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4月16日の祈祷会の内容です。

2025-04-15 19:54:00 | 日記
祈祷会     サムエル記上7章「イスラエルの指導者サムエル」   2025.4.16

 イスラエルの人々は、約束の地に定着し、士師の時代を迎えました。サムエルは士師としての最後の人物であるといわれています。サムエルは、士師、祭司、預言者といわれています。この士師記上7章は、士師としてのサムエルの働きのことが書かれてあります。この聖書の個所は、士師の時代から王政の時代に移っていく流れにあります。もっといえば、神の支配から人間の王による支配の始まりということです。

 イスラエルは、神の箱を一時的にペリシテ人に奪われてしまいました。ペリシテ人は自分たちのもとに神の箱があることで次々に災いが起ったことで、神の箱をイスラエルに返そうということになりました。最初、イスラエルの中でベト・シュメシュの人々が神の箱を受け取りました。受け取って喜んだのですが、神の箱の中を見てしまったことで、5万のうち70人が打たれました。ベト・シュメシュの人々は神の箱を恐れて、キルヤト・エアリムの人々に神の箱を担ぎ上ってくださいと頼みました。キルヤト・エアリアムの人々はやって来て、神の箱を上って、丘の上のアビナダブの家に運び入れました。そして、アブナダブの息子エルアザルを聖別して、神の箱を守らせたのです。神の箱がキルヤト・エアリアムに安置されて20年が過ぎました。神の箱は本来、シロに運ばれるはずでしたが、シロの町は破壊されたそうです。帰る場所を失った神の箱は、人々の目から遠ざけられて置かれていました。このことで人々は以前のように神の箱を大切に思わなくなってしまったのです。

 この時に、イスラエルの家はこぞって神を慕い求めていくのです。目に見える神の箱の影響は薄くなり、神ご自身との直接にやり取りが行われていきます。そのやり取りを仲介するのがサムエルの役割になっていきます。サムエルはイスラエルの家全体に「あなたたちが心を尽くして神に立ち帰るというなら、あなたたちの中にある異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく神に向け、ただ神にのみ仕えなさい。そうすれば、神はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる」といいます。イスラエルの人々が長く、異教の神々、バアルとアシュトレトを拝んでいたということになっていました。そこで、サムエルの指示があって、人々の神への思いもあって、イスラエルの人々はバアルやアシュトレトを取り除き、ただ神に仕えていくのです。

 サムエルは続けて、イスラエルの人々に「イスラエルを全部、ミツバに集めなさい。あなたたちのために神に祈ろう」といいますと、人々がミツバに集まると、水をくみ上げて神のみ前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは神に罪を犯しました」といいました。イスラエルの人々がミツバに集まっていると聞いたペリシテ人は、イスラエルに攻め上って来ました。イスラエルの人々がそのことを知り、ペリシテ軍を恐れて、サムエルに「どうか黙っていないでください。神が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、神に助けて求めて叫んでください」と乞います。サムエルはまだ乳離れしていない小羊1匹を取り、焼き尽くすささげものとしてささげ、イスラエルのために神に助けを求めて叫びました。神は答えられました。

 ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来ましたが、神はこの日に、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、混乱に陥れました。イスラエルは勝利しました。この勝利を忘れないために、サムエルは石を1つ取ってミツバとシェンの間に置き、「今まで神は我々を助けてくださった」といって、ベン・エゼル(助けの石)と名付けています。ペリシテ人は静められて、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかったとあります。サムエルの時代を通して、神の手はペリシテ人を抑えていました。サムエル記上5章で、ペリシテ人が神の箱にいかに苦しめられたのかが書いてありますが、そのことをすぐに忘れて、再び、ペリシテ人がイスラエルを襲ってくるとはどのようなものでしょうか。サムエルが士師として活躍している間は、イスラエルの中に平和が保たれたということなでしょうか。この時に、ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガドまで、再びイスラエルのものとなっていったのです。イスラエルの人々は、その周辺の村々をもペリシテ人の手から救ったとあります。イスラエルとアモリ人の間いでも平和であったと書いてあります。

