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Be Natural

気取りも なんのてらいもなく 
あるがままの自分を 感性の赴くままに
そんな独りよがりの書き捨て日記です。

東加王国 華華餐廰 郭瑞章さん(台湾高雄出身)は今何処

2025-05-01 11:07:21 | 雑感

これまでブログ記事として何度もトンガ王国のことを書かせていただきましたが

 

そのトンガ時代において

忘れられない仲良しで恩人でもある台湾人の家族がいました。

 

航海訓練所の練習船青雲丸で初めてトンガを訪れた1979年7月

寄港中に当時あった中華レストランで食事をしたのが忘れられずにいたのですが

1982年2月に青年海外協力隊員として赴任した時には

首都Nuku’alofaの王宮横のメインストリートに

小さなチャイニーズレストランができていて

 

(↓これはいまの写真ですが、この場所に掘っ立て小屋に毛の生えたような平屋の店舗がありました)

ランチメニューは隊員の手当でも気軽に食べられるお値段だったので

陸にいて平日のお昼にはほぼそのお店に通い

 

台湾人夫婦で営業していて

英語もTonga語もあまり話せず言葉では意思疎通できませんでしたが

店主の”コーさん”はその昔東京で料理の修行をしていたこともあって

親日家でカタコトの日本語も話せたので

現地では数少ない同じ東洋人とあって

とても仲良しになり懇意にしていました。

 

隣国サモアから駐在員が出張してきた時や日本からの来訪者があると

よく会食にお勧めしてたのが

①王宮の隣にあるRestaurant Sea View (ドイツ人シェフのレストラン)

お気に入りは

フィレット・ミニオンFillet Mignonとハンガリアン・グーラッシュスープ

そしてワインは、Blue Nan

 

②島の最西端のビーチにあったGood Samaritan Inn(フランス人シェフ)

この店では

グリルド・ロブスター他シーフードが大好きでしたねぇ

 

 

そしてこの台湾料理レストラン”華華餐廰”(Hua Hua Restaurant)でした。

 

(※観光客向けのHina Caveという洞窟でウム料理とFire Danceの’Oholei Beachや

同じく観光客向けにドイツ人が経営するFafa Island Resortもありましたが

トンガ在住の人間が普段使いする場所ではありませんでした)

 

前述のレストランはそれぞれが定期的に王様の料理人を兼務していましたが

Hua Huaの店主のコーさんもその一人

 

台湾大使館や1979年にあった中華レストラン”東華(トン・ファ)”のコックだったのか

それとも華僑として新天地を目指してきていたのか

そんな経緯から独立してお店を開いたようでした。

 

小さな狭いお店でしたが

安価で味も良かったのでリピーターが増え

それはそれは繁盛していつもお客でいっぱいになり

 

何時頃だったか(たぶん1983年頃)

実は、その昔1970年代に日本でも有名になったトンガ人の相撲力士の

部屋の息子(楠田氏)がやっていた自称”日本食堂”が王宮近くのビーチ沿いにあり
(不味いけどボリュームだけはある焼飯とかしかありませんでしたが

 

高くはなかったけど美味しくなかったのでお店はいつも閑古鳥が鳴いていて

そのお店を譲ってもらったのか移転

 

おっと、ここでトンガ人力士のこともご説明しておくと・・・

 

1976年にこんな事件があったのを覚えていらっしゃいますか?

 

 

 

 

 

 

トンガ人は、義理を重んじる性格なので

つい亡き親方の女将さん側についてしまい廃業することとなってしまったのですが

 

その親方の息子が、たぶん元力士たちに誘われてトンガに渡り

日本食レストランを営業していた様子

 

 

またまた余談となってしまいますが

当時はチャーリー小野寺なる

自称トンガ王国特別顧問と言っていた詐欺師がいて

 

俳優の田宮二郎にトンガには石油が埋蔵されているとの夢物語と

その採掘利権を得るために国王に会わせるとの甘言に騙され

(実際にチャーリー小野寺は国王にも取り入ってたので信じてしまったみたい)

 

結局、田宮二郎は手形や印鑑証明を乱発して借金を抱え精神的にも追い詰められ

猟銃自殺をしてしまうのですが・・・

 

その他にも、それもチャーリー小野寺絡みだったのか

田中邦衛さん主演のドラマ【トンガ冒険家族】のモデルとなった

トンガの百貨店もどきの商店の支配人として数名の日本人が招聘され移住したものの

 

実際には田舎の雑貨屋の店番

夢破れて、現地で養鶏場を経営して失敗

それでも帰国できずに居残ってアメリカ平和部隊のボランティア相手の食堂をしていた人物なども居ましたが

日本から手当の出ている我々には妬みしかないようで親しく話す間柄ではありませんでした。

 

それとは別に、それこそ戦前(WWII前)に移住した日本人の子孫も居て

彼等は、ほとんど未開の地のようなトンガで床屋や商店を経営し

そこそこ成功した子孫がいたので

つい騙されてしまったんでしょうか。

 

そんな黒歴史もありましたねぇ

ー・ー・ー・ー・ー

 

いつもながらすっかり脱線してしまったので

話を戻しますと

そうして、海岸沿いのそこそこ部屋数のある楠田氏が食堂をしていた一軒家に移ってからは

円卓や普通サイズのテーブルをいくつも置いたホールに加え

人数によってサイズの異なる個室もでき

欧米系の居住者(主に援助団体のメンバーでしたが)にも人気となり

海岸沿いでオセアニア周遊のクルーズ船が寄港すると

それらの観光客も立ち寄るようになり

コックにウエイトレスも増員して大繁盛

 

そんな状況を知ってか、1985年頃には台湾大使館直営のような東華(トン・ファ)が営業を再開し

翌年には新しく離れた場所に台湾華僑のレストランができるなど

競合が現れていましたが、味は華華餐廰が一番で

 

その後もずっと続いていくんだろうな

いずれまたトンガに訪れたら会えるだろうと気軽に考えて

今生の別れとは思わず帰国したのですが・・・

 

時代の流れで世界各国同様、トンガ王国も中華人民共和国と国交を結び

台湾大使館は閉鎖、台湾からの華僑の人々も離れてしまい

 

1993年に再訪した時には

”華華餐廰”も既に中共本土人の店に変わっていて大ショック

 

「前の経営者はどうした?」と尋ねても不愛想に「知らない」とけんもほろろ

 

出身が台湾の高雄だと聞いていたので

その後台湾に出張する機会があったため

高雄でトンガでレストランを経営していた人を探せないだろうかと相談していたのですが

華僑として世界中に移住しているお国柄

 

それとまだトンガで暮らしていた時代(1986年頃)

中華人民共和国がまだ混沌としていた時代で

台湾から対岸の厦門に渡って事業を始める人が増えていたこともあって

”コーさん”も、そんな中国本土での事業展開の夢を語っていたので

台湾には戻ってないかなと

 

いつかTV局にトンガで知り合った台湾の大恩人として売り込み

人探ししてもらえないかなと思いつつ

いつの間にやら三十有余年が過ぎてしまいました。

 

とは言え、いつも心の中には”コーさん”のことがあるからか

先日、FBの友達の【知り合いかも】に”高”さんなる人物があり

もしかしたら”コーさん”の遠い親戚かもと思い出し

メッセンジャーで問合せてみようかな?と思いつつ

Tonga、Fua-Fua Chinese Restaurant、高、とグーグルで検索していたところ

 

↓ こんな記事を発見

 

Fua-Fuaだと思いこんでた”華華”がHua-Huaだと知り

中文にしてみたところ

 

”コーさん”=”高さん”と思い込んでたのが

”郭さん”で

郭瑞章(Kuo Jil-Chang)さんとわかり

 

 

検索でなにか見つけられないかと

東加王国、華華餐廰、郭瑞章と入力してみましたが

この記事以外には何もヒットせず

 

 

それならば、この記事を書いたライターに問い合わせてみようと

決意した次第です。

 

どうしてそこまで会いたいのかと言うと

【故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。その⑨】で

記事にした劇症肝炎を発症して生死の境を彷徨っていた時に

 

約1月、自宅で寝たきり状態となって動けなくなっていて

いつものように頻繁に食べに来ないことから劇症肝炎を患っていることを知り

郭さんも奧さんのスーリーもとても心配して

超高額な漢方薬の【熊の胆】と栄養剤アンプルの箱を持って見舞いにきてくれ

 

その後緊急帰国を経て、半年後に再赴任し

任期を延長して最終的に帰国することになった時には

 

お店を休んで貸切状態にして普段のメニューにはない料理で

送別会を催してくれて大感激

 

開業当時は、華僑として新天地に向かう時にはよくあるようで

苦労するであろうこと、衛生状態などわからないことから

子供を親族に預けていたようで

新しい店に移ってから奧さんのスーリーが台湾に帰国して娘さんを連れてきたのでした

家族ぐるみの付き合いだったので

娘さんも親戚のおじさんのようにとても懐いてくれてましたねぇ。

(↓左端は、現在ALSで闘病中のオノチン)

ということで、コーさん(郭さん)は生涯忘れることのできない大恩人だったのです。

 

あと台湾の人との想い出の一つが、その任期を終えて帰国した時に

同じFIJI行の飛行機で前述した新しくできた庶民的な中華レストラン

のコックさん夫婦が乗っていて

 

英語もトンガ語もほとんどできず

話しかけてきたので筆談で問いかけると

「FIJIは詳しいですか、どこか安い宿を知りませんか」との質問

 

事情を聴くと

やはり既に大繁盛していた”華華”には敵うわけもなく

お店はいつも閑古鳥が鳴いている状態だったこともあってか

夢を抱いてトンガに渡ってきたものの諦めて帰国することになったと聞かされ

数日後(週に2便しかなかった時代のこと)我々と同じNadiから東京行きのフライトに乗って

乗り継いで台湾に帰国するとのこと

 

それはあまりにも可哀相だなと

空港からSuvaでいつも定宿にしていたアパートメントホテルに連れて行き

支払いをして、出発までゆっくり過ごせるようにと手配して

 

私とチャンカーは日本大使館とJICA事務所で離任の挨拶と会食に招待され

懇意にしていた書記官は長年お疲れ様でしたと

翌日にはFIJI西部のリゾートホテルを手配してくれていたため

搭乗日にNadiでまた会おうねと別れ

 

あまりに不憫で空港では機内で隣同士となるように席を取り

成田までの間も筆談をして日本でもお世話しようと思っていたところ

 

成田では何やら迎えの人がいて

幼児の国に行ってお土産を買うとの話をしてくれたのですが

何のことやら理解できず(どこかの幼児施設と思い込んで)

 

空港で別れてしばらくしてから、ようやく東京ディズニーランドだと気づき

そう言えば、やはり現地での生活が安定するまではと

子供を台湾に残してきたと話していたのを思い出し

 

事業に失敗して失意の帰国でしたが子供に会えるのは嬉しいだろうなと思いつつ

 

帰国してからは、JICA中部支部が一日も早く働いて欲しいと切望されていたため

東京での帰国手続きをしながら名古屋でアパート探しをしたり

実家にも帰らず引っ越しや新しい職場での仕事に忙殺され

名古屋での生活を始めていたところ

 

実家の母から電話があり、何やら国際郵便の小包が届いてるとのこと

 

そのうち帰省するからそのまま置いておいてと伝え

数週間後の週末に家に帰ったところ

台湾からの小包で、送り主が帰国した時のご夫婦と知りビックリ仰天

 

高級烏龍茶やいろんな台湾の食べ物がダンボールにぎっしり詰まっていて

たしか手紙も同封されていて、お世話になったお礼が書かれていました。

 

そんな台湾人の恩義を忘れない義理堅い気遣いにビックリ

 

その後も何度もそうした贈り物が何度も届き

私は名古屋勤務の後、東京の新宿三井ビルのJICA本部となり

そのままフィリピンへの派遣となったのですが

 

フィリピン赴任中に実家が新築することになって

そのご夫婦からの手紙と住所がわからなくなって

とうとう音信不通となってしまいました。

 

そんな訳で私にとって台湾の人はとても大切な存在で

なかでも華華餐廰の郭瑞章さん夫婦はどうしても再会を果たしたいと

もしかしたら、どこかでタグから検索に引っかかるかもと

こんな記事を書かせていただいた次第です。

 

まず、トンガの華僑家族の集合写真を掲載していた

【台湾光華雑誌】に連絡を取って問合せてみて

日本と台湾のTV局に”恩人探し”のネタで番組を作ってもらえないかと手紙を書き

 

台北駐大阪経済文化弁事所(台湾の領事館)を訪ねて

相談してみようと思っているところです。

 

どうか再会が実現されますように

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難病と闘っている友のご機嫌伺いを兼ねて東京下町散歩【その③谷中の裏路地歩き】

2025-04-15 14:38:47 | 旅行

代々木八幡でPerfect Daysの世界に浸ってから

千代田線の代々木公園駅に向かい

 

久しぶりに千代田線に乗車

 

まだ22歳ごろの1980年頃

東京八重洲口近くの会社から当時のGFの住む豪徳寺へのアクセスは

①日本橋(銀座線)~渋谷(京王井の頭線)~下北沢~豪徳寺(小田急線)

②大手町(千代田線)~代々木上原(小田急線)~豪徳寺

③東京駅(JR中央線)~新宿~豪徳寺(小田急線)

 

そんな訳で時々通勤に使ったこともあったのですが

当時、八重洲から千代田線の大手町駅まで歩くのは遠かったなぁとの印象でしたねぇ

 

最近も、東京在住の学生時代の仲良しとの飲み会が

千駄木の居酒屋だったりするので西日暮里から乗ったりもしてましたが

今回も、千駄木で下車

団子坂の交差点に出たので坂を登っていったら谷中墓地だろうと登っていったところ

アレッ 森鴎外記念館があってビックリ仰天

気づかず真逆の本駒込方面に行っちゃってました

 

アチャーと思いつつ千駄木に戻り 丁度お昼時だったので

ラーメン屋に飛び込み

正油ラーメンとミニ麻婆丼セットを注文

ランチタイムは餃子も無料でいただけて

東京だし、ラーメンだけでも1,000円超えだろうなと

北里柴三郎と500円硬貨、100円硬貨を数枚準備して

オアイソしたところ

なんと950円

 

いや~なんかお得感で幸せな気分にさせていただきました

 

その後、狭い路地を抜け”よみせ通り”に出ると

谷根千歩きの観光客だらけ

 

全国チェーンのホテルの看板を見て、ここで日暮里って言うか~

と突っ込みを入れながら横切り

そのままどんどん自転車も通れない裏路地を歩き

場違いな気にさせられる小洒落た洋館風の建物の玄関に釘付け

絶妙な階段の高さに『猫が先それとも階段が先』とアレコレ勝手に考えちゃったり(笑)

スマホで調べてみるとボタン屋さんなんだとか

谷根千が有名になってからだったか

古い店も残ってるけどオシャレな店増えましたよねぇ~

(蛇道周辺や裏路地の猫町ギャラリーとか)

