊のため北関東へ行くこととなり

近くの空港バスの停車するバス停(大和西大寺駅前)に向かうと

大阪を結ぶ阪奈道路が行楽客の車で大渋滞というかノロノロ運転

 

普段より早めに家を出てたのにこのままでは間に合わないなと

裏道を使って大和西大寺に向かうも

数百メートル先ですでにバスが停留所に停まっているのが視認され

時刻は定刻出発時間1分前

『このままじゃ乗り遅れるな』とバスの先回りして

第二阪奈道路をぶっ飛ばし

第二阪奈生駒バス停から乗車することができて事なきを得たのですが

いや~、久しぶりにハラハラした~

 

大阪方面は特に混雑もなくバスはスムーズに空港に到着

 

調べておいたゴールドカードで利用できるLounge Osakaで小休止して

今回は神座のラーメンじゃなく美々卯でお昼にしてみました。

天丼&きつねうどんセット 

そこそこ美味しかったけど、女子向けなのかシャリは少ないし

味も薄めでオッサン向けじゃないなと学習

今回は、東京での電車の乗り継ぎに余裕を持たせようと

機材がB767の便を選択

(JR東、乗り継ぎ時間無く飛び乗って車内で特急券買うと高いのが超不満)

機材は古かったけど、富士山側の席に座れて良かった~

手荷物を預けなかったので羽田到着後

楽々で京急に乗り込み品川駅の常盤軒でお口直しにイカ天蕎麦

(ようするに美々卯が物足りなかったわけ

余裕でスーパーひたちに乗り込み

17:20 大甕駅に到着(自宅を出てから6時間30分)

投宿予定のホテルも1k未満だったので運動がてら歩いて向かい

とりあえず荷物を部屋に放り込んで

この宿に決めた理由の 大浴場へ

サウナと水風呂もしっかり堪能して

ネットで調べておいた海鮮が売りの食堂に向かったのですが・・・

GWでほぼ満席『すみません無理です』とすげなく断られ

仕方なくトボトボと海岸線に向かい

この白波の様子じゃあ、仕事先の船は翌日接岸できないかも

と直感したとおり

その後延期とのメールが入り大ショック

 

よさげな飲食店もみつからず

あっても”本日貸し切り”の貼り紙があったりと
GWでレストラン難民状態

地図アプリに出ていた中華にするかと向かってみたところ

そこそこ混んでたものの席に案内され

とりあえず生大

レトロ感満載の老舗の中華料理店で

期待に胸躍らせてたのですが

土日・祝日限定の海鮮ソバ(揚げソバを選択)を注文したのですが

完全に期待外れ

 

泣く泣くコンビニで寝酒を買い込んでホテルに戻り不足分を補い

 

翌日、口がすっかり魚貝類となってたため

お昼は日立おさかなセンターにしようと決め

 

運動と肝臓の活性化😅を兼ねて徒歩で時間調整して

日立灯台に立ち寄り

GW中で大混雑している日立おさかなセンターに到着

小皿のさまざまな魚貝類を買い自分好みの丼にしたかったのですが

この行列

 

ビールも飲みたかったので

まだ開店したばかりでガラガラそうな

2階にあるレンストランにしたのですが

 

メニューにあった写真とは大違い

この桶、海鮮なんちゃら桶で2,500円もするんだけど

桶の底に海苔巻きくらいのシャリが半分

残りの半分は大根のツマのみ

刺身のネタも地物じゃないし

薄くて100円の回転寿司なみ

 

待機日となって特にしたいこともなかったので

のんびりと魚貝類を堪能しながら昼酒でも楽しもうと思ってたのに

騙された気分でそそくさと店を出ちゃいました

その後いつもながらの同じルートで帰りたくなかったので

往路の海岸線沿いをやめて周回しようと思ってたところ

 

なんせ日立グループ(地元では日立製作所=日製[ニッセイ]と呼んでます)のお膝元

町のど真ん中に大きな工場があって

 

突っ切ることができず大回り

 

ホテルに帰ってサウナでサッパリしてから昼寝して

さて、晩御飯でもと夕方起き出して

また前日フラれた飲食店や別のトンカツ屋、寿司屋、同じ中華でもと思ってたのに

月曜日が定休なのか行きたい店は全滅

 

仕方なくお昼時に行列ができてたラーメン屋に行き

その店の名物”スタミナラーメン”を注文してみたのですが・・・

たっぷりの白菜に豚バラ肉をニンニクと豆板醤が定番の

奈良や天理のスタミナラーメンとは大違い

申し訳ないけど、もう二度と頼まないだろうな。。。

 

翌日は、風も波もおさまり予定通り仕事先の船が日立港に向かってるのを確認して

(以前にもネタにしましたが、Marine TrafficとかVessel Finderといった

船の現在地を調べることのできるアプリがあるので到着予定時刻がわかるんです)

この日はホテルに頼んでタクシーを呼んでもらい現場に向かったのですが

いまどき田舎のタクシーも”GO”でビックリ

(実際にはシニアドライバーで会社からの無線連絡で動いてましたが)

 

仕事の依頼元からSNS等で情報を流さないようにと釘を刺されてるので

その辺りは割愛させていただきますが

12:00~16:30で問題なく仕事を終えてホテルに戻り

またまたサウナで汗を流してから

『さて、晩御飯はどうしよう?』と思案

 

おさかなセンターがあまりにも残念すぎて

口が魚貝類のままだったので

面倒になってスーパーマーケットで飲料と食材を買い込んで

ホテルで独り打ち上げとなりましたが

お刺身三昧で大満足

 

当初は仕事を終えてからまた東京に戻り

谷中の同級生達を飲みに誘おうかな?と思っていたのですが

 

なんせ同じルートで往復するのが大嫌いな天邪鬼

 

これまでにも、この常陸辺りに出張した時に

水戸から鹿島臨海鉄道で鹿島経由とか

水戸から小山を経由して日光・鬼怒川温泉とか

前回は茨城空港から飛行機でひとっ飛びもしちゃったし

 

どうしようかなぁ❓ と考えていたところ

閃いたのが 福島空港の存在

 

考えてみると、福島は船の仕事で45年前以降何度か小名浜へ行ってたのと

1987年に東京に勤務していた時に

当時TVで何度も紹介された喜多方ラーメンを食べにレンタカー借りて

猪苗代湖、会津若松城、喜多方を周ったくらいで

近年は新幹線や東日本大震災後のボラバスで素通りばかりだったので

 

遠回りになるけど、とりあえず北へ向かおうと

ホテルを6時過ぎに出て徒歩で駅に向かい、ほぼ始発の常磐線下りに乗車

でも通勤、通学のお客でそこそこ賑わってましたねぇ

 

茨城県内は日立製作所関係や三菱などの大企業があって

駅舎もそこそこモダンで面白くありませんでしたが

 

勿来の関を越え、福島に入った途端

レトロチックな駅舎になって気分はルンルン

湯元には旧常磐ハワイアンセンターの看板もあり

途中下車しちゃおかな?とも思いつつ

とりあえず終点の”いわき”駅に到着

 

実は、そんな早朝の電車に乗り込んだのは

磐越東線なる1日に数本しか運行しないローカル線に乗りたかったわけ

平日でガラガラの気動車に乗り込み

しばらくすると峠に向かう景色に変わり

渓谷沿いのトンネルや橋だらけの線路を

ディーゼルエンジンを噴かせながらひた走り

 

1時間40分後 福島第二の都市 郡山に到着

東北本線の主要駅のひとつらしく

バリアフリーでエスカレーターやエレベーターが設置されるようになっていましたが

昔ながらの貨物用のエレベーターと跨線通路があって

目がハート(笑)

とりあえず、改札を出て(磐越東線では交通系ICは使えないので要注意)

 

上層階がガラス張りで不思議な球体のある高層ビルを眺めながら

とりあえず駅前探検

古そうなアーケード商店街をみつけ

 

歩いてみましたが

ほとんどが飲み屋だらけで

午前中は人気なくガッカリ

ほぼ朝食抜きだったので

11時から営業のラーメン屋に飛び込み

叉焼とメンマをアテに🍻を飲み

一応その店の売りのブラックラーメンなるものを注文してみましたが

残念ながら好みとは違って残念😭

あてもなく、古い商店街が取り壊されて駐車場だらけのアーケードを抜け

レトロ好きなわたくしには、とってもよさげな居酒屋や

食品サンプルの並ぶ食堂に

何故か、肉屋なのに

キャロルにアグネスラム、サタデーナイトフィーバーのジョントラボルタのポスターが貼ってあり

たぶん同年代の店主なんだろうなと とっても興味を持ったものの

突然、家の帰るのを1日先延ばししたら

GW後半に突入して身動き取れなくなるかもと思いだし

疲れてそのまま旅を続ける気力を失ってしまい

その場でスマホで航空券を買い

空港行の連絡バスに乗り込んじゃいました。。。

 

この空港行のバス

所要時間45分程度なんだけど

ビール飲んでたのでトイレ無しで大焦り

阿武隈川を渡り

平日の昼間でガラガラの道路なのに

あまりにもノロノロ運転にイライラさせられましたが

なんとか無事(❓)漏らす事なく福島空港に到着

至る所にウルトラマンが飾ってあって

何か所縁があるんだろうなと想像

空港内の土産物屋にもウルトラマン&円谷プログッズだらけ

ブースカに

ピグモンに

バルタン星人

カネゴン

ガラモンもありましたよ~

週一で台湾からのフライトや札幌(千歳?)便もあるみたいでしたが

基本はほとんど伊丹行ばっかし(1日4便)

 

留守番してくれてる社員さんに

赤べこか起き上がり小法師のお土産でも買おうかな と思いつつ

かえって迷惑かもと思い直し

手ぶらで飛行機に乗り込んじゃいました

機材は利用客が少ないからかIBEX

その昔は、成田→伊丹便も午後のアメリカ東海岸からの乗り継ぎがIBEXで

年に何度も東海岸を往復してたので

狭くて小さくてヤダなぁと思ってましたねぇ

 

そんなわけで

今回の出張も結局大回りしただけとなってしまいましたが

 

あとで調べてみたところ

円谷英二ミュージアムに同じ円谷姓の円谷幸吉さんも

同じ須賀川市の出身で

メモリアルホールの存在を知り

 

円安でこの時期に海外旅行するのも気分的に楽しくないので

年内にまた福島を再訪問しようと計画中

 

円谷英二ミュージアムに円谷幸吉メモリアルホールを訪ねてから

喜多方でラーメン食べて

磐越西線か、只見線の秘境ローカル線で新潟に出て

奥只見湖や尾瀬辺りと周回するもの面白そうだなぁ

 

楽しみ楽しみ

 

 

 

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ディープな大阪民国(?)探訪記(道具屋筋、日本橋でんでんタウン、裏難波、猪飼野)

2024-04-23 16:04:03 | 日記

4月11日木曜日

 

2000年に会社を開始してから

当初はまだまだFAXが主流の時代だったのですが

年を追うごとにIT化がすすみ

仕事上でも電子メールにネット検索なしでは業務ができない時代となって

これまで数年ごとに買い替えていたのですが・・・

 

〔1998年起業前に購入:2002年にロシア人秘書に譲る〕

NEC:98note(オフィス用)

 

〔2000年購入:数年後突然不具合発生〕

IBM: Thinkpad (オフィス&出張兼用)

 

〔2002年購入:数年後突然立ち上がらなくなる〕

HITACHI: Prius(オフィス用)

 

〔2003年購入:小型すぎて使い勝手が悪くお蔵入り〕

SONY : Vaio(出張用)

 

〔2005年購入:Windows XPのサポート終了でお蔵入り〕

DELL: Inspiron(出張用)

DELL: Dimension(オフィス用)

 

〔2008年購入:持ち運びすぎて液晶が壊れる〕

PANASONIC: Let's note CF-S (出張用)

 

〔2012年購入:現在も使用中〕

PANASONIC: Let's note CF-B11(オフィス用)

 

〔2018年購入:現在も使用中〕

Microsoft: Surface Pro8 (出張用)

 

 

オフィス用に使っているCF-B11も既に12年目

Windows 11をインストールしているものの

公式には対応不可&不具合が発生しても自己責任と

『買い替えろ』と脅されているような状態

 

それなら、そろそろ買い替えの検討しようかなと大阪難波に出て

千日前のBIG CAMERAで下見してから

ついでに前々から猪鍋用に使ってる鍋の蓋が欲しいなと思っていたので

道具屋筋に向かい 店員に尋ねると簡単に探してきて

「そんで、なんぼなん」と大阪の商人風に値段を聞いたものの
なんせエセ関西人

値切る度胸なく アッサリ言い値で購入

『アカンがなぁ~』と沈みながら

大阪の電器屋街”日本橋でんでんタウン”で

とりあえずラップトップの中古を調べて

新品と差がなかったらネットで買おうと考えてたのですが

まだ使えてるし、事務所での仕事はほとんどスタッフ任せで

たまーに、エンジニアとしての顧客からの質問や要望への回答メールに返信するほかは

ネットサーフィンして遊んでるか、Amazon Primで映画観てるだけ

 

焦って買う必要無いか

と、アッサリと当初の目的を放棄して

久しぶりに裏難波を探検することにしちゃいました。

久しぶりに昭和のキャバレーを覗き

午後1時から営業のミス・パールにご出勤のホステスさん(推定年齢50代前半)を見かけ

『”昼サロ”で入っちゃおかなぁ~』と

鍋の蓋が入ったレジ袋をぶら下げながら一瞬迷ったのですが

一応、社員に日本橋でパソコンの下見してくると外出していた手前

そこまでハメ外しちゃあダメかな と反省

 

後ろ髪をひかれる思いでその場を立ち去り

いつも昼間に通ってはいつか来ようと思ってる炉端焼きの居酒屋を眺め

 

これまたいつも『いつか飲み倒したんで~』と思ってる

ちゃんこ屋と

ホルモン屋を眺め 

腹減った~ と腕時計を見ると 時刻は12時05分

 

最近は食べ物屋だらけになった 地下街”なんなんタウン”は
インバウンド観光客だらけで

 

店も観光客からボッタくる気満々の様子に怖れをなし

 

近鉄で鶴橋に移動

以前看板をみて 久しぶりにソルロンタンでも食べよ と

ハングル訛りの店員に

「ソルロンタン、ハナ(1つ)」

「それからメクチューもハンビョン(1本)」と注文し

ワクワクしながらソルロンタンを待っていたのですが・・・

韓国と違って、しょぼいパンチャン(食事の突き出し)は仕方ないなと諦めたものの

これまたショボすぎるソルロンタンにガッカリ

韓国に駐在してた頃は

ウルサンの中小造船所(青丘)に行くと必ずお昼に立ち寄るソルロンタン専門店があって

大きなカクテキ(大根キムチ)といくつものパンチョンが並び

グツグツの鍋と一緒に素麺と生卵が出され

粗塩と胡椒をふって火傷しそうなスープを飲むのが最高だったんだよなぁ

 

ガッカリしながら店を出たものの

瓶ビールで勢いがついちゃったので

昭和の闇市をいまでも感じさせるアーケードを彷徨い

普段は朝から開けてる居酒屋に行くと お休みの貼り紙

 

仕方なく、晩酌のおともに豚足とむし豚でも買おうかなと思ったのですが

やっぱり諦めがつかず大阪在日の聖地"猪飼野"らしさの残るアーケードを彷徨って

コリアンタウンの近くまで来たところ

またまた、パソコンの下見と言ってるのに

昼間から酔っぱらって事務所に帰ったら

社員さんが呆れちゃうだろうなぁ と思い直し

(↑この辺りはシクタン(食堂)の客引きのアジュマ(オバハン)だらけ)

 

キムチを買って素直に事務所に戻ることにしちゃいました。

 

奈良で暮らすようになった1990年

伊丹空港周辺から阪神高速が夜でも照明がいらないほどのネオンに驚かされ

ミナミ(難波、道頓堀、心斎橋、宗右衛門町、天王寺)では

ネオンに喧噪も加わり異国にしか思えず

近づけない土地でしたが

 

何の因果か2006年から好き嫌いにかかわらず借金返済のために韓国で駐在することになり

帰国してからも本場のキムチが食べたくなって

猪飼野(日本の中の小さな済州と呼ばれる韓国朝鮮人部落)辺りを

時々彷徨うようになったのですが

 

まさに”血と骨”の舞台を彷彿させる空気が

気づかずに緊張させてしまうのか

鶴橋から電車に乗った途端にクッタクタ

いまや本国には残っていない”らしさ”溢れる

ある種貴重な土地なんだなぁと再認識

近頃はKポップや韓流映画ドラマで抵抗が無くなったのか

海外旅行でも”韓国”が人気の渡航先になってるようですが

猪飼野の方が、古き良き(?)朝鮮半島文化の名残を感じられますよ

 

但し、本国では美味しくなかったら生き残れない飲食店も

ココでは日本人からボッタくろうと商魂たくましい”アジュマ(オバハン)”だらけなので

注意と覚悟してくださいね。

 

ご参考までに、猪飼野の歴史はこちらから↓(映画”血と骨”の世界です)

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/32856.html

 

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2024年奈良吉野山&奥吉野花見紀行

2024-04-22 21:20:54 | 日記

今年は、東京x1名、神奈川x1名、愛知x1名、福岡x1名

そして私、奈良x1名の計5名で催行した花見紀行のご報告

〔参加者の許可を取っていないため顔は出さないように

でも雰囲気を感じて欲しいなと顔を黒塗りした画像を貼り付けさせていただきました

 

4月3日

午前10時45分 小雨模様のなか大和西大寺駅出発

先日の下見とその後に発生した国道169号線の法面崩落による通行止めにより

奥吉野の秘境、不動七重の滝と前鬼山集落跡に行くことを諦めていたので

代案でのコースとなりました。

 

最初に個人的に大好きな南都七大寺のひとつ

癌封じで有名な大安寺へ案内して健康祈願

(これまで、自分自身に家内、親族に知人、友人と癌になったと聞いて20名以上を祈祷して

その後高齢となって亡くなった人がいるものの、癌が進行して亡くなった人がいないこと)

(入山料も駐車場代も取らないところが気に入ってると説明しながら)