 サムエルは生涯、イスラエルのために裁きを行ったのです。毎年、ベテル。ギルガル、ミツパを巡り歩き、それらの地で裁きを行い、ラマに戻って行きます。ラマにはサムエルの家がありました。サムエルはそこでもイスラエルのために裁きを行い、神のために祭壇を築きました。サムエルの時代までは、神が中心となって、イスラエルを裁いた時代でした。それが、この後にイスラエルは王を求めていくようになります。神の支配を退けて、王による直接支配を求めるようになっていくのです。大きな変化が起きていきます。

 ここまで見てくると、士師記を思い出してしまいます。士師記の神学というのがありました。それは、イスラエルの人々は平和が続くと、神を忘れ、異教の神々を拝むようになります。それを見た神は怒り、敵をイスラエルに送ります。ここではペリシテ人となります。イスラエルはペリシテ人の脅威の中で苦しみ、神の助けを求めて叫ぶのです。その叫び声を聞いた神は、助け手を送ります。士師ということです。士師に働きによって、敵は追い出されます。イスラエルに平和が訪れます。その平和の中で、再び、イスラエルは本当の神を忘れて、異教の神々を求めていくようになります。偶像礼拝に走っていきます。このような流れの中にあります。これは、人間の本質でしょうか。これほど、人間は神に対して、罪を犯してしまうものなのです。悲しい現実です。でも、神はイスラエルを愛し、人を愛してくださるのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。サムエルの働きを見てきました。サムエルが良き働きをして、イスラエルの人々の神への信仰が豊かにされています。しかし、一方で、すぐに罪を犯してしまうイスラエルの人々の弱さを知ることができました。このようなイスラエルの人々を愛し、救いへと導こうとされています。今週は受難週です。イエス・キリストが十字架の道を目指して歩んでくださっています。神の導きに感謝していきたいです。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


4月13日の礼拝の内容です。

2025-04-12 19:42:00 | 日記
4月13日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.18.60.298.27です。
礼拝のオンライン配信ですが、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教      使徒15:22~29「異邦人の教会員への手紙」   2025.4.13

 今日の教会暦は棕梠の主日となります。イエス様がエルサレムに入られるのです。イエス様はろばの子に乗って入城されました。神の子が神の都であるエルサレムに入られるのです。人々は棕梠の枝を持って、イエス様の入城を歓迎しました。そこから棕梠の主日といわれています。この日から教会暦は受難週といわれています。イエス・キリストの十字架を巡るとても大切な1週間です。木曜日は洗足、最後の晩餐、金曜日は十字架となっていきます。そして、来週の日曜日は、イエス様の復活の時、イースターです。新たな思いで、イースターを祝いたいと思います。

 礼拝で、使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は、使徒の言葉と行動の記録が書かれてあります。使徒15章は、第1回エルサレム会議のことが書かれてあります。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていきます。これは、イエス・キリストの福音がすべての人々に伝えられていくという大切な流れです。キリスト教はユダヤ教から生まれてきました。それは間違いのないことです。この第1回エルサレム会議は、キリスト教がユダヤ教の一派として留まるか、それともユダヤ教から離れて、世界宗教になっていくのかという大きな転換になっていくものです。

 使徒11章では、最初の異邦人の教会であるアンティオキアの教会が誕生しました。このアンティオキア教会を拠点として、パウロによる第1回伝道旅行が行われました。その内容は、使徒13~14章に書かれてあります。この伝道旅行では、異邦人伝道が本格化していくものでした。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられる中で、大きな課題が出てきました。それが、15:1「ある人々がユダヤから下って来て、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われないと兄弟たちに教えていた」というものです。このユダヤ人というのは、ファリサイ派から信者になった人(15:4)です。彼らは、イエス・キリストの福音を信じることによって救われることは受け入れていました。ただ、それだけでは不十分で、信じることと割礼を受けること、モーセの律法を守ることが必要だと考えて、それをわざわざアンティオキア教会にまで行って、伝えて、混乱を起すのです。ただ、これはどうしても乗り越えることが必要な内容でした。