坂を登った先で

感性に響く土塀を発見

奈良にも東大寺の裏参道や平城宮址の東にある海龍王寺には

同じように瓦を積んだ土塀があって

実は、近々家の古い牛小屋と古い離れの隠居館と

石垣の上に建っている東・中・西の蔵を解体しようと考えていて

瓦をただ捨ててしまうのに躊躇していたので

こんな土塀にできたらいいなぁとマジマジと凝視してしまいました。

 

そんな風に、いつもの如く目敏いヤツなので

あれこれ目移りしながら

学生時代の同級生が営むバッグ屋に到着

同じ商船学校を卒業したのに

なぜか新しくそれまではなかった日本製のバッグ屋を始めようとしていた

浅草の資産家とほぼ二人三脚のようにモノづくりを始め

 

デザインの専門学校で感性を磨きながら

イタリアの最高級の革を仕入れ、手作りのバッグや財布などの小物類まで

ヨーロッパ製品に負けない製品を生み出して

販路を拡げるために率先して営業にも力を入れて

銀座の和光にも置いてもらうようになり

その後は日本全国のバッグ専門店でも販売できるようにして

創業者も高齢となって、社長を任されるだろうと思っていたところ

突然、創業者の子息に社長の座を譲ると言われ

 

たぶん奈落の底に突き落とされたような気分になりながらも

それまでデザインも企画も全て行ってきて、その会社を作ってきた自負もあり

負けじ魂でたった一人で独立(2017年)

その時から営んでいるお店なんです。

 

それまでの人生をかけて知名度をあげ業績を伸ばしてきたため

個人を知っている人からとのつながりを大切にしながらも

一からの再出発で

 

たぶん、最初はそれまでの業者との長い付き合いもあって

順風満帆の船出だろうと思っていたと思うのですが・・・

 

現実の世界では”渡る世間は鬼ばかり”

退職金を資金に店舗の改装をして品をそろえたものの

 

最初の頃はとても苦労してましたねぇ

そんな実情を知って時々立ち寄ってはバッグを購入したりしているのですが

 

つい2・3年前までは『いつまで保つだろうか』と思っていたこともありましたが

喧嘩別れした創業者が亡くなり、後継者は自力でデザインできないため

元の店は直営店を閉めて、直営するのは彼の店だけとなり

それまでの知名度でネット販売や全国のバッグ専門店での販売を続けているものの

新製品のデザインを提供するようにしたらしく

 

更には、インスタグラムやウエブサイトで

特に外国人観光客の目に留まったようで

谷根千歩きに訪れた特に欧米人が顧客となったり

ここのデザインや品質、ニッチさを好むお客がつくようになって

ようやく落ち着いてきたようです。

去年、会社のスタッフへのプレゼントの小物を買いに訪れた時に

次はこれを買いに来ると約束していたためバッグを買いに訪れたのですが

今回、店に入ってすぐに

「この布のバッグ買うわ」と言うと

なんせ8人部屋の全寮生活時代に同室だった間柄

「またぁ、一番安いヤツじゃなくて高いの買ってよ」と言われましたが

 

「もうさ、全然オシャレに興味持たない爺さんになっちゃったしね、似合わないんだよね」

とお断りして それならと代わりに2つ買うことに(笑)

 

あと、なんせ路地から少し入った隠れ家のような店で

なかなかお客が入らないだろうと思っていたところ

近くの空き地にアンテナショップ(?)のコンテナハウスを置いて

(やはり同じ学生時代からずっと親しくしいる後輩が

埼玉だったかどこかで中古のコンテナハウスがあるからと

運搬から設置、改装まで格安でしてくれたんだとか)

 

そのおかげで散策している観光客の目を惹くようになり

空き地にはテントも張って冬はホットワインを販売したり

手作りパンを販売してるんだとか

ということで、何はともあれ上向いてる様子に胸を撫で下ろし

店をあとにしました。

 

自分自身もネットカフェで大失敗したり

口先だけの造船所に騙されたり、生かさず殺さずの取引先と

幾度も辛酸を舐めた経験があったので

『蘇ることができて良かったなぁ』と心の底から思ってるんですよ。

 

そんな嬉しい気分で谷中霊園で桜を愛でながら

(↓これは霊園のど真ん中にある駐在所怖がりの警官には勤まらないだろうなぁ

そして紅葉坂を抜けて 

日暮里駅へ

この日のフライトも夜中に18:00発のシニア割を予約していたのですが

思いのほか早く帰れそうだったので、車内で予定より1時間早い飛行機に変更し

(金曜日だったからかなんなのか、最近JALは満席だらけ)

 

山手線を浜松町で乗り換えて

モノレールで羽田空港に向かいました。

ホントは、16:00発の飛行機でも乗れそうだったのですが

17:00発にして予定より早く空港に向かったのは

実は、ANAはメンバーラウンジが使えるので

ビールでも飲み倒してやろうと思ってのこと

 

よしよしと優先レーンに入ると

身なりで一般客が間違って入ってきたのかと行く手を遮られ

「GOLD MEMBER だぞ」と告げてQRコードを読み取らせようとしたところ

赤いランプが点滅

(↓の一番下”手続き中止中”の表示

係員から「機材変更のため手続き中断してるので、あちらでお待ちください」と言われ

そういえば、なんでか羽田ではANAとの相性悪いんだよなぁ

と思い出し

 

まさか、機材の準備でまた遅延とか

下手したら翌日のフライトとか言い出さないだろうなぁ

不安に思っていたところ

 

ようやく変更の案内が届き

 

ようやくラウンジに入り

この日は、ビール2杯+トマトジュース(Red Eye用)+青汁ラテをいただきました。

 

この日の移動はこんな感じ↓でした。

↑ GPSの届かない地下鉄部分は乗車駅と下車駅の出入り口の間は

直線になるんですねぇ。

 

機材が変わったものの 予定時刻に搭乗開始され

ただ、787から777となったため

座席のVODのモニターも充電のコンセントもなし

仕方なく大型モニターの”孤独のグルメ”観て

 

因みに、前日の押上から平山さんのアパートを探し

京島から曳舟の電気湯と下町散策を楽しんで

浅草で桜橋まで往復してから地下街の福ちゃんで飲食を楽しんで

落合から東中野、新宿西口から都庁を往復して合計12.9km

17,339歩と そこそこいい運動ができたなぁと嬉しかったですね~

 

伊丹空港では、珍しく予定時刻よりも早く到着してくれたため

空港バスの出発まで余裕があったため

ターミナル内のベンチに座っていたところ

制服に腕章をつけた警官が何人も巡回していて

万博のためのテロ対策で警備を強化してるんだろうなと気づきました

申し訳ないけど今回の万博、絶対に大失敗して

維新や橋下、竹中平蔵他利権に群がる金の亡者たちに天罰が下れと思っているのと

せっかく二日間東京で楽しく過ごさせてもらってたので

『見なかったこと(万博のことを思い出さない)』にしました。

そうして予定どおりのバスに乗り込み

70年の万博の時のエキスポランド跡地にできた観覧車を眺め

(付録:空港バスにも車椅子のスペースができてました

 

そして二日目のアクティビティデータは 

冬の間はホント運動不足だったので

やっぱ外出するって大切だなと再認識

 

あと、今回買ったカバンと同級生なのでいつも何かオマケをいただくのですが

今回もかわいい小物入れをもらいました

 

おっと、備忘録なので往路のトレースも

普段は、海ほたるの真上を通過して

A滑走路かC滑走路に着陸することが多いのに

この日はどうやらB滑走路だったみたい

 

いつもながら楽しい旅をさせていただきました

 

さて、次はどこに行けるかなぁ~

 

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難病と闘っている友のご機嫌伺いを兼ねて東京下町散歩【その②桜橋と浅草地下街焼きそば福ちゃんとそれから】

2025-04-14 14:50:05 | 旅行

【その①からの続き】

ジジババだらけで断念した”電気湯”から

肩を落としながらトボトボと曳舟に向かい

京成曳舟駅に着いたのですが

なんせ”同じ”ってのが大嫌いなしょーもない面臭い性格

羽田から京急・京成に乗ったので

どうせなら東武だろうと

東武曳舟駅に向かいました。

ただ、この曳舟辺り

再開発されちゃって大型のイトーヨーカドーがあったりと

下町歩きを期待してたのでガッカリ

駅裏はそこそこ下町の雰囲気を残していましたが

お腹ペコペコだけど先に進もうと

電車に乗り込み

浅草駅に到着

Perfect Daysの聖地巡礼を続けなければと

お腹と背中がくっつきそう(「んなわけなかろーが」と突っ込み入れながら)でしたが

桜橋へ向かいました。

隅田川の堰堤にはまだ桜の花が残っていたのもあって

 

おかしな和服姿のインバウンド観光客だらけ

競歩で桜橋へと歩を進めてみると

な、なんと橋が塗装中

それにしても、いつながら持ってるヤツ(?)だなぁと

めげてしまいそうでしたが

めげずに

平山さんが銭湯に浸かってから自転車で渡っていたシーンを思い出しながら

対岸に渡り

向島側からも橋を眺め

三浦友和演じるスナックのママの元亭主のTomoyamaと

陰踏みをしていたのはこの橋の下だったのかなと勝手に想像して

もうインバウンド観光客は見たくないなと

江戸通りから浅草に戻りました。

 

私にとっての浅草のランドマーク”神谷バー”を横目に

浅草地下街へ

実は、Perfect Daysの聖地巡礼で

平山さんのアパートの次に楽しみにしてたのが

この浅草焼きそば“福ちゃん”

平山さんと同じ席に座りたかったのですが

生憎既に他のお客がいたのと

何よりもお昼抜きで腹ペコだったので

場所なんてどうでもいいやとカウンターに座り

とりあえずの生ビールを注文して

牛スジ煮込みを注文したのですが

なんせ腹ペコに喉もカラカラだったので

生ビールを一気に飲み干してしまい 

続けて”赤星”を注文

名物の焼きそば(大盛り)に玉子焼きトッピングして

瓶ビールも飲み干しちゃったので、ウーロンハイを注文

ウーロンハイも飲み干してしまったので

男梅サワーを頼み

ウインナー炒めを注文してシメにしちゃいました。

(ホントは平山さんと同じ、焼酎の水割りにしたかったのですが

メニューになかったので、珍しくつい遠慮しちゃいました)

時刻は丁度午後5時前だったからか

お客は全てハケちゃっていましたが

 

その少し前にカウンターの隣に、常連風の女性客が座り

”ハイボールと梅きゅう”を注文して

チャチャッと飲み干してお勘定して帰っていきましたが

ついアレコレ注文して長っ尻の自分には真似できないなぁと

羨ましかったですねぇ

 

あと、お土産に”りくろーおじさんのチーズケーキ”を買ったのですが

「10時間以内に冷蔵庫に入れてください」と言われていたため

 

難病の友に会うのは翌日の金曜日の9時からだったのですが

早めに渡しておこうと帰宅ラッシュ前に銀座線に乗り

日本橋で東西線に乗り換え

介護士に「すぐに冷蔵庫に入れておいてくださいね」と手渡し

バスで新宿西口に出ることに(まだ宿を決めてなかったので)

西口に到着して地下のロータリーから高層ビル群を眺めていたら

昔勤務していたJICA本部(新宿三井ビル)が懐かしくなって

『これは都庁の展望室から夜景を眺めないと後悔するな』と

都庁に向かったのですが・・・

 

この↓有様

こんな行列に並ぶなんて耐えられないなと断念して

都議会議事堂に出たところ

この人だかり

時刻は丁度19:30前『これは何かあるな』と警備員に

「190:30からですか」と当てずっぽうに尋ねると

「はい、そうです」との回答からプロジェクションマッピングだなとひらめき

それでも飲み足りなかったので

昔を思い出しながら西口に出ようと思っていたところ

突然の土砂降りの雨となってしまったので

雨宿りのつもりで第一回目のプロジェクションマッピングを観覧

それでも雨が降り続いていて

軽く寿司でもつまみながらひっかけようと思っていたのに

好みの店は大行列

雨具を出すのも面倒になって

もう、宿を探すのも面倒だからネットカフェの鍵付き個室でいいやと

飛び込んだのですが

 

全国チェーンでそこそこ使い勝手のいい快活クラブも

東京は人手不足だからか清潔感も劣るし

フードサービス無し、シャワーは有料で朝は1時間以上待ち

ほとんど個室で寝るだけなのに

 

12時間滞在で約5,000円

 

カプセルホテルならたいがい大浴場があるけど

個室じゃないからどうにも安眠できないので

悩ましいところなんですよ。

(前回は、運よく蔵前の東横インに空室があったのですがマグレだったみたい)

JICA時代や業務出張なら京王プラザ

プライベートならサンルートかワシントンホテルだったんですけど

昨今のベラボウな値段にギブアップ

(学生時代は、コマ周辺のディスコで夜を明かすか、歌舞伎町の風林会館のサウナでしたけど)

 

ネットカフェを出てからは、目の前にあったうどん屋に直行

かけうどん(大盛り)+ちくわ天&ゴボ天を平らげ

昔懐かしいヨドバシカメラの北館を眺めて

西口バスターミナルへ

 

再開発ですっかり様変わりしてましたが

地下街の換気口はそのまま使う様子

昨夜に続き親友の家に行き

介護士さん、看護師さんのお散歩の準備をお邪魔にならないように待ち

今回は、既に満開を過ぎていましたが

花が残っている方角から神田川の両側(新宿区側と中野区側)をぐるっと回り

また家に戻ってから雑談を交わし(文字盤を使って)

友人が疲れないうちと「また来るから元気でね」と

退室することにしました。

 

昔のダイアリーを調べてみたところ

2013年10月に西船橋へお見舞いに行き歩けなくなった姿を見て

これはもっと会いに行かなければと思ったのですが

なんせ生きるのに必死で多忙を極めた時期で時間が取れず

引っ越し前にまた西船橋を訪れたのが2014年10月

 

引っ越し先の中野を訪問したのが2015年8月

11月にまた上京する機会を作って訪問し

2016年には、春と秋にお酒とつまみを買って訪れ

一緒に飲みながら楽しく過ごしていたのですが

2017年2月 家の玄関まで行ったものの 中から鍵が開けられず断念

その後11月と2018年4月にはお見舞いに行けていたのですが

その後、人工呼吸器を使うこととなり

食事もできなくなって胃ろうに

その後発熱したり、風邪やインフルエンザを感染させたら取返しがつかないと

思っていたところに新型コロナが蔓延

 

ようやく本人も落ち着いて「会いに来て欲しい」とSNSで伝えられ

再訪できたのが2022年3月の桜の季節

 

その後も不定期にお見舞いに訪れているのですが

喜んでくれるなら、もっと行かなきゃなと再認識した次第です。

 

こうして、今回の主目的のお見舞いを終え

それじゃあ、もう少しPerfect Daysの聖地巡礼しようと

新宿駅から小田急線に乗り

代々木八幡で下車

 

実は、1980年当時付き合ってたGFが豪徳寺(実際には赤堤)に居たため

勤めていた東京八重洲口の会社への通勤などで

小田急線はかって知ったる馴染みある鉄道だったのですが

 

たしか、豪徳寺へは急行で下北沢乗り換えていたため

普通の駅はほとんど知らず、たぶん初めて下車したはず。だから新鮮でした。

 

