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6月9日の礼拝の内容です。

2024-06-08 20:00:00 | 日記
6月9日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.200.451.470。27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/HbzPoyuU1uQ?feature=shareです。

礼拝説教      使徒9:32~35「アイネアよ、起きなさい」    2024.6.9

 私たちは、この世界に生まれて来て、今、生きています。生きていていろいろなことが起って来ます。自分や周りの人たちなどです。生きていることは苦しいことや辛いことや悲しいことが特に多くなっています。病気になること、事故にあうこと、人間関係がうまくいっていない、勉強や仕事がうまくいっていないなど、日々の心配は尽きることはありません。

 病気になることですが、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るっている時は、病院に入院した場合、家族が面会することはほとんどできませんでした。5類になっても、その影響は残っています。最近、面会制限が少しずつ緩和しているように感じます。面会の対応については、それぞれの病院で差はありますが、緩和されていると思います。

 私たちの教会でも高齢のために、病院に入院中の者、施設に入所している者などがおります。その方々をある程度、自由に面会することができるようになりました。ある方の場合は、やっと会うことができました。しかし、面会することができなかった時間を深く感じることがありました。いろいろな事情がありましたが、よりよい状態で過ごして欲しいと願います。

 いつの時代でも変わらず、私たちは病気になり、ケガをすることがあります。今日の聖書の箇所は、短いところですが、8年間、中風という病気で苦しんでいる人が出てきます。「中風」とは、現在では脳卒中や脳血栓など脳血管疾患とされています。突然倒れて半身不随になることや言語障害を起こすなど、後遺症が残りやすい病気です。

 今日の聖書の箇所では、ペトロが登場して来ます。ペトロは方々巡り歩いて、イエス・キリストを伝えました。ここではリダという場所に来ています。聖書地図6、新約時代のパレスチナによるとエマオとヤッファの間にあります。ペトロはリダに住んでいる聖なる者たちのところへ下って行ったとなっています。そして、そこに中風で8年前から床についていたアイネアという人と出会うのです。このアイネアは、病気のために8年間も床についていなければなりませんでした。アイネアはとても辛い思いの中にあったと想像することができます。使徒言行録の時代も、いろいろな病気があり、そのために苦しむ人々が多かったのです。人の病気については、時代が代わっても苦しみ続けることになっています。今日の聖書の箇所は、ペトロが中風で8年間も床についているアイネアを癒す場面です。

 ペトロはアイネアに「アイネア、イエス・キリストが癒してくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい。」といいますと、アイネアはすぐに起き上がったのです。リダとシャロンに住む人々は皆、アイネアを見て、主に立ち帰ったとなっています。この個所を読んでいると、使徒3:1~10に書かれてあるペトロが生まれながら足の不自由な男を癒す場面に似ていると思いました。

使徒3:6~9
ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。

 神殿の境内の美しい門で、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来るのです。その男は、美しい門の側に置かれて、神殿の境内に入って行く人から施しを乞うために置いてもらっていました。そこで、ペトロと男の出会いが起ります。その男がペトロを見つめています。ペトロは「わたしに金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」といいます。そして、右手を取って彼を立ち上がらせたのです。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出しています。そして、歩き回ったり、踊ったりして神を賛美して、神殿の境内に入って行きます。

 ペトロが神殿の美しい門でも、リダの場面でも、癒す時に、「イエス・キリストが癒してくださる」といっています。癒しの力は、ペトロを通しては叩いていますが、そのもとは、イエス・キリストから来ていると確認しています。聖書を読んでいると、このような癒しの奇跡の記事が多く出ています。この癒しの奇跡と多くの人々がイエス・キリストを信じて、洗礼を受けて、教会に加わっている様子が描かれています。自分の目の前で、奇跡が起っている。生まれながら足の不自由な男が、急に躍り上がって立ち上がっていくのです。8年も中風で床についていたアイネアが、すぐに起き上がっていくのです。新約聖書の時代の人々は、その奇跡を見て本当にびっくりしたと思います。

 今日、私たちの目の前でそのような奇跡が起ったら、周りの人々は、イエス・キリストを信じて、教会に加わっていくのでしょうか。奇跡の力は私たちにはありません。その奇跡の力が与えられて、そのようなことを行うことができたとしたら、伝道は進んでいくのでしょうか。そのような思いになってしまいました。自分が行う奇跡、8年間も病気で寝ていた人が、急に起き上がっている。生まれながらに足の不自由な人が急に立ち上がって踊り出している。そのようなことが起ったらと考えてしまいました。このような奇跡は、聖書の時代だけと考えています。

