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アジア曼荼羅

アジア、ASIA、亜細亜…最前線のニュースから歴史、文化までアジア報道ひと筋のジャーナリストが多彩な話題を提供します。

《調査リポート》サイバーセキュリティー強化に踏み出したインド

2013-05-02 14:57:28 | インド

定期寄稿している東京財団ユーラシア情報ネットワークに新しいリポートをエントリーしました。
http://www.tkfd.or.jp/eurasia/india/report.php?id=390

今月は、急速に関心が高まっている「サイバーセキュリティー」をテーマにしました。

サイバー空間の脅威は、私たちの日常生活の身近なところにも静かに忍び寄って来ています。

インドと日本の協力にフォーカスしました。

 

《分析レポート:ユーラシア情報ネットワーク[東京財団]》
 「サイバーセキュリティー強化に踏み出したインド」

 インドがサイバー空間での攻撃や脅威に対するセキュリティー対策の強化を急いでいる。インドでも経済システムのネットワーク化が進み、リスクが高まっていることが背景にあるが、中国からのサイバー上の脅威が増していることに対する懸念も強い。インド政府は、日本や米英、韓国など先進各国と相次ぎ、サイバー協力の連携関係を築いている。

日印サイバー協議が発足

 2月中旬に来日したカピル・シバル通信・情報技術相にサイバー・セキュリティーについて記者会見で尋ねてみた。(*1)
 「どの国もサイバー上の脅威に懸念する必要がある。インドは日本との間で協議を立ち上げ、米国とも対話に取り組んでいるところだ。今後、すべての通信がデジタル化された空間で行われるようになるが、原子力施設も、航空産業も、金融業界も防護が必要だ。それに向けて、全世界の何らかの合意と協力も必要になる。まだ、サイバー・セキュリティーの明確な定義もないのが実情だが、攻撃はどこからでも来るし、カムフラージュして襲って来る。二国間の協力など出来ることから対策を進めなければいけない」
 3月末にはサルマン・クルシード外相も来日。岸田文雄外相との日印戦略対話では、海洋での協力とともに、サイバー・セキュリティーの一層の協力強化を進めることで合意した。
 日印間では、2012年4月の戦略対話でサイバー協議の開催を決めた。サイバー空間の安定的な利用や、多国間で進む国際行動規範づくりへの協力などについて話し合うのが目的だ。(*2) 
 その第1回サイバー協議は2012年11月、東京で開催。日本側はサイバー政策担当の今井治大使をはじめ、外務、経産、防衛、総務各省、警察庁などから参加し、インド側はアショク・ムカジー外務特別次官らが参加した。安全保障の課題,サイバー犯罪への対策,情報セキュリティ・システム防護などについての情報交換が行われた。(*3)

サイバー脅威に強い懸念

 インドは欧米諸国や韓国ともサイバー協力を進めている。外務省関係者によると、日本に協議を提案してきたのは、インド側だった。特にサイバー犯罪や情報システムを破壊するサイバー攻撃などの脅威に対する日本の対策を学び、協力関係を築きたいという意向が強いという。
 日本では、政府が2005年にサイバー・セキュリティーの司令塔として「内閣官房情報セキュリティーセンター(NISC)」を設立。世界的にも比較的、早い段階から取り組みを始めた。その後、2009年7月に米国と韓国で大規模なサイバー攻撃が起きると、政府は安全保障上の危機管理問題として認識を強め、2010年5月に「国民を守る情報セキュリティー戦略」を打ち出した。(*4) 
 インドとの協力について、日本の専門家の間では「サイバー攻撃の発生件数はインドの方が多く、日本はそこから教訓を学ぶといい」との意見がある。
 インドではIT産業が急成長し、技術者の水準は高い割に、一般企業、国民全般は危機意識が薄く、政府もサイバー対策は遅れている。インドでも行政や産業の情報ネットワーク化が進んでいるが、通信や電力のインフラがまだ貧弱であるため、サイバー攻撃を論じる以前に停電などで通信が停止することが珍しくない。
 それでも、インドでは1998年に140万人に過ぎなかったインターネットのユーザーは、2012年で1億3700万人と100倍増の勢いだ。人口に占める普及率は0.1% から11 .4%にまで増加した(日本は2012年1億122万人、79.5%)。フェイスブックの会員は2012年で6271万人(日本は1719万人)。(*5)
 中間層の人口は3億人に達し、将来は2016年までに全国1億6000万軒の会社や家庭にブロードバンドが敷設される計画がある。ネットユーザーはさらに増える見通しだ。その情報量は今後5年間で9倍に増加すると予測される。(*6)
 ところが、行政や社会システム全体がインターネットで結ばれ、ネットワーク化が一層進むと、サイバー上のリスクは一層大きくなる。インドでは電力、水(水資源・水道)、通信、運輸、国防、金融の6分野をサイバー・セキュリティー対策の重点にあげている。