山手通りを歩いて代々木八幡に向かい

映画で何度も出てきたトイレが目に入り ついニンマリと

このトイレ、壁の隅に紙が挟まれてて

その後、平山さんが見知らぬ相手と〇✖ゲームをしていた場所

続いて、お昼時間になると

この↓の階段を上って

このベンチに座り、サンドイッチを頬張ってた場所

(声かけるわけでもなく毎日一緒になる見知らぬOLと)

モノクロフィルムで写真を撮っていた木々を見上げ

神社を散策

 

平山さんが、宮司さんに無言のジェスチャーだけで承諾を得て

いつも持ち歩いている紙袋に入れてるような植物を見つけ

心の中で万歳してました。(笑)

今回の聖地巡礼はここまで

 

まだ時間が早かったのでついでに前回本所吾妻橋で会えなかった

学生時代の同級生に電話をかけ

もう少し下町歩きを楽しもうと、そちら(?)に向かうことにしました。

 

 

【その③に続く】

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難病と闘っている友のご機嫌伺いを兼ねて東京下町散歩【その①平山さんのアパートを目指す】

2025-04-13 10:58:00 | 旅行

トンガ時代の1984年

私がシニア隊員として再赴任した年に

初めて青年海外協力隊の調整員が派遣されることになり

 

その初代調整員が協力隊のスリランカOBで同じ歳のオノチン

 

しばらく水産局敷地内の我が家で三食付きで居候してたり

連絡事務所ができて住まいを移転してからも

ほぼ毎日顔を合わせ

我が家にテレビとビデオがあったので

当時流行っていたレンタルビデオを一緒に観てたり

同じく酒好きだったので、毎晩のように酒を酌み交わしたりと

 

それまでは日本人で徒党を組むのを嫌い

子供の頃から仲間内でつるむというのが大嫌いな気質

 

そんな人間だったので、気楽に話せる相手ができて

現地では勿論、その後もお互い海外生活が続いたものの

奈良で暮らすようになってからも

東海道線の鈍行で遊びに来たりとずっと仲良くしていたのですが

彼もJICA専門家となってスリランカ、パキスタン、フィリピンに派遣され

その後筑波の農業研修センターでの指導者となっていたのですが

こちらも起業してから闇雲に仕事に没頭していたこともあって

いつしか音信不通となっていたのですが

 

 

たしか東日本大震災直後

協力隊の同期会を開催するために所在不明だった仲間を探すために上京し

あるOGの昔の留守家族住所のあった南千住駅で電車を待っていた時に

電話がかかてきたんだったか、かけたんだったか

 

「とうとう車椅子生活になっちゃったよ。顔みせにきてよ」と言われ

当時、西船橋に住んでいるとのことで

訪ねてみたところ

なんだかリューマチにような症状で

東京女子医大に通院してたものの原因がわからず

免疫が自分を攻撃して立つことができないと聞いてビックリ

 

そんなことになってるとはつゆ知らず

それは大変とちょくちょくお見舞いに訪れていたところ

 

奥さんの仕事先への通勤や本人の通院も楽になるようにと

東中野に引っ越したのですが

 

まだお酒を飲んだり、普通に食べることもできたので

手土産に酒と肴を持参しては飲みながら歓談していたのですが

 

段々症状が悪化してきて

ある日訪ねたところ

セキュリティのしっかりしたマンションで

玄関、住居への通路とそれぞれ中から解除してもらって入るのですが

 

各戸の玄関は扉のロックを手で開けなければならず

手が動かなくなって、それさえできなくなり

 

とうとうその日は会うことができず

諦めて奈良に帰ったことがあり

 

その後、ようやく病名がALS(筋萎縮性側索硬化症)とわかり

どんどん悪化していって面会できなくなり

その後呼吸筋も衰えて人工呼吸器を取り付けることになり

食事もできくなって胃ろうとなり

会話もできなくなってしまい

しばらく面会もできなくなっていたのですが

 

その後、難病指定されているため

常時介護士がつくようになり

車椅子ですが介護士、看護師が付き添って散歩に行けるようになり

 

散歩の時に顔を見せに来て欲しいとFBのメッセンジャーで連絡があり

症状は徐々に進行しているとのことで

その後、ほぼ年に一度、気候的に無理のない春先に

近所の神田川の花見の時にお見舞いに行くようになっているんです。

 

そんなわけで、今年も桜の開花を聞いて予定を立て

お見舞いに行ってきた時の記録です。

 

散歩に行くのは、毎週金曜日の朝9:30からなので

前日の木曜日に上京することにして

 

4月10日 日付が変わってすぐにシニア割で

朝の伊丹空港行バスで最適な時刻の飛行機を予約

(最寄りのバス停が7:50発で伊丹北ターミナル8:36着なので)

 

その後、朝6時起きして準備しようとしたところ

夜中に予約してからどうにも寝られなくなり

睡眠不足感満載で、無理せず次のバスで間に合う飛行機に予定変更

 



 

(なんせ奈良からのバスは本数が少なく9:55発となって選択の余地なし)

 



 

バス停に向かい

山桜が咲き始めた生駒山を眺めながら予定のバスに乗り込んだのですが・・・

 

第二阪奈道路から近畿自動車に入ろうとしたところ大渋滞

淀川を渡るも遅々として進まず

1970年の大阪万博の太陽の塔の前を通過するのは

早くて11:00過ぎだろうなと


となると11:30のフライトは無理だとその場でキャンセル

泣く泣く次のフライトを予約して

 

※実は、こんなこともあろうかと、

最近は予約しても購入を確実に乗れるまで待つようにしているため

キャンセル料は発生しないようにしてるんです。

 

そんな経緯を経てようやく搭乗することとなったのですが

 

実は、この日はどうしてもJALに乗ろうと決めていたため
(柔らかいから食べられそうな”りくろーおじさん”のチーズケーキをお土産にしたくて)

(りくろーおじさんのお店は、JAL側の北ターミナルしかないので)

 

保安検査を済ませ、チーズケーキを買ってフードコートに入り

ちょうどお昼時だったので 神座のラーメンを食べようと思っていたら

↓ この大行列

お腹ペコペコでしたが

それなら東京の下町の町中華で食べようと

飛行機に乗り込み

羽田に到着して京急乗り場に着いたのは既に14:00前 

この日は、映画”Perfect Days"の聖地巡りしようと決めていたため

羽田から直通の都営浅草線で押上へ

(この間、車中はほぼマナーの悪いインバウンド観光客だらけでウンザリ

インバウンド観光客が目指すスカイツリーから逃げるように反対側のA2へ

地上に出て

 

ホッとしながらスカイツリーを見上げ

映画の中でも役所広司さん演ずる平山さんが運転する軽自動車の背景に映りこんでた

横十間川の水道橋を横目に

平山さんの暮らしていたアパートを探し

すぐに発見

これこれ と心の中で叫んでました

映画では、扉の上に蛍光灯がありましたが

どうやら美術担当があえて取り付けたものだったみたい

このアパート、どうやらメゾネットタイプの部屋が使われましたが

それとは別のタイプの部屋もあるようでした(そのための外階段)

↑毎朝、車に乗り込む前に缶コーヒーを買っていた蛍光灯が切れそうな自動販売機は

やはり映画のセットだったようで、実際にはありませんでした。

 

後から気づいたのですが、この扉は勝手口

雨戸が閉まっていましたが、二階の手前が毎朝霧吹きで水遣りをしていた植物を置いていた部屋

左手奥が、寝落ちするまで本を寝ていた部屋なんだなぁと感慨深く眺め

裏側に回ってみたところ、毎朝目覚まし時計の代わりとなる

箒で落ち葉を掃除していた神社があり

神社側に面して玄関らしき引き戸の入口がありました。

隣のアパートとの間や

その奥の小路からもスカイツリーがすぐそこ

平山さん(役所広司さん)も参拝していた神社を眺めてみたところ

なにやら”うまか棒”のパックが子供達へのプレゼントに置かれていて

心がほっこりしちゃました。

改めて地図を眺めながら平山さんのアパートの位置を知り

その後、仕事を終えて作業服から着替えてから通っていた

銭湯を目指し

十間川を渡り

十間橋通りを歩いていて古道具屋を発見

無造作に置かれたレコード盤がちょっと可哀想

その奥に、これまた味のある牛乳屋さんを見つけ

”保証牛乳”の名前に目が点

スマホで調べてみると、どうやら結構有名な製品だったみたい

 

瓶入りのコーヒー牛乳が飲みたかったなぁ

その後、怪しげなネーミングのデリバリーバンをみつけ
『なんで、FujisanじゃなくてFujisunなのかなぁ」と思ってみたり

しっかり営業していたスナック(カラオケ)を眺めたり

味のある窓ガラスの店を見つけ

わけわかりませんでしたが

不思議な空間だなぁと興味深々

やがて踏切があり

どうやらこれは東武亀戸線なんだと知り

その先を左折してすぐに

このお店を発見

残念ながら時刻は15:00過ぎで休憩中でしたが

『よし、そのうち食べにこよう』と 

この干からびた蝋のサンプルを見て決意しました~

この↓パン屋さんいい味出してるでしょ~

未だ現役で営業されてるんですよ~

こんな空間をみつけ

へぇ~と感心してたら

そのすぐ先に 電気湯がありました

そこそこ歩いて軽く汗かいてたし

平山さんを真似てひとっ風呂浴びようと思っていたのですが

開店直後で次々とジジババが入っていく様子に怖気ずき

(ジジババで芋洗いだろうなと

↑この自転車、歩いてきている人もそこそこ見かけたのに

これだけ入っているのかと想像すると

とても入る勇気はありませんでした。

 

【その②続けて聖地巡礼】

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土佐の高知のはりまや橋でハチキンを探す旅【後編】

2025-04-07 10:10:01 | 旅行

翌朝

部屋で朝御飯を済ませ

 

事前に下調べして

この日の現場(高知港の桟橋)へは

いつもならレンタカーを借りるかタクシーを使うのに

市電でも簡単に行くことができて

レンタカーを借りに行ったり、帰りに港でタクシーを呼ぶ方が面倒だなと

 

最寄りの高知橋電停に向かい市電に乗車

途中にいくつか高校があり、途中からは通学の高校生で賑やかになりましたが

終点の桟橋通り5丁目で下車したのはたった二人でした。

 

実は、この高知港の桟橋

1978年に練習船が接岸したのもこの桟橋で

2008年にも市街地へも市電で気軽に行けるなと

キャンピングカーで家族旅行した時も気兼ねなく駐車させてもらった場所

(市電に乗って銭湯でひとっ風呂浴びてから司に行ったんです)

 

この時の仕事は身軽な作業だったので

気楽に歩いて現場の船に向かいました。

 

9時前に乗船して、作業しながら乗組員に事細かにレクチャーまでしても

12時前には終了して下船

 

近くにあった観光船で浦戸湾を眺めようと思ってましたが

残念ながら欠航日

それでは長居は無用とまた市電に乗り

ホテルに戻って着替えを済ませ

 

どこかで昼食でもとスマホで探すも

 

平日の昼だからかあまりパッとした店もなく

前日、鰹のタタキを食べてなかったので

観光客向けの場所ですが、ひろめ市場を目指すことに

はりまや橋で乗り換えたのですが

インバウンド観光客だらけでビックリ

丁度13:00の時報の時刻となり

くりから時計を撮影する人でいっぱいでした

(↓欧米人らしき観光客が膝をついて動画撮影してるのにビックリ

電停は溢れるほどの人だったのですが

後から来た中国人は行列にも並ばずに横入り

 

大橋通で下車しましたが

車内はインバウンド観光客でほぼ満員で

途中下車しようとしても思うように進めず眉を顰める地元民らしき人たちの様子から

オーバーツーリズムで迷惑してる感じをヒシヒシと感じましたねぇ

 

あまり歓迎されていないのかもと

少し気を削がれましたが

ひろめ市場の周辺はインバウンド観光客目当ての店だらけ

この時、既に13:30頃でしたが

内部はまだまだ大混雑

 

ネットの口コミをアテにして失敗ばかりなので

店の選択に少し悩みましたが

藁焼きタタキが売りの明神丸に決め

塩タタキ定食(大:10切れ)に

あおさとうつぼの天ぷら、そして鯨の竜田揚げに

生ビールと司牡丹に土佐鶴の冷酒を頼み

(混雑していて、いちいち後でお酒を注文するのが面倒だったので

 

お腹いっぱいで大満足

座ってたテーブルの目の前の店も良さげでしたが

ご飯も食べてお腹がくちてしまったため

長居は無用と市場を出て

 

戻りは腹ごなしをかねてアーケードを歩いていると

いまどき珍しい制服屋が大行列

たぶん高校の入学が決まった子供たちなんだろうなぁ

嬉しそうに集まっていました。

このアーケード、たぶんドーナツ化現象でシャッター化してたのが

インバウンド観光客で再復活してる様子

まあ、オーバーツーリズムで悩ましいことが多いけど

良かった面もあるんだなと眺めてました。

あと、古くからのサンゴ店がいくつか残ってるも微笑ましかったですねぇ。

でも正直、そんなに売れないだろうなぁと思いつつ

 

あと、つい目に留まったのが このTシャツ屋

なんだか、我が身にピッタリだなと

買おうかなと一瞬迷いましたが

いい歳した爺さんが、そんなの喜んで着てたら顰蹙ものだろうなと

やめておきました。

その後、また”はりまや橋”に戻り

『さて、もう一泊して土佐の高知を満喫しようかな』と思いながら

橋の周辺を歩いていたところ

ペギー葉山の名前に目が釘付け

うんうん、そういえば”南国土佐をあとにして”って歌あったよなぁと

案内板を読んでみると

その背景(望郷の歌、故郷の歌)と知って つい感動

今でこそ、高速道路も整備され

飛行機も羽田便が10便/日、大阪便が6便/日、

その他、福岡、名古屋、小牧に成田便と台湾便もあり

一昔前には信じられないほどアクセスが便利になっちゃいましたが

 

以前は

古くは名古屋~高知~鹿児島航路のフェリー(わずか4年ほど就航したのみ)

東京からなら”さんふらわあ”で南紀勝浦経由高知航路(1973年~1997年)

大阪からなら当初は弁天埠頭、その後南港からの夜行フェリーが一番ポピュラーな交通手段で

たぶん高知の人間にとっては、大阪が最もアクセスの良いポピュラーな都会だったはず

(1971年~2005年の間就航)

 

それ以前は、瀬戸大橋もなく本州から四国に渡るのも一苦労

そのうえディーゼル車で四国山地を縦断するのも大変で

 

高知はまさしく陸の孤島状態でしたよね。

 

そんな時代のこと

四国を離れた人たちが、この歌を愛唱していたんだろうなと

その気持ちが伝わり、なんせ単細胞なので、ついジーーーーンとしちゃいました。

 

その後、なんせ年齢と薬の影響でトイレが近くなってるので

地下の公共トイレに行ってみると

 

昔の”はりまや橋”とその歴史が書かれた案内があり

じっくりと読んでいたら

 

これはついでに一泊するよりも

改めて出直した方がいいなと思い立ち

 

