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5月12日の礼拝の内容です。

2024-05-11 19:50:00 | 日記
5月12日の礼拝の内容です。讃美歌は、56.197.433.452.24です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/0zM_7w3cVEQ?feature=shareです。

礼拝説教   使徒9:10~19「目からうろこのようなものが落ちて」  2024.5.12

 「目からうろこのようなものが落ちる」ということは、どのようなことなのでしょうか。突然に天からの光を受けたサウロが地に倒れて、起き上がって、目を開けましたが、何も見えなくなってしまったのです。キリスト者を迫害すると目標に向かって走っていたサウロ、それが、光を浴びて、倒れて、目が見えなくなってしまった。やがて、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになっていく。目が見る時は、目にうろこのようなものがついていた訳ではなくて、天からの光を浴びた時に、目にうろこのようなものがついたと考えられます。サウロの目についたうろこのようなものとは、どのようなものだったのでしょう。ずっと、そのことが気になっていました。

 使徒言行録9章の最初には、サウロの回心の話が出てきます。サウロとは後のパウロです。先週もいいましたが、このパウロの活躍を抜きにキリスト教の発展はありませんでした。そのサウロです。使徒22:3によると、サウロはキリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人でした。若い時にエルサレムに留学して、ガマニエルのもとで神の律法について厳しい教育と受けたといいます。ユダヤ教の律法を学び、律法学者としての歩みをしていこうという人でした。

 一方で、聖霊を受けたイエス様の弟子たちが、キリスト教の活動を本格化していきます。教会の活動は豊かになされていき、多くの人々がイエス・キリストの福音を受け入れて、洗礼を受けて、教会に加わっていくのです。ユダヤ教の指導者である律法学者は、教会の活動に反対し迫害を強めていくのです。ステファノの殉教は大きな出来事でした。ステファノの殉教の時に、初めてサウロが登場して来ます。そして、サウロはステファノの殉教に賛成していました。ステファノの殉教によって、キリスト者はエルサレムから逃げて、ユダヤ、サマリア地方に逃げて行くのです。その逃亡しながら、イエス・キリストの福音と伝えていきます。そのことを知ったサウロは、キリスト者を脅迫し、殺そうと意気込んでダマスコに向かって歩んで行きます。それは、キリスト者を見つけ出して、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行するためでした。

 このダマスコ地上で、サウロは天からの光を浴びるのです。その時に、サウロは初めて、イエス様の声を聞き、出会うことになりました。イエス様は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけるのです。イエス様の声を聞いたサウロは、一度、地面に倒れますが、起き上がりましたが、目が見えなくなっていたのです。サウロは人々の手を借りて、ダマスコに向かうことになりました。サウロは、3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのです。

 そして、今日の聖書の箇所になっていきます。ダマスコにはアナニアというイエス様を信じる者がいました。イエス様は幻の中で、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは「主よ、ここにおります」と答えています。キリスト者アナニアは、ここだけ登場してきます。これからアナニアは、イエス様から大切な役割を与えられます。イエス様は「立って、直線通りと呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」といいます。

 ダマスコに住んでいたキリスト者アナニアは、サウロのことを知っていました。当然のようにイエス様の申し出を拒否します。アナニアは「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどのような悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼ぶ求める人をすべて捕えるため、祭司長から権限を受けています」と、答えます。すると、イエス様は、「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」とアナニアに答えます。

 このダマスコでの出来事といいますか、イエス様とサウロの出会いが、サウロの今後の歩みを大きく変えていきます。迫害者サウロから伝道者サウロに変えられていくのです。イエス様の力はいったい、どこにあるのだろうと思います。人の人生を大きく変えることができるのです。また、キリスト者アナニアですが、サウロのこれまでの行動を知っていました。それを急に変えることができるのでしょうか。絶対に警戒心があって、実際どうなのだろうと不安があって、行動していくと私は感じるのですが、どうなっていくのでしょうか。

 そこで、アナニアは出かけて行って、ユダの家に入り、サウロの上に手を置いて、「兄弟サウル、あなたがここに来る途中に現れてくださったイエス様は、あなたが元どおり見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」といいました。アナニアは、サウルを「兄弟」と呼んでいます。どうして、このように迫害者であったサウロを、兄弟として、受け入れることができたのでしょうか。サウロはこのアナニアとの出会いによって、アナニアから手を置かれて、たちまち目からうろこのようなものが落ちたのです。サウロは元どおり見えるようになりました。そこで、サウロは身を起して、アナニアから洗礼を受けて、キリスト者になっていったのです。サウロは食事をして元気を取り戻しました。