 そのために、エルサレム会議が開かれたのです。割礼も受けなければならないといったユダヤ人とパウロたちとの間に、激しい意見の対立や論争が生じました。この後で、エルサレム教会の決定を伝える手紙と報告する人々が選ばれて、パウロたちと共にアンティオキア教会に戻って行き、報告していくことになります。その手紙の中で「聞くところによると、わたしたちにうちのある者がそちらに行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです」(15:24)とあります。異邦人が教会に加わるためには、信仰だけではなく、割礼を受けることも必要といったことで大きな騒ぎと動揺を招いていたことが分かります。

 このような流れの中で、第1回エルサレム会議が開かれました。その会議では、パウロたちの伝道旅行の報告がなされていました。いかに多くの異邦人が救われたという内容でした。それと共に、使徒のリーダーであったペトロが、ローマの百人隊長であったコルネリウスとの出会いと伝道の様子をいっています。使徒10章に、ペトロのコルネリウスへの伝道の様子が書かれてあります。ここで、大切なことはペトロの働きも大切ですが、ペトロとコルネリウスを導かれる聖霊の働きです。最初、聖霊はペトロに働きかけていきます。幻で、汚れた食べ物が示され、それを食べるように促します。それは律法で汚れた物で食べてはならないとされていた動物です。もちろん、ペトロは「主よ、律法で汚れた物は食べてはならないとありますので、今迄食べたことはありません。ですから食べることはできません」と答えています。当然の答えです。その時に、幻は「主が新たに清めたものを汚れたものといってはならない」と示されます。ペトロの前に新しい教えが示されました。そのようなことが3回起ったのです。この幻は、ペトロのユダヤ人だけが清いのではなく、異邦人も清いものとされていくということを示すものでした。

 そして、コルネリウスへの聖霊の働きかけが起ります。それは、ペトロを招いて、神の言葉を聞くというものでした。聖霊の導きに従って、コルネリウスはペトロを自宅に招き、神の言葉を、イエス・キリストの福音を聞こうとします。その前に、ペトロは、自分に示された幻で、神が異邦人も清いものとされていくことを受け止めて、初めて、コルネリウスと向き合うことができました。ペトロはコルネリウスたちに福音を語っていく時に、異邦人たちに聖霊が下ったことを目のあたりにするのです。そしてコルネリウスたちに、すぐに洗礼を受けるように促しています。ペトロはすでに聖霊によって、イエス・キリストの十字架の意味を受け取ることができていました。

 それまで、ペトロは、自分たちは神の律法を守ることはできないこと、割礼も意味のないことを知っていました。そのためにこそ、神の子イエス・キリストが十字架についてくださり、その十字架の死によって、すべての人々の罪が赦されたこと、罪が贖われたことを受け止めていたのです。そして、ペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(15:11)と答えています。

 それから、エルサレムの教会に指導者ヤコブが、最後のまとめをしています。このまとめは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に歩むために、共に食事を行うことができるために最低限に守るべきことでした。偶像にささげられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けるということです。偶像にささげられた肉ですが、偶像にささげられた肉が、やがて一般の店で売られていることがよくありました。ユダヤ人にとって、偶像にささげられた肉を食べることには大きな抵抗があったのです。血と、絞め殺した動物の肉とありますが、ユダヤ人にとって、血は命そのものでした。動物を殺した場合、すべての血を取り除いて食べていたのです。肉に血が残っていることが、命そのものを食べるということで、許されないことでした。また、みだらな行いですが、当時の社会では偶像礼拝と、そのみだらな行いということが同時になされていました。ユダヤ人は律法の中で、そのようなみだらな行いをしないようにしていました。これらの3つの内容は、異邦人キリスト者が、ユダヤ人キリスト者に対して守るべき最低限の行為でした。この3つを守ることによって、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が共に交わることができることになっていくのです。

 キリストの教会がユダヤ人と異邦人が何の抵抗もなく交わっていくことができるようになっていこうとしています。教会に加わるためには、イエス・キリストを信じるだけでいいのです。神の恵みによってのみ人は救われていくことができるのです。神の恵みによってのみ、救われるのです。他は何もありません。モーセの律法を守ることも割礼を受ける必要もないのです。人はそもそも律法を守ることはできません。そして、教会の中で、異邦人とユダヤ人が共に、信仰生活を守っていくために、必要な3つのことがありました。異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者のために配慮すべきことでした。この第1回エルサレム会議の決定がされて、この決定の内容が、アンティオキア教会に告知されていくのです。エルサレム会議に集まった人々、使徒たちと長老たちは、教会全体で、自分たちの中から人を選んで、パウロたちと共に、アンティオキア教会に派遣することを決めていきます。