欧米とは日本以上の「一蓮托生」

 サイバー・セキュリティーでは、欧米諸国からインド政府に対策の強化を求める圧力がかかっていた。
 インドではIT関連企業が電話のコールセンターやBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)と呼ばれる事務処理の受託業務を運営し、多くの欧米企業や団体から膨大な情報を預かっている。金融、保険、クレジットカード、航空会社の消費者情報、病院などの医療情報、さらに自治体や国の税や社会保険情報まで多岐にわたる。経済のグローバル化のなかで事務処理のコスト削減を追求して来た結果が、このインドへの情報集中と依存関係である。この傾向は英語圏で著しく、日本からはほとんど進んでいない。
 これでは、いくら欧米がサイバー対策を強化したところで、インドが不十分なままだと、狙い撃ちされて重要情報が盗まれる可能性がある。
 最近の英国とのサイバー協力合意にもこうした背景がある。2月19日、インドを訪問した英国のキャメロン首相とインドのマンモハン・シン首相との間で「サイバー・セキュリティーの戦略的パートナーシップ」に調印。インドの警察など治安当局の要員を英国で訓練したり、両国の個人情報の機密管理を徹底したりする協力を進めることに合意した。インドは英国市民の銀行口座、クレジットカード、医療経歴などにわたる個人情報を蓄えている。インドと欧米のサイバー・リスクは「一蓮托生」であり、インドのサイバー対策を求める思いは、日本よりずっと切実なものがある。

「中国発」のサイバー脅威

 インドでもすでにサイバー空間の脅威は現実化している。2008年にインドで開催された英連邦スポーツ大会では開催期間中の2週間で計8000回のサイバー攻撃があったとされる。2004年に23件だったのが、2011年に13301件、2012年には2万件を超したと言われる。原子力公社も一日10件程度の攻撃に遭っている。(*6)
 中国からとみられるサイバー攻撃も頻繁に起きている。
 2012年3月にトレンドマイクロ社が発表したリポートによると、2011年6月以降、日本とインド、チベットの活動家のコンピューターに対する攻撃が90回あり、軍事、エネルギー、航空、海運、チベットなどの分野の情報が狙われた。メールの添付ファイルを開くと、ハッカー側のサーバーに接続され、コンピューターのデータが盗まれる仕組みだった。ハッカーのIP アドレスは中国内のものだった。(*7)
 
 インドもこの頃から危機感を高め、政府系シンクタンクの国防問題分析研究所(IDSA)が2011年にサイバー・セキュリティーのタスクフォースを設置。2012年5月、「インドのサイバー・セキュリティーの挑戦」と題する報告書を発表した。そこでは、中国のサイバー戦略を次のように分析している。(*8)
 「歴史的に見て、中国は1991年の湾岸戦争から学んだ。それは、数や技術の力では米国に勝てないということだった。このため、中国はサイバー空間における米国の脆弱性をついた非対称の戦争という概念を採用するに至った」
 そして、情報戦争のための作業部会を発足させたほか、4つの大学を設立。ハッカーの組織を支援し、演習を実施し、2003年には情報戦ユニットまで組織した、と指摘している。そのうえで「中国は、サイバー上の諜報活動、リバース・エンジニアリング、ソースコードの共有、ハードウェアの製造、大規模な人材資源などを通じ、情報戦争の能力を向上させている」と結論づけた。
 今年2月には、米国のセキュリティー企業、マンディアント社が過去数年にわたる米国などに対するサイバー攻撃を分析した報告書を発表。中国人民解放軍のうち上海に拠点を置く特定の部隊が関与していた、と明らかにした。(*9)
 このサイバー攻撃を受けたのは世界の企業や団体など141組織。このうち3組織はインド、1組織は日本だった。
 4月に来日したインド政府幹部に尋ねると、「サイバー攻撃を受けたインドの組織は国防関係ではなかったが、中国からの脅威を深刻に考えている。少なくとも、一般的なインターネットと政府系ネットを区分けする必要がある」と語っていた。
 とはいえ、日印サイバー協議の雰囲気を聞くと、まだ顔合わせの域を出ず、およそ第三国からの脅威にどう対処するか、具体的に話す率直さはない。外務省関係者によると、日本はサイバー空間でも、戦争と同様に「専守防衛」に徹する必要があるため、そもそも同盟国でもないインドとの踏み込んだ協議には慎重だ。
 だが、マンディアントが報告したような脅威は、今後も増して来ると思われる。インドと同盟関係はなくとも、戦略的グローバルパートナーシップを結び、外務、防衛両省の「2プラス2」の対話枠組みを持つ数少ない関係だ。日印サイバー協力も、着実に進化していくことが必要だし、日米サイバー協力との連携も不可欠である。


