これまでブログ記事として何度もトンガ王国のことを書かせていただきましたが
そのトンガ時代において
忘れられない仲良しで恩人でもある台湾人の家族がいました。
航海訓練所の練習船青雲丸で初めてトンガを訪れた1979年7月
寄港中に当時あった中華レストランで食事をしたのが忘れられずにいたのですが
1982年2月に青年海外協力隊員として赴任した時には
首都Nuku’alofaの王宮横のメインストリートに
小さなチャイニーズレストランができていて
(↓これはいまの写真ですが、この場所に掘っ立て小屋に毛の生えたような平屋の店舗がありました)
ランチメニューは隊員の手当でも気軽に食べられるお値段だったので
陸にいて平日のお昼にはほぼそのお店に通い
台湾人夫婦で営業していて
英語もTonga語もあまり話せず言葉では意思疎通できませんでしたが
店主の”コーさん”はその昔東京で料理の修行をしていたこともあって
親日家でカタコトの日本語も話せたので
現地では数少ない同じ東洋人とあって
とても仲良しになり懇意にしていました。
隣国サモアから駐在員が出張してきた時や日本からの来訪者があると
よく会食にお勧めしてたのが
①王宮の隣にあるRestaurant Sea View (ドイツ人シェフのレストラン)
お気に入りは
フィレット・ミニオンFillet Mignonとハンガリアン・グーラッシュスープ
そしてワインは、Blue Nan
②島の最西端のビーチにあったGood Samaritan Inn(フランス人シェフ)
この店では
グリルド・ロブスター他シーフードが大好きでしたねぇ
そしてこの台湾料理レストラン”華華餐廰”(Hua Hua Restaurant)でした。
(※観光客向けのHina Caveという洞窟でウム料理とFire Danceの’Oholei Beachや
同じく観光客向けにドイツ人が経営するFafa Island Resortもありましたが
トンガ在住の人間が普段使いする場所ではありませんでした)
前述のレストランはそれぞれが定期的に王様の料理人を兼務していましたが
Hua Huaの店主のコーさんもその一人
台湾大使館や1979年にあった中華レストラン”東華(トン・ファ)”のコックだったのか
それとも華僑として新天地を目指してきていたのか
そんな経緯から独立してお店を開いたようでした。
小さな狭いお店でしたが
安価で味も良かったのでリピーターが増え
それはそれは繁盛していつもお客でいっぱいになり
何時頃だったか(たぶん1983年頃)
実は、その昔1970年代に日本でも有名になったトンガ人の相撲力士の
部屋の息子(楠田氏)がやっていた自称”日本食堂”が王宮近くのビーチ沿いにあり
(不味いけどボリュームだけはある焼飯とかしかありませんでしたが)
高くはなかったけど美味しくなかったのでお店はいつも閑古鳥が鳴いていて
そのお店を譲ってもらったのか移転
おっと、ここでトンガ人力士のこともご説明しておくと・・・
1976年にこんな事件があったのを覚えていらっしゃいますか?
