見出し画像

熊本から気ままに山と自転車のブログ

出水南諏訪神社・放牛石仏1体目

出水南諏訪神社・放牛石仏1体目
2024/6/5(水)曇

最高気温27°正午頃から雲が広がり始め、多少蒸し暑いが直射日光がなく風が吹いているので快適だろうと、午後14時半からポタリングに出る。
目的地は、市立図書館で本を借り換えて、古代幹道と推測する道を南方向に辿ることとする。

子飼橋から南に向かう道を、電車通りを超えて辿る。出水小学校、出水南小学校、遊心館高校の前を通り南進すると、諏訪神社(写真1・2・3参照)に鎮座する所に着いた。
境内西側に、まちづくり委員会の説明板にあるところの井戸がある。
その説明板には、「この神社には、建御名方神とその姫君が祀られ、地域の人からは農業の神・水の神・家内安全の神として崇拝されている。
もともとこの神社は、現在地の北西にあったが、幕末に火災に遭い現在地に移転されたそうで、それまでこの地には祈祷所があったと伝えられる。
神社の横に井戸があり、「父の出ない母親が、この井戸の水で甘酢を作り神社にお供えして飲むと乳が出る」との伝承がある。
昔、秋祭りの十月十七日の前日と当日の伴は「夜詰め」といって、子供たちが一晩中太鼓をたたいたそうである。
境内東に菅原道真公を祀る祠がある。」とある。


諏訪神社を後にし、国道57東バイパスを横断し所島を通過する。更に南へ進むと、耕地整理で直線になった道がY字路になっている。そこを左の道を選択し進むと、下無田集落(写真4参照)に着いた。ここから加瀬川を渡り、鯰方向に進んだのか。


進路を西に取り浜線バイパスに出て田迎に向かう。田迎小学校の正面に放牛石仏(地蔵)1体目(写真5・6参照)が鎮座する。
石碑が新しくなっている。碑文には、「江戸時代の中期、ある時鍛冶屋七左衛門が、息子のいたずらを咎めて手にした火吹竹を投げつけた。だが火吹竹は通りかかった武士に当り、七左衛門はその場で無礼討ちになった。目の前で父を斬り殺された息子は嘆き悲しみ、父の菩提を弔うために出家し、名を放牛と改め三十年の修業の後、父の霊を弔うと共に全ての人々の幸せのため、石仏百体建立を発願した。この地蔵尊は、その第一体目である。
台石に記した願文は次の通りである。
募化戮力彫刻 お布施を募り力を合わせ
座像地蔵尊立 地蔵尊を彫刻し、道端に
干道側蓋普結 立てたのは、仏縁を結び
大縁同生浄邦 皆共に往生せんがため也
享保七年壬寅五月 放牛敬記・・・」とある。


放牛石仏後にして世安橋まで来ると、塗装工事の為通行禁止の看板(写真7参照)が立っている。年内12月までの工期が記してある。


石塘を通り新幹線側道に、「特別史跡熊本城跡・高麗門跡・御成道跡」の標石柱(写真8参照)を見る。熊本城は総構のお城で、ここに関門があった。またここから細川家菩提寺妙解寺の参道が通っていたという。ここを最後として帰途に就く。


17時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)17km→田迎放牛石仏12km→熊本(自宅)
総所要時間3時間(実2.5時間) 総計29km 走行累計59,356km


自転車で探訪した史跡・文化財等の記録です。一部山行の記録もあります。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「肥後国(熊本)神社探訪記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事