そのままスマホで飛行機を予約して空港行のバスに乗りこんじゃいました。

 

それなりの年齢となって、そこそこ金銭的にも余裕ができたので

 

次回は、この料亭”得月楼”で

【陽暉楼】の雰囲気を味わいながら、”べく杯”でハチキンと飲みたいなぁ

と期待に胸を膨らませながら空港に向かいました。

 

https://www.tokugetsu.co.jp/ozashiki.html

(高知出身の島崎和歌子みたいなハチキンだと肝臓いわせてしまいそうですが

帰りの飛行機、前日もそこそこ揺れましたが

気圧が安定していないようで

またまた遅延

「乗務員も着席したままとなるため機内サービスができませんでのご了承ください」と言われ

ボンバルディアに乗り込み

それでも悲鳴があがるほどの悪天候はなく

伊丹に到着

結局、またまた予定していたバスには乗り遅れ

 

さて、ハチキンとのお座敷遊び

いつ行けるかなぁ~

(歳とってあまり大酒飲まなくなった仲間が集ってくれるかが問題だったりして

 

※今回もシニア割を利用しましたが、航空運賃が約15,000円

空港バスが伊丹側が約1500円弱、高知が900円かかるので

合計約17,500円 所要時間4時間半(待ち時間含む)

(乗り換えは、バス・飛行機・バス

 

鉄道とOCATから高速バス利用なら7,500円で所要時間6時間15分

(乗り換えは大阪難波からOCATの1回のみ

 

鉄道のみだと13,350円 所要時間5時間32分

(但し、環状線鶴橋、大阪、新大阪、岡山と乗り換え4回

 

金額はどうでもいいんだけど

楽さから考えると高速バスが一番かなぁ一日5便も有るし

 

 

 

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土佐の高知のはりまや橋で”ハチキン”を探す旅【前編】

2025-04-06 09:35:18 | 旅行

3月12日

半年前から予約の入っていた仕事のため

またまた出張

 

最近使っているバス停から空港バスに乗りこみ

この日は伊丹空港へ

なんせ”タダ酒”に滅法弱いオヤジなので

真昼間でもラウンジではまずはビールから

ほぼ定刻に搭乗

大阪伊丹空港からのANAのフライト

結構このボンバルディアのプロペラ機が多いんですよ。

 

この日の航路を調べたかったのですが

なぜかこの航路、トレッカーで航跡が表示されず

↓は借り物ですが、こんな感じ



離陸して10分ほどで四国山地を横切り

残雪が見えてちょっとビックリ

(たぶん剣山辺り)

その後すぐに海岸線が見えてきて

たぶん安芸市上空を通過して

(阪神のキャンプで有名な市営球場が見えたので)

約40分後、高知南国空港に到着

どんだけ”売り”やねんって、鰹のタタキがターンテーブルを周ってるんですよ~

そして坂本龍馬像も

「こんなとこにもおるんかい」って感じ(笑)

手荷物を受け取ってバス乗り場に行くと

目の前で出発

まあ、次のバスがすぐに来るのでいいんですけどね。

ただ、次のフライトのお客で満席になるまで待たされるので

20分くらいかかったかな

やがて市街地に入ると

それらしい居酒屋が目に入り

やがて高知の中心地”はりまや橋”を通過して

この日の宿はあえて高知駅前にしていたので

高知駅前で下車したのですが

この立て札にビックリ

土佐の高知に来たんだなぁ と実感させていただきました。

ホントは、はりまや橋近くの西鉄インにしたかったのですが

すでに満室で予約できなかったため

半ば諦めて、それでも翌日の仕事先と

はりまや橋へのアクセスに便利かもと決めました。。。

 

この時、時刻は既に午後4時前

実は、折角の高知だから美味しい肴でお酒を飲もうとお昼抜きだったので

少しだけ部屋で休憩して出発

(赤いマークが”はりまや橋” 中央北端がJR高知駅 中央左端が高知城)

高知橋を渡り

”やなせたかし”ゆかりの地なので

アンパンマンのキャラ像を眺めながら

帯屋町のアーケードを通り過ぎ

まづはやっぱり”はりまや橋”へ

(翌日が新しい橋の開通日でした)

 

初めて高知を訪れたのが

1978年12月

運輸省航海訓練所の練習船“大成丸”に神戸で乗船して

投錨地でのブリーフィングを済ませてから最初に寄港したのが高知港

 

上陸許可を得て、桟橋から市電(路面電車)に乗って降り立ったのが

この”はりまや橋”

 

当時は、川もないところに朱色の欄干の橋があっただけ

(川は汚れていたため埋め立てられていました)

 

同じ学校の同級生とこの近くのアーケードをそぞろ歩き

地下の喫茶店だったのかBARだったのか

コーヒー飲んだだけで3,000円ほど請求されてビックリしましたねぇ

 

その後、土佐料理を食べようと探して

入ったのが この司

初めて食べた鰹のたたきと小ぶりな皿鉢料理がむちゃくちゃ美味しくて

ビックリしましたねぇ~

 

この司、たしか2008年だったか

大型のアメリカ製キャンピングカーをレンタルして

家族旅行した時も

昔のおいしかった思い出が忘れられずに入った店でした。

 

ただ、今回は観光客向けの店よりも地元の人が使ってそうな居酒屋に行きたくて

 

他の店ものぞきながら

 

下調べしておいた居酒屋へ

 

酒類も悩むほどあるし 肴もよさげ

とりあえず生中を注文すると 突き出しは自家製の汲み豆腐

高知はやっぱ酒だろうと 船中八策となぜかポテサラを注文し

お店オススメの土佐清水の鯖刺しを食べていると

なんだかオマケでうつぼの唐揚げをくれたので

カツオの刺身を銀造りで注文したのですが

高知の鰹はやっぱタタキがベストなんだなと学習

続けて土佐鶴を頼み

ハランボ(鰹のお腹の皮)も注文してみたのですが

基本ハランボとして入手してあるものをポン酢漬けで出され

土佐清水も鹿児島の枕崎近くもそんなでしたねぇ

 

学生時代にアルバイトしていた伊勢志摩の鳥羽の居酒屋では

捌きたての鰹のハランボに塩をふって炙って食べるものだったので

ちょっと違和感

(仕込みの時に捌くので、事前にお願いしておかないと食べれませんでした)

そんな風にその場で注文して準備できるものではないので仕方ないんでしょうね。

 

そしていつもの出汁巻きを〆に

三種の日本酒の飲み比べをして

翌日の仕事のことを考えてオアイソすることに

 

短時間にグビグビと飲み続けるオッサンに

これは酒好きだなと”べく杯”を出してきてくれましたが

駒を回して青い突起が止まった人が盃を干すとか

天狗は飲み干さないと置けないとか

”おかめ”と”ひょっとこ”は、穴が開いていて

指で塞いでお酒を注いでもらうのですが

天狗と同じく飲み干さないと盃が置けないというもの

 

高知ではそこらじゅうで目にする

『たっすいがはいかん!』が目に入りましたが

(たっすいがはいかん=そんな弱弱しいことじゃだめだ)

 

流石に翌日の仕事のことを考えると

あまりハメを外せないなと

オアイソしてもらい

高知城に続く蓮池町通りを渡り

ただ、お昼抜きだったので

やっぱり炭水化物が欲しくなって

つい餃子屋へ

 

とりあえず、キリンの大瓶と

醤油ラーメン

餃子をいただいたのですが・・・

 この後

千鳥足とまではいかないものの

アルコールの匂いを漂せながら

翌日の朝ごはん用に

コンビニに立ち寄って

定番のオニギリ🍙と

カップ蕎麦と寝酒のアテをもってレジに持っていったところ

 

若い店員のオネチャンが

「ホテルで〆ですかやっぱり飲んだあとは炭水化物欲しくなりますよねぇ~

だって

 

いや~、さすがは”土佐の高知”

突然遭遇した”ハチキン”に、目がハートになっちゃいました。

 

 

 

【後編につづく】

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出張ついでに半世紀を経て全通した名豊道路(23号線バイパス)を走ってみた。

2025-04-04 13:31:02 | 日記

3月9日

またまた名古屋港に入港する船のお仕事をいただいたので

ジムニーで名古屋へ

 

この日は、たま~に利用する県道80号線(奈良ー名張線)を使い

 

自宅を出発してから約1時間後、山添村のトイレをお借りして

その後は名阪国道の山添ICから名古屋まで直行するため小休止

大した渋滞もなく約1時間後に伊勢湾岸道の名港中央ICで下り

以前一度食してみた麺屋で1月に立ち寄ったところ定休日で断念していたためリベンジ

 

道路から様子を窺い暖簾がかかっているのを確認

駐車場に車を停め喜び勇んで暖簾を潜ったところ

「もう売り切れです」と言われて大ショック

このお店↑ 自家製麺らしき”うどん”と”きしめん”と”中華そば”に”そば”があり

トッピングの天ぷら(えびとハム)と生卵があるだけで

汁は全て同じ

(↓は、2021年5月に初訪問した時の画像)

中華そばにはコショウを振るだけ

きしめんはハムとエビの天ぷらをトッピングしてみました。

 

一玉が300円で二玉なら400円

替え玉だと何故か130円とおかしな値段設定ながら

古くからの常連で賑わっていて、また食べたくなってるのですが

その後はいつも定休日だったり営業時間外だったり

 

いつかまた食べに立ち寄ろうと決意した次第です。

 

 

その後、名古屋港の仕事ではいつも利用していた

ハーバーロッジ(元船員会館)が、とうとう閉館してしまったため

代わりにどこか宿が無いかなぁと探してみつけたのが

この旅館↓

な、なんと1泊4,000円(駐車場有料とあったので問合せるとたったの100円)

ハーバーロッジも同じ共同トイレと共同風呂(但し24時間利用可)なので

それくらい大丈夫と即決しちゃいました。

 

ただ、エレベーター無しで3階の部屋だったのがちょっとだけ残念でしたが

(あえて和室にしましたが、洋室もあります。)

 

この日は名古屋市営地下鉄名城線の南端の終点”築地口”近くにみつけた

居酒屋で食事するつもりだったので

 

開店時間に合わせて向かったところ

営業中と暖簾が出てるのに扉が動かず

おかしいなあと少し待ってから

中の様子をうかがうと人の気配があったので

もう一度扉に手をかけてみたところ

難なく開いてホッと一息

 

店主によると、よくあることなんだとか

(新しいモダンな扉ですが、簡単に開かないように重めにしてあるらしい

 

とりあえず、生ビールを頼み ホタルイカの突き出しで飲み干し

続けて日本酒(恵那山だったかな?)と

刺身盛り合わせ、魚卵の煮つけ(鯛だと思ってたらタラコでした

続けて、芋焼酎魔王のロックと焼きイカを頼み

居酒屋では必ず頼む出汁巻きに

ウーロンハイとトリ唐で〆としました。

 

翌日は朝イチで仕事だからと、それで打ち止めとするつもりだったのに

翌朝のご飯にとオニギリとポテサラ、カップ麺を買いにコンビニに立ち寄ったところ

 

いつものクセでついつい 発泡酒とベイクドポテトにマカロニサラダまで買ってしまい

寝酒にしちゃいました。

 

翌朝、行きなれた金城埠頭の船に向かい

乗船して仕事開始

特にトラブルなく午前中で仕事を片付けて下船

この日は、早めに仕事を終えられたら

その前々日の3月8日に開通したばかりの国道23号線バイパス(通称名豊道路)を走って

生まれ故郷の豊橋で食料品の買い出ししようと思っていたため

(↑フィリピン人は年寄りに優しいので、いつも仕事の荷物を当然のように持ってくれるんですよ)

23号線の通称名四国道(名古屋・四日市道路)に入り

豊橋方面へ向かいました



この名豊道路、名古屋手前の豊明ICから浜松の南までの約100km
無料で信号のないほとんどが高架道路
 
2000年頃から時々走っては進捗状況をみてきたのですが
やはり幸田~豊川間は山間部のために20年近くかかって
ようやく今回全線開通にこぎつけたのですが
 
この100kmの区間、自動車産業の城下町のため
自動車メーカーのみならず、関連会社(DENSOとかAISINとか)その他
自動車輸出入港の豊橋港、蒲郡港、名古屋港を物流のために作られたはず
 
ただ、まだ西尾~豊川は対面通行区間

今回、ようやく残ってた蒲郡から豊川までがつながったのですが・・・

そこそこ標高もあってトンネルも数カ所あり

東西の標高差によって煙突効果で排気ガスを排出するように考えられており

排気ガス排出用ファンはなく

それでも排気ガスの煤で汚れないようにと

ポールコーンに空気の流れを利用したブラシ代わりの腰蓑がついてるんです。

それと面白いのがこのトンネル

実は、トンネルが高校の運動場にかかってしまったため

山の部分はトンネル、運動場の部分は箱型のブロックを結合

事前にその情報を得ていたので興味深く観察しながら通過しました。

 

この時、当初は豊橋泊まりにしてお気に入りの居酒屋に行き

翌朝、食料品の買い出しをして奈良に帰ろうと思っていたのですが

(バイパスもたぶん大渋滞で簡単にはたどり着けないだろうと予想して)

 

なんとか2時半に豊橋に入ったため

宿を予約して、夜まで待って居酒屋に行くのが勿体ない気がして

 

お買い物リストのひとつ

渥美半島の田原市にある鰻の店に直行

それまでは、豊橋っ子の台所の生鮮食料品が売りのスーパーマーケットで

生鰻(開いてありますが)を買っていたのですが

 

豊橋はそれなりに歴史ある古くからの養鰻の土地

近年、三河うなぎとして養殖場が直営している店もあり

以前訪ねてみたところ、定休日で買うことができず

 

他にもあるんじゃないかなぁと探してみつけたのが

この直売所

 

お値段はリーズナブルだし、そこそこ美味しくてすっかりハマってしまい

去年の夏から我が家の冷凍庫の常備品

事前に電話して予約しておいたのですぐに受け取り

去年から高騰しているキャベツが信じられない渥美半島のキャベツ畑を眺め

(いつ頃からか、渥美半島の付け根の浜名湖辺りから先端の伊良湖岬までキャベツ畑だらけで年がら年中キャベツで埋め尽くされてる光景を目の当たりにしてるため)

その後

豊橋に向かい豊橋駅近くの古い歴史ある跨線橋を渡り

(この跨線橋のおかげで東海道新幹線が高架できなかったんだそうです)

(それで数少ない平面の駅の一つとなりました)

帰郷したら必ず買う練り製品の店に立ち寄ってから

そのほぼ隣のいつものスーパーマーケットにも

(この場所、吉田城下の魚町にあって子供の頃から新鮮な食品が売りのお店なんです)

あんかけスパのソースを買い込み

(太い麺をラードで炒めたらお店の味とほぼ同じと知って家で食べるようになりました)