 迫害者サウロが、イエス様との出会いによって、伝道者サウロに変えられていく回心の話ですが、イエス様の直接的な働きも大切なものですが、アナニアの働きも大切なものです。イエス様がアナニアで働きかけて、サウロへの対応となっていくのですが、イエス様の働きかけをアナニアが受けとめているから、サウロの回心につながっていくのです。イエス様は人と人との関わりの中で、その福音の働きを成していくのです。

 やがて、サウロはエルサレムに行き、弟子たちの仲間に加わろうとしました。しかし、イエス様の弟子たちは、サウロをイエス様の弟子とは思わないで、恐れたのです。このエルサレムのイエス様の弟子たちのサウロの対する反応は当然のものだと思います。その時に、バルナバが登場してきます。バルナバは使徒4:36「レビ族、使徒からバルナバ、慰めの子という意味、と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」とありますが、そのバルナバです。慰めの子と呼ばれていたから、このバルナバによって、サウロは教会に紹介されて、加わっていくことができるようになっていくのです。

 サウロがエルサレムに行って、イエス様の弟子たちと初めて、出会った時に、恐れられていたのですが、バルナバの関りにより、バルナバがサウロを連れて、使徒たちのところに案内し、サウロが旅の途中で、イエス様と出会い、イエス様に語りかけられて、ダマスコでイエス様の名によって、大胆に宣教した次第を説明したのです。そのことによって、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、イエス様の名によって恐れずに教えるようになることができるようになっていったのです。

 サウロが本格的な伝道者になるために、最初は、ダマスコでアナニア、エルサレムでバルナバと関りがあって、そのようになっていくのです。その流れを知ることはとても大切なことだと思います。もちろん、イエス様の導きがあることが最も大切なことですが、人と人との関りを用いられることも考えておくことは必要なことです。

 私たちは、この瀬戸永泉教会の礼拝のつながりにいます。それはもちろん、聖霊の働きによるのです。更に、自分がこの瀬戸永泉教会につながっていることは、誰かとの出会い、関りがあることも知ることができるのです。神は私たちに直接に関わってくることもあります。また、人を通して、関わってくださるのです。そして、神は、私たち1人1人を用いてくださって、伝道の業を行ってくださいます。私たちを通して、この地域の伝道がなされていくのです。私たち1人1人が、イエス・キリストの福音を伝える伝道者なのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。聖書を通して、サウロとアナニアの出会いをみてきました。イエス様がアナニアにサウロと関わるように導いていました。その働きによって、サウロは、イエス様を信じることができるようになり、伝道者として歩んでいくことができていくのです。あなたは人との関りを通して、伝道していかれることをみることができました。私たちも人と人との関りによって、この教会に導かれました。感謝します。私たちがこの教会にあることの意味を考えることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


5月8日の祈祷会の内容です。

2024-05-07 20:12:00 | 日記
祈祷会      士師記1:1~21「ヨシュアの後で」    2024.5.8

 ヨシュア記の学びを終えて、今日から士師記の学びに入っていきます。士師とは「さばきつかさ」といわれています。指導者ヨシュアがなくなってから、サムエルの時代に、サウル、ダビデ、ソロモンとイスラエルの国家ができるまでの間、イスラエルでは士師が活躍していきます。士師はイスラエルの人々の中では、戦いの時には軍事的な指導者であり、平時には政治的宗教的な指導者ということができます。

 ヨシュア記23章には、ヨシュアの告別の言葉が書かれてありました。その内容は、①神はイスラエルの人々を守り導いてくださった。②だから、神の教えを忠実に守り、実行することが大切である。③イスラエルの人々の中にいる先住民と交わってはいけないこと、それは、先住民の拝んでいる神々を拝むようになり、神から離れてしまうことになるから、ということでした。それで、ヨシュア記24章のシケムの契約では、イスラエルの人々は何度もヨシュアに、「わたしたちは神に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と告白しています。でも、ヨシュアは人々に「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼしつくされる」(19~20節)と警告しています。

 士師記1章の最初で、「ヨシュアの死後」となっています。イスラエルの人々は新しい段階に入っていきます。ヨシュアの時代が終わり、士師の時代に入っていくのです。ヨシュア記は、イスラエルの人々が、神が与えてくださる約束の土地を手に入れることと、土地を部族ごとにくじ引きで分けて住むことが書かれてありました。神への信仰的な表現では、神は完全に先住民を追い出してくださり、イスラエルの人々のものとなったとあります。しかし、現実は多くの先住民が残っていたのです。士師記の1章にもカナン征服のことが書かれてあります。ヨシュアの死後、イスラエルの人々は、主に問うていいます。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか」と。それで、ユダ族が行くことになりますが、シメオン族の人々にも声をかけて、一緒に戦いに出て行くことが書かれてあります。