 聖書が書いている癒しの奇跡の物語は、イエス・キリストの力を示しています。それは、イエス・キリストの十字架の死と復活の力です。病気が癒されても、障害がなくなっても、人は死んでいくのです。私たちの本当の問題は、死んでいくということです。この人の死の問題をいかに解決していくかが大切なのです。イエス・キリストの力は、人の病気や障害を癒す力があることを証明しています。それは、イエス・キリストには人の死を解決することができる力があるということを証していくのです。

ヨハネ11:41~44
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

 この聖書の場面は、ラザロの復活のものです。死んで4日経って墓に葬られていたラザロを復活させています。もちろん、このラザロの復活のものは、死んでよみがえりましたが、またラザロには死が待っています。しかし、その先です。ペトロはいっています。イエス・キリストの福音のことをです。

使徒2:23~24
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

 神からの聖霊を受けたペトロは、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味をはっきりといっています。神はイエス・キリストを死の苦しみから解放して、復活させてくださったのです。それは、私たちイエス・キリストを信じる者たちが、死の苦しみから解放して、復活させてくださるのです。ペトロが「アイネア、イエス・キリストはいやしてくださる。起きなさい。」といった言葉は、次のような言葉を意味しています。「アイネア、イエス・キリストはあなたを復活させてくださる。そのことを信じなさい。」というものです。このペトロのアイネアへの言葉は、私たち1人1人に語られているのです。「〇〇へ、イエス・キリストはいやしてくださる。起きなさい。」という言葉です。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。ペトロがアイネアにいわれました。「アイネアよ、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。」と。この言葉を、私たちへの言葉として聞くことができるように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


6月5日の祈祷会の内容です。

2024-06-04 20:01:00 | 日記
祈祷会      士師記3:12~31「主の助けを求めて叫ぶ」     2024.6.5

 士師記を学んでいきますと1つの流れがあります。それは、イスラエルの人々は平和で幸福に生活しています。すると幸福の中で、神を忘れて、先住民と交わっていきます。そして先住民の神々を拝むようになります。神の教えを破ってしまうことになります。それを見た神は怒り、イスラエルの人々に対して敵を送ります。人々は敵に襲われて苦しむことになります。その苦しみの中で、神に助けを求めて叫びます。その人々の叫びを聞いた神は憐れみ、1人の士師を送ります。士師が活躍し、人々と共に敵を滅ぼします。敵が滅びたので、人々は再び平和と幸福を取り戻すことができます。士師が亡くなります。すると、人々はまた先住民と交わり、偶像礼拝を犯してしまうことになります。神は怒り、再び敵を送り、人々を苦しめます。人々は敵の苦しみの中で、神に助けを求めて叫びことになります。人々の苦しみの叫びを聞いた神は、人々を憐れみ、1人の士師を送ります。このような流れになっていきます。このような流れを何度も繰り返していくのです。それが士師記の神学ということができます。

 先週は、最初の士師であったオトニエルが活躍しました。イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行うのです。それは主を忘れて、バアルとアシュラに仕えたのです。主はイスラエルの人々に対して怒り、アラムの王を送りました。イスラエルの人々はアラムの王のもとで苦しみました。8年間、その苦しみは続くことになったのです。イスラエルの人々は神に助けを求めて叫びます。神は、人々のために1人の士師を送ります。それがオトニエルでした。士師オトニエルは、アラムの王を破り、イスラエルの平和がやって来ました。その平和は40年間続いたのです。オトニエルは死んでいきました。

 今日の聖書の箇所は、2番目の士師であるエフドが活躍をします。まず、イスラエルの人々は、またも主に対して悪とされることを行うのです。先住民と交わり、先住民の神々を拝んでしまうのです。神は怒り、イスラエルの敵としてモアブの王エグロンを強くしました。モアブの王はアンモン人とアマレク人を集めて、攻めて来て、イスラエルを破るのです。このようにして、イスラエルの人々は18年間、モアブの王アグロンに仕えることになります。イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫びました。人々の叫びを聞いた神は、1人の救助者を送ります。それがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドでした。イスラエルの人々は貢ぎ物をエフドに託して、モアブの王エグロンのもとに送ります。

 エフドはこの時に、刃渡り1ゴメドの両刃の剣を作り、それを右腰に帯びて上着で隠し、モアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を納めに行きました。モアブの王は非常に太っていたとあります。ここで、エフドはある作戦を練ります。それは巧妙な暗殺を行うためのものです。エフドは貢ぎ物を納め終ると、貢ぎ物を運んで来た者たち去らせます。自分はギルガルの近い偶像のある所から引き返します。そして、エフドはアラムの王に「王よ、内密の話がございます」といいます。王は「黙れ」といいますと、そばにいた従臣たちは皆、席をはずしました。エフドは近づきました。その時、王は屋上のしつらえた涼しい部屋に座り、ただ1人になりました。エフドが「あなたへ神のお告げを持って来ました」というと、王は席から立ち上がりました。エフドは左手で右腰の剣を抜き、王の腹に刺しました。剣は刃からつかまでも刺さり、抜かずにおいたため脂肪が刃を閉じ込めてしまいました。汚物が出て来ていました。エフドは廊下に出て、屋上にしつらえた部屋の戸は閉じて錠を下ろしておきました。