保冷用の発泡スチロール容器に入れて急いで家に帰っちゃいました。

ただ、帰りは大渋滞していた23号線バイパスは

もうしばらく走らなくていいなと

東名高速にしちゃいましたが

この日のお買い物は

鰻が真空パック(白焼き・蒲焼3尾づつ)と焼きたて(白焼き・蒲焼)2尾づつ

そしてお酒の肴に肝焼きの真空パック(午前中なら焼きたて買えます

お刺身用かつお2パックと紅シャケ(辛口)3切れ

そしてオデンネタの練り製品

この日もいい買い物ができたなぁ~と大満足

 

 

さて、名豊道路(23号線バイパス)の総括

無料なのが仇となって、一般車が雪崩れ込んで大渋滞

自動車産業の物流に役立っていない様子で

 

地元の自治体(特に蒲郡市)は

早く対面通行から4車線道路にして欲しいと陳情しているそうですが

さて、どうなることやら

 

もし今後走ってみようと思っている方へアドバイス

この名豊道路、なんせ自動車産業の城下町を結んでいるため

全線開通する前から、それらの企業の従業員の通勤時間帯も渋滞多発

(特に、矢作川以西の安城~名古屋手前の豊明間)

 

夜間ならもしかしたら空いてるかもしれませんので

時間帯を選んで利用されるようオススメします。

 

 

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑩帰国の途に”果たしてイラチは治ったのか?”】

2025-04-04 11:38:18 | 旅行

日本食レストランを出てからベンツでホテルまで送ってもらい

 

いつものように飲み足りなかったのでコンビニに行き

寝酒とついでに日本へのお土産に

San Miguel Pale Pilsenの1リットル瓶(Grande)を2本と

 

家に帰ってからもCorn Silogが食べられるようにと

コンビーフを購入

そして忘れないように オンラインチェックインを済ませ

 

翌朝、いよいよ今回のフィリピン旅の最終日

またまたガッツリと朝食を摂ってから

10:00にチェックアウトして

大きなスーツケースを引っ張りながらドアマンの前を通り過ぎても

もう自分で送迎の手配をしてるんだろうと

 思い込んでいたのか、声もかけてこなかったので

懐かしのUN Ave.(社会人1年生の時に働いてた船会社PPL本社ビルのある)まで歩き

丁度走っていた空車のタクシーを拾い

一路空港へ

空港へ行くと告げると料金を決めていてもボッタクろうとするドライバーが多いのに

まともなドライバーで助かりました。

 

これまでの経験からターミナルに入るのにパスポートと搭乗券の確認と

手荷物すべてのX線検査があるため

いつも大行列に並ばされ、1時間ほどかかっていたのに

この日はガラガラで難なく入場

国内線と異なり、国際線は便毎にチェックインカウンターがあり

3時間前からオープンするため行列に並んでいると

シルバー移住(定年退職後の年金で暮らしている日本人)のオッサンを数名見かけましたが

フィリピンも物価が高くなってるし、円安で大変だろうなぁと思っちゃいました。

 

その後、ようやくカウンターがオープンしたのですがオンラインチェックインしてても

要領が悪いのか手続きが煩雑なのか、Baggage Dropにもそこそこ時間がかかりましたが

フィリピンに滞在して9日目ともなると

待たされるのに馴れてそんなに苦ではありませんでした

 

この後、国際線の保安検査場で行列に並んでいたところ

とても行儀の悪いイタリア人の夫婦を含むグループがいて

X線検査も入管も行列のためのベルトパーテーションで経路が作られているのに

図々しく何度も潜って横入り

マナー最低な連中だなと怒鳴りそうでしたが

相手にするのも嫌悪するほど気分を悪くしてたので

侮蔑の眼差しを投げちゃいました。

 

インバウンド観光客、洋の東西にかかわらず

マナーの悪い連中を見ると怒りより悲しくなっちゃいますよね。

 

 

想定外に早く中に入れてしまったので

土産物を買ってLCCなので機内サービスが無いのでと食事を済ませることに

 

ファストフードチェーンのケニーロジャースにしようかなと思ったのですが

あまりに混雑してたので隣のフィリピノフードの超群(チョーキン)にして

またしばらくフィリピン料理食べられないなと

タパ(牛肉炒め)とソーセージとバグス(ミルクフィッシュ)に目玉焼きの

コンビプレートと、ニラガ(牛骨スープ)を頼んでしまいました~

ニラガがご飯付きとは思わずちょっとショック

合計約PHP600+(1800円)高いよねぇ~

 

なんせビール無しのご飯が寂しすぎたので

隣のお店で缶ビールを飲むことにしたのですが(缶ビール1本PHP120: 360円)

そう言えば、今回一度もアイスクリーム食べなかったのと

チャンカーが大好きだったUBE(ヤム芋)のアイスがあったので

昔からあるガロン容器二段積のお土産用のパックを見ると 

な、なんとPHP1,800 (日本円で約5400円)

チャンカーに欲しいか聞くと

「そんな高っかいのいいわ(いらない)」とのことで却下

勿論空港内のボッタクリ価格なんだけど

つくづくフィリピンの物価の上昇と円安を実感させられました。

その後、ほぼ定刻でボーディングとなったので

『よしよし、帰りは遅れることなく飛んでくれるんだな』と

飛行機に乗り込んだのですが・・・

な、なんと出発時刻になってもいつまでも貨物の積み込み作業が続き

13:45発の予定が実際の出発時刻は14:20

(まあこれくらいは日本でも良くあることなので許せる範囲)

神戸の夜景を眺めながら関空へ

(↓ 翼の先端の下が明石海峡大橋)

LCCのセブパシフィックなので基本中古機がほとんどなんですが

この日のフライトは、最新の機材で速度も速いようで

ほぼ予定時刻の18:45着陸🛬 

入管も手荷物の受取りも

すっかりインバウンド向けの空港になっちゃったので

外国人は大変そうでしたが

数の少ない日本人は楽々

 

関空からは南海電車では難波で近鉄に乗り換えるのがそこそこ歩かないといけないので面倒だなと

OCAT行きのバスで難波にでて

近鉄電車🚃で帰りました。

(OCATからは動く歩道で近鉄の改札まで行けちゃうんです

 

家に帰って、いただいり、自分で購入したお土産物を広げ

 

いつもお世話になってる親友からは、

なにを思ったのか温熱治療器に、たぶんチャンカー用にスカーフ

Taclobanの仲良しからはドライマンゴー

(チョコがコーティングされたのが無茶苦茶美味しかったです

そして、Visaya(レイテ・サマール)の名物

糯米をチョコレートと絡めてココナッツミルクで炊いたオヤツのMORON

Tagaytayの友達からは 

またまたMuronとビールのお供に最高のチッチャロン(豚の皮を揚げたもの)

実は、もっといろいろ渡してくれたのですが

申し訳なさすぎて、「もうこれだけで十分」と返しました。

こちらは自分で買った定番のドライフルーツ

(特に、ドライマンゴーはヨーグルトに漬けて食べると最高なんですよ

大好きなUBE(ヤム芋)のお菓子類

 

そして、マニラの尊敬する女史からは

「使う度に私の事を思い出してくれると思うから」と

ルソン島の山岳地帯の伝統織物で作られてポーチを渡され

早速パスポートや海外免許証入れとして使うことに

 

さて、今回の旅、初訪問のDipologと中原さんのお宅訪問は別にして

Leyte島のTaclobanは約30年ぶりで

懐かしい職場や暮らしていた頃の思い出の地を眺め

仲良し達とも30年ぶりの再会

 

Manilaでは、3年前にBoholで一緒に旅を楽しんでいたものの

改めてフィリピン人のHospitalityに感動させられちゃいました。

 

 

んで、イラチはどうなったかというと

 

 

現地にいる時は、遅れたり予定通りにならないのが普通なので

ある種の悟りと言うか、諦めの境地で過ごせたのですが

 

日本に帰ってきて

トロトロした運転や、他人の迷惑を気にもかけない所作を目撃したら

イライラしちゃってもう怒り心頭

 

しゃーないイラチな爺さんに戻ってしまったのでございます。

 

”死ななきゃ治らないんだろうな”

との結論に至った次第です。

 

さて、またフィリピンに行くことができるでしょうか

それとも近々ポックリといってしまい

みんなから『虫が知らせたのかねぇ』と言われるのでしょうか

 

※追記

実は、結婚式でGod Fatherを仰せつかった云わば義弟夫婦とは

今回の旅程での再会メンバーに加えなかったところ

無視されてしまったのかとショックを受けてると耳にしたため

「それは、普段自分で車を運転しないからマニラまで来てとは言えなかったからだよ」

と伝言してもらったところ

「次はいつ来てくれるの?我が家で同窓会を開くから絶対に来てね」と

 





 

仲良しみんなに提案してくれているので

早く行かねば と思ってるんですけどね

 

それにしても、こんなに心温かい仲間に囲まれて

幸せな人生を送らせていただいて、感謝の言葉もありません。

 

イラチは治せなかったけど

また生涯忘れられない、素敵な旅となりました。

 

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑨マニラでハイソなひと時を】

2025-04-03 13:23:39 | 旅行

 

今回選択を誤ったマニラのホテル

外観はそこそこモダンそうなのに中はボロボロ

エアコンは電源も温度調整もできない状態で

冷房MAXのまま

 

実は、今回のホテル、どこもエアコンの調整が微妙で

Dipologを離れた日から鼻水と咳が出はじめて悩ましく思っていたら

 

ベッドでシーツとベッドスプレッドに包まっても寒すぎて

熱は出ないものの、鼻水と咳が止まらず大焦り

 

急いで近くのドラッグストアに駆け込んで

マスクと咳止めを買って飲みましたが・・・

 

この日の待ち合わせは、ランチを一緒にしようと

お昼前にと思っていたら

「午前10時15分から30分の間にホテルに迎えに行く」と言ってたのが

10時前に「もうホテル前に着いちゃった」と言われて大焦り

 







 

朝食は朝イチでガッツリ食べてたので

お腹いっぱいだったので

そしたらお茶でもしようと部屋を出ました。

 

この日会う約束をしていたのは

NMP時代の副校長

(↓右の列の手前から3人目、因みに私は左側の手前から二人目)

(1987年10月、JICA調査団のメンバーとして出張した時の写真です)

 

とても慕ってくれていたインストラクターから結婚式のGod Fatherを頼まれた時の

彼女もGod Motherのひとり(↓左端) わたしは右端(笑)

実は、彼女

半端ない才女で、国立フィリピン大学卒の超エリート

東大やアメリカの大学へも短期の国費留学していた人物で

なんせ頭の回転から知識量が凄すぎて近寄りがたい存在だったのですが

実は超ひょうきん(笑)

(↓は、両親の結婚式の写真、ハイソさがうかがえます)

 

弟は、カソリックの司祭で 現在はマニラにあるカソリックスクールの校長もしていて

彼女は若い時に離婚し、ひとり息子と暮らしていたのですが

子供が巣立ってから、出身地のボホール島にBFも居たのですが

相手が亡くなってからは、弟のカソリックスクールの寄宿舎住まい

(息子から同居して孫の世話をして穏やかに過ごしてとお願いされているのだそうですが

神父で独身の弟が可哀相だからと寄宿舎にいるとのこと)

 

↓はNMP時代のインストラクターとその家族達で

実は、彼女NMP時代、初代が海軍上がりの人物だったので

軍隊方式で有無を言わせぬ上意下達の運営方針に馴染めず

教育の専門家として政府に訴えて首をすげかえたのですが

今度は海運界も教育界も関係のない政治家が任命され

 

やはり聞く耳を持たずとうとう嫌気がさして退職してしまったのですが

インストラクター達からはとても慕われていたため

退職後もインストラクター達が同窓会を開き

必ず彼女を招待しているのです。

↓は、3年前にボホールでの同窓会にお呼ばれした時の記念写真

由緒ある一家の家での会食時のショット

 



 

↓これは彼女の妹たちとの写真(FBから拝借)
フィリピンではよくあるスパニッシュと中華系の血が入っているみたい

 

実は、何年前だったかなぁ?

FBで連絡を取るようになってからは

彼女がわたしの一番のフォロワーで

 

いつも感心するコメントをしてくれるので

久しぶりに会う感覚ではないのですが

 

やはりテキストでは伝えられない話もいっぱいあるので

この日の再会をとても楽しみにしていました。

こちらは、彼女が普段使っているベンツとお抱えのドライバー

彼女も71歳となり、白内障なのか目が衰えているのですが

頭脳は相変わらず超明晰

 



 

(↑写真を撮られないようにしているため客観的に己の姿を見ていませんでしが、

このお腹  また断食センターに行かなければとの思いを新たにしました。

 

話を戻して、彼女は以前から世界中の教育関係の会議にオンラインで出席して

いろんなプロジェクトへの提言をしているのですが

 

最近は、特にフィリピン国内約8,000あるバランガイ(村や町、区)への

初等教育の啓蒙活動に尽力していて、そのバイタリティに驚かされるばかりなんです。

(特に僻地のバランガイを訪ねて率先して、バランガイキャプテン“自治会長”を巻き込んで啓蒙活動されてます)

 

会話が弾み、あっという間にランチタイムとなり

晩御飯は日本食レストランでご馳走するからと

軽めに飲茶することに

とはいえ、お互い既に高齢者の身

疲れが出ては夜までもたないなと一旦お開きにして

またベンツでホテルまで送ってもらうことにしてManila Hotelを後にしました。

 

レイテ島でのNMP勤務時代、なんせ革命で突如マルコスからアキノ政権に変わったのもの

ただのオバンチャンが大統領になって政府が順調に動く筈もなく

特に船員の再教育とあって関係する省庁が山ほど

 

労働省、運輸省、海運局、教育省、海外雇用局、海運界に海軍と海上保安庁

商船教育機構に、訓練費を負担する船会社からマンニング会社と

利権の取り合いもあって

毎月関係省庁が集まり、日本大使館にJICAも加わってボードミーティングを開くも

遅遅として進まず(一番の障壁は大統領があまりに無力で無関心だったため)

 

プロジェクトコーディネーターだったため

それらの関係先との根回しと調整のために

ほぼ毎週のようにマニラに上京しなければならず

 

当初は、政情不安で治安も悪かったこともあって

JICA事務所も入っていたMakatiの日本大使館近くの

Mandarin Oriental Hotelを定宿としていたのですが

 

なんせ日中は交通集中してほとんど動かないほどの大渋滞

 

政府機関のほとんどがイントラムロスと言うスペイン時代の要塞都市かその周辺にあるため

移動だけに無駄な時間を使いたくなかったのと

数ヶ月して治安の悪さにも慣れて、夜の歓楽街へも平気で行けるようになったため

 

アクセスの良いManila Hotelも定宿のひとつとしていたので

懐かしかったですねぇ


(因みに、当時は日本大使館&JICA割引や御用達の日系旅行会社があって

5つ星ホテルでも50ドル前後で泊まれたんです。公金チューチューではありませんので

 

ホテルに戻って一休みしてから

米軍が駐留していた頃は歓楽街(ゴーゴーバー)のメッカだった

マビニ・ストリートとデル・ピラールストリートを歩いて

 



 

 

この出鱈目な電線の束 たしか小倉でもこんな場所あったなぁ

 

そして歴史あるマラテ・チャーチを横目に

マラテ・カソリック・スクールに到着

 