移動のスケジュールがタイトなことと

宿で豪華な夕食が待っているからと

お昼はたこ焼きで我慢してもらいました(笑)

大安寺から京終を経由して天理街道を南下して

日本最古の神社のひとつ物部氏の総氏神石上神宮前を通って天理に向かい

その後旧道で天理ダムを眺め、笠から纏向、

三輪山をご神体とする日本最古の神社のひとつ大神神社前を通過して

長谷寺へ

”いざいざ奈良”の鈴木亮平のように
跪いて十一面観世音菩薩立像の足に触れながら願い事を伝え

舞台から境内の春の絶景を堪能

(GoProの動画からのショットなのでピンボケで失礼しました

 

その後初瀬街道から室生ダムを眺め、数日前のルートで室生寺へ向かおうとするも

前日の4月2日に雨による崩落が発生して通行止め

 

仕方なくトンネルのバイパスから室生寺に辿り着き

雨の中室生寺の境内に入り金堂を十二神将を拝観しようとしたところ

半分は宝物殿、残りの半分は金堂にあり

それぞれ拝観料を徴取するとの説明に

”いざいざ奈良”で観光客が溢れることを願ってる感アリアリの

御朱印用においずる(巡礼衣)までできてて

個人的にはちょっと興醒め

広大な敷地に点在するお堂や塔を維持するのにお金は必要だろうと思うものの

入山料から更にいくつもの拝観料をせしめようとする根性を

本堂の如意輪観音はどう思ってのと問いかけてしまいました。

その後は下見ルートのとおり、枝垂れ桜の西方寺から林道で峠越えしようと思っていたのですが

一般道が崩落したとすると林道も引き返す可能性大だなと諦め

 

榛原から菟田野、東吉野村の丹生川上神社中社と夢淵に行くつもりだったのも

雨で歩くのを避けようとの思いと、時間的に宿への到着が遅れるかもと

黒滝村の森物語、森の交流館に直行することにしました。

 

温泉を浴びて

大和牛のすき焼き食べ放題+活鮑焼きコースを堪能

 



こんな山の中で鮑が出るなんて、便利な世の中になりましたよねぇ

 

それぞれ遠方からの移動で早朝出発による睡眠不足と駆け足での古刹巡りで疲れてる様子だったので

温泉の終了間際に歓談タイムをお開きにして二度目の温泉に浸かり就寝となりました。

 

翌朝は、朝風呂を浴びてから朝食

この黒滝村村営の宿での一泊二食コース

桜のシーズンでそこそこのお値段でしたがお腹パンパン

 

朝はアッサリ茶粥に発酵した漬物で十分だから、その分お安くして欲しいなぁ 

などと、つい考えてしましました。

 

その後、宿の前で記念撮影して吉野山へ出発しました

黒滝村からは得意の険道で吉野山の勝手神社横に出て

奥千本口の金峯神社前から花矢倉、上千本を通り

勝手神社近くの駐車場に車を停め

吉水神社へ

 

一目千本から上千本がまだ少し早かった(3分咲き)ものの

念願の吉野山の桜を堪能できて喜んでくれてホッと一息



 

今回は、吉水神社と後醍醐天皇の南朝皇居、源義経・静御前潜居の間を拝観してから

贔屓にしている金峯山寺横の柿の葉寿司の店でランチ

(葛入りにゅうめん+柿の葉寿司+葛切りセット)

 

金峯山寺で護摩焚きの読経と太鼓の音を聴きながら蔵王大権現を外から眺め

宿坊が連なる参道を眺めながら駐車場に戻ったのですが

 

ハイシーズンとあって、普段はほとんど扉を閉めている”だらにすけ”のお店の

ガマガエルも張り切ってました(笑)

私は、また大峯山系を歩き奥駆道の靡きで般若心経を唱える時に使えるようにと

桜井研次さんのご夫婦を奥吉野に案内した時に錫杖を購入していたのですが

いつかお数珠もと思っていたので法衣・法具店で購入 念願かなってルンルン

靡きでの読経に、岩場を登るときには腕に巻いたり首にかけたりと

お数珠は必須アイテムなんですね。

その後

参加者の一人がどうても仕事のため平日3日の休みが取れず

吉野山までとして神奈川に戻ることになっていたため吉野駅で見送りして

残りの4名で十津川村に向かい

途中、猿谷ダム、谷瀬の吊橋、風屋ダム、二津野ダムに立ち寄り

二泊目の宿

元祖源泉かけながしの十津川温泉に到着



 

選択の余地なく決めた超レトロな宿だったので、みんな大丈夫かなぁ?と心配に思っていたところ

さすがは元青年海外協力隊員

「もうこんな昭和な温泉宿みつからないよ」と慰めてもらい

硫黄の匂いのする岩風呂の内湯と

手作り感溢れる露天風呂を堪能し

これまた古風な温泉宿の夕餉に舌鼓を打ちましたが

焼き立ての”あまごの塩焼き”美味しかったぁ

運転の疲れもあってまたお風呂に入るという仲間に断って早寝してしまったため

夜中の2時に目が覚めて24時間入れる岩風呂にのんびりと浸かり

また寝なおしてから朝食

 

その後、代案では、十津川温泉に泊まってから

めったに行けない玉置神社と瀞八丁をまわってから

龍神温泉経由で高野山奥の院に連れていくつもりでしたが・・・

 

前日、一人が伊丹から午後5時発の飛行機を予約しているとのことで

 

予定変更して近場の果無(はてなし)集落(熊野古道の人気スポット)へ立ち寄り

名物のおばあちゃんは入院していて母屋の雨戸は閉まったままでしたが

ゼンマイを揉んでいた息子さんとも話ができ

なぜか”立ち入り禁止”の看板で乗るのを諦めた野猿を見学して

大塔村から日本一小さい野迫川村を抜けて

高野山に向かおうとすると

崩落修復の工事の交通規制なのか、時間別に一方通行となっていて

次の通過時間までの待ち時間が長すぎて断念

 

それなら生駒山のスリランカレストランでランチにしましょと奈良方面に戻り

時間調整して伊丹行の空港バスの停留所に見送り

 

残りの二人を大和西大寺駅にお見送りして

今回の旅を完結することとしました。

(あまり遅くなるとそれぞれ帰宅するのも深夜になってしまうかなと)

 

いずれにしても今回も楽しかった~

 

ただでさえお節介焼きなので奈良のそれも奥吉野を案内するのが大好き

そのうえ、心の底から繋がってる仲間との旅なので

嬉しくないわけがないわけで(?)

 

参加者の一人が『奈良から帰るのがいっつも寂しくてたまらない』と言ってもらい

今回もみんなをお誘いして良かった~とつくづく感じいった次第です。

 

 

 

今回の旅を紀伊半島南端からみるとこんな感じ ↓ 

 

ほぼ奈良県の北の端から南の端を縦断
(一筆書きにできなかったのが心残りでしたが

長谷寺はこんな感じで

室生寺は奥の院を断念してもこんな感じ

こちら↓は、吉野山

(一番下の黄色いルートが奥千本口までの登りで橙色と赤が桜の絶景を堪能できる下り道)

そしてこちらが猿谷ダム

(市町村合併で五條市に編入されてしまいましたが、元大塔村のダム)

 

対岸の集落がお金を出しあって架けた日本一の”谷瀬の吊橋”

二津野ダム

 

熊野古道の果無集落と野猿

十津川の往復は、通行止めだらけで泣く泣く単純往復となってしまったのと

十津川からの帰りは飛行機の時刻に間に合わせようと

高速の出せる京奈和道&西名阪を使ってしまいましたが

カーナビに逆らって酷道、険道を走りたい変人丸出しの軌跡(笑)

 

そんなこんなで参加者に喜んでもらおうと

いつも内容テンコ盛りで旅程をギチギチにしてしまうのですが

 

今回は、これでも結構運転疲れが出てクタクタだったので

いくつか訪問先やルートを断念してしまいましたが

それで良かったのかな

”禍を転じて福と為す”で正解だよね

などどメゲルことなく大雑把なオプティミストは思うのでした。

 

余談ですが、これまで国内外のアチコチを旅してきましたが

やはり奈良の歴史と大自然は別格

 

なんせ鎌倉時代?平安?って何って言うお土地柄

1300年以上前の歴史の宝庫というか

 

仏教や文字が伝来する前の土地なんだと実感させられ

 

弘法大師さえ新参者と思わせる

日本の国の始まりを至る所で実感できるんだもんなぁ

(土着のジモピーは鈍感でそれを気づくこともありませんが

ジモピーがこのブログみてたら怒られるかも

 

酷道、険道だらけの紀伊山地の大自然の中にあって

21世紀の現代でも文明を馬鹿にしてるような

至る所で道路の崩落による通行止めだらけ

外界との接触を拒んでいるのかも

 

特に、役行者と前鬼後鬼の存在がいまも続く不思議

そして蔵王大権現の世界を体感できる奥吉野の痺れるような凄さ

知って欲しいような、あまり知られたくないような・・・

 

まあ、ほとんど閲覧者のいないブログなので

そんな危惧など不要と思いつつ投稿することにしてみます。

 

ちょっと酔いがまわっていつも以上に支離滅裂ですが

歴史の痕跡を目の当たりにしながら太古の昔を想像する面白さを是非味わいに

奈良にお越しくださいませ

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旧知の仲間との”奈良の旅”第三弾に備えて、奥吉野ソロドライブ記録

2024-04-19 17:46:56 | 旅行

これまでこのブログをご覧いただいたみなさまには

周知の事実なのですが

この私、誕生月が睦月の1月、山羊座、六星では六白金星

その上、血液型が大雑把なO型で

幼少の頃から協調性のない”お山の大将”気質

(学生時代もその後も『あんたが大将』と半ば呆れながら揶揄されたものでした)

 

そんな性格だからか

小学生の頃からイベントを企画して幹事するのが大好き

 

小学生の時からずっと同窓会やキャンプ、親睦会・懇親会を続け

最初に就職した船会社の同窓会(?)に

SNS仲間との泊りがけでのオフ会も数知れず催してきたのですが

 

2011年には、青年海外協力隊の訓練時代の仲間に声をかけ

訓練所に集ってから30周年記念同期会を思い出の駒ケ根で開催

約100名の同期のうち、なんと30名が世界各国から集ってくれたんです

 

任国に派遣される前の僅か三か月半、広尾と駒ケ根の訓練所で過ごしただけなのに

貧困と熱帯病が蔓延し、電気も水道もないような生活を厭わず参加してきた仲間だったので

心の底から繋がってる生涯の友

 

その同期会がキッカケとなって

その後は頻繁に全国津々浦々で同期会を開いてきたのですが

 

一昨年の2022年の年末に

奈良の我が家で”猪鍋をつつく会”しませんか?と声をかけたところ

関東方面からわざわざ4名が集まってくれ

初日が猪鍋、翌日は山の辺の道から吉野山・奥吉野を案内したのですが

九州の福島(伊万里の対岸)に出張した帰り道

博多に立ち寄ってその同期会をやむを得ず参加を断念した同期と会って食事したところ

とても残念がって「春に吉野山で花見する?」と誘うと即快諾

 

それならばと、すぐにまた同期に声をかけ

2023年4月に吉野山での花見同期会を開催したのですが・・・

開花が早すぎて吉野山は奥千本以外すでにしっかり新緑

天川・洞川・川迫川に沿って紀伊山地を越え

ナメゴ谷ビュースポットからは山桜の登り龍に大感動してくれて

今年は、”吉野山へ去年のリベンジに訪れよう”との提案をしていただき

大喜び

 

それじゃあ、ついでにもっとディープな奈良を知ってもらおうと

なかなか行くことのでき”不動七重の滝”と”修験道の聖地:前鬼山集落跡小仲坊”をメインに

できれば

下北山から日本三大酷道のひとつ、酷道425号線で玉置神社経由で瀞八丁

日本最大の村、十津川村の元祖源泉かけ流しの温泉宿に泊まり

果無集落から熊野古道を眺め、再び酷道425号線で日本三大美人湯の龍神温泉に出て

護摩壇山から高野山奥の院に立ち寄る

 

そんな壮大な秘境探検ルートを考えていたのですが・・・

2023年の年末に、国道169号線が下北山で大崩落が発生

復旧までには数年かかるらしく

 

更には酷道425号線も通行止め箇所だらけになって

周回ルートは諦めたものの

 

せめて”不動七重の滝”と”前鬼の里”に行けないだろうか

と下見を兼ねて3月30日にソロドライブした旅の記録です。

 

周回が無理だとわかり、その代案として見つけたのが

JR東海の”いざいざ奈良:奈良大和四寺編”の長谷寺と室生寺

 

とりあえず長谷寺に向かいました。

門前の枝垂れ桜は見頃で『よしよし』と頷き

続いては室生ダムに立ち寄り(一人がダムマニアなので)

室生寺の様子を窺い

室生の里の桜の名所(西方寺)の枝垂れ桜を下見して

鴨撃ちで馴染み深い 林道赤埴カトラ線に入り

唐戸峠を抜けて

榛原、菟田野、東吉野村を抜けて川上村に入り

三重県との県境の日本のマッターホルン高見山を水源とする

高見川に出て

吉野川との合流地点から国道169号線で上流方向へ

大滝割滝に沿って

大滝ダムを下見して(ダムマニアが喜ぶように)

川上村の道の駅でトイレ休憩

お腹が朽ちて眠らくならないようにとアッサリとカレー南蛮(蕎麦)

続けて、その昔は入之波温泉や冬以外はヤマビルだらけの三之公から明神滝へ行ったり

北股川へ家族でBBQと水遊びと当時は頻繁に通った大迫ダムを下見して

 

紀伊山地の東の南北の分水嶺、大台ケ原に隣接した和佐又山トンネルを抜け

池原貯水池を横目に下北山村に入って前鬼橋が目の前

(ここまでに通行止めゲートがありましたが、

事前に前鬼橋までは通れると確認しておいたので警備員に説明して無事通過

ここを右折して前鬼に向かいます

大雨の直後で落石と路肩が崩れそうな箇所だらけだったので

慎重に、でもなんとしても不動七重の滝まで行かなければと猪突猛進(笑)

(その昔は未舗装の砂利道だったのですが、いまは一応アスファルト舗装されています)

 

その昔、家族連れで何度も歩いた遊歩道入口に到着してホッと一息

展望台から轟音を響かせている不動七重の滝の眺望を楽しんでから

前鬼山集落の入口で車を置いたのが14:25

歩くとそこそこ傾斜のある林道を黙々とのぼること約30分

前鬼山集落跡に到着

 

鬼の子孫の集落最後の宿坊”小仲坊”に到着

日本遺産というよりも世界遺産

その昔は、修験道の行者くらいしか訪れない土地で秘境感あふれる場所でしたが

世界遺産となったことから

一般の人々にも知られるようになってしまったのが

嬉しいような悲しいような

護摩木をお供えようと声をかけさせていただいたところ

鬼の61代目の子孫 五鬼助さんが出てきてくれました。

なんせ携帯の電波も届かない谷深い場所

世界遺産に登録され、わざわざたぶん大工事して有線の電話が敷設されました。

↓この写真の左端の建物が、これまた世界遺産登録で新設されたトイレ

知り合いの昔から修験道で訪れてた行者さんは

快適に用が足せるようになったととても喜んでました(笑)

この宿坊の奥に 前鬼ブルーとして有名な

修験道の靡きのひとつ”前鬼川の垢離取場”があるんですよ。

ほんとは、あまり知って欲しくない聖地なんですが

仁淀ブルーなんて比較するのも恥ずかしい絶景

 

まあ、わたしのブログなどほとんど閲覧されてないから杞憂ですよね

 

どんな場所か、検索していただけたら幸いです。

https://www.google.com/search?sca_esv=e91e320a5f7b7808&sca_upv=1&sxsrf=ACQVn09xNA_UQdi2vv2FfMIs7B7KQxfaIA:1713515841608&q=%E5%89%8D%E9%AC%BC%E5%B7%9D&source=lnms&uds=AMwkrPtj_6WzK1FzqxqgFKqG_8Y6DNdPbQgI0oPwrji5BQovgj1YtVYuZHzyjHntOc7h4UK4PpZe5nwtqEdTvOhzQ-OWmhYCHYzVU8YrrrlKJ7YF-BSz6wHVee8DcKZlEsprtUXHosH5ur8vNTcB2Rq2WPbGl9XYJqUMDwGlwH1A6ZuoKGPNYiK9AI43Yr80EkxSagv6vRgT1bVjELLWYutoB16zo2-e5yFvJ6FfZS6cnOnIEBnc1MmjXtQ3D1cPaiBgNQ_Z5KXlSf0bc5SfjhcGzP9pwSyK5IPFEDCifBA2dmKGUx-t9pjN8uhszcX45_J5y7VswI3-&sa=X&ved=2ahUKEwiSgrn4782FAxVwh1YBHXWPCAoQ0pQJegQIERAB&biw=1538&bih=746&dpr=1.25#fpstate=ive&vld=cid:3da2d08e,vid:SDeV4ziaFtI,st:0

 

前鬼山集落跡からの戻りでは

大雨の後で水嵩の増した川や滝を愛でながら

 

再び車に乗り込んで

トンネルを通過し

不動七重の滝の最上段を横から眺め

昔と比べたら劇的に改善されているのですが

(アスファルト舗装に部分的ながら危険箇所のガードレール、山側のセメントの吹き付けと落石ネット)

アスファルト舗装の下が抉れた箇所だらけ

なんとかまた前鬼箸がみえる場所まで戻ってホッと一息

修験道の大峯奥駆修行を前鬼で下りた行者さんたちで賑わう

バス停(前鬼口)も今後数年はバスが来れないだろうしどうなるのかな

その後、2011年の紀伊半島大水害の時に崩落した箇所を

眺めながら帰宅の途についたのですが

この日のログはこんな感じ↓

(往路が途中で気づいて橿原からスタートしてます)

速度での色分け(赤:徒歩、黄色:低速、緑:高速)

家に戻ってから、『よし、これなら不動七重の滝と前鬼山集落跡に行けるな

と思っていたところ

その後も大雨となり4月1日にまたまた国道169号線の下北村で崩落が発生し

通行止めとなって結局代案の長谷寺と室生寺に行くことになっちゃいました。

 