 エフドが出て行った後で、従臣たちが来て、屋上にしつらえた部屋の戸に錠がかかっているのを見て、王は涼しいところで用を足しているのだといい合っていました。エフドは時間を稼ぐことができました。従臣たちは待てるだけ待ちましたが、屋上にしつらえた部屋の戸が開かないので、鍵を取って開けてみると、モアブの王は床に倒れて死んでいました。

 エフドは抜け出し、偶像があったところを過ぎてセイラに逃れました。到着すると、エフドはエフライムの山地に角笛を吹き鳴らしました。イスラエルの人々はエフドと一緒になり、エフドを先頭に山を下って行きます。エフドは「私の後について来なさい。主は敵モアブをあなたたちの手に渡してくださった」といいました。イスラエルの人々はエフドに従って下り、モアブに向かうヨルダンの渡しを手中に収めることができました。イスラエルの人々は誰一人そこを渡させることはしませんでした。この時に1万人の敵を破ったとあります。皆、たくましい兵士たちであり、1人として逃れた者はいなかったといいます。モアブはこの日に、イスラエルの人々の手中に落ちて屈服しました。イスラエルの人々は80年間に渡って平穏に暮らすことができました。

 31節にはエフドの後、アナトの子シャムガルが現れ、牛追い棒でペリシテ人600人を打ったとあります。シャムガルは3人目の士師ということになります。約束の地の地方での出来事ということができます。

 今、私たちの住む世界では、いろいろな地域で戦争が起きています。ウクライナとロシア、イスラエルとハマスです。どうして、人は戦争を起すのでしょうか。どうして、すぐに止めることはできないのでしょうか。かつて日本も戦争をしていました。多くの犠牲を出して、戦争を終えました。広島の原爆慰霊碑には次のような言葉が書かれてあります。「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」と。私たちは過ちを繰り返してしまうのでしょうか。どうしたら、過ちを繰り返すことにないようにすることができるのでしょうか。士師記を学びながら、特にその過ちについて考えていきたいと思います。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの人々は繰り返し繰り返し同じ過ちを犯しています。それが人の原罪なのでしょうか。どうしたら、過ちを繰り返さないことができるようになるのでしょうか。ただ、イエス様の十字架を見上げます。どうか、過ちを認める力と繰り返さない知恵を、私たちに与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


6月2日の礼拝の内容です。

2024-06-01 20:18:00 | 日記
6月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.18.412.433.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/yfAxRco9nic?feature=shareです。

礼拝説教       使徒9:26~31「慰めの子バルナバ」     2024.6.2

 バルナバ、慰めの子という意味です。今日は、このバルナバという人物に光をあててみたいと思います。使徒言行録を追いながらみていきます。最初に出てくる場面は次の通りです。

使徒4:36~37
たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 この場面は、最初の教会の様子を描いています。イエス・キリストを信じた人々は心も思いも1つにして、1人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有していたというものです。使徒たちから、バルナバと呼ばれていたとあります。キプロス島生まれのヨセフというのが本名です。本名ではなく、愛称で呼ばれていたのです。バルナバとは「慰めの子」という意味だといいます。慰めに満ちた人ということでしょう。バルナバも持っていた畑を売り、それを教会にささげたのでした。

 バルナバをみる時に、バルナバの人物像というよりも他者に対する態度をみていきたいと思います。対人関係の中で、バルナバが他者に対して、どのような態度をとっているのかをみていくことです。次に出て来るところが、今日の聖書の箇所になります。

使徒9:26~28
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。

 バルナバが果たした役割の中で、一番大きいのがサウロとの関係です。サウロ、後のパウロです。初めてのころの教会の発展の中で大きな役割を果たしていく人です。サウロは、ステファノの殉教の場面で出てきます。ユダヤ人がステファノの殉教の時に、石を投げるために、自分たちの着ている物をサウロという若者の足もとに置いたといいます。サウロはステファノの殉教に賛成していたとあります。サウロは熱心なユダヤ教徒の家で生まれ、若い時からエルサレムに留学し、ガマリエルのもとで厳しい学びをしていました。熱心なユダヤ教徒として、教会に対する迫害、ステファノの殉教にも賛成していたということです。その後のサウロは、家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていたのです。