 選ばれたのが、バルサバと呼ばれるユダとシラスです。彼らはエルサレム教会の中で、指導的な立場にいた人たちでした。彼らは手紙を彼らに託するのです。手紙の最初には、「使徒と長老たち、が兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします」と書いてあります。そして、エルサレム会議の流れとその決定を書いていきます。ここでは、この決定が、満場一致の決定であることを強調しています。そして、パウロたちだけでなく、中立な立場であるユダとシラスから、その決定の内容を直接、口で説明していきます。手紙だけでなく、直哲、責任があって中立な立場の人を送って、話してもらうのです。やがて、その手紙と人が送られて、エルサレム会議の決定を知ったアンティオキア教会の人々は、励ましに満ちた決定を知って喜んでいます。

 このような流れで、イエス・キリストの福音は、すべての人々に伝えられていくのです。キリストの教会は、その歴史の歩みの中で、様々な困難と出会いました。その困難を乗り越えて、2000年以上の歩みを続けているのです。イエス・キリストの福音も日本に伝えられ、宣教師によって、各地に福音が伝えられ、教会が誕生していきました。私たちの教会もその流れにあります。私たちの教会も様々な課題や困難を抱えています。しかし、それに恐れることなく、神を信じ、聖霊を信じて、信仰と希望と愛を持って歩んでいきたいと思います。

祈り 神よ、棕梠の主日の礼拝を守ることができました。感謝します。神は人を愛し、そのために、多くの準備を成し、最後は、御子イエス・キリストを十字架につけることによって、人の救いを完成してくだしあました。私たちが救われるためには、その神の愛を信じて、受け入れるだけでいいのです。あなたを見上げ、イエス・キリストの十字架のもとで、神を信じて、従って歩んで行くことができますように、私たちに弱い足を守り、導いてくださいますように心から願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


4月9日の祈祷会の内容です。

2025-04-08 15:05:00 | 日記
祈祷会    サムエル記上6章「神の箱がイスラエルに帰って来る」  2025.4.9

 イスラエルとペリシテは戦い、ペリシテは勝利を得ることができました。イスラエルには神の箱のあったのですが、神の力は発揮することなく、イスラエルは敗北してしまいました。ペリシテは戦いの勝利として、神の箱を奪い、自分の町に持ってきたのですが。アシュドド、ガド、エクロンの町々に置きますが、その度に、災いが起りました。腫れ物が彼らの間に広がっていきます。その災害は大きく、「実際、町全体が死の恐怖に包まれていた」(5:11)のです。この災いを受けて、ペリシテの人々は、神の箱をイスラエルに返そうとしていきます。神の箱は7ケ月の間、ペリシテの地にありました。

 ペリシテ人は、神の箱をイスラエルに返すにあたって、祭司たちと占い師たちを呼んで「神の箱をどうしたらものでしょう。どのようにして神の箱をイスラエルのもとの場所に送り返したらよいのか教えてください」と聞いています。祭司たちは「イスラエルに神の箱を送り返すにあたっては、何も添えずに送ってはいけない。必ず賠償のささげものと共に返さねばらない。そうすれば、あなたたちは癒され、神の手があなたたちを離れなかった理由も理解することができる」と答えます。そしてペリシテ人は「それでは、返すにあたって、賠償のささげものは何がよいでしょうか」と聞きますと、祭司たちは「ペリシテの領主の数に合わせて、5つの腫れ物と5つのねずみにしなさい。腫れ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、あなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くしてくださるであろう。」「なぜならば、エジプト人とその王が心を固くなにした。心を固くすることによって、イスラエルは去って行ったではないか」といいます。