 実は、この士師記1章の内容は、ヨシュア記15章と同じ内容になっています。士師記1:1で、「ヨシュアの死後」とありますので、その後かと考えますが、そうではなくて、ヨシュアがまだ生きていた時の内容なのです。特にヨシュア記15:13~19の内容です。主の命令に従って、ヨシュアはカレブにヘブロンを与えています。カレブはアナク人の子孫の3氏族を追い出してヘブロンを自分の手で得たことになります。次に、デビルを攻めるのですが、カレブ自身、高齢のためにデビルを攻め落とすことが困難に見えて、カレブは「デビルを撃って占領した者には、娘アクサを妻として与えよう」と約束します。するとカレブの兄弟ケナズの子オトニエルがそこを占領しました。カレブは娘アクサを妻としてオトニエルに与えています。結婚した後で、娘アクサは父カレブから、ネゲブの地の上と下のため池をもらいました。

 また、ヨシュア記15:63では、ユダの人々はエルサレムの住民エブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの人々と共にエルサレムに住んで今日に至っているとなっています。約束の土地において、イスラエルの人々は、多くの先住民を追い出すことができず、一緒に住むようになっているのです。ヨシュアがイスラエルの人々に警告したように、この近くに住んでいる先住民が、イスラエルの人々を苦しめることになっていきます。

 今後の士師記の学びのことで、士師として有名なのが、ギデオンやサムソンだということができるでしょう。士師は全部で12人いるのですが、これもイスラエルの12部族と重ねているのだと思います。士師記の神学といっていいと思いますが、次のような流れになっていきます。イスラエルの人々が神から離れて、先住民の神々を拝んでいきます。すると外敵がイスラエルの人々を襲って来ます。外敵として、アンモン人やペリシテ人が有名です。外敵によって、イスラエルの人々は苦しい状況になります。すると、イスラエルの人々は、その苦しみから神に助けを求めます。神への悔い改めが起って来ます。神は、救助者として士師を送り出します。士師が現れて、イスラエルの人々を助けます。士師の活躍によって、イスラエルの人々は平和で豊かな生活に戻って行きます。士師は死んでいきます。また、この平和と豊かな生活の中で、イスラエルの人々は神を忘れ、外国の神々を拝むようになります。すると、神は怒り、外敵を送って、イスラエルの人々を苦しめます。その外敵の苦しみがあって、イスラエルの人々は神の助けを求めて行きます。このような流れが繰り返し繰り返し起って来ます。

 この士師記の神学をみてみると、私たちの生活にも関わってきます。私たちの人生の中では困難や悲しみや悩みがあります。このような人生の苦しみはなぜ起って来るのでしょうか。その答えの1つとして、人生の苦しみを通して、神と出会うことができるということです。人は苦しみを通して、神を求めていくということにつながっていきます。実際に、私たちはこの来る炭の意味をどう考えるのでしょうか。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。士師記の学びに入りました。ここでは、罪深い人間が、いかにして神を求めることができるかということだと考えます。人生の歩みの中で順調な時には、人は神を求めることはしません。苦しい時、辛い時に、人は神を求めます。人の苦しみの意味を考えてしまいます。どのような時でも、神を信じ、求めていくことができるようにしてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


5月5日の礼拝の内容です。

2024-05-04 20:44:00 | 日記
5月5日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.197.361.405.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YVP5yg1GVMs?feature=shareです。

礼拝説教      使徒9:1~9「天からの光が照らす時」    2024.5.5

 5月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと祈ります。

 礼拝では、使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は、キリスト教の最初の様子を記しています。神からの聖霊が、イエス様の弟子たちに下り、教会が誕生し、キリスト教の歩みがスタートして行きます。
イエス・キリストの福音はエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリアと伝えられていきます。

使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

この聖書の言葉の通りにイエス・キリストの福音が伝えられていくのです。その動機になっていったのが、ユダヤ教の指導者からの迫害でした。特に、ステファノの殉教はその大きな影響を与えたのです。教会への迫害によって、信仰者たちは、エルサレムから逃げて行きました。ユダヤやサマリア地方に行ったのです。その道先で、何と、イエス・キリストの福音を伝えていきました。聖霊の力を受けて、そのような伝道活動をすることができていくのです。教会の歩みは発展していくのです。

 そして、今日の聖書の内容は、伝道者パウロの登場です。ここではサウロとなっています。サウロの回心の場面です。使徒言行録には3回、サウロの回心の出来事が書かれてあります。それほどに、ここはより重要な内容だといえるでしょう。キリスト教は、イエス・キリストから始まっていきます。そして、このサウロによって、キリスト教の基礎が確立していったといってもいいと私は思います。その理由として、私たちが持っている新約聖書の3分の1はサウロによるものです。また当時の地中海世界の半分を伝道して行ったことになります。サウロがいなければ、今日のキリスト教はなかったといえるでしょう。