司祭&学校長である弟さんから

由緒と歴史あるカソリック・スクールの説明をしてもらったのですが



やはり戦争にまつわる悲しい歴史があり

第二次世界大戦中は、この施設を病院として使用していたため屋上に赤十字を書いて

攻撃されないようしていたのですが

日本軍が隠れているかもと疑った米軍が空爆によって木っ端みじんに破壊して

数百名の犠牲者が出たのもの

 

やはり集団埋葬されてしまったため

つい2・30年前に欧州の遺族からの要請で掘り起こし

DNA鑑定をして探したんだそうです。

(なんとこの施設内だけにとどまらずマニラ湾の海岸近くからも遺骨が出てきたと)

その後、約束していた日本食レストランでまたまた歓談

今度はホテルに泊まらずスクールの寄宿舎に滞在してねと言っていただきましたが

なんせ、ビールをたらふく飲まないと気が済まない性質なので

丁重にお断りしました。

 



 

 

いずれにしても彼女

なんせボキャブラリーの数が半端なくて

高尚な言い回しがとてもインテリジェンスを感じさせてくれるのですが

 

わからない単語があると、あとでスマホで翻訳して理解することばっかし

『そうかぁ、そんな言い回しするんだなぁ』

と感心するばかり、でもとっても勉強になりますよ~

 

なにはともあれ、とっても有意義な一日でした。

 

それにしても、可愛かった彼女もすっかりおばあさんになっちゃったんだなぁ

と自分の事を棚上げして言いたい放題

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑧空港からタガイタイに立ち寄ってからマニラへ】

2025-04-02 16:16:02 | 旅行

 

定刻よりも早く離陸したAir Asiaの飛行機

 

当然、ManilaのNinoi Aquino International Airportにも予定より早く着陸したのですが・・・

10:45  → 10:25

チケットにはT2に到着となっていたのに

T3に向かっていて大ショック

(Air Asiaは、基本的に国際線がT3, 国内線はT2を使用しています)



どうやら機材のやりくりで
次は国際線となったみたい
 

そんな訳でターミナルから離れた駐機場で降ろされ

バスに乗り込んだものの

なんせT3からT2は滑走路を跨がなければならず



 

大回りするためT2に到着したのは結局予定時刻の10:45

でも結局、手荷物も移動に時間がかかるため、引き取れたのは

11:20過ぎ

 

マニラの仲良しが出迎えに来てくれていたので

ホント申し訳なかったです。

この仲良し、このブログでも【受け取れるわけない】でも記事にさせていただいた

こちらが困っていた時に大金を渡そうとしてくれたり

 

協力隊の同期でパンパンガ州のアンヘレス市へシルバー移住していた友人が急逝した時に

遠く離れたラグナ州から真っ先に駆けつけて

警察の手続き他もろもろの協力を惜しみなく提供してくれ

 

数年前にボホールに行った時も航空券代や宿泊費その他を負担してくれた大恩人

今回の旅でも、出発前にFBで旅程をシェアしておいたところ

『タクロバンからマニラ到着日は任せて』と言ってくれ

 

空港で出迎えてから連れていってくれたのが

マニラ近郊の避暑地として有名なタガイタイ

 



 

実は、いつも『今度フィリピンに行ったら・・・』と食べたいものリストを投稿していたため

NMPのマニラ事務所の職員で、これまたフィリピンから離れたあとも仲良くしてる女史が

タガイタイでレストランを経営していて

その店で大好物のブラロとシシグを食べさせようと

連れていってくれたのでした。

(↓シシグ:豚の顔肉を細かく刻んで鉄板炒めにした名物料理)

(↓ブラロ:牛の骨髄のスープ。痛風が怖いけどムチャクチャ美味しいんです)

食後には、隣で営業しているお土産屋から

フィリピン名物をいくつも手渡され

なんともはやありがたいやら申し訳ないやら

 

 

その後移動中の車内で近況を聞いたり雑談しながら

マニラ湾沿いのホテルまで送ってくれ

フィリピンも永年政情不安で外国資本が寄り付かず

他の東南アジア諸国がどんどん発展してゆく中で取り残されていたのですが

 

ここ10年ほどは信じられないほどの発展ぶり

昔は、Makati地区以外はほとんど開発されていなかったのに

いまではマニラ近郊にいくつもの副都心ができているんです。

 

元は軍の施設と軍用のゴルフコースだったFort Bonifacioが再開発されてできた

通称BGC(Bonifacio Global City)

 

古くは戦後戦犯が収容されていた刑務所のある場所として有名だった

モンテンルパもすぐ近くのAlabangが再開発されて大発展

 

その他にもフィリピン最大の湖、Laguna湖からマニラ湾に流れる

Pasig川の取水口にあるPasig市も同じく高層ビルが建ち並ぶ地区

今から20年前には信じられないような光景に驚かされます。

 

そんな変貌してゆくマニラ近郊を眺めながら話をしていたところ

実は、私もとても良く知ってる仕事上の右腕で義弟(奥さんの弟)が

ステージ4の胃癌がみつかり闘病中で

この日も、私のアテンドをしてから義弟がしていた仕事を引き継ぐため

パンパンガ州のクラーク経済特区に向かうと聞いてビックリ

 

そのうえ、準備していたお土産も手渡されて恐縮至極

 

そんなとても大変な時なのに、嫌な顔ひとつ見せず

世話してくれて・・・ほんとどうやって恩返ししたらいいのかと悩んでしまいました

 

世界中にいっぱい友達がいて

誰もかれも献身的にお世話してくれるのがもちろんとっても嬉しいけど

老い先短い我が身を考えると申し訳なさが先だってしまいます。

 

ということで、今回ネットで決めたホテルに到着

(Bay View Hotel) 

周辺にコンビニやドラッグストア、レストランなどあってアクセスも便利だと

口コミで決めちゃったのですが・・・

 

チープなホテルでビックリ・ガッカリ

 

今回は、Dipolog, Tacloban, Manilaとホテルの選択全滅でした~

 

と言っても打たれ強いわたくし

『ま、しゃーない』と切り替えて 

飲み足りなかったので、行く場所リストに入れてたレストランへ

 

いつもお世話になってる先ほど別れた友人

その昔はいろんなところで飲み歩いた仲なのですが

 

数年前に身体をこわし、脳梗塞に腎臓を悪くして人工透析までしてたと聞いて

私が大酒飲みだと重々知っているのでタガイタイでもビールを勧めてくれたのですが

やっぱり遠慮しちゃいました。

 

向かったのは、マニラ湾を眺めながら食事のできるレストラン

実はココ、もう何十年も通ってるマニラでの馴染みの店

 



 

いつも値段など気にせずに頼んでいたのですが

経済発展してインフレでびっくりするほど値上がりしてるし

円安で目が飛びでそうなお値段ばかり

(中華料理のように一人で頼む量じゃないのもありますが)

 

結局、とりあえずビールを頼んでから

 

大好物のキニラウ(フィリピン風刺身とうかマリネ)を肴にビールを飲み

 

これまたいつもマニラ湾で楽しみにしている

我が愛しの元運輸省航海訓練所練習船”青雲丸”を眺め

(1979年の練習生として乗船し、日本中のアチコチに寄港しながら何度も行ったり来たりしてから

遠洋航海ではアメリカ西海岸、トンガ王国、NZのオークランド、中国の天津に寄港した思い出の船)

(実は、タクロバンの比国国立航海訓練所プロジェクトのチームリーダーが偶然にも練習船当時の一等航海士)

(1968年建造で船齢はすでに57歳と未だに存在してるのさせ信じられない奇跡の船なんです)

キニラウを食べ終わってしまったため

ボリューム的に食べられるかな?と空心菜とレチョンカワリ(焼き豚)を頼み

世界三大夕焼けの”マニラ湾に沈む夕陽”を満喫してから

そこそこ酔いもまわって気分よくレストランを後にしました。

 

永年放置されたままのベンツなどの廃車を横目に

ホームレス一家のストリートチルドレン達が遊ぶ中

当初、泊まるつもりだったホテル(Rizal Park Hotel)

を恨めしそうに眺め(笑)

火野正平さんの気分でノラ猫に声をかけ

 

コンビニで寝酒を買って、素直にホテルに帰りました。

 

昔だったら、タクシーを拾って

歓楽街へ向かい、淫靡なパブで耳をつんざく生バンドの大音響に包まれながら

飲めなくなるまでサンミゲルビールをラッパ飲みしたんですけどねぇ

 

すっかり分相応な爺さんになっちゃったんだな

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑦もう少しレイテ島のこと】

2025-04-02 11:36:03 | 旅行

昼食を共にした仲良し夫婦

(実は、前日空港へ出迎えてくれた仲良しの弟夫婦で借りてた家のオーナーMr. Tantuicoの甥っ子)

その後、姉からの指令でNMP他を案内するつもりと言ってくれたのですが

既に午前中に行ってきたと伝え

 

前号で紹介した1989年12月まで暮らしていた家の跡地を訪ねてから

ホテルに戻り 一休みしてから夕食のために外出

 

その昔暮らしていた頃にはまったく気づかなかった歴史のありそうな建物を見つけ

調べてみるとMacArthurと当時のフィリピン大統領の銅像があり

元々は1910年に(スパニッシュxアメリカン・ウォー)に従軍したアメリカ人のエンジニアが

現地人の妻を娶り建てた邸宅で

その後MacArthurが上陸した後に、この邸宅を司令部兼住居として使っていたんだそうです。

Manilaのスペイン時代の要塞 INTRAMUROSの近くにある

由緒あるManila Hotelもマッカサーが司令部兼住居とした場所で

横浜のHotel New Grandも同じく住居だった場所なんですよ。

 

レイテ島は、なんせイメルダ・マルコスの出身地だったので影響が強く

ビーチ沿いの別荘は、失脚後、略奪にあって

ゴルフ場のコース以外は”もぬけの殻”となってしまいましたが

(Tacloban市内には、”St. Nino Shrine"という、イメルダが作った

マニラのマラカニアン宮殿に負けないような贅を尽くした建物がありますが、

そちらは運よく無事だったため現在はHeritage Museumになっています)

 

その後もイメルダの実家の一族(Romualdez)がレイテ島の実力者となり

空港の名前もDaniel Z. Romualdez, 歴代の市長もこのRomualdez家の子孫

 

↑のマッカーサーが一時期過ごした建物(Price Mansion)も

Romualdez家が所有しているそうです。

 

 

↓こちらがその別荘があった場所で

緑の場所がその敷地で、大きなダイニングホールや自分達のお城のような居室に

来客用にいくつものコテージがありました。

NMPに勤務中

ある日突然、勤務先の執務室に地元のゴルフのツアープロが訪ねてきて

手にはパーシモンのウッドを含むゴルフクラブセットに

ゴルフシューズ、手袋、ティーにボール他

ほとんど全てのゴルフ用品を持参して

「貴方用に買ってきた」と言われビックリ仰天

 

実は、このマルコスの別荘のハーフコースを

地元のロータリークラブのメンバー(要するに大病院の病院長や弁護士、会社経営者などの名士達)

によって維持管理していたのですが

 

特に何の娯楽施設もない土地だったこともあり

週末やオフの時間はゴルフして楽しく過ごして欲しいとのこと

そのツアープロがマンツーマンでレッスンするからと説得されて

チャンカーと一緒にゴルフを始めてみたのですが・・・

 

たまーに、スイートスポットにマグレあたりしてくれた時は

信じられないほど見事な放物線を描いてボールが飛んでゆき

それはそれは恍惚な気分になれるほど気持ち良く

爽快感を味わうことができるのですが

 

それ以外は、なんせ力任せにクラブを振るため

ダフリか空振りかシャンクばっかし

 

内心では『もうゴルフなんてしなくていいや』と思っていたのですが

そのゴルフコースでは、近所のニッパ椰子の掘っ立て小屋のような家の

子供たちがキャディーや、ボールボーイ、アンブレラガールとなり

ラウンドした時のチップが学資や生活費になると聞いて

 

ゴルフそっちのけで

子供たちに会いたくて続けてましたねぇ。

 

土曜日の午前中にラウンドして

昼から子供たちを我が家に連れて帰って

ご飯を食べさせて、来客用の部屋に泊まらせ

ビリヤードでもなんでも好きなように遊ばせたり

翌日は、マッカーサービーチあったプールに連れて行ったりしてました。

楽しかったですね~

 

〔この話題には山ほど思い出があるのでまた別の機会に

 

 

 

前回の記事でご説明したように

フィリピンでもご多分に漏れずメガモールができて

Downtownは狭い道と駐車場がないのが仇となり

ドーナツ化現象となって元々の繁華街はほぼ消滅

 

地元民も昔の市街地はただの小さな雑貨を扱う店舗だらけで

夕方の6時には閉店してほとんど人がいなくなくと聞いていたため

Google Mapsでなんとか見つけた中華レストランで夕食を摂ることに決め

 

とりあえず、蒸し餃子とビールを注文

その後、豚のスペアリブの黒酢揚げと

ピータンと豚の痩肉中華粥を注文

そこそこ美味しかったけど、結局全て豚料理だったなぁと苦笑いしながら店を出て

 

歩いてホテルに戻りました

 

さて、ここでまた昔の写真を見つけたので

横道に逸れますが

 

これが前日に訪れた1988年当時のPaloの大聖堂

実は、ここでは地元ではとても有名な

キリスト教の復活祭の一大イベントがあり

 

自ら志願してキリスト役となった人物が十字架を背負って(ゴルゴダの)Paloの丘まで登り

そこで実際に手と足に釘を打たれて磔にされるのですが

釘を刺された手足は、儀式を終えると跡形もなく傷が消えると

観客みなが信じていましたが・・・

 

『そんなバカな』と思いつつ、敬虔なるクリスチャンを冒涜するのも憚られ

「へぇ~、そんな事があるんだ」と驚嘆したふりをしてましたねぇ

 

その日の夜中

地震が起こってビルが大きく横揺れして大焦り

 

なんせチャチな耐震構造なんて考えていないビルなので

巨大な地震に襲われたら倒壊間違いなし

いつものように、「これで我が人生もおしまいか」と覚悟を決めましたが

第二震は起きず助かりました。

(ただ、地震でどこかにヒビが入ったのか、窓側の壁から雨がダダ漏り

次は絶対に別のホテルにしようと心に決めました

 

そしてタクロバン三日目の最終日

朝のフライトに乗るため

 

前日、ホテルのフロントで「朝7:30には出発するから送迎を手配して」と注文し

「わかりました。手配しておきます。」との返事を聞いていたので

安心して朝食を終えてからロビーに向かってみたところ

車が待っている様子もなく

「昨日頼んでおいた空港への送迎はどうなってる?」と尋ねると

 

”聞いてない”のを表情で示し

慌てて前日のスタッフに電話を架けているものの

どうにも繋がらず、何度もかけ直すだけでアクションを取ろうとしないため

 

「一体どうなってるんだ 飛行機に乗り遅れちゃうじゃないか」と言っても

ただただ焦って携帯をかけ直すだけ

 

痺れを切らして

「それならもうトライシクルで行くからいい」と言い捨てて

ドアボーイにトライシクルを拾わせて

 