(*1)2013年2月14日、日本記者クラブでの記者会見
 http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/201/02/r00025351/
(*2) 外務省ホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_gemba/120428/india_fmm.html
(*3) 外務省ホームページ          http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/11/1105_07.html
(*4) 土屋大洋著『サイバー・テロ日米vs.中国』文春新書、2012年
(*5) http://www.internetworldstats.com/stats3.htm
(*6) ASIA PACIFIC DEFENSE FORUM, “India,Britain combat cyber threat from China”
http://apdforum.com/en_GB/article/rmiap/articles/online/features/2013/02/28/india-britain-cyber

(*7) Trend Micro, “Research Paper 2012 LUCKYCAT REDUX”,
http://www.trendmicro.com/cloud-content/us/pdfs/security-intelligence/white-papers/wp_luckycat_redux.pdf
(*8) IDSA, “India’s Cyber Security Challenge”,
http://ja.scribd.com/doc/93825487/India-s-Cyber-Security-Challenge-IDSA
(*9) MANDIANT, “APT1: Exposing One of China's Cyber Espionage Units”,
http://intelreport.mandiant.com


《English Report》Crossroads of Japan and India: Yokohama Story

2013-04-02 09:15:03 | インド

Crossroads of Japan and India: Yokohama Story

Advani Family relaying India-Japan friendship

(Written by Yukifumi Takeuchi, for a series of articles, ”Crossroads of Japan and India〈5〉”, published in Asahi Shimbun, May 13th, 2006)

There is an old drinking water fountain which has a roof shaped like a dome  in Yamashita Park in Yokohama Port. It is the "Indian Drinking Fountain", which mourns for 28 Indians who fell victim to the Great Kanto Earthquake in 1923.

In 1939, the Indian residents in Yokohama built this monument using marble and tiles that were carried from the mother country.

On September 1, the anniversary of the Great Kanto Earthquake, there is an old person who attends the memorial ceremony held here every year. He is Chandru Advani, 81, one of oldest traders among Indian residents in Japan.

"We are here only thanks to our predecessors. In Japan, very far from India, there were many Indians who built bases for living. I like to hand down the stories of our ancestors and predecessors who did so much."

He was born in present-day Southern Pakistan, Sind. His father, Gansyam Das, came for trade business to Yokohama in 1917. But he returned to India to participate in the Indian independence movement.

Father brought home some souvenirs such as pencils of "Tombo", a famous Japanese brand of stationary, and toys made of tin with springs.  " The Japanese pencil was very easy to write and was my favorite and pride." Chandru heard from his father that Japan maintains its own traditional culture with unique originality and does not blindly follow Westernization, despite it's successful industrialization. He increased his yearning to visit Japan sometime in the future.

In the background, he decided to come to Japan amid confusion with the independence and partition of India and Pakistan in 1947. He ran away to India from Pakistan, where relations with the Muslim people became very complicated. He even entered a refugee camp for a while. In 1953, he came to Yokohama, where his acquaintance lived, after a 45-day voyage. “There were ruins of the World War remaining in Yokohama port and also lots of U.S. soldiers who were dispatched to the Korean War. Even so, still I thought  Japan was very peaceful”, Chandru said.

   ■ ■

The Indian traders greatly contributed to the trade expansion of Japan after the war. Most Japanese companies didn’t have enough foreign currency. Foreign companies were very important players in trade in those days. Yokohama-city administration lent approximately 20 commercial buildings near Chinatown to the Indian company under favorable conditions and invited them.

 The Chandrus established a company to export household appliances and electronic parts including black and white televisions to India. On the other hand, the iron ore import from India increased and supported Japan’s economic reconstruction and high growth.

Originally it is the late 19th century that Indian people came to Japan and began economic activities. The traders of textiles and garments living in Shanghai and Hong Kong moved to Yokohama and Kobe. They imported raw cotton from India and exported silk and cotton textiles from Japan.


The grandfather of Fagil Torabali (56), who runs trade in Osaka, immigrated to Yokohama for the silk business from Shanghai in about 1895. He moved to Kobe after the Great Kanto Earthquake in 1923. He stayed out of Japan during World War Two but he was invited to come back to run the company after the war.

The Indian residents in Japan survived vigorously despite having been affected by the earthquake disaster and war.