奥吉野という場所、大台ケ原でも知られるとおり年間の降水量が半端なく

しょっちゅう国道の法面崩落で通行止めだらけ

もし訪ねてみようと思われた方がいらっしゃいましたら

”道路情報なら”で事前に調べてからにしてくださいね。
(出発当日も再確認するようオススメします)

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2024年年初の記録【”老体に鞭打ち”な3月】

2024-04-18 14:53:22 | 日記

突然、ブログ投稿の”ヤル気スイッチ”が入ったようで

勢いに乗って

3月の記録も記事にさせていただいちゃいますね。

 

四国出張から戻った翌々日

前々から決まってた常陸方面でのお仕事のため

またまたすっかりお気に入りとなったJALを使うことに

この日も空港内でランチにしようと思い

久しぶりにあっさりと美々卯の”けつねうろん(きつねうどん)”と天丼セットにしようかなぁ

と考えていたのですが

結局ガッツリが食べたくなって

またまた神座の餃子セット

この日もあえて機材がB787の便を選んでみました

羽田からは、京急の特急で品川に出て

品川からは久しぶりにスーパーひたち

この日は仕事先に最も近いレンタカーが借りられる場所と

東海(東海村)の宿にしたため

水戸からは普通に乗り換えての移動となりました。

 

実は移動中に仕事先(船)の予定が遅延となり

急いでもう1泊追加することにしたのですが

 

駅からは遠いし周りにはほとんど商業施設も飲食店も無いしで

これまで何度か常陸那珂や日立を訪れてたけど

やっぱり水戸辺りで泊まるしかないなとの印象

ほとんど選択の余地なく近くのファミレス(中華)に向かったところ

古そうなホルモン焼きの看板とノボリを発見

 

仕事前はできるだけ飲まないようにしてるため

この店に入る気はなかったのですが・・・

 

待機日となって何もすることのなくなった翌日の週末

またファミレス(中華)しかないかと向かってみると

よっぽど飲食店がないのか駐車場はほぼ満車でドアの外まで人が溢れ

4人掛けシートしかない店だったので『一人で座るのも気が引けるなぁ』と

スマホで周辺の飲食店を探してみたところ

昨夜のホルモン焼きの店が表示され

クチコミがなかなか良さげだったので

試しに入ってみるかと暖簾をくぐってみたところ

普通の焼肉とホルモンのセットがあったので頼んでみたところ

これがなかなかの美味

(関西で暮らしているとホルモンは牛が常識なので、豚でちょっとビックリ

店に入った途端、韓国の空港に到着した匂い(ニンニク臭)がしたとおり

強烈なニンニクたっぷりのタレが絶品

つい、生中のあとに生レモンチューハイを注文して

勢いでチューハイのおかわりピッチャーまで頼んじゃいました

翌日、ホテルのチェックイン時刻に荷物を預け

仕事が午後からとなったため2キロ離れたレンタカー会社まで歩いて借りに行き

時間潰しにと道の駅に立ち寄ってみたところ

常陸沖で獲れた魚介類が売りらしく

日曜日とあって大混雑

名物のあんこうをみつけ

『仕事終わってからあんこう鍋食べよかな』と思ったのですが

なんせマグロッチ(動いてないと死んでしまう)と昔のSNS仲間に命名されたように

前日待機となって丸1日ホテルに缶詰め状態で過ごしたのが悪かったのか

はたまたほぼ連チャンの出張の疲労だったのか

思いのほか肉体的にも精神的に疲れてしまい

 

それまで仕事の後は休日出勤の代休とって

塩野崎や昔訪れたことのある小名浜に行ってみようか

それともまた塙キャバのバラック小屋の飲み屋にでもと思っていたのに

もう家に帰りたくなって

 

さて、どうやって帰ろうかと思案

(なんせ同じルートでの単純往復が嫌いなので

 

突然、茨城にも空港があったのを思い出し

就航便を調べてみると神戸便があり

 

急げばその日のフライトになんとか間に合いそう

 

慌てて宅急便で荷物を送り、レンタカーを返却して

東海駅から数少ない普通電車に乗り込み

 

水戸駅に到着

空港行のバスに乗車して

無事茨城空港に到着

東海駅で電車を待ってる間にスマホでチケットを購入して

何かお土産でもと売店をのぞいても

納豆か水戸黄門(偕楽園もあるけど)しか思いつかず

面倒になって手ぶらで飛行機に乗り込み

ポートライナーで三ノ宮に出て

三ノ宮から阪神からの近鉄直通電車(但し難波から準急)でも帰れたのを

わざわざ難波で特急”ひのとり”に乗り換えちゃいました

週明けの3月4日

とりあえず仕事のレポートを作成してから

ボケボケと過ごしていたところ

 

2月6日に久々に乗ったJALで

『もう金輪際ANAなんか使うか』と決め

すかさず申請していたJALカードが

よくやく審査を終えて届くことになり

大喜び

 

翌3月9日、早速JALカードで航空券を購入してまたまた羽田に飛び

アクアラインで千葉に渡り

ホテルに投宿

 

翌日、またまた東京湾沿いで仕事を済ませ

『さて、今回はどうやって帰ろかなと思ったところで

『房総半島の先っぽの館山に行ってみるか』と閃き

 

またまた宅急便で荷物を送り、レンタカーを返却してから最寄り駅に移動して

内房線に乗り込んだところ

なんせ館山行は1時間に1本程度しかなく

飛び乗った電車は上総湊止まり

寂れた駅のプラットフォームを堪能(?)して

 

20:40 ようやく館山に到着

またまたお腹ペコペコだったので

ホテルに荷物を放り込んでそんな時間でも開けてる店を探したのですが

Googleに表示される営業してるはずの店も、実際には閉店ばかり

いつものように選択の余地なく開けてる店に入り

やっぱ魚貝類だろうと注文してみましたが

いまどき、海が近いからって

美味しいものが食べられるわけじゃないのを再確認

隣がパチンコ屋でその敷地内だったから

たぶん在日系の経営なのか 韓国メニューが沢山あったので

シメはブデチゲ(部隊チゲ)

お腹は朽ちたので 場末感漂う飲み屋街を探検したかったのですが

実は、この時すでに『翌日は、懐かしのビーチを歩いてから高速船で伊豆大島に行こう』と思っていたため

素直に駅前の宿に戻ることに

翌朝、高速船乗り場の確認と

館山に来ることを決めた背景である

”館山のビーチ”

(練習船時代、よく沖に錨泊することがあって一度カッター上陸した思い出の地を歩きたかった)

に向かって歩いていたところ

野島埼灯台の標識をみつけ

思わず商船学校時代に何度も歌った”海のロマンス”の一節を口ずさんでしましました。

↓ この『♪野島の灯台(あかり)にじむとも~♪』ってところ

遠洋航海実習のため東京湾を出航した練習船が

房総半島の先をまわり本州最後の灯りが野島埼だったので生まれた詩

東海汽船の窓口で欠航していないことを確かめ

カッター上陸した思い出のビーチを眺め

さて、伊豆大島から先はどうしようと考えてみたところ

 

伊豆大島から同じ航路で竹芝に戻るのもつまらないし

かといって、伊東や熱海に行ったら新幹線のそれも”こだま”に乗るしかなく

 

帰って仕事のレポート作って提出しなきゃいけないので

そう何日も遊んでられないなと気づき

 

伊豆七島へはまた別の機会にのんびりと周遊する方がいいなとの結論となり

かといって往路と同じルートで戻りたくないなと

東京湾フェリーで三浦半島側に渡ることに決め

内房線を浜金谷で下車

海沿いを歩いていたら富士山を発見

(富津とか内房からだとすっごく大きく見えるんです

チケットは、久里浜港から駅までのバスと京急線とのセットもあって羽田まで1枚で買えるのにビックリ

 

奥房総の人気スポット”鋸山”もなかなか魅力的だなぁと眺め

 

浜金谷を出航しやがて浦賀水道を横切っていると

変わった曳船を発見

 

何かとても大きな建造物をフローティングドックに載せてサルベージ船と

警戒船、後方からはタグボートと

とっても興味深かったのですが、とうとう何なのかわからず終い。

丁度正午に久里浜港に着岸して

またまたお腹がペコペコだったので

フェリーターミナルのレンストランで食べようと思ったのですが

(浜金谷側ではまた開店前で食べられなかったので)

 

連絡バスに乗り遅れたら面倒かなと

久里浜駅に到着したのですが

すっかりベッドタウンになってお昼時とあってどこも満員

 

仕方なく松屋で牛丼食べることになって大後悔

(実は食後改札口に向かうと、人身事故が発生して再開の目処が立たず1時間近く待たされて更に後悔

 

あまり”星まわりが良くないな”と諦めて

そのまま羽田に直行してJALで帰ることにしました。

 

ただ、JALのCLUB A GOLD会員になったため

さくらラウンジではありませんが、ゴールドカードメンバー向けのラウンジでゆったりと搭乗を待ち

またまた雪化粧の富士山を機上から眺めて帰宅の途につきました。

 

その後は

3月15日で鹿と猪の狩猟期間が終了したため

檻を番線で固定して登録証を返納し

 

こうして3月の前半が終了となりました。

 

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2024年年初の記録【2月後半】

2024-04-17 15:42:30 | 日記

【前回からの続き】

 

2月20日

JALで羽田に到着し東京湾沿いの出張先近くへ移動して前泊

2月21日

翌日、無事仕事を完了できたのが夕暮れ時となってしまったため

また前泊地でもう一泊するつもりだったのですが

 

現場仕事で身体を動かしてハイになってたので

どうせなら前回の万世酒場でビール飲んで〆に排骨拉麺を食べたくなって

大急ぎで日帰り温泉で汗を流し、荷物を少し離れた宅急便の支店に持ち込んで送り

アクアラインを走るバスで東京駅前に出て山手線で秋葉原に向かい

ラストオーダー21:30と調べておいたので1時間前の20:30に万世ビルが目の前

よっしゃ、酒場で飲みまくるぞ~とガッツポーズ

 

喜び勇んで万世酒場の暖簾をくぐると

「すみませんね。もう食材が終わっちゃったんで、また明日お願いします」と言われ

ガックリ

つい2週間前には行列に並ぶこともなく空いた席に座って

のんびりと排骨拉麺食べられたのになぁと思いながら

 

バスでの移動中に上野駅近くの宿を予約していたため山手線で上野に移動

その昔、似顔絵かきが並んでた上野公園入口横の銀座ライオンを思い出し

『よし、それならアイスバインとヴァイスブルスト(白ソーセージ)で

黒ビール飲み倒したんで~』と席に着こうとすると・・・

時刻はすでに21:15

店員さんから「すみません。もう飲み物と枝豆程度しか出せませんけどいいですか」と言われ

「アッチャー、お腹ペコペコだからガッツリ食べながら飲むつもりだったから、じゃあ諦める

(実は、その日はお昼抜きで仕事してたため空腹なんてもんじゃなかったんです

とトボトボと店を出て

 

ガード下の飲み屋を探したものの

ほとんどの飲み屋はインバウンドの観光客でほぼ満席

仕方なく空席のあった沖縄料理風の居酒屋で飲むことにしたのですが

オリオンの生ビールに突き出し、島らっきょう、シークワサーサワーで焼きスパム、

泡盛のロックでゴーヤチャンプルもどきでお会計5千円弱 

『ま、そんな日もあらーな』と諦めて

富士そばでカツとじカレーと生ビールでお腹を満たし宿に戻りました。

 

翌日は、谷中でイタリア製の良質な皮を使ったバッグや小物の店をしている同級生の店へ行き

会社のスタッフに誕生日プレゼントを贈る約束をしていたので

日暮里駅周辺で朝ごはんを食べようとスマホで探してみたところ

 

六文銭の店があるのを見つけ

昭和な薫りプンプンの立ち食い蕎麦を平らげて

小雨降る中久しぶりに谷中の同級生の店へ

 

この同級生、同じ商船学校の卒業生なのですが

(京大医学部卒で胸部外科の父を持つボンボンなのに兄弟そろってちょっと変わり者)

卒業後、なぜか彼の兄が谷中で地元の資産家とデザイナーブランドの店を一から始めることになり

 

同級生もデザイナー学校に通ってデザインセンスと物を見る目を養い

足繫くフランス、イタリアに出張して見本にするためにブランド品買い求め

イタリアの皮メーカーから良質の皮素材を手に入れるようになって

徐々に一点ものに近い、巷に溢れていないバッグやグッズを好むお客がつくようになって

(初期のメンバーだったお兄さんはなぜか離脱)

 

やがて銀座の和光にも製品が置かれるようになり、都内にも支店を増やし

全国的にも買い取り条件で津々浦々のこじゃれたバッグショップに卸すようになり

デザインを含め先頭に立って事業の発展のために身を粉にして働いてきたため

専務から副社長になり、やがて創業者も高齢となったため社長になれるものと思っていた矢先

 

創業者が息子を世襲で跡継ぎにすると告げられ

失意のままその会社を離れ、半ば意地になって還暦後にもかかわらず独立して店を構え

しばらくは相当苦労したようでしたが

 

元々、以前の会社を成功させた手腕と昔から懇意にしてたお得意様から愛顧され

最近ではインスタグラムで知った欧米からの観光客にも愛されるようになり

大繁盛とまではいかないものの、充実した日々を送っている様子にホッと一息。

お店が谷根千歩きの観光客が歩く通りからは少し奥まった場所にあり

ネットカフェで同じように歩道からビルの駐車場を挟んでいたため

通りすがりの客が入らず苦労した経験を持ってたため

 

あのままじゃあ大変だろうなと思って

『いっそのこと、庭をカフェにして谷根千で歩き疲れた客を呼びこんだら?』と

数年まえに冗談半分で助言してたのですが

 

近くの空き地にコンテナハウスを改造したアンテナショップ(?)を置いて

休日にはその前でホットワインを提供してるとか

 

普段は売り子がおらず遠慮なく大きなウインドウから中を覗けるからか

興味を持った通行人が立ち寄るようになり

そこに”本店はこちら”の貼り紙をしてるので

奥まった場所にもかかわらずお客さんが来店するようになったんだそうです。

”継続は力なり”を感じましたねぇ

 

これまでにも

私も黒のビジネスバッグに折り畳み財布、ボディバッグ、

ネットカフェしてた時に店頭で売ろうを仕入れた数十種類の小物類と

家族のような存在となってくれた我が社のスタッフへの勤続のお礼に

同級生の商売を助けるつもりもあるから遠慮せずにWebで欲しいものあったら言ってねと伝え

赤いハンドバッグをプレゼントしていたのですが

 

今回は、誕生日のプレゼントに何がいい?と尋ねると

遠慮気味にカード入れ兼財布とのリクエスト

(実は、私の誕生日やバレンタインにも必ず贈り物をしてくれるのでそのお返しの意味も)

今時はキャッシュレス時代でICカードやクレジットカードを持っていれば事足りるので、

いざという時のために紙幣を1,2枚とカード類が収納できれば十分なんだなぁと納得。

今回は、こんな低額のケースをひとつ買っただけなのに

同級生だからか、買った商品よりも高額なグッズをプレゼントしたいと

断っても断っても手渡され、根負けしてとうとういただいてしまいました。

 

ついでに、2週間前にスタンドバーで約束したロシアのVODKAを手渡し

「また出てくるからみんなで飲も」と店の棚に置いてもらい

久しぶりだったので、新しい製品を眺めながら

↓これはオーダーメイドのスマホケース

好みの色とスマホの機種を伝えると手作りするんだそうです。

なんせイタリアの上質な皮が売りで

使い込むほどに艶が出て柔らかくなってより味のある一品ものになるんです。

 

また谷根千歩きがてら

この店を覗いてみてあげてください。

https://boheme-plus-beaudessin.com/

https://www.instagram.com/bohemeplusbeaudessin/

 

おっと、つい同級生の店を一生懸命売り込んじゃったりして(笑)

 

開店時間を待ってたかのように

お得意様風のセレブなマダムが友達を連れて来店したのをキッカケに

同級生に別れを告げ

谷中墓地を突っ切って日暮里駅から山手線に乗り込み

同級生との雑談で、前日の夜万世に行ったら食材が無くなったって入れなかった話をすると

つい数日前テレビで閉店するってニュースが流れ

話題になってるんだよと教えられ

 

そんな背景があったんだ~と思いつつ

前日からすっかり口が排骨拉麺になっていたため

意地になって行列に並び

これが最後かもと、想い出いっぱいの拉麺を味わってきました。

 

ラーメンを食してからスマホでJALの伊丹便を予約して

羽田14:00発のフライトに搭乗

伊丹空港から奈良行16:40発の空港バスに乗り

家に着いたのが18:00

 

大好きなドラマ、Dr.コトー診療所を見直したくて

注文しておいたブルーレイが届いていたので

週末はDr.コトー漬け

三連休の最終日の日曜は水利組合Aの総会で

副組合長&会計だったので覚悟はしていたものの

とうとう組合長にさせられてしまい気分はブルー

 

週明けの26日

前週の仕事のレポートを仕上げ

緊急で依頼を受けた瀬戸内での現場仕事の準備をして

いつもの四国行夜行フェリーに乗り込み

しまなみ海道で本州の尾道に渡り 現場仕事をヤッツケ

これまた大嫌いな山陽道を走って帰りたくなかったので

フェリーを弾丸(往復)で予約していたため

しまなみ海道で四国に戻ったところ

来島海峡大橋を渡って今治に入ると雪を被った石鎚山が目に入り

フェリーの出航時刻の夜までどうやって時間を潰そうかと思っていたので

これはまた四国山地を眺めに行かなければ と思い立ち

温泉に浸かるのを諦めて

寒風山トンネルから伊予富士方面を眺めると

しっかり雪景色

UFOラインは冬季閉鎖中だったので

結局、仁淀ブルーの”にこ淵”に行くことにしちゃいました。

にこ淵に到着できたのが午後4時

季節や時刻で色が変わるらしく

まだ冬の2月の夕暮れ前でブルーではありませんでしたが

とりあえず目的地に到着し、仁淀ブルーなる景色を眺められて満足しましたが

2月の平日の夕方でもそこそこ来訪者がいてビックリ

ハイシーズンになったら、大混雑の大渋滞で景色をあじわう余裕もないだろうなぁ

日没前にまたまた四国山地を堪能して

フェリーで大阪南港に戻りました。

 