 そのサウロは、使徒9章に最初で、ダマスコ途上でイエス様との出会いをします。なぜサウロがダマスコに行ったかといえば、キリスト教徒を脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛の手紙を求めています。それは、キリスト教徒を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行するためでした。その時に、イエス様の光がサウロを照らします。その光の中で、サウロは、イエス・キリストと出会い、迫害者から伝道者と変えられていきます。その流れのためには、サウロ自身の苦しみをありましたが、ダマスコの信仰者アナニアの出会いもありました。その後、サウロはダマスコで数日間、ダマスコの弟子たちと一緒に、あちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエス様のことを宣べ伝えるのです。これを聞いた人々は皆、非常に驚いています。その後、サウロはアラビアに逃れて行ったとあります。かなりの日数を過してから、再びダマスコに戻ります。この時に、サウロはユダヤ人から殺されそうになりますが、何とか逃れることができました。そして、エルサレムに行くのです。

 サウロがエルサレムに行った理由は、エルサレム教会に行って、弟子の仲間に加わろうとしたことです。当然のように、サウロの行動は知られていましたので、教会に人々は皆、サウロをイエス様の弟子だとは信じないで恐れたのです。この時に、大きな役割を果たしたのがバルナバです。バルナバはサウロを連れて使徒たちのところへ案内します。バルナバは、サウロが旅の途中でイエス様と出会い、主に語りかけられて、ダマスコでイエス様のお名前で大胆に宣教した次第を説明しました。それで、サウロはエルサレム教会で、使徒たちと自由に行き来し、イエス・キリストの名で恐れず教えることができるようになったのです。バルナバの対応があったから、うまくサウロはエルサレムの使徒たちに関わることができるようになったのです。この時、サウロの宣教活動によって、ユダヤ人から命を狙われることになりました。それを知った教会の人々は、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させます。サウロは一時的に自分の故郷に帰ることになります。サウロの命を守るためです。

 その後、キリスト教の伝道が進んでいきます。ステファノの殉教の時に散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きました。イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくのです。この地域の人々がイエス・キリストを信じたといううわさがエルサレムにある教会まで聞こえてきましたので、教会はバルナバをアンティオキアに派遣します。バルナバがアンティオキアに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜びました。その時に、バルナバは次のことをします。

使徒11:24~26
バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。

 このようにバルナバは、サウロを捜しにタルソスに行って、見つけ出して、アンティオキアに連れ帰るのです。1年間一緒にいて、アンティオキアの教会で伝道していくのです。この後で、バルナバとサウロは一緒に第1回の伝道旅行に行きます。その後、第2回の伝道旅行にも一緒に行こうとするのですが、ここで事件が起りました。この事件はバルナバの人間性がよく出ていると思います。

使徒15:36~40
数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

 バルナバとサウロは第1回伝道旅行を一緒に行きました。そして、第2回伝道旅行も一緒に行こうとなっていたのですが、同行者で対立してしまったのです。バルナバはマルコと呼ばれるヨハネも一緒に連れて行きたいと考えていました。このヨハネは第1回伝道旅行中に途中で帰ってしまったのでした。「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。」(使徒13:13)と、なっています。ヨハネは伝道旅行の困難な中で挫折してしまったのでしょう。それで途中で帰ってしまったと考えられます。バルナバはヨハネにもう一度チャンスを与えたいと思い、同行者と選んだのです。しかし、サウロは反対しました。途中で挫折した者は同行者にふさわしくないと考えたのです。どちらが正しいということはないと思いますが、この判断で、バルナバとサウロは意見が激しく衝突してしまったのです。ついに別行動をとることになってしまいました。使徒言行録は、今後、サウロの行動を追っていきます。バルナバはここで退場するようになります。

 後に、このヨハネはサウロの同行者となります。「ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。」(2テモテ4:11)とありますように、サウロはヨハネ(マルコ)のことをわたしの務めをよく助けてくれるとまで、いっているのです。ヨハネの失敗を受け止めたバルナバによって、ヨハネは弟子として成長することができました。バルナバの働きによって、そのように導かれていくのです。私たちは今までバルナバの歩みをみてきました。バルナバはその時その時に大切な役割を果たしてきました。バルナバをみていきますといろいろな役割が私たちにはあるなあと思います。私たち1人1人にはそれぞれに特別な役割が与えられています。その人だけに与えられている役割です。それぞれの役割を見つけて、それを神のために用いていけるようになっていきたいと願います。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。バルナバの働きについてみてきました。慰めの子と呼ばれ、それにふさわしい働きをしてきました。私たち1人1人も神からそれぞれ特別な役割を与えられています。その役割を見つけ、その役割を神に果たしていくことができるように願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。