There are communities of
Islam, Sikhism, Jainism, Zoroastrianism in Kobe, too. "For example, the Jains community trade pearl and jewels, the Sikhs keep  machines or motor parts trading. Very natural labor distribution works. They keep our lifestyle and culture," a Sikh businessman, Kiran Seti (40) says.

   ■ ■

A new wind also has also arrived. It is IT business development accompanied by the inflow of many talented people.

Approximately 12,500 Indian people live in Japan according to the Indian Association in Japan. It is almost doubled in the past 10 years. The number of long-term residents remains at the same level, but the short term stay of engineers and workers of the IT companies has also increased rapidly.

The new generation includes people such as the eldest son of the Chandru, Nalin Advani (40), who runs an IT company in Yokohama. He said, " There are a lot of tasks in intellectual cooperation including information and communication and medical industries between Japan and India".

Nalin likes to be called the “Hamakko (Yokohama Kid)”. In 2001, he became a Chairman of the Yokohama Junior Chamber of Commerce. Now, he is in charge of editing the bulletin named "Chakra" at the Mumbai-Yokohama Friendship Committee.”

In 1965, Yokohama and Mumbai made a sister-city relationship. The match- maker was Chandru. The friendship exchange between Japan and India has developed with efforts that go beyond generational boundaries.


《連載再録》インド頭脳外注「インドなくして世界は動かない」

2013-03-29 10:37:31 | インド

「もはや、その存在なくして世界は動かない…」

米国、中国38歳、西欧45歳、日本49歳。そして、インド28歳。2020年の平均的年齢の予測だ。人口がやがて中国を抜いて世界一になると見られるインドは、若く豊かなマンパワーと、ITに強い「インド頭脳」を武器に、国境を越えたアウトソーシング(外注)の主役に躍り出た。もはや、インドなくして世界は動かない。日本も、その渦の中にいる。

[Part1] 英国の神経中枢を、インド企業が支える

ロンドンの中心部に入る道のあちこちに、「C」の文字。有料区域を知らせる標識だ。都心に入る車は1時間にざっと4万台。市交通局が1台8ポンド(約1000円)を徴収する。2003年に導入した「渋滞税(コンジェスチョンチャージ)」だ。
検問所はない。通過する車のナンバーを約500台のカメラでとらえ、1日100万枚もの画像情報から車を特定し、課金する。ロンドンは霧や雨が多い。高度な解像技術が欠かせない。
支払い方法は、現金や携帯電話、ネット取引、郵便など。請求が来たのに払わないと、罰金が科される。渋滞緩和を狙った課金制度としては世界最大規模だ。

マステック創業者の、アシャンク・デサイ前会長=竹内幸史撮影

「ロンドンの渋滞対策に協力していただき、深く感謝しています」。チャールズ英皇太子が訪印し、商都ムンバイで開かれた歓迎宴。皇太子はインドのIT企業マステックの創業者、アシャンク・デサイ前会長に、丁重な礼の言葉を述べた。
実は、ロンドンの渋滞税課金システムのソフトウエア開発をしたのが、このムンバイに本社を置くマステック。英企業より4割以上安値で受注した。約90人のインド人技術者を動員し、1年半の突貫作業で開発。今も20人のチームが毎日、渋滞税システムの維持管理にあたる(Memo01)。

同社は82年創業の社員約4000人の企業。インドのIT業界では準大手といったところだが、優秀なハイテク人材を多数社員に抱え、株式の取引システム開発などに強い。

システム開発の作業をするマステックの社員たち=ムンバイで、竹内幸史撮影

ロンドン渋滞税課金システムの成功で弾みをつけ、その後、英国民保健制度の情報システム整備を英企業と共同で受注した。英国民6000万人の保健医療情報を一括管理し、データベース化を進め、診断や医療政策づくりに役立てようというものだ。
昨年は、英国防省の輸送システムの構築事業を10年契約で英企業や富士通とともに受注した。世界30カ国以上に展開する20万人近い英兵や軍需物資の輸送を管理する。英国防省の情報システム事業に外国企業が参入したのは初めてだ。

インドIT産業は90年代以降、多国籍企業の情報処理などを次々に受注し、拡大路線をたどった。強みは、安い人件費で大量に人材を投入できるコスト競争力である。磨き抜かれた技術力も加わって競争力を強め、高付加価値の事業に参入しつつある。
インド最大のIT企業、タタ・コンサルタンシー・サービシズ(本社・ムンバイ)は07年、メキシコ社会保障庁の情報システム事業を2億ドル以上の膨大な契約額で受注した。メキシコ国民の福祉を支える社会保険や医療保障業務を管理するシステムの、巨大インド企業への「まる投げ」にほかならない。