この日のログはこんな感じ ↓ 

 

なにわともあれ

体調を崩してこれからどうなるのか?と思ってた1月とは大違い

昔ながらの落ち着きなく動き回った2月となり

 

ゴルフで言うことをの”あがってなんぼ”

しっかりツケを払わされたような一ケ月となりました。

 

 

 

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2024年年初の記録【あがってなんぼ(?)な2月編】

2024-04-16 15:40:18 | 日記

2024年の1月は

災害や痛ましい事故、恩人の死と

気分の落ち込む出来事ばかりの月となってしまったのですが

 

これまでずっといつ死んでも後悔しないようにと

全力疾走で人生を送ってきたのに

このままポテチンと終焉を迎えちゃったら悔いが残るなと

我が人生を終える前に会っておこうと在京の学生時代の同級生に声をかけたところ

『長坂がもう死んじゃうって言ってるから』と近しい後輩にも声をかけてくれ

会食をセッティングしてくれたため上京することに

 

2月6日

この上京を決めた時に

年末の北海道行で当日シニア割の存在を知り

スターアライアンスメンバーのANAを利用しようとしたところ

何故かその日の午後の便がほとんど欠航

 

調べてみるとそれまで搭乗時間の4時間前からしか特割チケットの予約ができなかったJALも

当日の0時から予約購入できるようになったのがわかったので

『ラウンジも優先搭乗も荷物の受取りも優遇されないけど、JALにするか』と

半ば仕方なくJALを予約していつもの空港バスで伊丹空港に向かい

久しぶりのJALの利用だったからか

ネットからではどうにもカード支払いができなかっため

十数年ぶりに北ウイングのJALカウンターへ行き

事情を話してチケットの購入する旨を伝えると

これが幸運に恵まれたのか若くて可愛くてお客への気遣いのできる

笑顔が素敵で心優しいスタッフがテキパキと対応してくれて大感激

 

ANA系の南ウイングでは保安検査を済ませたら

そのままラウンジで搭乗時刻まで過ごしてしまうため

普段立ち寄ることのない空港内のフードコートに入ってみたところ

 

神座やその他魅力的な店舗が並んでいて思わずガッツポーズ

東京に着いてから夕食をと思っていたけど

つい神座のおいしいラーメンセットを注文

イヤ~、伊丹空港がアチコチリノベーションして魅力的になったって聞いてたけど

たしかにひと昔前からは想像もできないほど良くなってました。

久しぶりに大阪の夜景を眺めながらのフライトもいい感じで

なんと言ってもJALのCAに大感激

ここ20年以上、JALが経営破綻してほとんどの国際線も減便となって

更には社内の雰囲気も悪くなったのか社員の質が低下して
JALのゴールドメンバーに拘るのを諦め

 

中国への出張も多くなっていたため中国向けにシェアを伸ばしていたANAばかり利用するようになって

北米に年に6・7回出張する時もANAを使うようになったのですが・・・

 

横柄でちょっとオツムの足りなそうな容姿端麗とは程遠いスタッフだらけ

『昔からの噂通り、ほとんどが縁故採用なんだろうなぁ』

あまりにお粗末で聞いてる方が恥ずかしくなるレベルの機内アナウンスでも

平気でお高くとまってるCAやグランドスタッフ達にウンザリしながらも

『仕方ないのかなぁ』と諦めていたこともあって

(失礼だなと思いつつ、ここ数年ANAには何度も何度も不愉快な思いにさせられ

ホトホト愛想尽かししてたので、我慢できず心のうちを吐露しちゃいました

(CAやグランドスタッフの中にはとても親切な人もいるので全否定してる訳じゃないんですけどね

 

久しぶりに搭乗したJALのCAの接客姿勢、笑顔の対応、

英語のアナウンスも完璧なうえに最後に付け加える一言も素晴らしく

久しぶりにウキウキしながらフライトを楽しみました

羽田空港では、馴染みのないTerminal 1で少し戸惑いましたが

この旅では、翌朝東中野の友人宅へ行く予定だったので

異常な値段になってしまったホテルに泊まるのを諦め

羽田空港から乗り換えのいらない空港リムジンバスで新宿西口へ向かい

ネットカフェの鍵付き完全個室にチェックイン

翌朝、再開発中の西口を眺めながら 地下街の蕎麦で朝食を済ませ

バスで東中野へ

約束していた時刻より早く到着してしまったため

神田川沿いの公園を歩いて時間調整し

その後、長年闘病しているトンガ時代からの親友(オノチン)のお宅にうかがって

元気そうな様子にホッと胸を撫で下ろし

長時間お邪魔して疲れさせないようにと1時間後においとましたものの

まだ時刻は10:20

 

学生時代の友人達とは千駄木で夕方からの待ち合わせだったので

のんびりと都バスで上野に出る方法も考えたのですが

 

その日のお昼は、新宿西口のメトロ地下食堂街の万世で

大好物の排骨拉麺と決めていたので

時間調整と夕方の飲み会に備えてウォーキングで肝臓のアルコール処理能力を高めよう

神田川沿いから西新宿経由で歩いて行こうと決め

一時アパート暮らししていたことのある中野坂上を目指していたところ

懐かしの新宿副都心の高層ビルが目に入り

住友三角ビルの下まで歩いたところで

都庁に展望台があるのを思い出し

生まれて初めて新宿に移転した都庁に入り

展望室へ直行

1987年5月から12月まで

新宿三井ビルが国際協力事業団の本部だった時代に

特別技術嘱託として勤務していたこともあって

当時、西口の高層ビル群は庭のような場所だったんだよなぁ と

懐かしくいつまでも見つめてしまいました。

 

現在、群馬県知事で元参議院議員の山本一太さんが同じ課で働いていて

お昼になると同年代のメンバーで高層ビルの食堂街や西口周辺のレストランへ通ったものでした。

(当時はただの一介の職員だと思ってたので、その後参議院議員になってるのを知った時はビックリ

展望室は、インバウンド観光客だらけで

そこそこ賑わってましたよ。

若かりし頃を思い出しながら、全周の眺望を楽しみ

再び新宿三井ビルで働いていた47階付近をじっくりと眺め

船会社時代、海外からのお客を送迎したり自分も何度か泊まった京王プラザを眺め

名残惜しみながら都庁を出て

高架下で横断歩道を渡ろうとしたところ

懐かしいホームレスがいまも現存しているのを発見

昔は西口の改札口周辺から中央公園までホームレスの人達で埋もれていましたが

その後、都庁を建設する頃から立ち退きとなり

彼等が寝床にしていた地下道には動く歩道が設置され

もう西口周辺からは消滅したと思ってたので、正直ちょっと驚きました。

 

そうこうして、西口のメトロ地下食堂街に行こうとしてみたところ

ビルそのものが消滅していて大ショック 

 

ところが口がすっかり万世の排骨拉麺になってしまっていたため

どうにも諦めきれず

 

ネットで調べてみると、有楽町も霞が関ビルも閉店してしまい

拉麵が食べられるのは秋葉原の本店だけとわかり

中央線と総武線で秋葉原に移動し

38年ぶりに万世橋の本店に辿り着き

念願の排骨拉麺を美味しく堪能

1979年に新社会人として東京で暮らしてた頃から1986年に新宿三井ビルで働いていた頃

その後もアチコチの支店や、親友が東中野に引っ越してからは

新宿西口のメトロ地下食堂街に立ち寄るのが習慣になってました。

その後、夕方まで時間を持て余していたため

食後の腹ごなしがてら 万世橋から歩いてアメ横に向かい

1978年に商船学校の実習用の京浜寮で暮らしてた頃から

運輸省航海訓練所の練習船が晴海やお台場、竹芝に係留して上陸が許可される度に

主に米軍の払い下げやPXからの横流し品だったのかアメリカのお菓子や

アイビーの小物(カレッジリングとか)を求めては彷徨った思い出の場所

すっかり様変わりしちゃってましたが、懐かしかった~

その後、またまた御徒町のネットカフェの鍵付き完全個室で時間潰ししてから

歩いて千駄木に向かうことに

不忍池から池之端、谷中のヘビ道を抜けて

須藤公園に到着

その後、千駄木では2度目の居酒屋で楽しい時間を過ごし

2次会はスタンドバーへ

日付が変わる頃にお開きして

翌早朝には家路につこうと思っていたので結局この日もネットカフェ泊まり

 

東中野の親友の家を出てしばらくしてからログを取ったので

時間も距離も若干少なめですが

こんな感じ

 

実際に歩いた距離は13.7kmしかありませんでしたが

 

おかげで美味しくお酒を堪能させていただきました

翌日、通勤ラッシュ前に帰ろうと6時にチェックアウトして

山手線と浜松町からモノレールで羽田空港に向かい

前日すっかりお気に入りになったJALの8:30の伊丹行に搭乗

雪化粧した富士山も眺められ

一期一会の気持ちで友人達と楽しい時間が過ごせたからか

1月の暗い気分も一掃

千駄木のスタンドバーで次回は持ち込むからと約束したVODKAを

忘れないように手元に置き

 

2月13日

日常生活に戻って狩猟もしなければと檻をのぞくと

なんと猪が二頭もかかっててビックリ

猟友会のメンバーさんにお願いして止め刺ししてもらい

支部の集会所へ持ち込み分け前をいただき

竹林に戻ると まだ淡竹の時期になってないのに

何を探したのか至る所が掘り返えされていて驚いちゃいました

それからまた檻罠をセットしたのですが

実はこの時、別の猪と遭遇して『やばい、襲われるかも』と身構えたところ

猪の方がパニックになって山に駆け上がってゆき助かりましたが

焦りましたね~

 

この時を契機に仕事の依頼が続き、社内整備や出張の調整に大忙しとなり

 2月20日

東京湾での仕事のため またJALを利用することに

実際には、自宅からの最寄り駅からなら

近鉄を乗り継いで京都に出て、新幹線で東京に向かえば

運賃も15,000円3時間15分ほどで行けるのですが

飛行機での運賃はバス、飛行機、電車の合計で20,000円弱(変更不可のチケットで)

伊丹空港への移動、搭乗待ちを含めると羽田までで4時間

利便性を考えたら比較にならないのですが

乗り飽きてるのと、最近のオーバーツーリズムもあって乗り換えが苦痛

もうすっかり”新幹線に乗りたくない症候群”に罹ってしまい

あえて時間もお金もかかる飛行機を選択するようになってしまいました。

(空港バスの停留所まで送ってもらえば、バス→飛行機→電車orバスで簡単なんです

【文字数制限となってしまいましたので、続く

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2024年年初の記録【悲しみや不安の重なった1月編】

2024-04-15 15:54:05 | 日記

※何度もお伝えさせていただいておりますが

主に親しい、でもFBで友録していない友人・知人への近況連絡のブログのため

一般の方々には全く面白くもない内容だと思いますので

その点をご留意くださいますようお願い申し上げます。

 

2024年元日

年末に稚内で転んで痛めた尾骶骨と手首の痛みが取れず

コロナ前までは除夜の鐘の音を聴きながら赤米粥のふるまいにあずかろうと

毎年元旦に訪れる大安寺への初参りも先延ばしし

おせち料理と雑煮でお屠蘇代わりの冷酒に酔い

自宅でウダウダと過ごしていたところ

 

携帯が突然鳴り響き、小学校のスピーカーでも緊急地震速報が伝えられ

自身でも揺れを感じて家から身体一つで表に飛び出し

能登半島を震源とした大地震を知らされ

刻々と届く被災状況に心を痛め

 

松の内なのにやるせない気持ちのまま

翌日の昼になってようやく大安寺へ初参り

例年なら続けて村の鎮守の八幡神社へ初詣に行くところが

何故かその気になれず家でウダウダと過ごしていた時に飛び込んできたのが

羽田空港での海保機との衝突事故

 

不幸な出来事が続くなと思いつつ

翌3日は半年前から次男夫婦と小学生からの友人達を家に招いて猪鍋をご馳走すると宣言していたため

その約束を果たし

これまた例年は三が日に初詣する生駒の宝山寺も4日になってようやく実現

五千万円も一億円も寄進できるほどの商売繁盛はいりませんが

社員さんが不安に思わず、満足してもらえる賞与が払えますように

喜んで働いてもらえますようにお仕事が続きますようにとお願いし

いつものように前年のお礼の浴油祈祷をお渡しして

年始の恒例行事を終えられてホッと一息

 

5日は仕事始めだったので社員さんを含めて3人で焼肉屋で新年会の真似事をして

 

 

翌日から3連休となり8日に竹林に仕掛けた猪用の檻とトレイルカメラの手直しを済ませてから

自宅で映画三昧しながら過ごしていたところ

 

トンガ時代からの大恩人、桜井研次さんからの着信があり

『めったに電話してこないのにどうしたんだろ?』と電話に出たところ・・・

電話をしてきたのが奧さんで

実は年末の12月24日に研次さんが急逝したと伝えられ

突然の知らせにすっかり気が動転してしまい

お悔やみの言葉も出てこず

ショックを受けたまま電話を切ってしまったのですが

 

思い出してみると

12月24日の夜

極寒の礼文島、稚内から羽田・伊丹経由で帰宅する途中

疲れ切ってリムジンバスの中で寝入ってしまい

気づいたら何度か非通知の電話が何度か入っていたのに気づき

その後、事務所の電話にも非通知の着信通知が届き

 





 

 

いったい誰からの電話だったんだろ?と思いつつ

非通知でかけなおすこともできず

 

急ぎならまた電話してくるだろうし、と

そのままにしてしまった出来事を思い出し

 

完全に呆然自失状態に陥ってしまい

葬儀も済ませてしまい、お別れを言うこともできなかったと

悔しみ涙を流しながらも

前々から予定していた猟銃の更新手続き、猟友会のワクチン散布などを終えて

弔問に行かなければと思い立ち

SMSでメッセージを送ってみたところ どうやら既にSMSは解約してしまった様子

ならばと、仕事に差し支えないかなと思いつつ、携帯に電話して訪問の意向を伝えると

『お父さん(研次さん)も喜ぶと思います』と言っていただき

その週末の1月14日の日曜日に訪問することを決め

 

その日からトンガ時代のスライドや写真をひっぱりだし

奧さんや子供さん達にトンガでの桜井さんの様子を知らせようと

急いでスキャナーを注文したのですが、弔問日には間に合わないなと

仕方なく急いで壁に投影してスマホに画像で取り込み

翌早朝、始発のリムジンバスで伊丹空港に向かい

羽田に到着後 空港バスに乗り込み

冬の晴れた日らしく高速道路から富士山を眺め

新横浜駅に迎えに来てくれていた娘さん、息子さん家族に連れられて

自宅で亡くなった時の様子などをお聞きしながら

ようやく線香を手向けたのですが

トンガ時代は勿論、帰国してからも横浜駅近くのアパートに泊めてもらったり

いろんなところで飲んだり、遊びに連れていってもらったり

鳥羽での結婚式にも参列してもらい伊勢神宮を案内したり

何度も仕事を手伝ってもらい東京BIGSITEでの出展の手伝いや 

韓国、シンガポール、境港、因島、尾道と一緒に出張したり

奈良へ夫婦で遊びにきてもらったり

自宅近くの桜井さんの会社の事務所へはまるで自分のところのように

気楽に立ち寄っては雑談に興じ

他の誰よりも近しく兄弟のように思ってた人だったので

辛かった~

 

横浜から戻り、旅立ってしまった事実を現実として受け止め

もう悔やんでも仕方ないと自分自身に言い聞かせたのですが・・・

 

スライドの映像を不自然な恰好で長時間スマホに撮影してたからか

腰から右後ろの背中に痛みを感じるようになり

 

そのうち治るだろうと放置していたところ

軽い痛みからとうとう激痛となって身体を微動だにすることもできなくなり

夜中に救急車を呼びたくなるほど悪化

 

『この痛みは腎臓結石か尿管結石かも』と思い込み

超音波で石を砕くことができると聞いていた病院の泌尿器科に駆け込んだのが

1月20日

 

検尿とレントゲン撮影してところ尿潜血もなく結石とは違うだろうとの診断に

医者に頼み込んでCTまで撮影してもらったところ

胃と肝臓の間に大きなリンパ節の腫れが見つかり

「消化器内科に連絡しておきますから、すぐに内視鏡で検査した方がいいと思います」と告げられ

 

なんせ気の早い性格なので

『これはたぶん悪性の癌でたぶん膵臓か肝臓だろうな

『だとしたら、手術も抗癌剤治療も拒否してこれが天寿なんだと諦めよう』と勝手に悟り

でも、とりあえず入院は避けられないだろうなとパジャマと下着を買って家に帰り

翌週の1月25日、胃カメラでの検査を受けたところ

十二指腸(胆管と膵管まで)を調べてみたところ

逆流性食道炎(加齢でよく起こる症状らしい)があるものの

胃の内部はとてもキレイな色をしていて

見つかったのは”ハッピーポリープ”なる

ピロリ菌のない胃癌にならない胃にあるポリープで

リンパ節の原因はわからないけど、とりあえず心配はなさそうとのこと。

 

『それじゃあ、あの激痛はなんだったのかなぁ』と思いつつ

早合点して”これで我が人生もおわりかな”と悟りの境地になってたので

まだ余生が残されてると告げられて、嬉しいような悲しいような複雑な心境

 

この激痛とリンパ節の影がみつかった時に

トンガ時代の友人(オノちん)と

在京の学生時代の同級生・後輩達に連絡を取り

『もう先が短いかもしれないので、近々東京に行くから存命のうちに飲もう!』と伝え

 

この出来事がある前にその病院で睡眠時無呼吸症候群の検査を予約していたので

1月29日、一泊二日の検査入院をして

久しぶりに酒を抜いて、健康的な病院食で過ごし

休肝日で体調もすこぶる良くなり

 

1月28日

この辺りでは”とんど焼き”と呼ぶ火祭り(左義長)の日
昔は、この行事のあとに”ひまち”で
集落の集会と会食(飲み会)を夜を徹して行っていた時代もあったようですが

 