そして具体的な方法として「新しい車1両、乳を飲ませている雌牛2頭を用意する。雌牛を車につなぎ、子どもを引き離して小屋に戻す。神の箱を車に載せ、賠償のささげものとして神に返す金の品物を箱に入れ置く。それを送り出し、行くがままにしておく。見ていて、自分の国に向かう道を、ベト・シュメシュへ上って行くなら、我々に対して、この大きな災難を起したのは、イスラエルの神だ。もし、その方向に行かなければ、偶然の災難だったということが分かる」といいます。

ペリシテの人々は、祭司たちのいう通りにします。乳を飲ませている2頭の雌牛を連れて、車につなぎ、子牛を小屋の閉じ込め、神の箱を車に載せ、金で造ったねずみと腫れ物の模型を入れた箱も載せました。雌牛は、ベト・シュメシュ通じる一筋の広い道を真っすぐに進んで行きます。歩きながら鳴きましたが、右にも左にもそれることはなかったのです。

ペリシテの領主たちは、ベト・シュメシュの国境まで後をつけて行きました。ベト・シュメシュの人々は谷あいの平野で小麦の刈り入れをしていました。目を上げて見ると、神の箱が見えるのです。人々はそれを見て、喜んでいます。車はベト・シュメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まりました。そこに大きな石があって、人々は車に使われていた木材を割り、雌牛を焼き尽くすささげものとして主にささげています。レビ人は神の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱を下ろし、大きな石の上に置きました。その日に、ベト・シュメシュの人々はささげものを主にささげました。ペリシテの5人の領主は、これを見届けると、その日のうちにエクロンに帰って行きました。ペリシテ人が、主に賠償のささげものとして、送った金の腫れ物と金のねずみの数はペリシテの5つの町のためでした。

民数記4:17~20
主はモーセとアロンに仰せになった。あなたたちは、ケハトの諸氏族をレビ人の中から断やしてはならない。彼らが神聖なものに近づいたとき、死ぬことなく命を保つために、彼らのためにこうしなさい。すなわち、アロンとその子らが行って、彼らの一人一人をそれぞれの仕事と荷物に割りふる。そうすれば、彼らが中に入っても、聖なるものをかいま見ることはなく、死を招くことはない。

神はベト・シュメシュの人々を打ちました。それは神の箱の中をのぞいたからでした。神の箱を運ぶ仕事は、レビ人の中でケハト族だけでした。神の箱の中を見ることは死を招くことだったからです。そのために神はベト・シュメシュの町の人々5万のうち70人を打たれたのです。そのことはベト・シュメシュの人々にとって大きな打撃でした。人は喪に服し、「この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか。我々のもとから誰の所に行っていただこうか」いいます。ベト・シュメシュの人々は、キリヤト・エアリムの住人に使者を送って「ペリシテ人が神の箱を返して来ました。下って来て、神の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください」とお願いしています。

神の箱の働きを通して、神の働きを知ることができます。神の箱の中を見ることは許されていませんでした。神は聖であり、人は罪人だからです。ペリシテ人がイスラエルとの戦いに勝ち、神の箱を奪って、自分たちの町に持って来たのは、神の箱を通して、神の力が自分たちにダゴンの神と一緒になって、より力を発揮してくださると考えたからでしょうか。しかし、実際には災難が起きて、神の箱をイスラエルに返そうということになっています。この時に、ペリシテの人々は、自分たちの祭司たちや占い師たちに聞きます。どのようにして神の箱をイスラエルに返したらいいのかと。祭司たちは、賠償のささげものの必要性をいって、5つの領主たちに合わせて、5つの金の腫れ物の模型、5つの金のねずみとしました。更に、車を造り、その上に、神の箱や金などが入った箱を置き、乳を飲ませている2頭の雌牛を車につなぎ、子牛を引き離して、小屋に戻す。車を送り出し、行くがままにする。そのままベト・シュメシュに向かえば、神が災難を起したことが分かる。雌牛はわが子のもとに帰ろうとするから、戻ってしまう。そうすると、偶然の災害と考えるというものは、考えさせられる内容です。神の御心を知ることは難しいことです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。異邦人であったペリシテ人が、イスラエルの神の働きをいかに知ろうといているのかをみてきました。私たちはいかにして、神の働きを知ることができるでしょうか。それは、この聖書を通して知るということです。聖書には、神がいかに働かれるかを書いています。聖書から神のことをより知ることができるのです。感謝します。この感謝を、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                           」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)