 「インド頭脳」が世界を席巻する新世紀。インドのアウトソーシングビジネスは、それぞれの国民が気づかないうちに、国の仕事や暮らしの奥深くに食いこんできている。
 
 
 

[Part2] 24時間態勢で患者の立体画像を世界へ

医療機関の人手不足は先進諸国に共通する悩みだ。ここでもインドへの「頭脳外注」が進んでいる。
バンガロールのテレラジオロジー・ソリューションズ(TS)社は、遠隔放射線医療が専門だ。画像処理室では、若い職員らがパソコン画面をにらみながら、しきりにキーボードをたたく。株や債券のディーリング室のようにも見える。でも、扱っているのはマネー情報ではない。命の情報だ。

欧米の病院が、患者のX線やCT、MRIなどの撮影データをインターネットでTS社に送る。同社の放射線技師は特殊なソフトウエアでパソコン画面上に心臓や肝臓、頭部などの立体画像をてきぱきと作製し、患者が待つ病院に送り返す。
ある患者の心臓の立体画像を見せてもらった。もとの断層写真は輪郭がにじんだ白黒だが、完成すると色彩豊かな立体画像になる。
「ほら、右側の血管に病変が見えますね」と、異常に膨らんだ血管を指さした。「心臓なら5分、頭部なら15分くらいで立体画像を完成できる」という手際の良さだ。

画像処理室の中央に、防音ガラスで仕切った場所があった。ER(緊急救命室)からの要請に即座に対応するチームの部屋だ。平日は24時間態勢で7~8人のチームが、雑音のない空間で集中して対応する。米国の病院のERから連絡が入ると、何分以内にどのような分析をし、返信するかを打ち合わせる。
緊急時でないなら、時差がものを言う。TS社がインドの昼間にデータを処理し、米国の医師が翌朝、病院に着くころには立体画像が届く。「米国の医師・技師の肉体的負担は軽くなるし、病院のコストダウンにもつながる。米国で処理するより3分の1の費用ですむ」と、ディピカ・ベディ管理部次長。

現在、欧米の70以上の病院から毎日約1500件の依頼がある。「アジア市場」にも目を向け、シンガポール保健省と契約した。TS社は「グローバルな遠隔放射線医療でインドが主要な担い手であることの証明」と胸を張る。

低コストで航空機設計も

ずらりと並んだスーパーコンピューター「エカ」

研究開発の分野にも、「インド頭脳」はフル稼働する。 学研都市のプネ郊外にあるタタ財閥のスーパーコンピューター研究機関CRLの研究所。100平方メートル余りの研究室に入ると、空調機がうなりをあげて冷風を吹き出し、巨大な機械を冷やしていた。高さ約2メートルのスパコンのユニットが60基並び、黄色いランプが点滅していた。
スパコンの名は「エカ」。サンスクリット語で「1」の意味。「ナンバーワン」に向けた「出発」の気持ちがこめられた命名だ。

スパコンの内部には、知恵を象徴するヒンドゥー教の神「ガネーシャ」の絵が飾られていた=いずれもインド西部のプネで、竹内幸史撮影

タタはこれを使い、約60の世界の大企業や政府機関との間でナノテク、バイオ科学、気候変動や環境問題など多彩な研究開発協力を進めている。航空機やF1レーシング車の設計では、流体工学の精密な計算能力を発揮し、空気抵抗を分析する。
「高額な米航空宇宙局(NASA)の風洞計測装置とほぼ同じ精度の分析結果を、スパコン上で出すことができた」と研究担当の責任者、シータ・クリシュナは誇らしげに語った。

 

[Part3] 価格競争力・スピード感が強み 無限大の外注領域

BPO(ビジネスプロセス・アウトソーシング)――インドのIT業界では近年、この言葉がひとつのキーワードになっている。コールセンターといわれる電話応対業務も含め、企業の顧客対応の窓口、業務管理などを丸ごと引き受ける。

IBMのBPOセンター(右)前の屋台で一息つく人たち=ムンバイで、竹内幸史撮影

ムンバイ北部にある米IBMインド法人のBPOセンター。数千人がシフトを編成し、米シティバンクの口座残高など英語での問い合わせや、米ユナイテッド航空のマイレージ関連業務に24時間対応で働く。

驚くことに、外国の新聞までインドで制作を請け負う例もある。
ニューデリーの東、ノイダにある「マインドワークス・グローバルメディアサービシズ」。仕切りで分けられたオフィスで、50人以上の編集者が働く。「この列は中東班、次はアジア班、向こうが米国班……。中東班は締め切り前で大忙しです。米国班は夜中に出勤する。地球の反対側ですからね」と、営業担当役員のビカス・カウル。