自分が自治会に出るようになったのが5年前で

コロナもあって昔からの行事もほとんど中止となり

なによりも、何の因果か自治会も水利組合も何故か役員や世話役になるのが婿養子ばっかり

 

この日も、とんどの火が枯草に類焼したら大火事になると事前の草刈りをしたのは養子のみ

土着で実際には仕切らなければならない副自治会長は

草刈りに顔を出すこともなく呆れ果ててツラも見たくない有様

 

なんとも悩ましい”睦月”とは遠い年の始まりとなりました。。。

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【備忘録:2023年故郷帰省記録&故郷の食べ物の記憶】

2024-04-10 17:39:20 | 日記

”三つ子の魂百まで”とはちょっと違うかもしれませんが

 

中学校を卒業と同時に進学で生まれ故郷(東三河:豊橋)を離れたこともあって

思い入れも人一倍強く、”三河人”であることを誇りに思って生きてきました。

生まれはどこですか?と問われ

『愛知県』と言うと、すぐに「あぁ、名古屋ですか」と言われるのが

虫酸が走るほど大嫌いなのが三河人なんです。

 

〔三河人気質〕

質実剛健、派手さはなく、スタンドプレーは苦手

”実直” ”愚直” ”剛直”


そんな訳で 

数年まえに帰省した時に

昔から東三(東三河)事務所と呼んでた県の支所で

”東三河県庁”との看板をみつけて思わず万歳三唱


いや~、ようやく独立してくれたかぁ と、『ある訳ない』と思いつつ

ぬか喜びしちゃいました

 

『故郷は遠きにありて思うもの』的要素も多分にありますが

幼少の頃から遊んでいた野山に対する郷愁感

子供の頃から食べてたものに対する愛着などなど

浦島太郎の心境で

より故郷への想いが深くなった気がします。

 

そんな心境にありながらも42歳までは

東京や大阪での会社勤めに海外赴任、出張漬けで

毎年、盆暮れの年に2度ほどの帰省しかできませんでしたが

 

約25年前に起業してからは比較的自由に時間を作れるようになったことと

24年前に母が脳梗塞で転倒して寝たきりになったため

その見舞いを兼ねて

一時は月に2回のペースで日帰りするほどで

 

母が亡くなってからも

ちょくちょく日帰りでも帰省していたのですが・・・

 

異母姉5人を含む7人兄弟の中でも

最も仲良しだった四女の姉が5年前に亡くなり

次に仲良しだった五女の姉も後を追うように10月後に亡くなってしまい

兄嫁も突然大病がみつかり闘病していたこともあって

ここ数年は すっかりご無沙汰😭

 

なんと、昨年の2023年はダイアリーを調べてみたら

阿部寛主演の映画”異動辞令は音楽隊”を観て

 

突然、昭和のオンボロお好み焼き屋に行ってみたくなり

年末から半年以上過ぎた

7月25日に訪ねたものの 既に閉店後

諦めきれず8月5日に東京出張のついでに

その店でお好み焼きが食べたいとそれだけの目的で立ち寄ったものの

長年関西で暮らしてきた人間にとっては

『よくこんな不味いお好み焼きで店やってるなぁ』との印象(ゴメンなさい


昨年は😫そんな出来事もありました。



ついでなので

豊橋&東三河の代表的な食べ物をご紹介すると

ここ20年ほど

帰省したら必ず食べると決めていたのが

“あんかけスパ” 

近年、隠れた地方のグルメとしてだったのか

テレビで豊橋っ子のソウルフードと紹介されてしまったため

全国からキャリーケースをガラガラと引きずりながら

新幹線で途中下車してまで食べにくる始末。

↓(これはコロナが騒がれだした頃の画像)

続いて豊橋っ子のソウルフ”むらたのたこやき”

その昔、豊橋駅前にあった百貨店丸物の屋上にあった観覧車やその他子供向け遊具の広場の片隅の

掘っ立て小屋で売られていた”たこやき”(醤油と紅ショウガ味のみ)

子供の頃は、3ケ10円だったのが2ケ10円になり・・・

値上げとともに

高度成長期を実感したものだったなぁ(ウソコケ)


続いては、昔の駅構内にあった立ち食いうどん屋(壺屋)の人気メニュー”きしめん”

昔は当然のことながら陶器の器で
東口の改札から構内に入ったところにあって

中学を卒業して進学で豊橋を離れてから

鉄道で帰省する度に

冬になるとモウモウと湧き上がる湯気に誘われてよく暖簾をくぐって食したものでした。


その昔は、豊橋が”うどん”と”そば”の境界と言われていて

たしかに近所で主に出前専門だった店の暖簾も”生そば”


ところが、”にかけうどん”という

うどんがこれまた東三河っ子のソウルフードで

生家でも、昼時に訪問者があると

気楽に出前で注文するのが”にかけうどん”

 



その“にかけうどん”

かけうどんに、かまぼことほうれん草、たっぷりの刻み油揚げに

ネギとこれまたたっぷりの花かつおが載せてあって


しっかりした辛味のある一味唐辛子🌶が

似合う鰹出汁なんですが


電話で注文すると

店のオジサンが黒い実用自転車で掛け持ち片手に持ってきてくれるのですが

家に到着したころには適度に伸びてるので

子供の頃にすっかりその伸び加減が刷り込まれてしまい

店で食べるとまだ腰があってシコシコしてるのが別物のような気がしてしまい

うどん=八千代(その店の名)の出前だな

閉業してしまってからもいつまでも懐かしく思い出したものでした。

 

そう言えば、我が家(生家)

お客が多かったからか何かというと出前を頼んでたなぁ

 

おやつ代わりに頼むのが、この”八千代”のにかけか和風中華

夏はひやしうどん

父母が旅に出る時は、食事代を預かって

大学前にあった”入口屋”のカツ丼(兄は天丼)


おめでたい時や大事なお客さんには、

近所の寿司屋”ふくす司”から桶か自分は鉄火丼(兄はちらしだったような)

 

 

外食も好きで家族連れの時は

豊橋駅前での定番が常盤通の中華(台湾)料理”天華”

(私は天津麺か五目ソバに焼売でしたが、誰かの誕生日には個室でコースも定番でした)

駅前大通りの”アンデルセン”でインディアンスパゲッティ

とんかつは広小路通りにあった”全楽”

ざる蕎麦は松葉通りの札木近くの店でしたが名前は忘れちゃったなぁ

あと、法事とかの後には菜飯田楽の老舗”きく宗”

(大人になってからは、豊橋の実業家“磯村弥八”さんの経営するグループが、豊橋の繁華街の中心、広小路通りの常盤アーケードの入口の2階に開いた菜飯田楽の店“いちょう”が定番となったしまいましたが)


ひゃ~懐かし~

 

 

 

あと奥三河名物の五平餅も

帰省したら食べたくなる一品

店によって味が異なりますが赤味噌に砂糖に胡桃や生姜などを加えていて

これがまた美味しいんだなぁ

 

 

そんな訳で

この年は12月29日に帰省としたのですが

豊橋(&東三河)への移動中は

着いたら何食べようかなと頭の中は食べ物一色

 

今回は、東名(湾岸線)を豊明ICで下りて国道23号線で蒲郡に向かったところ

年末とあって今現在高架道路の終わる蒲郡で大渋滞

あんかけスパのチャオ本店は前述のとおり変に有名になっちゃって大行列必至だなと諦め

ネットで豊川にできたメガモールにも開店したのを見つけ

国道1号線 に移り

小学校の同級生が院長兼経営する豊川の総合病院の看板を眺めながらメガモールに入り

久しぶりに店名と同じチャオ(ポークピカタ載せ)を注文

タッチパネルで便利になったけど、元々ずっと昭和レトロな社風だったから違和感あったなぁ

 

この日は小学生時代の同級生との忘年会が目的の帰省

豊橋駅西口のビジネスホテルを予約していたため

車を預けて豊橋駅に向かい

ここ10年ほど年末・年始の恒例としてる小学校5-6年生時の同級生で

みんな大好きだった恩師のお宅へご機嫌伺いにお邪魔して

(コロナ前までは食べ物・飲物持参で歓談しながら会食してたのですが、コロナで断念)

御年93歳だったかな 相変わらず頭脳明晰で、その上挨拶を終えて帰ろうとすると

大きな敷地の家の門までスタスタと歩いて見送ってもらい

みんなビックリ

(右端がその総合病院の院長)


その後、毎年恒例の忘年会(以前は年始会)となったのですが

年末でどうにも店がみつけれず

菜飯田楽の店に向かい瓶ビールでの会食となりました。

その後、スタンドバーでウダウダと歓談してからお開き

(総合病院の院長は、入院患者が急変したとの電話が入り途中退席)

翌朝は晦日だったので

家族に恒例のお正月の食材を仕入れて帰るからと伝えていたため

帰省したら必ず立ち寄る 豊橋っ子の台所(スーパーサンヨネ)で

大好物の舞阪漁港(浜名湖の河口)の魚介類と生鰹を買いたかったのですが

年末とあって カニやマグロだらけで断念

(↓これは、12月17日に姉兄のところを訪ねがてらお歳暮の注文に帰省した時のものです

夏は生ウナギ、その他の季節は

三河湾の浅利、生鰹、ワタリガニや

赤味噌、花鰹などの食材を買い求めるのですが


これまた必ず土産にしている

魚町通りに本店のある

練製品の老舗でオデンネタを買い

ネットで知った青果市場の小売りコーナーに向かい

お雑煮用の野菜をたっぷり仕入れ

両親の眠る墓地で線香を手向けてから

渥美半島の太平洋側を走る国道42号線をひた走り

途中、赤羽根漁港で小休止

漁船も新年を迎える準備をすませてました。

その後、伊良湖岬に向かう途中

昔は団体バスの観光客で賑わった渥美フラワーセンターの跡地に植えられて菜の花を愛で

お昼は、伊良湖名物の大あさりを食べるぞ~

と恋路が浜の食堂に行ってみると

な、なんと焼き大あさりが1,200円と聞き

ボッタクられてたまるかと諦め

フェリー乗り場の道の駅で何か食べようと思ったら

ただの”あおさうどん”が30分かかると言われ

あっさり断念

(普段は閑散としているため人手が足りず注文を受けれない様子😓)

(人手不足の現実を目の当たりに)

売店はお土産物ばかりで なんとか買えたのが カップやきそば

 

あまりのショックに完食するのに相当苦労しました。

そして失意のままフェリーに乗り込み

鳥羽に到着

あえて旧鳥羽街道を抜けて母校の前を通り

昔、旧艇庫があった跡を眺めながら

この日は素直に家路につきました。。。

 

この旅のログはこんな感じ↓

たったの走行距離462.12kmに32時間そこそこ

ところが何か疲れちゃったんですよ~

 

さて、2024年は何度帰省できるのでしょうか

 

体力的にも以前のように車での日帰り帰省はもうできないだろうし

親族も年々減少してモチベーションも下降気味

 

このままではダメだなと己に喝を入れた次第です。

 

すっかり枯れ爺さんになって、欲が無くなったのがいけないんだろうなぁ

なんとか帰省の楽しみを作らなければ

 

 

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自己満足の旅(新規ルート開拓に燃えてみた)

2024-03-26 18:12:01 | 旅行

幼少の頃より

なんせ単純往復が大嫌いな天邪鬼

 

先日、またまた瀬戸内海沿岸への出張が決まり

それも本州側の備後とあって

常識的に考えれば山陽新幹線なら片道3時間もかからない場所

 

ところがなんせ山陽新幹線が社会人になったばかりの1980年から

最も嫌っている公共交通機関のひとつ

 

その理由は高速道路(山陽道、中国道)も同じなのですが

トンネルだらけにアップダウンの繰り返しで

車窓からの景色もつまらなくウンザリ

 

そんな背景もあって

九州へは飛行機か大阪からフェリー

 

四国は当然のことながら本州の瀬戸内沿岸へもフェリーで四国経由とし

大阪南港と愛媛県西条市の東予を結ぶオレンジフェリーを利用してきたのですが

 

それも近年では乗り過ぎて飽きてしまい悩ましく思っていたため

新たなルートを開拓できないかと

得意のGoogle Mapsの航空写真を眺め

閃きで発見したルートを今回ご紹介させていただこうと思います。

 

 

【往路】

自宅のある奈良市から第二阪奈道路、阪神高速東大阪線、湾岸線を使って

大阪南港フェリーターミナルへ

いつものデラックスシングル&ジムニWEB割り¥18,720

出航時刻22:00ですが、このオレンジフェリーの大阪航路は

航海時間が8時間しかないため トラックのドライバーもしっかり寝られるようにと

20:00から乗船できるのが利点のひとつ

展望浴場の浴槽にゆったり浸かり

部屋に戻って浴衣姿でテレビを観ながら晩酌を楽しみ

出航前にベッド潜り込んで就寝

 

時間調整しながら予定時刻の06:00に下船できるようにしているようで

05:30になるとアナウンスが入るので、だいたいその前に朝風呂に入ります。

この日は、仕事先の船が午後到着だったので

滞船できる07:00まで船内でのんびりしてから今治に向かい

しまなみ海道で本州側に渡り

 

インターネットカフェの鍵付き完全個室に寝転がって時間調整

ネットで船の位置を確認して

閃きで決めたルートで帰ろうと実質3時間で仕事を片付け

 

【復路】

 

閃きで帰りのルートにと決めた経路を再確認して

一路フェリー乗り場を目指してひた走り

日曜日で通勤ラッシュを避けられたからか

16:00に沼隈(常石)を出発し鞆の浦経由としたにもかかわらず

2時間後に無事新岡山港に到着し

ホッとしながら最終便の18:30発フェリーのチケットを購入

実は、新岡山港が間に合わなかったら瀬戸大橋を渡って四国に戻り

高松からの最終フェリー(20:30発)に乗ろうと思ってたので

ホッと胸を撫で下ろしました。

岡山から四国方面と言えば

宇高連絡船の宇野港(玉野)だったのに

瀬戸大橋が開通して宇高航路もなくなり

宇野は直島などへ渡る船だけとなり

 

小豆島へは岡山からのアクセスを考えてか

岡山の中心地から流れる旭川と百聞川の河口にできた港のようでした。

18:20乗船開始

船内は片道1時間15分ほどの短い航路なので椅子席のみ

ただ、小豆島観光のアクセスを売り込もうとしている様子で

展望デッキがあったり

滑り台や展望デッキ

ブランコや遊具

その上、ミニトレインまであってビックリ

新岡山港を出航してすぐに目についたのが

工業地帯のようなこの灯り

Google Mapsで現在位置をみてみると

テイカ株式会社とあって 何の施設なんだろうと調べてみると

帝人の関連会社で(旧帝人化工機)

化学メーカーなんだそうです。

 

いや~、まさか岡山にそんな工場があったとは

勉強になるなぁ

 

そうこうしてるとあっという間に小豆島の西の玄関口”土庄”に到着

 

実は小豆島へは初上陸だったため

小豆島=オリーブ、寒霞渓、醤油、そうめん のイメージで

とりあえず寒霞渓方面の飲食店で晩御飯にしようと

小豆島の中心、内海町を目指してみたのですが・・・

Google検索に載っていた夜9時や10時まで営業している飲食店は

居酒屋を除きみんな既に店じまいして真っ暗

 

開いているのはコンビニとスーパーマーケットしかなくガッカリ

 

どこかで晩御飯を済ませてから宿を探し

ゆっくりお風呂にはいって疲れを癒し

翌日、寒霞渓やその他の観光名所を巡ってから

フェリーで神戸に渡ろうと思っていたのに大誤算

(ネット情報を鵜呑みするのは危険だなと学習しました)

 

翌日も雨予報だったこともあり泊まって観光するモチベーションもダダ下がりしてしまい

調べてみると坂手港から22:40発の神戸行夜行フェリーがあったので

それまでの時間潰しに”二十四の瞳”映画村を外から眺め

泊まるのを断念して夜行フェリーに乗ることにしちゃいました。

この夜行フェリー、小豆島を22:40に出航して

高松経由で神戸着が翌朝の05:25

普通の直行便だったら3時間15分ほどの航路なのに

平日の神戸01:00発と休日の小豆島発神戸便のみ高松経由となって所要時間約6時間半

 

わざわざ大回りするのが面倒くさいなぁと思っていましたが

未明に目的地に到着してもかえって困るだろうとの配慮みたい

 

 

スマホでこのジャンボフェリーの新船を調べてみたと新船ロフトタイプの個室があったので

日曜の夜だし、空いてるだろうと思っていたら

『夜行だから個室でゆったり過ごそうと早く売り切れちゃうんですよ』と教えてくれ

代わりに”のびのび席”ANNEXのコーナーに他の乗客のいない席を取ってくれました。
(プレミアでお風呂とコーヒースペースも使えるからと丁寧な説明まで)

 

優しくて親切な売り場のオバチャンで嬉しかった~

この日は天候が悪かったからなのか 少々遅れて到着

船内はこんな感じ ↓

 

今回の席がこの3Cの”のびのび席ANNEX”

QRコードで入室ができます。

 

売店やスナックコーナーもそこそこ充実してますし

旧船でもありましたが、このジャンボフェリーには

讃岐らしく”うどんコーナー”があるんですよ。

プレミア席券でのみ入場できるスペースで

 

ミラクルファインバブルの湯舟をそなえたお風呂に

冷えた身体を温めようとしっかり湯舟に浸かったけど気持ち良かった~

足湯コーナーもありました。

このジャンボフェリー、元々香川県高松と神戸を結んでいるため

徒歩乗客の需要もあり、それ以上にトラック(特にコンテナ)の貨物輸送に人気なんです。

なんせその道(業界)の人間なので、煙突から機関室の構造を推察して喜んでました(笑)

高松港

自動車で乗り込めばエレベーターも使えますが

徒歩だとそこそこの階段を上る必要があるようで

バリアフリーの時代に遅れてるなぁとの印象

四国と本州の間には

神戸・明石から明石海峡大橋と鳴門大橋で淡路島経由して徳島に渡るルート

瀬戸大橋で岡山(玉野)~香川県の坂出のルート

広島県尾道(高速では福山)から愛媛県今治をいくつもの大橋で結ぶしまなみ海道

と高速道路網も充実して陸路でいつでも本州と四国の間を簡単に行き来できる時代ですが

 