トンガ人は、義理を重んじる性格なので
つい亡き親方の女将さん側についてしまい廃業することとなってしまったのですが
その親方の息子が、たぶん元力士たちに誘われてトンガに渡り
日本食レストランを営業していた様子
またまた余談となってしまいますが
当時はチャーリー小野寺なる
自称トンガ王国特別顧問と言っていた詐欺師がいて
俳優の田宮二郎にトンガには石油が埋蔵されているとの夢物語と
その採掘利権を得るために国王に会わせるとの甘言に騙され
(実際にチャーリー小野寺は国王にも取り入ってたので信じてしまったみたい)
結局、田宮二郎は手形や印鑑証明を乱発して借金を抱え精神的にも追い詰められ
猟銃自殺をしてしまうのですが・・・
その他にも、それもチャーリー小野寺絡みだったのか
田中邦衛さん主演のドラマ【トンガ冒険家族】のモデルとなった
トンガの百貨店もどきの商店の支配人として数名の日本人が招聘され移住したものの
実際には田舎の雑貨屋の店番
夢破れて、現地で養鶏場を経営して失敗
それでも帰国できずに居残ってアメリカ平和部隊のボランティア相手の食堂をしていた人物なども居ましたが
日本から手当の出ている我々には妬みしかないようで親しく話す間柄ではありませんでした。
それとは別に、それこそ戦前(WWII前)に移住した日本人の子孫も居て
彼等は、ほとんど未開の地のようなトンガで床屋や商店を経営し
そこそこ成功した子孫がいたので
つい騙されてしまったんでしょうか。
そんな黒歴史もありましたねぇ
ー・ー・ー・ー・ー
いつもながらすっかり脱線してしまったので
話を戻しますと
そうして、海岸沿いのそこそこ部屋数のある楠田氏が食堂をしていた一軒家に移ってからは
円卓や普通サイズのテーブルをいくつも置いたホールに加え
人数によってサイズの異なる個室もでき
欧米系の居住者(主に援助団体のメンバーでしたが)にも人気となり
海岸沿いでオセアニア周遊のクルーズ船が寄港すると
それらの観光客も立ち寄るようになり
コックにウエイトレスも増員して大繁盛
そんな状況を知ってか、1985年頃には台湾大使館直営のような東華(トン・ファ)が営業を再開し
翌年には新しく離れた場所に台湾華僑のレストランができるなど
競合が現れていましたが、味は華華餐廰が一番で
その後もずっと続いていくんだろうな
いずれまたトンガに訪れたら会えるだろうと気軽に考えて
今生の別れとは思わず帰国したのですが・・・
時代の流れで世界各国同様、トンガ王国も中華人民共和国と国交を結び
台湾大使館は閉鎖、台湾からの華僑の人々も離れてしまい
1993年に再訪した時には
”華華餐廰”も既に中共本土人の店に変わっていて大ショック
「前の経営者はどうした?」と尋ねても不愛想に「知らない」とけんもほろろ
出身が台湾の高雄だと聞いていたので
その後台湾に出張する機会があったため
高雄でトンガでレストランを経営していた人を探せないだろうかと相談していたのですが
華僑として世界中に移住しているお国柄
それとまだトンガで暮らしていた時代(1986年頃)
中華人民共和国がまだ混沌としていた時代で
台湾から対岸の厦門に渡って事業を始める人が増えていたこともあって
”コーさん”も、そんな中国本土での事業展開の夢を語っていたので
台湾には戻ってないかなと
いつかTV局にトンガで知り合った台湾の大恩人として売り込み
人探ししてもらえないかなと思いつつ
いつの間にやら三十有余年が過ぎてしまいました。
とは言え、いつも心の中には”コーさん”のことがあるからか
先日、FBの友達の【知り合いかも】に”高”さんなる人物があり
もしかしたら”コーさん”の遠い親戚かもと思い出し
メッセンジャーで問合せてみようかな?と思いつつ
Tonga、Fua-Fua Chinese Restaurant、高、とグーグルで検索していたところ
↓ こんな記事を発見
Fua-Fuaだと思いこんでた”華華”がHua-Huaだと知り
中文にしてみたところ
”コーさん”=”高さん”と思い込んでたのが
”郭さん”で
郭瑞章(Kuo Jil-Chang)さんとわかり
検索でなにか見つけられないかと
東加王国、華華餐廰、郭瑞章と入力してみましたが
この記事以外には何もヒットせず
それならば、この記事を書いたライターに問い合わせてみようと
決意した次第です。
どうしてそこまで会いたいのかと言うと
【故桜井研次さんを偲びながら往時の思い出に浸ってみました。その⑨】で