カウルら新聞社の勤務経験がある3人が04年に設立。今は約100人の社員がいる。主な契約先は米、英、中東、タイなどの新聞10社。米国は西海岸など6紙の編集を受託し、毎日、朝刊24ページを編集しているフロリダ紙もある。中東はドバイの「ガルフ・ニュース」の週末特集面を30~40ページ編集する。香港紙もスポーツ、マーケット情報面を毎日5~6ページ、といった具合だ。

新聞にはその国の文化や価値観が反映する。遠隔地での編集は見出しひとつにも神経を使う。編集者は依頼主の編集長と電話で細かく相談し、注文に素早く応じていた。カウルは「先進国はどの新聞もネットに押され、発行部数は減り、広告減収に悩んでいるが、我々には追い風。先進国でやるより、インドに任せると35~45%のコスト削減が可能です」。

5年後には日本のライバル

インドの宇宙ビジネスの窓口として、92年に設立されたアントリクス社。地表観測衛星の画像データ提供、通信衛星によるテレビ放送のほか、他国の人工衛星の打ち上げなども請け負う。これまで国内需要が主だったが、外国の事業獲得に力を入れる。同社幹部のスリダラ・マルティは「インドでは宇宙開発に1ドル投資すると、2ドルもうかるという感じだ」と意欲を見せている。

衛星画像も、ビジネスのたねだ。インド宇宙研究機関(ISRO)のマダバン・ナイール理事長によると、インドの衛星は1メートル四方の解像力を持ち、都市計画用の地図づくりなど国内需要が多い。今はこれだけの解像度を持つ衛星は1機だけだが、マルティは「2、3番目の衛星を2年以内に打ち上げたい。海外の外注も引き受けられる」と語る。
静止衛星を打ち上げるインドの大型ロケット(GSLV)はまだ第一段階で、2トンほどの衛星しか打ち上げられない。ただ、開発中の新型GSLVは4トンほどの打ち上げ能力があり、衛星打ち上げの国際受注競争に参入できる。マルティは「宇宙ビジネス市場でインドが占めるシェアはまだ1%以下。5年後には5~10%に拡大するのが目標」と語る。

インドの新型GSLVと似た能力を持つのは、日本のH2Aロケットだ。打ち上げ業務を担う三菱重工業の浅田正一郎宇宙機器部長は「静止軌道衛星打ち上げは世界で年間20機前後。中国も長征ロケットで実績を重ねており、そこに価格競争力のあるインドが加われば4~5年後には怖い存在になるかもしれない」とみる。

 

[Part4] 米印「人材回廊」を築いた起業家たち

米国在住のインド系住民は300万人近い。科学者や医師などに多彩な人材が輩出し、米社会の「人材インフラ」を担ってきた。IT産業が集まる西部のシリコンバレーでは、一帯で働く技術者の15%程度、約30万人がインド系といわれる。

インドITの離陸のきざしは、80年代半ばのラジブ・ガンジー政権時代にあった。統制経済の時代だが、政府はよちよち歩きのIT業界に規制をかけず、自由な経営を認めた。91年のインドの経済改革後は、米国製ソフトの輸入関税を撤廃し、IT振興に努めた。本格的に飛躍したのは、「2000年問題」への対応だった。年数が00年として扱われ、これをコンピューターが「1900年」と認識してシステムの誤作動が起きると世界中で心配された。大規模なプログラム修正を迫られたため、インド人技術者らは世界に繰り出し、高い評価を得たのだ。

バブル崩壊後のIT市場の低迷期もしのぎ、再びインド人技術者への需要は高まる。遠隔地(オフショア)でのソフトウエア開発のサービスなどで海外から受注する企業が相次いだ。インドのソフトウエアサービス業協会(NASSCOM)のサンギータ・グプタ副会長は「コスト削減を求める企業のニーズは衰えなかった」と振り返る。
インド経済が発展するにつれ、人材は海外流出するばかりでなく、母国へと逆流する。インドの様々な人材やリーダーたちが米国のシリコンバレーとの間を行き来し、「米印人材回廊」と呼べるような人脈ネットワークが形づくられる。

カンワル・レキ氏=東京で、竹内幸史撮影

「人材回廊」づくりで重要な役割を果たした一人が、カンワル・レキだ。インド北部で軍人の家庭に育ち、インド工科大学(IIT)を67年に卒業。だが、当時のインドに技能を生かせる就職口や活躍の場は少なかった。渡米に踏み切ったのは69年のこと。インドからの「頭脳流出」の典型例だ。