近年では一般貨物物流の主流となりつつあるトラック輸送では

2024年問題を懸念する以前からドライバー不足が悩みの種だったこともあり

 

愛媛県からの水産物(養殖の魚介類)は東予とのオレンジフェリー大阪航路

工業製品は四国の中央に位置する新居浜と神戸を結ぶオレンジフェリー阪神航路

そしてたぶん主に輸出入に係る製品等は高松と神戸を結ぶジャンボフェリーでと

すみ分けされてるんだなぁとの印象でした。

05:20 定刻5分遅れで神戸(三宮)到着

早朝でトラックだらけの阪神高速で奈良まで戻りました。(06:05着)

 

この日走ったルートはこんな感じ ↓

愛媛県西条市の東予港を出発し

しまなみ海道で尾道に渡り沼隈(常石)で仕事してから

山陽道と瀬戸中央道で早島ICから新岡山港へ

新岡山港から小豆島(両備)フェリーで小豆島の土庄に渡り

土庄から小豆島町を抜けて

”二十四の瞳”映画村に立ち寄ってから坂手港からジャンボフェリーに乗船

高松経由の夜行便で

神戸に渡り

阪神高速と第二阪奈道路で奈良まで

フェリーを含めた移動距離約480km

運転した距離は丁度300kmとなりました。

 

正直に打ち明けると

早朝にフェリーから下船して四国から本州に渡り

仕事を終えてからの一般道、高速道路、フェリー、一般道、フェリー、高速道路

で帰宅

 

帰路の夜行フェリーでの寝不足と仕事の疲れもあってクタクタのヘロヘロでしたが

新しいルートをみつけ走破できて嬉しかった~

 

さて、残りの人生

あと何回くらいこんな旅ができるのでしょうか

 

とりあえず後悔しないように

身体が動かせるうちは精一杯人生を楽しもっと

 

 

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その③続Tongaについて】

2024-03-22 13:28:22 | 日記

さて、またまた続けてTongaの事(但し1980年代)を

ご案内させていただきますね。

 

まづは、Tongatapu島の交通事情について

最もポピュラーな公共交通機関はやはりバス

 

首都のあるTongatapu島では中古のバス(窓ガラスのないタイプがほとんど)

離島のVava’u島ではボンネット型のトラックの荷台に乗るタイプ

(ほとんどが砂洲でできたHa’apai諸島では車両よりも船外機付きのボートでした)

 

↓これは当時では最もまともなバスですが

なんせたぶんオーストラリアかニュージンランドからの中古

しょっちゅうエンストするのですが

乗客も慣れたもので

よく主要道路で数名の客が降りて押しがけしてる光景に出くわしました。(笑)

次に紹介するのが現地での名称がベートル(Vae Tolu:足三つ=三輪車)

大家族が基本のトンガでは主に市街地の中心部での

観光客御用達って感じでした。

↑ この三輪車の後ろにある中古トラックがそののち最もポピュラーな車となり

ファミリー単位(数家族、10~15名)で所有して

土曜日の市場での買い出しや

ピクニックと称してファミリー総出で荷台に乗り込みドライブを楽しんでました。

(購入資金は出稼ぎや移住しているファミリーからの援助で)

 

タクシーと言えば、この小型ジープのような”Mini Moke”(ミニモーク)

市場で買った食料品を積み込んでの利用が多かったですね。

Tongatapu島はほぼノッペリとした土地だったので普通に走ってましたが

起伏の多いVava’u島では下り坂になるとエンジンを切って

惰性で下ってました。

島嶼間の交通は

当時ドイツからの援助で供与されていた

Olovaha号(Tongatapu~Ha’apai~Vava’uを週一で運航)と

Tongatapu島の隣のEua島間用の小型フェリーがありましたが

 

その他の島々へは寄港しないのと

修理でニュージーランドにドック入りしたり故障したりと

運航が不定期になることが多かったため

中古鮪延縄船が運航していました。

(中古鮪延縄船の後ろはオーストラリア、ニュージーランドとの定期航路に就航していた貨物船で

Tongatapu島とVava'u島の直行便として利用したりしていました。但し旅客は甲板でのみ乗船可

それからセスナに毛の生えたような小型飛行機もあって

パイロットは一人だけ

Tongatapu島とHa’apai諸島のPangai,

Vava'u島の間を、安息日の休日を除きほぼDailyで飛んでました。

これは私が再赴任してしばらくたった1985年頃だったかな?

王様がどこかの先進国に得意のオネダリして

Royal Tonga Airとして当初は小型プロペラ機から

後にはたしか737がリースされて周辺諸国(Samoa, Fiji)他

NZ, OZにHawaiiまで就航していた時期もありましたが

なんせ王族による援助頼みの放漫経営で赤字の垂れ流しとなり

結局2004年に休業となりました。

それ以外にも

Vava’uにはParadise Hotelと言う名称の

トンガきってのアメリカンスタンダードの高級リゾートホテルがあり

アメリカ人の富豪が趣味半分のようにして自分で建て増ししながら

見事なリゾートホテルにしていたのですが

 

そのオーナーとビジネスパートナーの”グリーンベレー”あがりのドイツ系アメリカ人がいて

双発のプロペラ機を自分たちで操縦して

チャーターベースで首都のTongatapu島や

American Samoaなどにホテルの客を送迎したりしてました。

 

 

続いて食料事情も少々

 

それぞれの諸島の中心部に公営の市場があり

農家や漁師が持ち込みで販売するのが最も一般的な買い方

市場の中以外でもこうして露天売りしてました。

(手前がパンの実”Bread Fruit”、奥が食用バナナなど)

左半分がKumala(サツマイモ)右が西瓜

中央が熟したココナッツ(ココナッツミルク用)

左がlemaniと呼んでいた柑橘系(右はサツマイモ)

こちらは魚貝類市場の浅蜊

当時の価格でバスケット(籠)1Pa’anga(T$1=220円)

写真に撮るのを忘れてましたが

ロブスターが10匹単位紐でくくられてT$10=2,200円

蛸は天日干しして売られてましたがT$5=1,100円と高価な食材でしたが

その干し蛸、ココナッツミルクとChile(島唐辛子)で煮込むと激ウマでした

 

↓ この右端がトンガのオカマ(Fakaleti:女モドキ)

Tongaでは女の子が生まれないと、その末っ子を物心つく前に女の子のように育て

オカマにしちゃうらしく、ラグビー選手みたいなガタイのオカマが結構いました。

(因みに、テーブルの上にあるのはココナッツとパッションフルーツ

↓こちらは、ココナッツジュース用のもの

↓これが主食して最も人気のタロイモ

バナナとパパイヤ(バナナは基本房売り)

これは最もリースナブルな主食のキャッサバ(トンガ語でManioke)

主に皮を剥いて茹でて食べるのですが生だと毒(腸内で青酸ガスが発生)なのが難点

 

↓ 貝類(左側がトコブシ、中央がシャコ貝)

恥じらいもせず展示台の下で休んでるのが”らしくて”いいでしょ~

こちらは、主食の中でも最も高価なヤム芋(Ufi)

我々日本人がトロロのようにして食べていると「毒がある!」と恐れながら言われましたが

まだ生きてるから大丈夫だったんでしょうね。

これは最も一般的なタロイモ

茹でたり、ウム(焼いた石で作るオーブン料理)で蒸して食べます。

沖縄の田芋やハワイのように水田で耕作するものと違い

畑で栽培するのですがキャッサバよりも時間がかかるため高価でした。

 

上の積んであるのはタロイモの葉で(Lu)

ウム料理の時に、コンビーフや羊肉などを塩と胡椒で味付けして

濃い目のココナツミルクを加えてこの葉で包み

更にバナナの葉で包んで蒸すのですが

これがもう絶品

市場は基本平日は毎日開いているのですが

やはり一番混雑するのが土曜日の午前中

お客も沢山集まるので質も量も多くなり必然的に混むようになってました。

Fish Marketも同様ですね。

 

青果類の市場にも写ってましたが

蝙蝠傘は外出時の女性の必需品

雨ではささず、日除け用でした。

 

普段の買い物は

Tongatapu島では

そこそこモダンなOZ,NZ系スーパーマーケット2軒と

冷凍食材専門のCold Store(BeefのFiletや鶏、ソーセージの輸入品)

昔の田舎の百貨店的な地元のスーパーマーケットが数軒

近所にある掘っ立て小屋の雑貨屋(Falekoloa)で

 

もっぱら煙草の買い物がてら
このお店でオネーチャンと無駄話するのが楽しみのひとつでした。

(右端がわたし

当時は、南太平洋といえば”缶詰文化”と言われた時代で

海に囲まれてるのにサバやサンマの缶詰が主なタンパク源になってました。

 

海に囲まれた島国とはいえ

鮮度を要求される食材の保存法や輸送手段のなかった時代のこと

 

それらで外貨収入を得ることはできず

狭い国土では隣国Fijiのように奴隷を連れて来てサトウキビを栽培することもできず

英国も植民地とせずに保護領でいられたんだろうなと思っていました。

 

そんなわけで輸出できるものと言ったらコプラ(石鹸の原料となるココナッツ)程度しかなく

国としては、『男子が成人したら何百本のココナッツを植えること』

『そのために、国王(貴族)より土地を貸し与える』とされ

昔はトンガの主要産業とされていましたが

 

実際には、OZ,NZに移住したファミリーからの仕送りと

客船の寄港時に落とされる観光収入が主な外貨収入源となっていました。

 

オーストラリアを基点としたクルーズ船と世界一周航路の客船

稀に訪れる世界各国の海軍の船舶や私もその一人だった航海訓練の練習船が寄港すると

乗馬用の馬や

手工芸品や木彫りの土産物

その他もろもろのハンディクラフトの土産物屋が店を連ね

一般の人々の収入源となっていました。

客船が来ていない日は ↓ この有様

練習船で寄港した時も

出航前の帰船時刻になると土産屋はどこもかしこも投げ売り状態

次の船が入るまで収入が得られないため

1m以上ある木彫りのティキを$1で買ったなんて自慢してる練習生もいたなぁ

 

 

賑わってる様子と閑散としている様子の比較をついでご紹介すると

トンガ王国は、イギリスによって伝導されたキリスト教が憲法でも定められるようになり

休日(日曜日)は安息日

 

基本的に教会へミサに行く以外は外出が禁止され

労働は勿論、遊びさえも禁止

 

そんな様子をご覧ください。

”Nuku’alofaのバスターミナル”

(平日)

(日曜日)

”メインストリート”

(平日)

(休日)

 

”タクシー乗り場やバスターミナル”

(土曜日)

(日曜日)

”スーパーマーケット”

(土曜日)

(日曜日)

”メインストリート”

(土曜日)

(日曜日)

”魚市場&ローカル肉市場”
(土曜日)

(日曜日)

 

お次は、家や建物について

↓ 色灼けして観ずらいかもしれませんが

中央右側の赤い屋根の建物の様式がTonga式で

隣国のSamoaは酋長制の大家族のためこのような建物(但し、熱帯なので壁なし)に

酋長とその家族が住んでいました

Tongaは専制君主の王様と貴族、

その他は平民なので、その昔は椰子の葉葺きの家が一般的な住居でしたが

時代の流れで輸入材の合板製の壁とブリキ屋根の家が主流となった時期でした。

(下の写真は、ハリケーンの時に津波で建物が流されコンクリートの土台が残ったもの

↓ こちらの手前の木造家屋はハリケーンの後に

主にOZ,NZからの援助でツーバイフォーの壁とトタン板が数百なのか数千単位で送られたもので

一気にモダンな生活に変わっていきました。

 

それでは人々がどのようにして生活の糧を得ていたかと言うと

主な収入源としては、ほとんど民間の会社や工場などない国だったので

公務員が一番の就職先で

それ以外は第一次産業に占める割合が多かったと思います。

 

実際には、ほとんどのファミリーの中には

OZ,NZ,ハワイ、アメリカ本土へ出稼ぎに行き

そのまま不法滞在で市民権を得て移住した人間がいて

彼等からの送金があっての上ですが

 

観光客のお土産用のハンディクラフトを内職したり

 

内陸部ではココナッツにバナナ、パイナップル、パパイヤの栽培や

焼き畑でタロイモ、キャッサバ、ヤム芋等の農業だったり

 

海岸近くであれば

リーフ内での投網が最も一般的

ブダイや熱帯魚のような雑魚とは別に

海水で棲息するボラが高級魚として好まれてました。

協力隊の先輩隊員の一人は

元々は養殖隊員で派遣されていたのですが

現地人の女性と結婚して一度は日本に連れ帰ったものの

嫁が文化習慣の違いに馴染むことができず

あまりに非常識なふるまいを繰り返していたため実家の親から見放され

 

日本で暮らすことを断念して隊員時代に国内で積み立てられていた資金を使って

船外機や漁具(網漁の資材)を購入してトンガに戻り

木製のボートを使って嫁のファミリーの人間を使い漁師を生業とし

漁具漁法などまったく知らない現地では

毎日豊漁で市場でも人気が高く

一時はそこそこの収入を得ていて

彼の長男が一歳になった時のパーティーでは

最も高価な豚の丸焼きが何匹も、その他にもご馳走が並び

我々日本の青年海外協力隊員に加え

水産局に居たアメリカ平和部隊他のボランティアも招待され

(左端が桜井研次さん)

 

一時は現地でも成功者と思われていたのですが・・・

 

【またまた続く】

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その②トンガについて】

2024-03-13 16:45:26 | 日記

【その①からの続き】

そのトンガ史上最悪となったHurricane Issac (トンガ語でAfa Aisake)

私が赴任した2月2日からほぼ一月後の1982年3月3日

首都のあるTongatapu島を直撃したのですが・・・

 

おっと、続ける前に

トンガ王国がどこにあって

どんな島国なのかご説明しなければ失礼ですよね。

 

南太平洋(南半球)にある島国で

いま現在は海底火山の噴火で増えてようですが、私がいた頃は169の島々で形成され

位置的には南緯15度~23度30分(因みに沖縄本島が26度、ハワイのホノルルが20度)

 経度では173度~177度(ほぼ日付変更線上、英国グリニッジの正反対)


近隣諸国は、北(赤道寄り)に同じポリネシアのSamoa
北西部にその昔は南太平洋のパリと言われたメラネシアのFijiがあります。
 
私が赴任していた頃は、FijiにはAir Pacific
SamoaにはPolynesian Airlinesという名称の航空会社があり
他の近隣諸国への航路と、この三ヵ国間を飛ぶトライアングル航路が就航していて
アクセスの便利さもあって兄弟のような間柄でした。
 

トンガは、これら三ヵ国の中でも
その昔は最も優れた航海術を持ち隣国にも勢力を伸ばしていた海洋民族で
広大なる海域に米粒のような島々が無数に散らばった小国にもかかわらず
王族によって統治され、同一言語を話す類まれな国なんです。
(1,000年以上の歴史ある南太平洋最後の王国)
 
↓この地図よりも北側(赤道寄り)にも離島がありますが
主要な諸島は、人の暮らす島の中では最も南に位置し首都のあるTongatapu(ヌクアロファ)とその周辺、
その北にあるほぼ海抜数メートル未満の島々Ha’apai諸島(パンガイ)
 
その北(Tongatapu島から直線で約300km)に
トンガの中では起伏があって風光明媚な入り江に囲まれたVava’u諸島(ネイアフ)で
 
 
首都Nuku’alofaのあるTongatapu島は
北側の島のサイズと比べ長大なリーフに囲まれ
貿易風や海流から守られた天然の良港の最奥部にあり
そこに王家の宮殿が建てられたのも納得させられます。
 
↓の赤い箇所が、ハリケーンの時に避航して投錨していた位置で

下の↓の位置が水産局と初期の住居のあった場所


 
ということで、トンガについての地理的なご説明はここで一旦横に置き
話を続けますと・・・

 

 

乗船中だった鮪延縄漁船は

結局ハリケーンの進路のど真ん中でやり過ごすこととなったのですが

まだ船が新しかったこともあって

暴風と高波に翻弄されながらもなんとか耐え

 

翌日の昼過ぎ

風がおさまってからようやく岸壁に着岸し

とりあえず上陸して水産局と宿舎のあるSopuに向かったのですが・・・

 

ビーチ沿いにある道は波で抉られて車が走れる状態になく

沿岸沿いの家もほとんどが高波に浚われ

崩壊してたり建物ごと内陸部に運ばれて荒野のような有様

 

宿舎に着いてみると

日本製の頑丈な建物だったため外観ではまともそうだったものの

ビーチ側の2階の窓は強風で飛ばされてきた木の枝がささり

台所にユニットバス、リビングダイニングのあった一階は

津波で全ての家具が流されサッシの窓ガラスも割れてもぬけの殻

 

実は、高潮からの津波に襲われ

近隣の住人がその地域では唯一二階建てだったその建物に緊急避難で逃げ込み

どうやら扉を蹴破って侵入したため海水が流れ込み

そのまま濁流が反対側の窓ガラスを突き破ってしまった様子

 

同居していた倉松さんは行方不明で

呆然としながら二階の自分の部屋に入ってみると

幸運にもアナカン(別送品)で日本から送った

大きなジュラルミンケースが置かれていてホッとしましたが

 

もし重いからと一階に置かれたままだったら

津波で流されたうえ

中も水浸しとなり、着任早々何もかも全て失ってただろうなと

想像するだけで背筋が凍る思いにさせられたものでした。

 

その後、当然のことながら全島停電、断水となり

復旧の目処が立たない状態

 

市街地の官舎で暮らしていた専門家や隊員の家は

津波に襲われることも風で吹き飛ばされることもなかったため

 

食料を分けてもらいなんとか窮状を凌いだのですが

 

すぐにオーストラリアとニュージンランドからヘリコプターや

海軍の艦船によって支援物資が運び込まれ

ビーチ沿いには被災者用に数十張のテントが設営されたのですが

 

あの緊急援助の迅速さには驚かされましたねぇ。

 

その後息つく暇もなく

派遣先の後片付けに追われることとなったのですが・・・

 

実は、その数日後に任期を終えて帰国する予定だった漁労専門家の川上晋氏

(東京水産大出で、詳しくは知りませんがその昔国連関係の専門家として南米に派遣され

その後トンガに移り、後に日本のODAが開始され続けてJICA専門家として合計17年間過ごした人物)

水産局の施設に鮪延縄漁船の供与を手柄に華々しく見送られると思っていたのが

そのハリケーンで信じられないようなしっぺ返し

 

そんな惨状のまま離任できなくなり帰国を1週間ほど伸ばし

我々協力隊員の協力で被災した水産局の養殖施設や

鮪延縄漁船とともに供与された機器の予備品や漁具類を流されたブッシュの中から探し出し

予備品保管用に建てられていたトタン板張りの倉庫に

塩抜きや錆止めして片付ける作業に狩りだされ

朝から晩まで没頭することに!