4月6日の礼拝の内容です。

2025-04-05 19:31:00 | 日記
4月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.56.300.459.81.91‣1です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/R9OnyXllcjg?feature=shareです。

礼拝説教       使徒15:12~21「神に立ち帰ろう」     2025.4.6

 2025年度に入りました。その最初の日曜日です。1週間の初めの日曜日にこのように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝によって、私たちに1週間の歩みが豊かなものとなりますようにと願います。

 私は、この礼拝で、昨年に引き続き使徒言行録を読んでいきます。使徒言行録はキリスト教の最初のころの様子を書いています。使徒言行録を読むことによって、今の私たちの教会の歩みに大いに参考になると信じています。使徒13~14章において、パウロによる第1回の伝道旅行は行われました。ここでは、イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていくことが書かれてあります。伝道が拡大していくことは神の御心ですが、教会は大きな課題を持ち、その解決をしなければなりませんでした。それが、使徒15章になる第1回のエルサレム会議といわれるものです。大きな課題とは、教会にいるユダヤ人がいかに異邦人を加えていくかということです。

 この問題は、初代の教会にとって大きな課題でした。今日の私たちではなかなか理解することが難しいかもしれません。そもそもユダヤ人は、自分たちは神から特別に選ばれた民だと信じていました。自分たち以外の異邦人は、汚れた民だと信じていました。だから、ユダヤ人が異邦人と交わることは大きな壁があったのです。ペトロとローマの百人隊長コルネリウスとの対話の中で、ペトロは次のようにいっています。

使徒10:28
彼らに言った。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」

 ユダヤ人は異邦人と交わることを律法で禁じていたのです。ユダヤ人は清くて、異邦人は汚れていると考えていたからです。ペトロの場合、幻で神が導いてくださったので、異邦人のコルネリウスを受け入れることができたのです。他のユダヤ人であれば、それは簡単なことではなかったはずです。そのような壁がありながら、聖霊の働きは進んでいきます。ペテロやパウロたちに働きによって、異邦人が、イエス・キリストを信じていくこと、神の言葉を聞いていると聖霊がくだったこと、ユダヤ人と同じことが起っていき、聖霊が、イエス・キリストの福音を異邦人に伝えていこうとしていることを知っていくのです。ユダヤ人キリスト者がいかにして、異邦人キリスト者を教会に受け入れていくのかの課題をどう克服していくかが問われています。

 この過程で、ある問題が起って来ました、それは、ファリサイ派からキリスト者となったユダヤ人が、異邦人が救われるためには、イエス・キリストを信じるだけでなく、モーセの律法を守り、割礼を受けなければならないと教えていたことです。もちろん、このファリサイ派からキリスト者になったユダヤ人も、イエス・キリストの十字架の恵みを信じることによって救われることは受け入れているのです。でも、それだけで足りず、今迄自分たちが守ってきたモーセの律法を守ることと割礼を受けるべきだと考えたのです。これは「福音と律法」という神学の問題です。この問題は、今も私たちの教会でも考えるべき課題です。ペトロはここで「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われていると信じているのですが、これは、彼ら異邦人でも同じです。」(使徒15:11)といっています。ペトロは、異邦人コルネリウスとの出会いの中で、そのことを体験し、そのままいっているのです。

 そして、ここからが今日の聖書の箇所になっていきます。ペトロの言葉を聞いた人々は静かになり、パウロたち、または自分たちを通して、神が異邦人の間に行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていました。ここからヤコブが話し始めます。ヤコブとは、イエス様の兄弟になります。神の導きによって、ヤコブは、この時エルサレム教会のリーダーとなっていました。ヤコブは「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなった次第は、シメオン、つまりペトロが話してくれました」と話していきます。そして、旧約聖書を引用して答えていきます。「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を立て直す。その破壊された所を立て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。昔から知らされていたことを行う主は、こういわれる」と。