 サウロの最初の登場は、使徒7:58「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」です。ステファノの殉教の場面です。更に、使徒8:1「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」というものです。サウロの個人情報は、使徒22:3で詳しく書かれてあります。

使徒22:3
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。」

 サウロは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人でした。ユダヤ地方ではなく、外国で育ったユダヤ人ということです。当然、ギリシャ文化の影響を多く受けていたと思われます。そして、エルサレムへ留学して、ユダヤ教の指導者であったガマニエルのもとでユダヤ教の律法について厳しい教育を受けたといっています。サウロは当時としては恵まれた環境の中で育っていったといえるでしょう。熱心に神に仕えていたといっています。まさしく、そのままで、熱心なユダヤ教徒としてサウロが登場して来ます。ユダヤ教の指導者たちは、キリスト教の動きを許すことはできませんでした。間違った教えを人々に語り、広めていると理解されているからです。サウロもその1人でした。サウロはステファノの殉教をどのように受け止めていたのでしょう。ステファノの殺害に賛成していたとありますので、それが神の意志だと信じて疑わなかったのでしょう。

 そして、今日のサウロの回心の場面に入っていきます。サウロは主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めています。それは、キリスト教を信じる者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためだったとあります。想像すると、若いサウロが、意気揚々とダマスコに向けて歩んで行きます。神の意志に従って、キリスト教徒を見つけ出して、エルサレムに連行するためでした。

 ここから、ダマスコ途上でのイエス様との出会いの場面になっていきます。サウロが旅をしてダマスコに近づいた時でした。突然、天からの光が彼の周りを照らしたのです。どのような光だったのでしょう。太陽の光が強かったということもできるかもしれません。しかし、天からの光です。神からの光です。その光がサウロの周りを照らしたのです。サウロは地に倒れていきます。そして、イエス様の言葉を聞きます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という呼びかける声です。これまでサウロは、キリスト者たちを迫害してきました。だから、復活されたイエス様はサウロに、なぜわたしを迫害するのかと聞いているのです。サウロは「主よ、あなたはどなたですか。」というと、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と答えています。同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものもいえず立っていたのです。

 地面に倒れていたサウロは、地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかったのです。人々はサウロの手を引いてダマスコに連れて行きました。サウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのです。

 このダマスコ途上でのサウロがイエス様と出会った場面は、サウロの人生を大きく変えるものとなっていきます。ダマスコに向かうサウロ、神のために、キリスト者を迫害し、逮捕して、エルサレムに連行することが使命だと考えて行動していました。ところが、イエス様と出会ったパウロは、突然の光を浴びて、一度は地面に倒れてしまいました。やがて、自分の力で立つことはできましたが、目を開けましたが、何も見えなったのです。自分の力では歩くことはできず、人の手を借りてダマスコの町に連れて行ってもらうことになっていくのです。サウロは、イエス様との出会いで、ダマスコで3日間、目が見えず、食べることも飲むこともしませんでした。サウロにとって、この3日間はどのような時となっていたのでしょうか。

 この3日間の時を経て、サウロはキリスト教への迫害者から伝道者に変えられていきます。どのようにして変わることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストとの出会いがあったこと、つまり、神の力である聖霊の働きによって、そのように変えられていくのです。ただ、そのことしかいえません。他の理由を考えることはできません。それほどに神の力である聖霊の働きは大きいのです。この後で、ダマスコの町において、キリスト者であるアナニアとの出会いが待っています。また後にバルナバとの出会いもあります。キリスト者に変えられたサウロですが、実際に、伝道者として活躍していくためには準備期間が必要でした。サウロの今後の歩みを、次のようにいっています。

使徒9:15~16
すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

 これは、イエス様がアナニアに語った言葉です。サウロの今後の伝道者としての歩みをいっています。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないか、異邦人やイスラエルの人々にも、イエス・キリストの名を伝えていくことです。イエス様がなぜ、このサウロを異邦人の伝道者として選ばれたのか、私たちはいろいろな理由を考えることもできます。それ以上に大切なことは、神の意志だったということです。このことの理由につきます。私たちは神の決定に何もいうことはできません。

 でも、このことだけはいうことができます。私たち1人1人は、瀬戸永泉教会に導かれています。これは、聖霊によって導かれたいうことです。いろいろな理由を考えることもできますが、何よりも聖霊の導きによって、この教会に招かれているということです。そして、私たちも、このサウロのように、イエス・キリストの福音を語るように導かれているのです。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。迫害者サウロから伝道者サウロに変っていくことをみてきました。サウロを導かれたのはイエス様ご自身でした。そのことも重みを感じています。あなたは、私たちを救うために必要な働きをなさってくださっています。神の御旨を知ることはできません。でも、あなたがしてくださることを感謝して受け止めることができるように導いてください。私たちの役割を、私たち1人1人の役割を知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。