 

鮪延縄漁船は元々の乗組員(機関長以外は残っていた)で操業に出発することが決まり

私は次の航海までは陸にいられることになり

とりあえずハリケーンの被災者ながらホッと一息

 

週日の日中は汗みどろになっての労働でしたが

アフター5や週末はプライベートの時間を過ごせるようになったため

前任者から引き継いだボロバイクで島内を巡ることができました。

ということで

またまた脱線してTongatapu島がどんなところだったのか

写真でご紹介させていただきますね。

 

 

これ↓は、その後たぶんマグロの缶詰工場があるアメリカンサモア辺りから買って

トンガ国内の貨客船として就航していた中古マグロ船

ハリケーンでほとんどの離島間に就航していた古い船が座礁や沈没してしまったため

こうして数隻が就航していたのですが

これらも数年内に別のハリケーンで全て座礁したり沈没しちゃいました。

 

岸壁の陥没箇所はハリケーンの信じられないような波の力で

桟橋の下から突き上げられて捲れ上がったもの

運良くハリケーン前に出航した時に撮った写真があり

被災前の王宮と無傷の同じ岸壁の様子が残されてました

こちらも同じハリケーン前の国営ホテル

International Date Line Hotel(国際日付変更線ホテル)

当時の日付変更線では

トンガが世界で一番先に日付が変わる位置にあったため

Tonga="Where time begins"と称してたんですよ。

これ↓は、島の南側のビーチのひとつ

リーフが近いので、素潜りのスキューバには最高でした。

これは同じ南側でもリーフのない断崖絶壁の海岸線が続く

Tongatapu島ではたぶん最高高度のFufanga Lupeという場所

こちらは、Tongatapu島北側のラグーンに面したビーチ

木陰に置いてあるのが丸太をくり抜いた手漕ぎのボート

島の最西端にある謎の巨石

Ha’amoga

どうやってこんな大きな珊瑚石を切り出し、組み立てたのか

文献のない口頭伝承の地なので

何の目的のものかも含め全く不明の建造物なのですが

 

同時にトンガは特に王族(貴族)は巨人だらけで

ガリバーの巨人伝説の元になったと言われてる国なんですよ。

 

 

島の中央部にもココヤシが生えているのですが

根元にいるのが馬(英国保護領だったのでサラブレッド)

木の高さがわかるようにと撮ってみました。

ここも島の南側のリーフのない海岸線にある

当時は全く知られていなかったダイビングスポット

珊瑚石でできた棚の下に外洋と通じた穴が開いていて

波によって水位が1~2m上下する上に

外洋側にはいつも鮫がウヨウヨしていてスリル満点の場所でした。

 

↓ ここは英国の総領事館

トンガ王国が1777年に海洋探検家Capt. Cookによって発見され

その後長年英国の保護領になっていたこともあり

外国公館としては当然一番

王宮に次ぐ歴史と威厳を備えた施設でした。

 

↓ は島の南西方面にある観光名所のひとつ

”Blow Hole” 外洋からの波が珊瑚岩の中にある無数の穴から噴き出し

季節と潮位によってそれはそれは見事な景観をあじわえる場所で

1985年には日本専売公社の煙草”セブンスター”のCMにも使われてたんですけど

たぶん関係者以外憶えてる人はいないだろうなぁ。。。

こちらは、トンガの典型的な墓地(土葬)で

王様だけが捕獲して食べられるFling Fox(フルーツバッド:コウモリ)の木も

墓地にあります。

 

こちらは、郵便局

私が赴任した1982年当時は

Cable &Wireless社の衛星を使った国際電話もありましたが

 

たしか日本だったら3分で5,000円ほどの料金で

手当として支給されるのが月額20,000円ほどの協力隊員には縁のない世界

 

日本との通信手段といえばせいぜいAir Mailで

国際郵便ルートとしてオーストラリアを経由するため

最速でも2週間ほどかかる時代でしたが

日本の事務局からOSCで新聞紙やダイジェスト版を送ってくれていたので

私書箱を確認するのが日課でした。

前述のとおり、Capt. Cookによって発見され英国の影響を受けて

王族から国民もほぼ全てがキリスト教徒となり憲法もキリストの戒律が用いられ

敬虔なるキリスト教徒国家となったことと

ほとんどの生活物品(主食の芋類、ココナッツ、魚介類以外の食料品も)は

輸入品のみ

 

そんな背景もあってかアルコール類を販売できるのも

ほんの一部のスーパーマーケットに限られ

なおかつ警察署で発行される免許証を持たないと買えない建前だったため

 

それなりの地位にある特権階級だけが利用できるCLUBがあり

そこではカウンターで雑談したりビリヤードしながら無制限にビールが飲めたのですが

一番敷居の低かった(TONGA CLUB) ↓

家畜としては

内陸部では馬、一般家庭では鶏か豚を放し飼いされていて

ほとんど食べ残ししないので

餌といえば主食の芋類の皮か魚の骨

ココナッツミルク用に果肉を削り取った殻の削りカスだったので

豚は、引き潮になるとビーチで鼻で浅蜊を掘り出して食べてました。

島の南側のビーチは、リーフが近すぎて魚もあまりいないのか

水遊びする習慣もあまりなかったようでそこらじゅうが貸し切りのプライベート状態でした。

これは首都のNuku’alofaの中心地にあった床屋(KOSIULU: 直訳するとCUT HEAD)
調髪は櫛とハサミだけの上

シラミがうつると言われてて一度も利用したことはありませんでした。

こちらODAで建てられた水産局

玄関や他にガラスの代わりにベニヤ板が貼られているのは

ハリケーンの時の高潮と津波で壊されたため

海岸に面していたため成人男子の胸の高さに津波の跡が残ってました。

これはまた鮪延縄漁船に乗船していた時の一枚

 

なんせ酒飲みなので手当てはほとんど全てビール代に消え

その上乗船中はタロ芋漬け(陸ではそこそこ高級食材なので機関長だからと山盛り出してくれるんですが)

拒絶反応で見るのも嫌気がさしていつしか全く食べられなくなり

ゲソゲソに痩せこけてしまいましたが

精神的には苦じゃなかったなぁ

当直中の機関室での一枚

日本だったら安全靴なのに、現地人に倣ってサンダル履きでした(爆)

ある日の日曜のミサでの一枚

先輩隊員から引き継いだバイクがツルツルタイヤだったため

直ぐにパンクしてしまったものの現地にはタイヤを入手する術がなく

同じ二階建て住居で暮らしていた先輩隊員の倉松さん(小児麻痺の方でした)が

乗れるようにと支給されたダックスホンダの後ろにタンデムで連れてもらってたのですが

自分で自由に動けず、辛かったなぁ

その日曜日のミサは一種の社交場で

昼には子供たちがキリスト教の神話を劇で演じたりするのですが

緊張して泣きながらセリフを言う女の子がいたりしたのが印象的でした。

↓ こちらは、その日曜のミサに行くために

馬車(サリオテ)に乗るのを待ってた一張羅で着飾った子供たちに声をかけて撮った一枚

 

島の中心部から少し離れただけで

こんな素朴な光景がみられた古き良き時代でした。

 

それなりの収入があり、輸入ビールの飲めるCLUBに行ける連中以外は

南太平洋ではもっともポピュラーなKAVA(カヴァ)が社交場

 

Kavaとは胡椒科の一種の植物の根を乾燥させ

石で叩いて粉状にしたものを木の容器に入れて水を加え

見た目は泥水のような液体を飲むのですが

 

アルコール成分は皆無ながら、飲むほどに神経を鈍らせる効能があるため

酒代わりに皆で円陣になって雑談したり歌を合唱しては夜を徹して楽しむのですが

なんせ大酒飲みなのでほとんどシラフのままで

水分の取り過ぎでお腹はチャプンチャプン

 

そんな風に文句いいながら手当がなくなると仕方なくKava飲んでたんですけどね

タイヤがパンクして相当苦労させられましたが

着任から半年ほどして隣国のサモアから新任の駐在員が来トンされ

窮状を訴えたところその場で承認され

ようやくまたバイクに乗れるようになって

飛び上がりそうなくらい嬉しかったなぁ

 

 

さて、またまた備忘録と友人知人に知ってもらおうと

もう少しトンガの事を記事にさせていただきますね。

 

 

(王宮と軍の式典)

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故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。【その①】

2024-02-29 17:54:43 | 日記

このブログでも何度か打ち明けさせていただいておりますが

私は青年海外協力隊昭和56年度3次隊

船舶機関隊員として南太平洋の小国”トンガ王国”に派遣されておりました。

(昭和57年1月~昭和61年8月)

その期間の当初の約9ヵ月間、先輩隊員として知り合い

現地よりも帰国してからもずっと交流を保ち

お世話になりっぱなしだった

桜井研次さんが昨年末に逝去していたとの訃報が届き

身の置き所もないほどの悲しみに耽っておりましたが

 

これを機会に桜井さんと知り合ったトンガ時代のこと

その後の桜井さんとの交流を記録しておこうと

記事とさせていただくことといたしました。

 

彼についての記述は、後半で書き記してゆく所存ですが

とりあえず、知り合うこととなったキッカケの青年海外協力隊時代から

振り返ってみたいと思います。

 

 

昭和57年 

1月27日、広尾にあった青年海外協力隊事務局を出発し成田から出国

 

JALのFiji経由NZオークランド行のできたばかりのビジネスクラス席は

我々協力隊員3人のみ

後部座席はハネムーンの新婚客でほぼ満席

 

翌28日にFIJIのNadiに到着、小型機に乗り換えて首都Suvaへ

Suva空港に出迎えにきてくれていた書記官に付き添われ

ホテルにチェックインしてから夕食をご馳走になり

翌日は日本大使館を表敬訪問してSuvaの街を散策

 

翌々日はまた小型機でNadiに戻る予定が荒天で欠航してしまったため

書記官に見送られ窓ガラスのないバスに乗り込み

大嵐の中びしょ濡れになりながら数時間揺られてNadiへ移動

大荒れで人気のないリゾートホテルに泊まり

翌早朝の31日、協力隊の駐在員事務所のある西サモアのApiaに飛び

日付変更線が異なるため1月30日にApia に到着

Apia に2泊してサモア時間2月1日(トンガは2月2日)

日本を出発してから6日後

ようやくトンガ王国の首都Nuku’alofaに到着となりました。

首都Nuku’alofaのあるTongatapu島のFa’amotu airportの

掘っ立て小屋のターミナルから出ると

出迎えてくれたのが先輩隊員である桜井さんと倉松さん

 

当時は外観がジープそのもののTOYOTAランドクルーザーの後部座席に乗り込み

宿舎へと直行し

(日本の無償援助によって水産局のハコモノとこの住居が建てられそこが着任当初の宿舎でした)

 

その夜は着任パーティーが開かれ

告げられたのが

たしか3日後に

着任する2月ほど前に日本政府からの無償援助によって供与された

鮪延縄練習船に乗り込んでくれとの事

一応名目は着任時の現地訓練と言われていましたが

 

実は、建造時から日本で研修していた機関長が帰国した途端逃げ出し

機関長が不在で処女航海(操業)に出られず

漁船の供与に関わっていたJICA専門家(川上晋氏)が

引き渡しを花道に17年滞在したトンガ王国での任期を修了して帰国するつもりだったのが叶わず

 

困り果てて私の着任を待っていたらしく

なんと日本から送ったアナカン(別送荷物)も届いておらず

着の身着のままで乗船しろ!と言う始末

 

成田からトンガまでの移動中の着替えしか持っていなかったため

私とは身長差ー15cmほどの桜井さんが(同じ機械系隊員だったので)

自身の持ってたツナギを貸してくれたのですが

 

あまりに理不尽な応対に愕然とするやら呆れ果てながら生まれて初めて漁船に乗船

初操業だったので専門家の川上氏と漁労の専門家の松本し

そして冷凍機隊員だった桜井さんと

同期で漁具漁法隊員も数日の予定で一緒に乗り込んだのですが

 

私は機関室で乗組員に当直の指導をしていたところ

岸壁を離れ操業の準備をしようとしたいた漁労担当の専門家から

延縄用のベルトコンベアが動かないから直してくれと告げられ

二の句が継げず訳もわからずスターターの電気回路で電磁弁が壊れていることがわかり

陸に戻って倉庫に保管されていた予備品と交換してようやく再出港したのですが・・・

 

2月も係留したままで、操業の準備や点検もせずにいたのかと呆れるばかり

暗雲の中を突き進んでゆく気分でした。

 

↓ 髭の伸び方からたぶん出航して1週間くらいに、半ば呆然自失しながら甲板で自撮りした写真

数日後、初操業を終えて同乗していた日本人は下船するとのことで

私も下船して別送した荷物を受け取り、生活の準備ができるかと期待していたところ

機関長としてそのまま乗船してくれと言われ

 

商船の船乗りとしての心構えはあったものの

商船は貨客を目的地まで運ぶもので

船速の遅い船で太平洋横断でもせいぜい2週間程度

 

それが鮪延縄漁船の場合は

積み込んだ食料か飲料水が尽きるか

捕った魚で魚倉がいっぱいになるまで港には戻らないとのことで

 

最短で1月、運が悪ければ一月半船の上で過ごさなければならず

冷房無しの10人部屋の船室に

風呂無し、タロ芋漬け、タバコも酒もない

野郎だらけの船上生活

山ほど苦労もしましたが、そのぶんトンガ語も上達できたし

なによりも同じ釜の飯を食った仲間として

トンガ人から心底受け入れられるようになれたのは

この経験があったから


鮪延縄漁船は

全速力で船を走らせ、船尾から餌のサンマをつけた延縄(長さにして150キロ)を

油圧の投げ込み器を使って3時間ほどかけて投げ込み

船を停止して1時間ほど待ってから

投げ込んだ縄を油圧の巻き取り機で20時間弱かけて引き揚げながら

鮪やカジキ、鮫などの大型魚を獲る漁法で

 

まさしく24時間操業の休みなしのタコ部屋のような生活

 

いまでは”災い転じて福となす”とも思えるようになりましたが

当時はまだ若干24歳になったばかり

異性もおらず週末のディスコにも行けないのは正直辛かった~(笑)

 

最初の一月の操業を終えて首都に戻り

任期を延長して3年間滞在していた漁業隊員の空港への見送りに同行し

(私、右端がその隣が桜井さん、川上さん一家と他の協力隊員との記念撮影)

 

この時は給水と食料の積み込みで寄港したものの

数日後にまた操業に出ることとなって船に乗り込んだのですが・・・

 

出港からわずか数日して突然の大嵐

無線で届いた情報では、大型台風が発生してトンガを直撃しそうとの事

(小さな船でしたが、遠洋漁業のため通信士が乗り込んでました)

まともな気象情報もない洋上で

トンガ史上最大級の台風に巻き込まれたら沈没間違いなしと判断し

 

サンゴ礁のリーフに囲まれた首都のあるTongatapu島に戻り

錨を2本海底に食い込ませ風に向かってエンジンを全速力にして数時間

気の遠くなるような時間が過ぎ

無事やり過ごしたのですが


機関部のエンジニアに

「こんな大型台風が襲来するの?」と尋ねると

「うん。毎年こんなだよ。」との答えに顔面蒼白


やがてリーフに囲まれてるのに

高波が港の岸壁の倉庫を超えるほどになり

海岸線沿いは越水して水浸し

 

同じように避航していたタグボートや小型船が


強風に負けて走錨し

次々とリーフに乗り上げたり沈没するのを目の当たりにして

(座礁した元鮪延縄漁船で離島間の貨客船として使われてた船)


これは大変なところに来てしまった‼️と

行く末を案じたものでした


【続く】

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血が騒ぐ!【2023年12月最強寒波を実感する旅】その④突然終わりがやってきた

2023-12-28 15:50:40 | 旅行

 

当初予定していた礼文島から利尻島へフェリーの欠航により渡れず

稚内に戻って翌日利尻島へ渡ろうと思っていたため

 

戻りのフェリーでは船や船内の写真も撮らず

更に時化と古い船だったからか大揺れ

礼文で冷えた身体を癒そうと和室に寝転がって着岸を迎え

 

港から往路と同じように徒歩でホテルに向かったのですが

稚内も一日雪が降り続いていたようで

朝よりも積もった雪にビックリ

いまどきは小型除雪機で歩道も処理してくれていて助かりました。

(但し、港から街までは週末で利用者が少ないからか雪が積もって歩道がなくなってました

 

ホテルのチェックインを済ませ、荷物を部屋に放り込んで

朝、支度をしている時に防寒用のハンチングと手袋が見つからなかったので

フロントで忘れ物がなかったか尋ねると残念ながらなく

昨夜の飲み屋かなと話して店に行ったのですが

やっぱり無し

 

前日は、その店とホテルに居ただけなのでおかしいなぁと思いつつ

礼文で食べられなかった雲丹丼かホッケ

または恋焦がれてたジンギスカンを食べたいなと

外に出たのですが、週末は開けていないのか

明かりの点いていない店だらけ

 

前日訪れた店もたぶん忘年会の予約で貸し切りの様子

面倒くさくなってホテルの斜め前の

一風変わった店をのぞくと

ハンバーグ以外にもホッケやニシンがお品書きにあったので

探検するような気分で扉を押したところ

マスターらしき人物にカウンター席をすすめられ

店内を眺めてみると

なんちゃらボンバーの鬼龍院のサインだらけ

(どうやら稚内にツアーや公演に来たら立ち寄る知られたお店のようでした)