 ここからヤコブの判断のことが書かれてあります。ここでは、異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者に向けて、最低限守るべきことを告げている内容ということができます。偶像に備えて汚れた肉と、みだらな行いと絞め殺した動物の肉と血とを避けるということです。偶像に備えた肉を避けるという内容ですが、これは第2コリント8章を読みますと、よく分かって来ます。パウロはコリントの教会の人々に送った手紙の中で、偶像に備えた肉について、次のようにいっています。

2コリント8:4~6
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

 ここでパウロは、偶像というものは存在していない。神以外にいかなる神をいないということをいっています。偶像に備えた肉を食べることそのものを問題にする必要がないといっているようです。しかし、続けて次のようにもいっています。

2コリント8:7~12
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

 偶像にささげた肉というものはないといっていながら、それまで、偶像を拝んでいた人々がいて、キリスト者となった人がいて、確かにその偶像にささげた肉を食べても何の影響もないけれども、イエス・キリストへの信仰に入るまで、偶像を拝み、偶像に対して肉をささげていた。そのような習慣にあった人に、やはり、偶像にささげた肉をいうことで、食べることをしない人がいる。そのような人々がいること、そのような弱い人々に対する配慮の必要性をパウロは強調しています。同じように、ユダヤ人キリスト者も、偶像にささげた肉とあれば、その肉を食べることを罪と考えてします。そのような者への配慮の必要性から、ヤコブの決定がなされているのです。このヤコブの決定が、教会の決定となって行き、教会全体に伝えられていきます。繰り返しになりますが、このヤコブの決定は、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者を教会に受け入れ、共に交わっていくために必要な最低限の内容となっています。この内容は、異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者のために守るべきこととしてのものとなっていきます。

 この第1回エルサレム会議の決定は、後の教会の歩みの中で消えてしまっているように感じています。パウロは、このヤコブの決定に反対することはありません。大きな視点で、ユダヤ人と異邦人が教会の中で良き交わりをするために必要な内容として受け止めています。

 今日の教会の歩みでも、内容は違っても、必要な配慮は必要なことです。私たちの教会は2025年度の歩みを始めています。4月20日のイースター礼拝後には、教会総会を予定しています。私たちの教会の歩みが、このような配慮に満ちた歩みとなりますようにと願います。私たちに教会は高齢化の中にあります。そのために教会への出席が困難になっている方々がおります。そのような方々に配慮することができる教会の歩みをしていきたいと祈ります。

祈り 神よ、新しい年度の最初の日曜日に、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。新しい教会の歩みが始まっていきます。第1回エルサレムで話されたことが、私たちの教会でもなすことができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


4月2日の祈祷会の内容です。

2025-04-01 19:44:00 | 日記
祈祷会       サムエル記上5章「神の箱の働き」      2025.4.2

 2025年度が始まりました。最初の祈祷会となります。新たな思いで、祈祷会を行っていきたいと願っています。このサムエル記の時代、イスラエルの人々にとって幕屋がいつも中心にありました。幕屋の中心に神の箱(契約の箱)がありました。イスラエルの人々がエジプトを出た時に、荒れ野の旅を経て、約束の地に向かおうとした時に、神はモーセに幕屋を造ることを命じました。幕屋は、神とイスラエルの人々が出会う場所でした。神の箱の中には、十戒の書かれた2枚の石の板、マナの入った壺、アロンの杖が入っていたといわれています。

 神の箱が活躍した場面がヨシュア記に書かれてあります。1つは、ヨルダン川を渡る時です。イスラエルの人々はヨルダン川を渡って、約束の地に入っていこうとしています。その時にヨルダン川は水があふれて渡ることができませんでした。その時に、神の箱を担いだ祭司たちが、ヨルダン川に入っていくと、川の流れが止まり、渇いた場所が現れて、そこを渡ることができました。神の箱によって、ヨルダン川の流れが止まって、川の底を渡ることができたのです。(ヨシュア記3章)次に、イスラエルの人々はヨルダン川を渡ってから、エリコの町を攻撃しようとしました。エリコの町は城壁に囲まれて、イスラエルの人々はエリコに入ることはできませんでした。その時に、神の箱を担いだ祭司が、エリコの町の城壁の周りを歩くのです。1週間続けて歩きました。そして、7日目にラッパの音と共に城壁は壊れて、イスラエルの人々はエリコの町に入り、占領することができたのです。この時も神の箱が活躍しました。(ヨシュア記6章)