「留学先のミシガン工科大に着いた時には、ポケットに8ドルしか残っていなかった」と振り返る。皿洗いで学費を稼ぎ、卒業後、自分の企業を設立した。まだインド人に偏見が残っていた時代。ベンチャー資本家に金を借りて取り組んだのがインターネットの通信に不可欠なプロトコル「TCP/IP」の開発だった。レキはこの商業化で成功をおさめ、87年には米ベンチャー情報誌で「今年一番の起業家」に選出された。今は苦労した経験を生かし、ベンチャー投資家としてインド系の若者の起業を支援する。

アルジュン・マルホトラ氏=東京で、竹内幸史撮影

米ITコンサルタント会社のヘッドストロング会長、アルジュン・マルホトラも「米印人材回廊」の有力人物だ。IITを出た後、75年に仲間6人でニューデリーの「ガレージひとつの仕事場」からHCL社を設立。米印のアウトソーシング事業などを手がけ、インドIT最大手のひとつに成長させた。 シリコンバレーに移り住んだマルホトラは、インドの永住ビザがはられた米国のパスポートで往復し、「人材回廊」のパイプ役を果たしている。


《調査リポート》インド原発から見える国際政治(3)…ボパールの苦い教訓

2013-03-25 15:00:00 | インド

インド原発から見える国際政治(3)( [特別投稿]竹内幸史氏/ライシャワーセンター客員研究員)

更新日:2013/03/25

 インドは米国のブッシュ前政権との間で2008年、二国間の原子力協定を締結した。核不拡散条約(NPT)の非加盟国であるインドを特別扱いにするという難題を克服し、実現したものだった。ところが、苦労の末に締結した割に、その後、米印間の原発建設協力は進んでいない。障害になっているのは、原発事故が起きた時のインド独自の賠償制度だ。そこには、米印間の苦い歴史が影を落としている。

進まぬ米印原子力協力

 2012年6月、ワシントンでクリントン前国務長官、クリシュナ前外相による第3回の米印戦略対話があった。それと並行し、米印企業間の会談が開かれた。原発メーカー最大手の米ウェスティングハウスと、原発の運営体であるインド原子力発電公社(NPCIL)の首脳による会談だった。
 発表された声明では、「両社はインド西部のグジャラート州ミティヴィルディで6機の原子炉建設に向け、早期の事業合意のための覚え書きを結んだ。これは米印原子力協力合意の実現に大きなステップになる」とされた。 両国外相も、これを歓迎する声明を発した。(*1)
 ところが、米国の原発関連の業界団体である原子力エネルギー協会(NEI)幹部に聞くと、両国の原発建設協力が正式契約を結ぶにはまだほど遠く、覚え書きは、少しでも前に進めるための苦肉の策だった。

 難航している原因は、インドがつくった原子力賠償法にある。
 この法律は、原発事故が起きたときの賠償責任について定めたもので、2010年にインド国会で立法化された。ところが、これが原発の事業運営者だけでなく、設備機器のメーカーに供給者としての責任を求めることが出来るという内容になっていたため、米国企業と政府が難色を示したのだ。原発事故では事業運営者が賠償責任を負うのが国際的な常識になっている。だが、インドでは賠償金額について一定の上限を定めたうえで、メーカーの責任を追及することが同法に盛り込まれた。

ボパール事件と反米感情

 背景には、1984年末に起きたボパール事件がある。インド中部にあるボパールで米企業ユニオン・カーバイド社の化学工場で起きた爆発事故だ。殺虫剤に使われる有毒ガスが流出し、住民1万5000人以上が死亡。犠牲者の多さでは産業事故の歴史上で世界最大だ。(*2)
 工場側に重大な過失があったが、ユニオン・カーバイドのインド工場の最高幹部だった米国人は法廷に出席せず、国外逃亡した。1989年に和解にこぎつけたが、当初30億ドルの賠償請求に対し、和解に合意した金額は5億ドルに満たなかった。賠償対象は、犠牲になった1万5000人以上の遺族と健康被害があった約55万人。インド政府を通じて分配された賠償金は微々たるものだった。
 その後、2010年6月、工場のインド人幹部ら7人に有罪判決が宣告されると、米国人トップが逃亡したままであることが改めてクローズアップされた。これが同年8月にインド国会で始まった原子力賠償法の審議に影響を及ぼした。ボパールのような外国企業がからんだ大事故の再発を防ぐため、原子力賠償法では原発の設備メーカーにも賠償責任を問うことになった。野党の強い要求があったが、与党議員の同調もあった。明らかに、冷戦時代から続くインド伝統の反米感情、反植民地主義が反映していた。