 

とりあえず、生中を注文してから縞ホッケもありますかと尋ねると

「この天候で入ってこないんですよ」とのこと

ま、いいかと飲んでみようと思ってた地酒の最北航路も試し飲みして

反対側の壁を眺めると

どうやら井上陽水らしき写真と色紙に

先日急逝してしまったKANさんの写真と色紙もあり

つい先日、大阪では親交の深い友人が多かったからか

FMココロでは丸一日DJがKANさんのことを語る追悼番組をしてたため

親近感をおぼえ、マスターに語りかけ会話も弾み

店オススメのヌカニシン(鰊の糠漬け)を堪能

マスターから「もう雪にはうんざりです」と言われたら

極寒の地で暴風雪の中に身を置きたくて訪れてるとは口が裂けても吐露できず

それでも気分が良かったので熱燗に変えて

肴は猫マタギまで美味しくいただき

壁にピン止めされたさまざまな国の紙幣を眺めながら

「これまで70ケ国くらい訪れてるから知ってる紙幣だらけだけど

改めてこうして眺めると、人物ばっかなんだなぁって印象ですねぇ」と

つい個人的な感想を述べてました。

シメに名物のハンバーグが食べたかったんだけど

残念ながら少し前に売り切れてしまったのでキムチチャーハンを注文

この時、他の馴染み客らしい若者が支払いの時に

「先日ランチ食べようと思ってきたら閉まってましたね」とマスターに問うと

「お客さんがいなかったから早めに閉めちゃった」と返事してるのを耳にして

 

コロナやさまざまな要因で経営も大変なんだろうなぁと勝手に想像し

こちらもお会計を頼むと

 

あれだけ飲み食いしてるのに 四千円なにがしと

北海道でよくある単独客には5千円に満たないようにしてるのが申し訳なくて

 

つい太っ腹になってしまい

酔っぱらうと時々出てくる”フーテンの寅さん現象”

万札を渡して「釣りはいらないからとっといて」と恰好つけ

マスターから「申し訳ないです。せめて紙幣は受け取ってくださいよ」と言われたものの

そんな恰好悪いことできないよと後ろ向きに手を振りながら店を出たのですが

 

ひとりいい気分になってふんぞり返ってたのか

 

店を出て積み上げられた雪の塊を跨いで

除雪されてツルツルの道を横切ろうとした途端

 

身構える暇もなくスッテンコロリン

たぶん足の方が高くなるほど仰向けに転倒

尾骶骨と後頭部をしこたま打ちつけて

どうやら反射的に右手をついてしまったのか

手首に激痛が走っておお焦り

 

丁度少し離れた道を歩い居ていたカップルがその様子を見てたようで

女性の方から「大丈夫ですか?」と声かけていただいたのですが

「はい。ありがとう。大丈夫です」とすぐに立ち上がり

 

目の前のホテルに入ったのですが

歩くのも鍵を受け取るのも痛みが走り

 

仕方ない、早めに寝ようとベッドに横になり

少し寝たと思ったらフロントからの電話で起こされ

 

居酒屋から電話があって帽子と手袋が見つかりましたとのこと

 

既に時刻は23時頃で

明朝も6時出の予定だったので今夜中に引き取らないとと

 

再度着替え、おそるおそる雪道を歩いて帽子と手袋を受け取り

 



 

ついでにまたまたドーミーイン名物の夜泣きそばをいただき

温泉に浸かってから即就寝

 

夜中に目が覚めると、酔いも醒めたからか起き上がるのも大変なほど痛みが走り

歩くのも苦痛なのにフェリーに乗って利尻を訪ねて

一日同じように路線バスで島内と周遊して

飛行機を乗り継いで函館に行くのは無理だなと判断

 

残念な気もしましたが、礼文島で極寒の地を十分に味わい大満足してたので

今回の旅もこれでおしまいにしてもいいかな って感じでした。

 

またぞろ気持ちが変わらないようにとの思いと

しばらく稚内便の欠航が続いていたので残席がなくなってはと

すぐにチケットを購入し

 

 

極寒地仕様の装備をザックにパッキング

左からダウンジャケット、ウールの帽子x2、ネックウォーマーx2

極地用肌着の上下、雪山用二重の手袋、緊急用ブランデーに冬用トレッキングパンツ

雪山用スパッツに雪山用防水パンツ

これ以外に平地用のズボンにフリースのトレーナー、下着と靴下数組、

雪道用ブーツに雪山用レインジャケット、そしてPCと普段からのセカンドバッグを持参してました。

アイゼン、標高2000m級向け登山靴、雪山仕様にしたトレッキンポール

そして今回雪では不便だろうとキャリーケースをやめて

90Lの冬山行用ザック

ホッカイロを山ほどもっていざとなったらビバーグも辞さないつもりだったんですよ~(笑)

 

翌朝目が覚めてカーテンを開けるともう除雪車が動いて作業中

この日は帰るだけとなったため

空港バスに乗車するまでの時間(11:40)から逆算し

サウナに露天風呂まで1時間以上のんびりと温泉を堪能してから

ホテル前の前夜転倒して痛い目にあった道を慎重に歩き

(夜中にまた雪が降ってツルツル状態ではなくなってました

ネットでみつけ電話で営業を確認しておいた10時から開店しているラーメン屋へ

塩ラーメン大盛り+チャーシュートッピング(¥950)

美味しかったですよ~

ホテルに戻り、雪が降り続き視界の悪い宗谷湾を眺め

恋焦がれた極寒&暴風雪の地に別れを告げ

稚内駅のバスターミナルへ

今回スキップしてしまった宗谷岬へのバス時刻表と

路線図を眺めながら

『また来るぞ~』と決意した次第です。

30分ほどで稚内空港に到着

現在は1日1便の羽田航路と、2便の札幌航路のみの小さな空港

全日空しか就航してないのに愕然

まあ、それくらいの利用者しかいないってことなんでしょうね。

昔よくあった地方空港そのままで

プレミアムラウンジもないんですよ~

 

仕方なく久しぶりに搭乗ゲート前で待ち

お土産は、猟友会の班長に利尻昆布

会社のスタッフにはホタテのヒモのスナック、ホッケの燻製におしゃぶり昆布

うに昆布といか昆布のふりかけに あとついこのスープカレーの素まで(笑)

札幌便のプロペラ機が駐機しているのをみてまたまたビックリ

屋根に人が乗って雪下ろししている様子で

いつなのか着陸したのいいけど欠航になったんだろうなと勝手に想像(笑)

離陸して少ししたら 雲の切れ間から利尻富士がみられて大興奮

素晴らしかったですよ~

羽田から先は

今回嫌ってほど遅延や欠航を体験したので

変更不可のスマートシニア割だからと無事羽田に到着してからネット購入

 

伊丹から奈良行きの空港バスが19:00発しかなかったため

ゆったり羽田のラウンジで休憩してからと

17:00発 18:10着の便を選んだのですが・・・

 

今回はどうしたことか、何かに祟られたように遅延ばっかり

 

このフライトも結局機材の到着遅れで羽田発が最終的に17:40になり

伊丹到着が18:45となり 荷物を受け取れたのが18:57で

腕時計では19:00(たぶん30秒経過くらい)でバス乗り場に走りこんだのですが

19:00ピッタシで出発してしまったらしく

呆然

 

ブスっとしながら1時間10分その場に立ち続けて

20:10発に乗って奈良に帰りました。

 



 

 

【今回の旅の動画です。https://www.instagram.com/masafuminagasaka/

よろしければご覧ください。】

 

それにしても今回の旅

数々の障害や残念なできごとも起こってしまいましたが

ゴーアラウンドして新千歳に緊急着陸したり

結局翌日も欠航となってしまったものの

残席1のチケットをギリギリで購入することができ

バスが事故を起こしたものの猛吹雪の中をひた走り

無事念願の稚内まで移動することになったり

 

欠航が続いていたフェリーが運航してくれて夢の真冬の礼文島に到着

レンタカーは借りられなかったけど

そのおかげで路線バスで真冬のスコトン岬の絶景や知床に元地

ホワイトアウト寸前の道に大荒れの海を眺めながらの数時間

苦労した分、達成感も半端なかったですね~

凄かったなぁ

 

ジンギスカンと雲丹丼、ホッケのちゃんちゃん焼きが食べられなかったのは

『もう一度来なさい』って神の思し召しだったと信じて

 

次回は、できれば丘珠から利尻に飛び

もう一度礼文島に渡りホワイトアウトしそうな猛吹雪の中

スコトン岬周辺をトレッキングするぞ~

 

よろしければ みなさまも是非訪れてみてくださいね

 

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血が騒ぐ!【2023年12月最強寒波を実感する旅】その③夢にみた礼文島へ(だがしかし・・・)

2023-12-27 17:02:26 | 旅行

 

ようやく稚内まで到達できたものの

問題は離島に行くことができるか否か

 

12月23日 フェリーの運航状況を確認するために

5時起きしてネットから運航状況を調べてみると

稚内~礼文 稚内~利尻へは一部変更があるものの運航している様子に一安心

 

但し、予定では礼文から利尻に渡り泊まって

翌日利尻を観光してから飛行機で函館に飛ぶつもりだったのにそれは叶わなくなったため

 

 

またまた旅程変更

 



 

 

23日はとりあえず礼文から稚内に戻るか

気に入ったら礼文に泊まって稚内に戻り

稚内から利尻に渡って島内周遊してから飛行機に乗ろうと決め

 

6時とりあえずホテルをチェックアウト

雪が積もり早朝で静まり返った道をトボトボと歩き

ホテルから約15分後の6:25

フェリーターミナルに到着

すぐさま乗船券を購入して

乗船を開始していたためそのまま船に直行

ネットでは古い船しかないと思ってたら

結構新しい船でビックリ

ただ、時代なのか船内売店は今年限りで休止なんだとか

そこそこ豪華そうな1等もありました。

定員キャパもそこそこで

5月から9月のハイシーズンは観光客でごった返すんだろうなぁと想像できました。

稚内港は宗谷湾(ノシャップ岬と宗谷岬の中側)にあるため

出航後しばらくは暴風雪警報下でもあまり揺れませんでしたが

ノシャップ岬をかわした途端

それなりの揺れとなりましたが

新造船で揺れ防止装置(フィンスタビライザー)が取り付けられてるのか

揺り篭程度の心地よい揺れでした

礼文ではレンタカーを借りて移動しようと

レンタカー会社の価格を調べ

離島価格で強気で高額だなぁと思いつつ

他の選択肢はないなと覚悟しながら

一応、路線バスの時刻表も調べておいたのですが・・・

 

 

気温は到着時で-9℃ 風は6mとあり 11時以降は降雪

 

稚内出港がトラックの積み込みに遅れが生じていたため

(数日間暴風雪警報の発令による強風と高波で欠航してたので荷物も多かったはず)

定刻より20分遅れの8:55着岸

礼文の香深港フェリーターミナルでは数名の乗客が下船したものの

島の人だったのか ターミナルに残ったのは自分だけ

トイレに入って完全防寒に身支度を整え

吹雪いる外に出てみると こんな感じ

さて、とりあえずレンタカー会社に向かおうとしたところ

軽自動車もあって少し安かった日産レンタカーは雪の積もり方からもう休業している様子

 

トヨタレンタカーは営業している様子に安堵して

「すみません。今日5・6時間借りたいんですけど」と言うと

「今日!お貸しする車はありませんよ。スコトンに行きたいの?

こんな天気だから道路の除雪もしてないし、なによりトイレもなにもないし

吹き曝しで無理無理! このフェリーで稚内に帰った方がいいよ」とのアドバイス

「ええーっ! スコトン岬に行きたくてきたのに・・・ 

それなら夕方の便までターミナルに居るしかないのかなぁ

と肩を落として応えると

 

「それなら宗谷バスさんに行って路線バスを聞いてみたら?」とのこと

少し離れた事務所まで吹雪の中を滑らないように気をつけて歩いて向かい

受付の女性事務員の人に事情を話すと

「それなら定時のバスでスコトン行って、危ないからそのままそのバスで戻ってきたらいいよ」

「トイレも何もないけど、男の人はほれ、どうにでもなるっしょ」と優しいアドバイス

隣に座ってたドライバーに「写真撮る時間待ってあげて。途中も案内できるっしょ」と言ってくれ

 

「ターミナルからスコトンまで片道1240円かかるから1日乗り放題2,000円の乗車券買って、

香深に戻ってきてからも別の路線に乗って島内回れるし」となんと親切なアドバイス

喜んで購入して ターミナルに戻り

発車時刻の10:45まで 時間潰し

いつもの事ですが、事前に訪問先のことを何も調べず

その場で実体験して感動するのが好きなため

礼文島のことを何もしらず

観光案内所もハイシーズン以外は閉めているため

館内をぶらぶらと

『ふ~ん、こんな食堂があるんだ』とか

島の地図を眺めながら 位置関係や名所を調べ

 

発車時間ぴったしに到着したバスに乗り込み

(ターミナルからは自分と船泊まで乗車したおばあさんの二人、

途中で単身赴任の会社員風の男性と女子高校生が高校まで乗っただけでした

礼文の中心地である香深を抜けると

道路と路肩との境界もわからないような道になり

脱落して仲間が助けにきているところに遭遇して

レンタカー借りれなくて正解だったなぁと胸を撫で下ろしました。

フェリーターミナルから9キロ北に

どうやらディーゼルエンジンの発電所があり

その先はほとんど漁師らしき家々が山側にへばりつくように点在しているだけ

更に北に10キロほど行った先

スコトン岬と金田ノ岬に挟まれた湾内に香深に次ぐ集落があり

そこが船泊(港に病院、郵便局、小中学校、スーパーなどもありました

 

1970年から1992年まで稚内航路のフェリーが就航していたらしく

古くは明治時代から小樽から稚内の間を海運が担っていて

小樽から増毛~焼尻~天売~鬼脇~鴛泊(利尻)~香深(礼文)~稚内に寄港してたんだとか

礼文の石油備蓄もこの船泊にあるんですよ。

 

日本の西の果て与那国島が台湾との密貿易で栄えていたように

礼文島もロシアとの密貿易で栄えたそうで

加賀の豪商銭屋五兵衛貿易の地として石碑があるそうです。

 

いや~勉強になるなぁ

因みに、この船泊には現在も礼文空港があり

以前は稚内とを結ぶコミューターが就航していたものの

乗客が少なすぎて採算が取れず休止中でした。(空港下ってバス停があってビックリ)

船泊を過ぎると湾内沿いの道なのに吹き曝し感が増し

秘境感たっぷり(笑)

 

フェリーターミナルから約1時間

路線バスの経路で約30キロ(バイパスがあるのでそちらなら25キロ)

礼文島最北端のスコトン(須古頓)岬到着

バスは到着から2分後に発車なのですが

運転手さんが頑張ってくれて

「3分あります」と言ってくれたので

暴風の中を走ってトド島を眺め動画も撮り

小用(トイレ)も済ませ

また走ってバスに戻りました

 

強風に曝されてるせいか

アスファルト部分は雪が吹き飛ばされてるんですよ

この鮑古丹には 事実なのかヤラセなのかわかりませんが

TV番組の”なぜそこ”で秘境に一人暮らしする元漁師の老人(たしか90歳過ぎ)を訪ねてましたが
実は、路線バスも通る道にスコトン自治会もある場所でした

https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202311/22752_202311091825.html

 

まあ、TVなんてそんな世界なんだな

(スコトン漁港と灯台)

この手の漁港もそこらじゅうにあって

場所によっては数十メートル、離れても数百メートルおきに

ほんの1・2隻の小型漁船のために船の揚げ降ろしと海に出るためのスロープとテトラポットが積まれていて

どんだけ税金ばら撒いてんだろ と驚くというかなんと言ったらいいのか。。。

ところどころに高台に登るための屋根付きの歩道があって

多くは小学校や中学校の通学路でしたが

こんなに雪が積もるなら当然だよなぁと眺めていました。

(冬はずっと氷点下となって雪が融けないんですね~

約2時間の路線バスの旅を終えてフェリーターミナルに戻り

ホッケの塩焼き定食や寿司の看板の出ていた2階の食堂に入り

『さて、何食べようかなぁ』とワクワクしながらメニューを眺めていたところ

『今日はラーメンだけです』『あと団体の予約が入ってるから1時で閉店です』と言われ

愕然としながら 「それじゃあいいです」と店を出て

 

ネットで調べておいた ホッケのちゃんちゃん焼きのある炉端屋に行ってみたのですが・・・

「ホッケありますか?」と尋ねると、

「昼は炭熾してないからお昼のメニュー(普通の丼ものと麺類のみ)だけなんですよ」とのこと

 

ほとんどのお客さんはラーメンを注文してましたが

なんせ冷え切った身体が少しでも温かいものを欲していたため

鍋焼きうどんと熱燗を注文

 

利尻昆布で育った雲丹丼とホッケのちゃんちゃん焼き食べたかったなぁ

ま、あの天候じゃあしばらく出漁できてないだろうし

生の海産物を求める方が間違ってるよなと反省

 

午後から営業の日帰り温泉もありましたが

他の路線バスで少しでも礼文のあちこちを訪ねようとターミナルに戻り

島の南端の知床と

西海岸の元地を周遊

 

路線バスの旅から戻ると

帰りのフェリー出航1時間前

 

チケットを買って館内でフェリーを待ち

ようやく雪雲が少なくなって利尻富士の裾野がみえだしたなぁと思ったら

フェリーが入港

(またまた遅延。時間にルーズなのかな?と勝手に想像してしまいましたが・・・)

 

実は海は大時化で大揺れ

与那国島の通称ゲロ船を思い出させるピッチングとローリングとなりました。

 

 

 

 

レンタカーが借りられなかったり

ウニもホッケの食べられなかったけど

 

宗谷バスの事務員の人の親切に対応がとっても嬉しかったし

 

なによりストコン岬で暴風雪に曝されただけでも大満足

 

いや~とっても充実した一日でしたよ

 

 

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