「空港まで大至急」と発車させたのですが

その日は月曜日の朝でラッシュアワーの上に土砂降りの雨

抜け道を選んでくれていたのですが

信号のない交通整理の人間任せなのでなかなか先に進めず

ボロなトライシクルだったため、アクセルを緩めるとエンジンが停まってしまい

常時セルとアクセルでかろうじて動いていたため

もしかしたら乗り遅れるかもとヒヤヒヤでしたが

 

なんとかチェックイン締め切りギリギリで空港に到着

 

小銭がなかったので高額紙幣を渡すと「オツリがない」と

結局事前に決めた金額の倍ほどになってしまいましたが

なんとか乗れそうだからそれでもいいや と

急いでチェックインして搭乗ゲートに向かいました。

36年前に暮らしていた頃は、VIP扱いで

当時はゲリラから空港を守るために武装した軍が常駐していて

その部隊の隊長が気をつかい

当時はラウンジなど無かったため軍の別室で待たせてくれてたのを思い出しました。

朝の早いフライトとあってか

予定時刻よりも早く搭乗が始まり

要領の悪さに少々イライラしながら順番を待ち

雨降る中、傘をさしての搭乗

それでも予定時刻よりも早く出発準備が整い

初めてのAir Asiaだったので

興味深くあれこれと設備やサービスをチエック

LCC特有の有償の飲食類も調べてみましたが

 

軽いスナック以外はそこそこのお値段でした。 (PHP1=約3円)

乗客も全て搭乗し、予定時刻より早く離陸してくれたのですが・・・

 

 

【その⑧に続く】

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑥昔の家と職場で思い出に浸る】

2025-04-01 14:52:03 | 旅行

レイテ島タクロバン二日目

 

この日は、お昼を借りていた家の敷地内で暮らしていた仲良し夫婦と約束していたため

その前に想い出の地を巡っておこうと

早めに朝食

朝食付きのホテルで、洋食、中華、フィリピン料理の選択がありましたが

当然ながらフィリピノ・ブレックファーストの

Corn Silog

 

おっと、レイテ島とタクロバンの事も説明しなきゃいけませんよね。

 

レイテ島の主要都市タクロバンは

島の北東部の海岸に面した場所で

島の中央部に背骨のような山地があるからか

そのほぼ北東側はワライ語圏で

それ以外はセブアノ語圏

隣のサマール島によって荒波が遮られ良港だったのか
その地のタクロバンが島の玄関口となったんだろうなと想像していました。

前回の記事でご紹介したMacArthur上陸地が↓の最南端
泊まっていたホテルがほぼ中央部のダウンタウンでした。

借りていた家は
↓の赤いマークの場所で
マルコス大統領のブレインの一人
Mr. Tantuico Jr.の元生家に建てられた別荘
 
緑の部分が一族の所有で
革命後マルコスと共にハワイに亡命したため
その後収入が無くなり困っていたこともあって
マニラにも大豪邸がありましたが
Masaが借りてくれたおかげで息子をアメリカに留学させることができたと
とても感謝されていました。
 
詳細は後述しますが、この家を借りたおかげで
レイテ島での生活がとても充実することができたと
こちらこそ感謝してたんです。

 
↓は、職場のフィリピン国立航海訓練所の場所
サン・ファニコ海峡のサン・ファニコ橋の袂にあり
当時は、サマール島がNPAゲリラの巣窟だったため
土嚢を積んで機関銃を備えた軍のチェックポイントと
装甲車が常時監視していて
それなりに緊張する地帯でもありました。
 
このサン・ファニコ橋は
マルコス時代に首都マニラからミンダナオ島のダバオまで
当時、通称マルコス・ハイウエイと呼ぶ日本の援助で作られた国道があり
途中、ルソン島からサマール島の間と、レイテ島からミンダナオ島の間は
フェリーでつながれ、高速バスも運行されていて
マルコス・ハイウエイの名所のひとつとして有名な橋なんです。
(マニラからタクロバンまでが約1,000kmあり、バスで24時間かかってました)
 
このサン・ファニコ海峡
航空写真だと区別がつきにくいので
デフォルトして地図にするとこんな感じ↓

とても狭い海峡で、潮の流れも激しいため
日本軍がMacArthur率いる連合軍を待ち受けていた時に
この海峡を船で通過することは困難と
日本軍の船も大回りし、攻めてこないだろうと背後を警戒せずにいたところ
連合軍はこの海峡を恐れずに通過して挟み撃ちにあったとの
話を聞きました。
 



毎度のことで、つい前置きが長くなりましたが

話を戻しますと

 

朝食を済ませてホテルを出て

まず最初に職場であったNMP(National Maritime Polytechnic:国立航海訓練所)へ行こうと

Google Mapsで調べておいた

台風ヨランダの後に作られた、郊外のバスターミナルにトライシクルで向かうことに

私が滞在していた頃は、華僑の経営するゴチャゴチャした雑貨屋のようなスーパーしかありませんでしたが

その後、セブ資本のGaisanoというスーパーマーケットができ

台風ヨランダの後には、全国チェーンのRobinsonやSMもできたようで

(日本で言うところの、イオンや長崎屋のような感じ)

隔世の感でしたねぇ

こうしたモールは郊外のため、電動のシャトルバスも運行されていてこれまたビックリ

そしてようやくサマール島方面行のバスをみつけ

『よしよし、これで時間もたっぷりあるから余裕だな』

と乗車したのですが・・・(8:30)

出発したのはなんと09:45 

 

フィリピンでは、基本オーナーからドライバーが一日いくらで借りて

燃料代は自腹であとは利益がそのまま収入となるシステムで

トライシクルやタクシーは一人でも貸切なので問題ないのですが

ジプニーもバスも無駄にならないようにと時刻で運行するわけではなく

満席になるまで発車してくれず

この日は日曜日で、朝から郊外に向かう乗客が少ないため

とうとうバスターミナルで1時間以上待たされるハメとなってしまいました。

その後、そこそこ渋滞した国道を走り

サン・ファニコ橋からサマールに渡ったのがほぼ10:00

 

立て看板にヨランダ・メモリアル・モニュメントとのことで

たぶんここも埋葬地の様子

 

お昼を約束していた時刻が12:00だったため

これはもう戻るしかないなと

Tacloban方面のバスを待つも一向に来る気配なく

 

これはヤバイなと近くで客待ちしていたトライシクルに声をかけ

 

またまたサン・ファニコ橋を渡り

対岸のレイテ島に戻り

 

職場だったNMP(National Maritime Polytechnic)前で写真撮影だけしたのですが

さすがに建設されてから40年ともなると

随分草臥れてきたなぁとの印象でした。

 

↓は、私が離任する約半年前の本館の姿

TBSの報道特集で

その後千葉県知事になった堂本暁子がキャスターとして訪れ

「他の取材でレイテ島に来たら、日本のODAプロジェクトがあると聞いてきました」

などと大嘘をつき、わざと雑草の間から建物を撮影して

丸一時間【ODAの闇、大失敗のマルコスプロジェクト】と叩かれ

 

その後、国会でも取り上げられて外務省からの答弁用の資料作りに

何日も徹夜で対応することになって忙殺され

会計検査院の査察と、それはそれは大変な目に合い

”報道特集”と言う番組がどれだけ嘘で話を作って印象操作するのかを実感させられ

堂本暁子とともに、名前を聞くだけでも虫唾が走るほど大嫌いになりました。

 

こちらは本館の玄関から眺めた外の様子で

 

こちらは、航海科と機関科のシミュレーター他最新機器を備えた訓練棟

元々が、ある時ヨーロッパで船の乗組員の不注意によって座礁した船から油の流出事故が発生し

外航商船(国際航路)の船乗りの技術力を標準化しようと

国連のIMO(世界海事機関)が定めたSTCW条約によって

《※STCW:船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約》

 

日本の運航する船舶への配乗が増えていたフィリピン船員を再教育するために

日本のODAによって計画されたプロジェクトでした。

なんとか約束していた時間前にホテルに戻り

ランチしながら昔話に花を咲かせ

昔借りていた家に向かい

台風ヨランダで残念ながら当時の面影を残していませんでした。。。

↓こちらは暮らしていた頃の写真

一時は女中が4人もいて

お抱えの運転手も雇ってました。

これは当時乗っていた車

日本でオフロード用の部品を買い

タイヤとホイールを交換して全塗装してと

↓ こちらが屋内

マスターベッドルームとゲスト用のシャワー・トイレ付の部屋が3部屋

女中部屋に台所、ダイニングホール、その他部屋や広いホールがあったので

(↓マスターベッドルームです。)

(ビリヤード台にお客との会食用テーブルなどなど)

 

いつも泊まり込んでのゲストがいて

何かのイベントがあるとケータリングを頼み

飲み放題、食べ放題にして

ミラーボールとDJ付きのディスコ装置も外注して

百名以上を招待してのパーティーを何度も開催しましたねぇ

 

それなりに高給取りだったのと

青年海外協力隊時代から、”宵越しの銭は持たねえ”主義だったので

家賃も手当を超過してたし、こうした個人負担の交際費も使い放題で

2年間でたぶん家一軒建てられくらい散財しましたが

 

そのおかげで現地の人達からも慕われ

有意義な時間が過ごせたので良かったんだよなと己に言い聞かせてます。(笑)

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その⑤セブ経由でレイテ島タクロバンへ】

2025-03-31 17:40:57 | 旅行

 

ミンダナオ島Dipologを出発して向かったのが

Cebuの中心地の対岸にあるマクタン空港

 

セブ島は、首都で便利ながらも人で溢れ治安の悪いマニラ周辺と異なり

ボラカイなどのリゾート感溢れる観光地が多いため

最近では海外からの直行便も多く

インバウンド観光客で賑わっているんです。

 

その分、観光地価格なのでフィリピン通としては

あまり面白くない土地なんですけどね

 

空港ターミナルも昔は田舎の空港丸出しでしたが

いまではインバウンド観光客向けに洗練されていてとても便利

 

あと近頃はレチョン(炭火焼=特に豚の丸焼きのこと)が人気らしく

レチョンのお店も数軒あってビックリ

実は、食べようかなぁと相当悩んだんですけどね

 

保安検査場の先には

いかにも白人系の好きそうな飲食店があり

フードコートもそこそこ充実してました

搭乗ゲート前の待合室はこんな感じ

丁度お昼時だったので、何か食べようかな?と思いつつ

すぐにレイテ島タクロバンなので

結局ドーナツとコーヒーだけで我慢して

飛行機に乗り込みました。

 

この日は、レイテ島上空も大雨で

着陸寸前で視界が悪化してゴーアラウンド

久々にスリル満点のランディング

 

 

約35年前に暮らしていた頃と同じ古いターミナルビルが懐かしかった~

このレイテ島

1985年に革命で失脚してハワイに亡命した当時の独裁者マルコス大統領の嫁で

天下の悪妻と呼ばれたイメルダ・マルコスの生まれた土地で

 

夫を暗殺されたコラソン・アキノにとっては憎むべき対象だったので

アキノ政権下では、ネグレクトされ開発から完全に干された地域。

 

ご参考までに、フィリピンの主要言語の分布図でご説明すると

北部のルソン島の大きな湾がある辺りがマニラで

薄いクリーム色、黄土色、紫色の地域が

 フィリピンでの標準語となっているタガログ語圏

中央から南の紅色がタガログにつぐセブアノ語圏

レイテ島、サマール島は中央東部の茶色の部分でワライ語圏


なんせ、180以上の言語が存在し、いまも100以上の言語が使われている国
 
私も任地がレイテ島タクロバンでワライ語圏のため
家の女中、車の運転手、日常の生活ではワライ
仕事先では、秘書がセブアノだったりワライだったり
インストラクターは、ほとんどがタガログで
マニラに出張することが多かったので
基本は英語とタガログで通してましたが
レイテ島ではそのどちらも通じないことも多くて苦労しました。

 

あと、当時は隣のサマール島とレイテ島の山間部は

NPA(New Peoples Army:新人民軍)というゲリラの巣窟で

観光客が訪れる土地ではありませんでしたが

近年は資金源だった中華人民共和国とも国交が結ばれ

ゲリラ活動はとりあえず収まっているそうでした。

当時から島の中央には世界最大の地熱発電所があり

電力が安定しているのかと思ったら

送電線や電柱・電線が台風が来るたびに断線して

切れた電線を盗んでしまうので

年がら年中停電だらけ


上水道も水源のダムの取水口が

大雨が降ると詰まってしまい断水


更には市街地の配管が細すぎて

新しい住宅地では需要が賄えず

ほとんどチョロチョロとしか水が出ず

苦労していましたが

台風の後

インフラが整備されて改善されたとか

“災い転じて福となす”

な面もあったんだそうです。

 

空港には、当時の赴任先のプロジェクトの幹部の一人で

タクロバンで借りてた家を紹介してくれた仲良しが迎えに来てくれていて

ホテルのチェックインの時間まで

久しぶりのタクロバン周辺を案内してくれました。

 

車を運転してくれたのが私が帰国した後で生まれた娘さん

いまは高齢者医療の医師として勤務しているんだと聞いてビックリ


長男はマニラでIT業界で働き

次男はなんとカソリックの神父になって

バチカンで修行中だそうで

驚かされる事だらけ(笑)




私がいた頃は、まだ新婚で第一子のゴッドファーザー(洗礼時の保証人)にさせてもらったほど
仲良しだったんですよ。(因みに彼女の左が、まだ30歳になりたてのわたくし

 

レイテ島という土地は

いつもトラック諸島近海で発生した台風が直撃するところで

2013年11月には、フィリピン災害史上最大級の被害を与えた”台風ヨランダ”

(895hPa 最大瞬間風速90m/s: 時速にして324km/h)

によって暴風雨と高波で死者・行方不明者8,000人を超え

タクロバン市は壊滅的な被害を蒙ったため

FBで友達になっている友人・知人は無事だったと知らされたものの

安易には訪れられないなと、10年以上訪問するのを諦めていました。

 

最初に連れて行ってくれたのが

空港近くできた元市長の公邸で

いまはPacific Point Events Place and Resort Inc.と言う場所

太平洋戦争の激戦地だったこともあり

敷地内にはいくつもの日本軍のトーチカ跡もあったりするんですよ

(英語ではPillboxと言います)

続いて訪れたのは

米軍の司令官マッカーサーが意地をかけてレイテ島を攻略して

上陸を果たした場所で

上陸した時の情景を銅像にしたモニュメントがあり、いまは国立公園になっています。

太平洋戦争開戦当時

日本軍の猛攻に劣勢を強いられて

マニラ湾の要塞コレヒドール島の米軍基地に籠っていたマッカーサーが

日本軍の空爆によって命からがらオーストラリアに逃げたのですが

その時に「I shall return(私は必ず戻ってくる)」との言葉を残し

 



 

その約2年半後の1944年10月

タクロバンでとってもお世話になったマルコスのブレインの一人で

歴史の生き証人の方から聞いた話では

タクロバン沖の水平線が見えなくなるほどの連合軍の軍艦が集結し

圧倒的な物量による艦砲射撃と空爆で日本軍を叩き

この地で、「I have retuned!(私は帰ってきた)」と宣言した歴史的な場所で

日本人にとっては、つい悲しみと悔しさに苛まれる場所なんです。

 