 このような神の箱の活躍があり、イスラエルの人々は、神の箱があることは、神が共にいてくださると信じていました。前回のサムエル記上4章で、イスラエルとペリシテの戦いがありました。最初、イスラエルはペリシテの前で、4000の兵士が討ち死にしたのです。この時に、イスラエルの人々は神の箱がなかったから自分たちは敗北したと思い、次の戦いで、自分たちに神の箱があれば、必ず勝利すると信じて、神の箱を戦いの場所に移動して来ました。神の箱が自分たちの場所に到着すると、イスラエルの全軍が大歓声を上げました。ペリシテとの戦いで勝利を確信したからです。実際に戦いになりましたが、神の箱は何の役にも立ちませんでした。イスラエルは3万人の歩兵が倒れてしまったのです。大敗北をしてしまったのです。この時には、祭司エリとその息子たちの罪があり、神の裁きが預言されていました。預言の成就ということだったのです。エリの2人の息子の戦死と神の箱がペリシテに奪われてしまいました。その敗戦の報告を聞いたエリは、自分が座っていた席から仰向けに落ち、首を折って死んでしまいました。

 次が、今日の聖書の箇所です。ペリシテ人は神の箱を奪い、アシュドドへ運んで来ました。神の箱が自分たちに役立つと思ったのかも知れません。ペリシテ人は、神の箱を取って、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンの側に置きました。ダゴンとはペリシテ人の神で、上が人間の形、下が魚の形をしていて、豊作をもたらす神として崇めていたということです。翌朝、アシュドドの人々が早く起きて見ると、神の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていました。人々はダゴンを持ち上げて、元の場所に据えました。その翌朝も、人々が早く起きて見ると、ダゴンはまた神の箱の前の地面にうつ伏せで倒れていました。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居の所にあり、胴体だけが残されていたのです。

 そして、主の御手が、アシュドドの人々に重くのしかかって、災害をもたらしました。神は、アシュドドとその周辺の住民を打って、腫れ物を生じさせました。これを見て、アシュドドの人々は「イスラエルの神の箱を我々の内にとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災害をもたらす」といいました。彼らはペリシテの領主を、全員集めて「イスラエルの神の箱をどのようにしたらいいか」と尋ねました。領主たちは「イスラエルの神の箱をガドへ運ぼう」といい、そこに移されました。

 神の箱がガドへ移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こしました。ガドの町の住民は小さい者から大きい者まで打たれ、腫れ物が彼らの間に広がっていきました。ガドの町の人々は、神の箱をエクロンに移しました。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んで「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか」といいました。エクロンの町の人々は領主たち全員を集めて、「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の場所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は、殺されはしないだろう」といいます。実際に、町全体が死の恐怖に包まれて、神の御手はそこに重くのしかかっていました。死を免れた人々も腫れ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達していました。

 神の箱の働きについて見てきました。神の箱はイスラエルの人々にとって、神が共にいる証しでした。ヨルダン川を渡る時も、エリコの町の城壁を攻撃する時も、神の箱はいて、それを実現してくださいました。イスラエルの手を離れてペリシテの人々の手にあっても、神が共にあれば、その働きを発揮するのです。サムエル記上4章で、イスラエル対ペリシテの戦いの時に、イスラエルの手に神の箱はありました。しかし、イスラエルは敗北したのです。それは、神の箱があっても神は共にいてくださらなかったからです。祭司エリとその息子たちに対する裁きがあったからでした。

 私たちはここから、神の御心がどこあるのかということを注意深く知る必要があります。今、私たちは受難節を歩んでいます。神の御心は、私たちを愛し、私たちの罪を赦し、救いために働いているということです。そのために、神の子イエス・キリストが、この世界に送られ、十字架の道を目指して歩んでくださったのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。新しい2025年度の歩みが始まりました。この祈祷会を祝福してください。祈りの友を増やしてくださいますように、祈祷会の輪を広げていくことができますように守り導いてください。あなたの御心を慕い求めることができますように、この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)