記事にした劇症肝炎を発症して生死の境を彷徨っていた時に
約1月、自宅で寝たきり状態となって動けなくなっていて
いつものように頻繁に食べに来ないことから劇症肝炎を患っていることを知り
郭さんも奧さんのスーリーもとても心配して
超高額な漢方薬の【熊の胆】と栄養剤アンプルの箱を持って見舞いにきてくれ
その後緊急帰国を経て、半年後に再赴任し
任期を延長して最終的に帰国することになった時には
お店を休んで貸切状態にして普段のメニューにはない料理で
送別会を催してくれて大感激
開業当時は、華僑として新天地に向かう時にはよくあるようで
苦労するであろうこと、衛生状態などわからないことから
子供を親族に預けていたようで
新しい店に移ってから奧さんのスーリーが台湾に帰国して娘さんを連れてきたのでした
家族ぐるみの付き合いだったので
娘さんも親戚のおじさんのようにとても懐いてくれてましたねぇ。
(↓左端は、現在ALSで闘病中のオノチン)
ということで、コーさん(郭さん)は生涯忘れることのできない大恩人だったのです。
あと台湾の人との想い出の一つが、その任期を終えて帰国した時に
同じFIJI行の飛行機で前述した新しくできた庶民的な中華レストラン
のコックさん夫婦が乗っていて
英語もトンガ語もほとんどできず
話しかけてきたので筆談で問いかけると
「FIJIは詳しいですか、どこか安い宿を知りませんか」との質問
事情を聴くと
やはり既に大繁盛していた”華華”には敵うわけもなく
お店はいつも閑古鳥が鳴いている状態だったこともあってか
夢を抱いてトンガに渡ってきたものの諦めて帰国することになったと聞かされ
数日後(週に2便しかなかった時代のこと)我々と同じNadiから東京行きのフライトに乗って
乗り継いで台湾に帰国するとのこと
それはあまりにも可哀相だなと
空港からSuvaでいつも定宿にしていたアパートメントホテルに連れて行き
支払いをして、出発までゆっくり過ごせるようにと手配して
私とチャンカーは日本大使館とJICA事務所で離任の挨拶と会食に招待され
懇意にしていた書記官は長年お疲れ様でしたと
翌日にはFIJI西部のリゾートホテルを手配してくれていたため
搭乗日にNadiでまた会おうねと別れ
あまりに不憫で空港では機内で隣同士となるように席を取り
成田までの間も筆談をして日本でもお世話しようと思っていたところ
成田では何やら迎えの人がいて
幼児の国に行ってお土産を買うとの話をしてくれたのですが
何のことやら理解できず(どこかの幼児施設と思い込んで)
空港で別れてしばらくしてから、ようやく東京ディズニーランドだと気づき
そう言えば、やはり現地での生活が安定するまではと
子供を台湾に残してきたと話していたのを思い出し
事業に失敗して失意の帰国でしたが子供に会えるのは嬉しいだろうなと思いつつ
帰国してからは、JICA中部支部が一日も早く働いて欲しいと切望されていたため
東京での帰国手続きをしながら名古屋でアパート探しをしたり
実家にも帰らず引っ越しや新しい職場での仕事に忙殺され
名古屋での生活を始めていたところ
実家の母から電話があり、何やら国際郵便の小包が届いてるとのこと
そのうち帰省するからそのまま置いておいてと伝え
数週間後の週末に家に帰ったところ
台湾からの小包で、送り主が帰国した時のご夫婦と知りビックリ仰天
高級烏龍茶やいろんな台湾の食べ物がダンボールにぎっしり詰まっていて
たしか手紙も同封されていて、お世話になったお礼が書かれていました。
そんな台湾人の恩義を忘れない義理堅い気遣いにビックリ
その後も何度もそうした贈り物が何度も届き
私は名古屋勤務の後、東京の新宿三井ビルのJICA本部となり
そのままフィリピンへの派遣となったのですが
フィリピン赴任中に実家が新築することになって
そのご夫婦からの手紙と住所がわからなくなって
とうとう音信不通となってしまいました。
そんな訳で私にとって台湾の人はとても大切な存在で
なかでも華華餐廰の郭瑞章さん夫婦はどうしても再会を果たしたいと
もしかしたら、どこかでタグから検索に引っかかるかもと
こんな記事を書かせていただいた次第です。
まず、トンガの華僑家族の集合写真を掲載していた
【台湾光華雑誌】に連絡を取って問合せてみて
日本と台湾のTV局に”恩人探し”のネタで番組を作ってもらえないかと手紙を書き
台北駐大阪経済文化弁事所(台湾の領事館)を訪ねて
相談してみようと思っているところです。
どうか再会が実現されますように