一応、戦勝国側にとっては平和の礎となった場所と

定期的に記念式典が執り行われていて

2019年の10月20日には75周年記念式典と


それ以前の50周年だったかな❓

世界の主要国の国家元首による碑が飾られていましたが

ロシアがエリツイン、アメリカがクリントン、日本が村山で

つい、うぅ~んと唸ってしまいました。

 

その近くには

大韓民国のメモリアルパークがあり

話を聞くと、台風ヨランダで壊滅的な被害を受けたあと

韓国は災害復興支援のために韓国軍を約1年間派遣して

瓦礫の撤去や道路、インフラの整備に大活躍したそうで

それを記念してそんな一角ができていました。

2013年10月ということで

まだ東日本大震災と津波の復興で、日本にはあまり余裕がなかったのかもと

言い訳気味に考えてみましたが

 

やはり石橋を叩いても渡らない日本人気質

イケイケドンドンの韓国人の方が偉いよな と恥ずかしい限りでした。

 

その後、レイテ島ではランドマーク的存在でもある有名なPaloの大聖堂を訪れ

その敷地内に集団埋葬されたことを知りました。

ただでさえ南国の上に、電気も水道も失った被災地で

身元確認のために遺体を安置したり保存などできるわけもなく

いたるところで集団埋葬されたとのこと

 

続いて、レイテ島では常に中心地であったタクロバン市から

隣のPalo市にProvincial Government(地方政府)の庁舎も移転されたそうで

Tacloban市民の彼女達はちょっと悔しそうでした。(笑)

その後、タクロバン市庁舎を訪れてから

夕食の約束をしてホテルに送ってもらい

シャワーを浴びて少し仮眠してから

約束していたレストランへ

(緑のポンチョを着てるには、ウーバーの配達人)

このレストランは、シーフードでそこそこ人気と聞いて決めたのですが

医師になった娘さん、実は甲殻類アレルギーでほとんど食べられず

何か食べられるものをと勧めたのですが

遠慮していて申し訳なかったなぁ

娘さんは翌日から36時間勤務とのことを聞いて

長居しては迷惑だろうなと早々に切り上げて

 

ホテルに戻り最上階のレストランで

ビールとFish &Chipsを注文したのですが・・・

ショボすぎてガックリ

 

その昔は、市街地の中心にショーパブがあって

夜な夜な真夜中まで飲み歩いたもので

 

運悪くNPAのゲリラの暗殺部隊(通称スパロー)が店に来ると

店のママが「いまスパローが来たから裏口から逃げて」と

離れたところに停めてあった車まで忍び足で移動して

音を立てないようにドアを開け、車内では背を丸めて運転席に座り

エンジンをかけたら一気に全速力で発進して逃げ帰ったこともありましたねぇ

 

 

それほどショーパブが好きだったのに

今回は、つい面倒になってしまい断念

 

いまやもうすっかり爺さんになっちゃったんだなぁと実感

 

【”その⑥昔の家と職場で思い出に浸る”に続く】

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その④Dipologってこんな場所】

2025-03-30 15:24:22 | 旅行

2月20日

Dipolog2日目

安宿で朝食付きではないため

またまた前日にブランチを食べた店に行き

フィリピンの典型的な朝食のひとつ

Corn Silogを注文

 

その後、近くの飲料品専門店でSan Miguel Pale Pilsenの

1リットル入りGrandeを2ケース(12本)を手土産にして

トライシクルを呼び止めて

目的地までの値段交渉して乗り込み

いざ出発

市街地を離れのどかな田園風景に目がハート

これがまたフィリピンらしく

田植えからまだ日が浅い田圃があれば

少し先にはそろそろ出穂の稲の田圃もあり目の保養になりました。

田圃にはいくつものニッパハウスが点在していて

今度来る機会があったら ケース買いしたビールとオツマミを持ち込んで

日長一日ボーッと田圃を眺めていたいなぁ なんて夢を描いてました(笑)

やがてPolancoの町に入り

道端にはホウキやブレッドフルーツが売られていて

のどかだなぁと思っていたら・・・

 

突然渋滞となってどうしたんだろ?と様子を伺ってみると

道路脇の竹の伐採作業中でした

 

この先でトライシクルの運転手がどこへ行くのかと尋ねられたのですが

なんせ聞いているのは

地名と家の外観の写真のみ

 





 

奥さんの携帯番号を聞いていたので

あんたの携帯で電話してみてくれと言うと

なんと、携帯もってないとのこと

 

しゃーないなー どないしよと思ったところ

一度通り過ぎてしまった道端にあった垂れ幕にその地名があったので

戻ってそこから奥に入っていったのですが・・・

 

写真と同じような門と家がみつかり大喜び

いや~、楽しませていただきました。

実は、この大親友

青年海外協力隊の同期で訓練所で同じ部屋だったこともあり

とっても仲良しなんですが

 

類まれな経歴の持ち主で

団塊の世代で高校卒業時があの東大安田講堂事件の頃

あえてスペインのマドリッド大学へ留学することを決め

フランス郵船の貨客船でアフリカ喜望峰周りでヨーロッパに渡り

大学で学んでからイギリスに渡って数年過ごし

なぜか帰国して、瀬戸で陶芸を学んだり

なぜか土木の道に入ってから

青年海外協力隊に参加してきた強者

 

「土木の世界じゃあ、セメント袋をどれだけ担げるかが大切なんだよ」

などと訳のわからないことを話すガテン系のお兄さんだと思ってたら

語学研修では試験で英語のトップクラスとなり

MIT留学者や旧帝大出の連中と同じクラス

 

そんな経歴の持ち主なのに

フィリピンのミンダナオ島へ陶芸隊員として派遣され

そこで出会った闘鶏の世界にのめりこみ

現地の女性と知り合って結婚


(フィリピンの隊員仲間から、『陶芸隊員じゃなくて闘鶏隊員』と呼ばれてたんだとか)

 

その後任期を終えて帰国して

しばらく奥さんも子供も日本で暮らしていたのですが

奥さんの実家近くで購入していた土地が、運良く地上げで資産が倍増

その後、Dipologに数百坪の土地を買って家を建て奥さんと子供はフィリピンで暮らすようになって

 

毎年、1週間ほど休暇を取ってDipologで過ごし

奥さんも毎年日本で暮らす二重生活を送っているのですが

 

コロナ禍となってワクチン反対派なのでフィリピンに渡れず

今回5年ぶりにDipologで約1月滞在

75歳となってそろそろフィリピンで隠居生活もと思っていたようでしたが

 

やはりまだまだ日本の方が住み易いと感じたようで

終の棲家となるのはもう少し先になりそう

 

家の隅々まで案内してもらい

玄関ポーチで山ほどの貝でビールをご馳走になっちゃいました。

最初は警戒して吠えてた犬も

すっかり懐いて膝の上に寝転んでなでなでを要求

我が家のクロッチ(黒猫)と一緒だなぁと目を細めておりました。

 

しばらくビールを飲みながら歓談していたところ

 

闘鶏仲間が訪ねてきて闘鶏話で盛り上がり


その中の一人は、40年前協力隊員だった時代からの仲良しなんだとか
 
今はもう82歳と聞いてビックリ
 
 
それでも40年たって昔の友人に再会できるって幸せですよねぇ~
 

 

その来訪者たちを見送ったところ

突然腹痛に襲われたらしく

どうやら貝なのか、生魚のお刺身にあたったみたい

しばらく横になって安静にしてた方がいいですよ

もしも痛みがひかなかったら、日本から陀羅尼助を持参してるから言ってねと断って

わたくしはホテルに帰ることにしました。

 

写真には撮っていませんでしたが

裏庭のはるか遠くに椰子の木畑と放牧場があり

椰子の木陰でのんびりと寛ぐ牛たちの姿にとても癒され

隠居暮らしにはとってもいい環境だなぁと羨ましかったです。

(たぶん2・3日で飽きてしまうだろうなとも思いつつ

ふらふらと歩きながら大通りに出て

手を挙げて二人乗りバイクのタクシーを拾い

ホテルに戻り

またまた飲み足りなかったので

ビールを求めて市街地を彷徨い

 

この日は、パンシット(フィリピン風焼きそば)とバグス(ミクルフィッシュ)定食

 

翌日は、少し離れた町で開催される闘鶏の大きなダービーの日で

お誘いしていただいていたのですが

Dipolog最終日となるため、のんびり田舎町を味わおうとお断りしてたので

 

翌朝、ビーチ沿いを散歩していて地引き網を発見

↓Wifiのプリカなんてのもあってビックリ

どこで朝御飯食べようか?

できればビール飲める店がいいなぁと徘徊し

 

ブランチからビールの飲める店をみつけて

結局、この日は飲んで、食べて、昼寝してと

のんびりさせていただきました。

 

Google Mapsでみつけた Tuna Grill のお店

やっぱりお酒は置いてないんですよ~

 

で、結局夜もブランチのお店で

 

やっぱりミンダナオ島のそれもZamboanga(西部)方面は

イスラム教徒も多いからなのかなんなのか

食堂では気軽に飲めないことを知りました。

 

翌朝、早朝のフライトだったので朝5時起きして荷物をまとめ

トライシクルで空港に行くことに

 

空港開港の歴史を説明していましたが

日本に侵略された後と書かれていて大ショック

たぶんもう来ることはないだろうなぁと思いつつ

朝御飯を食べ

セブ行のプロペラ機に乗り込みました。

 

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心の故郷フィリピンでイラチを治す旅【その③ミンダナオ島Dipologへ】

2025-03-26 15:34:35 | 旅行

2月19日 深夜フィリピンに到着した日の朝

ほぼ徹夜状態で国内線に乗り込み

Minadanao島 Dipologへ

ミンダナオ島は、フィリピンの南の大きな島

その昔は、台風はほぼフィリピン諸島中央東部のレイテ島を直撃して北上するものの

それより南にはほとんど上陸しないため

バナナやパイナップルなどのフルーツのプランテーションが多く

過ごしやすい土地なんですが・・・


いかんせん、インドネシアやマレーシアにも近いため
モスレム(イスラム教徒)が多く
基本的に敬虔なカトリック教徒の多いフィリピンでは異端児となり
独立を狙うゲリラだらけで
特にミンダナオ島の主要都市 
サンボアンガ(Zamboanga)は結構怖いところなんです。
 
自称フィリピン通のわたしも
実はミンダナオ島は
そのサンボアンガとこれまたゲリラの巣窟の
General Santosしか訪れたことしかなく
 
Dipologは初めて
ミンダナオ島は実に25年ぶりの訪問となりました。

 

自称晴れ男なのでめったに雨に降られることはないのですが

この日は大雨

着陸前に観たDipologの町があまりに田舎町で

どうみてもタクシーなどない様子

 

再びDipologのことを説明すると

セブ・ボホール・ネグロス島に近いため


海路ではネグロス島のDumageteからフェリーで結ばれていて
生粋のミンダナオ(サンボアンガ)の人間からは
「あそこはミンダナオじゃなくてセブ文化圏」
と言われている場所なんです。

 
Dipolog空港は、戦前から存在する空港で
(フィリピンはほとんど太平洋戦争前からあった空港が多いんです)

馴れないセブアノ語圏だし

預けた荷物を待ちながら

『さて、どうやってホテルまで行こうか?』と

少々不安に感じながら、雨の中空港ターミナルを出て

トライシクル(バイクのサイドカーの乗り物)へ向かって歩いていると

「オォ~イ、長坂さ~ん」と呼ぶ声が聞こえ

なんと今回のDipolog行を決めた

現地に家族がいて約一月のお休みをとって中原さんが

奧さんとお孫さんの運転で迎えに来てくれててビックリ

 

とりあえず孫息子さんの運転でホテルまで送ってもらい

(赤いスポットがホテルの場所)

中原さんとはその日の夕食をご一緒するとしていたため

 

そこで別れてブランチがてら

食事ができる場所を探してみたのですが

どうにも田舎で 近くにまともな食堂がみつからず

カリンデリア(イーテリーとの呼ぶ簡易食堂)があったので

すかさず入店

とりあえずLechon Kawali(焼き豚)付Sisig(豚の顔肉の鉄板炒め)を注文し

「ビールはないの」と尋ねると

「ビールはおいてないです」との返事

 

吞兵衛のわたくしにとって

酒無しでの食事は論外のこと

 

そそくさと食事を終えて店を出たのですが

ほとんど外国人が訪れない土地なのか

タガログ語と英語の会話が嬉しかった様子で

店員はとても嬉しそうでしたが(笑)

 

店を出た途端土砂降りの雨となって

近くの雑貨屋に飛び込み 傘を購入

お酒を求めて 傘を差しながら徘徊し

素焼きの炭のコンロや竹工芸品を置いている

ハンディクラフトの店を眺めたり

 

何軒かの飲食店でビールの飲めないかと尋ねながら



(↑の赤いスポット)

 

ようやくアルコールを置いてある店をみつけ

すかさず入店

アテには大好物のフィリピン風刺身キニラウ(ココナッツミルクのマリネ)と

エビのガーリック炒めを注文

結局サンミゲルビールを5本ほど空けて

気分よくホテルに戻り

中原さんとの待ち合わせが夜7時だったので

とりあえず爆睡

昔は、フィリピンでは差し込み口が丸い穴のタイプCしかなかったのですが

日本と同じタイプAも併用できるようになっててこれまたビックリ

便利な世の中になりましたねぇ~

夕方、晩御飯をご馳走してくれると言ってたものの

こちらから勝手に押しかけてきたのと

団塊世代の中原さんも75歳となって

日本でも週に2・3日のアルバイトをしているようなものの

未だ一応現役で働いている身なので 

こちらからご馳走させてもらおうと

近所のATMを探し、現金を引き出し

(もう20年以上、海外ではATMでクレジットカードからの借り入れにしています)

(レートも悪くないし、手数料も僅かなので現金での両替よりもよっぽど便利なんです)

 

 

ホテルに戻り

夜7時、中原さんの奥さんの運転する車で

Dipologでの人気スポット

Dipolog Boulevard Food Parkへ

(↓のオレンジ色の下側のマークの場所)



 

基本串焼きのサティを炭焼きして食べる場所なんですが

申し訳なくて 

ほんの少しだけ注文したのですが

やっぱりお酒は置いてなくて、ちょっとガッカリ

(洗い物が楽になるように、お皿はラップに包まれてました)

その後同居しているお孫さん(孫息子と孫娘の二人)も

学校から戻ってきて合流し

「遠慮せずにもっと食べて」と言っていただいたのですが

なんせビール無しでは食事がすすまず

 

食事を済ませてからお別れして

またまたビールを飲める店にくりだし

カラマレス(イカのリング揚げ)とBicol Express(豚肉をココナッツミルクと唐辛子で煮た料理)で

またまたサンミゲルを4本ほど飲み干して

このお店

どうやら夜が本番らしく

お酒やカラオケを楽しむお客で賑わっていましたが

歳とって女っ気にも興味がなくなってしまったため

お酒で酔えただけで大満足

トボトボと歩いてホテルに戻りました。

 

【その④に続く】

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