 インド政府は対米配慮から、賠償金額に上限を設ける調整を図り、米国企業の進出を期待した。だが、米国は改善を求め続け、2010年のオバマ大統領の訪印でもマンモハン・シン首相との首脳会談で事態の打開を要請した。米国はあくまでメーカーに責任が及ばないようにすることを強く求めている。
 米国政府の幹部は言う。「賠償責任は事業運営者にあるのが国際的な常識だ。建物が火災に遭ったとき、煙探知機のメーカーに責任を問うのだろうか。これでは、保険会社も損害保険の契約に応じてくれない」
 だが、法改正をするには、政府が政治的に野党切り崩しを進めるか、次の総選挙で連立与党が議席を伸ばして議会勢力を変えるしかない。現在のシン政権は2014年5月に満了を迎えるが、汚職問題や経済不振などに世論の批判は強く、先行きは不透明だ。
 こうして米国の原発メーカーが身動きできずにいるのを尻目に、ロシア企業はインド原発市場に進出している。冷戦時代の旧ソ連からの長い関係がある。そのうえ、ロシア企業は国営であるため、原発事故が起きた時の賠償問題については米国の私企業ほど気にしていないと言われる。原発関連の米企業の間では、ロシアの後塵を拝することに不満が蓄積している。
 

依然として大市場への期待

 米企業は、米政府によるインドとの原子力協力の合意形成を強力に後押しした。NPT非加盟国で、国際的な原子力協力体制から孤立していたインドに特別待遇を与え、米企業が進出、投資できるようにしたことは大きな成果だと受け止めた。
 米国の原子力エネルギー協会(NEI)の幹部は2008年の協定締結後、「インドとの原子力協力の実現は、米中関係を切り開いた1972年のニクソン大統領の中国訪問に匹敵する。それほど大きな歴史的出来事なのだ」とまで語っていた。
 この時のインドに対する熱いユーフォリア(幸福感)は今、すっかり冷めている。だが、それでも米国企業にとって、インドは依然として重要な大輸出市場である。
 福島第一原発の事故後、世界的に原発建設の機運はペースダウンした。米国では2012年、34年ぶりに原発新設の認可があったものの、「シェールガス革命」でガス価格が低下している情勢では、増設が大きく進む雰囲気はない。だからこそ、米企業にとっては、途上国で中国につぐ大規模な原発新設計画があるインドが重要なのだ。
 もともとインドは原子力志向が強く、米国とは相性は良かった。「原子力の父」といわれるホーミ・バーバー博士とネール初代首相の指導で、1948年に原子力委員会を設立。(*3) 日本より早く原子力利用に乗り出した。1953年にアイゼンハワー米大統領が「アトムズ・フォー・ピース」の演説で平和利用の提唱をすると、米国との協力関係を強め、1963年に最初の米印原子力協定を結んだ。
 米国が協力したのは、インド西部、ムンバイの北にあるタラプールでの原発の建設と核燃料の供給だった。ゼネラル・エレクトリック(GE)が福島に先駆けて沸騰水型軽水炉を供給し、アジア初の商用原発として1969年に稼働した。
 ところが、1974年にインドが核実験に踏み切ると、駐在していた米国人技術者は引き揚げ、核燃料の供給もストップ。米国はこれを機にブローバルな核不拡散体制を強化していった。
 それ以降、米印間の原子力の関係は切れたままになっていた。
 年配の米国人原発技術者は「30年以上かかって、ようやくインド原発市場が戻って来たが、これからがさらに我慢が必要な時だ」と言う。
 その一方、今まで設備機器の供給者は外国企業という前提で考える傾向があったが、そこに変化の兆しもある。インド企業も外国企業との提携で技術力をつけつつあり、今後は供給者の立場になってくる。このため、「供給者の責任を問う原子力賠償法の見直しについて、インド国内からも声が高まって来る可能性がある」と、米国の原発関係者は語っている。

(*1)World Nuclear News(WWN)2012年6月14日付
http://www.world-nuclear-news.org/NN-Plans_advance_for_US_reactors_in_India-1406124.html
(*2) BBC放送ボパール特集など
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4064527.stm 
(*3)インド原子力省ホームページ、http://dae.nic.in/?q=node/394

  


《メディアから》インド・ガンディー王朝の「悩める王子」

2013-03-08 09:14:23 | インド

インドの「創業一族」の御曹司、ラーフル・ガンディー(42)が、首相のポストに関心はないと発言し、また後継問題が話題になっている。

昨日のワシントン・ポストがこんな記事を掲載した。

http://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/indias-rahul-gandhi-says-no-again-to-prime-minister-post/2013/03/05/bb8f1e66-859e-11e2-98a3-b3db6b9ac586_story.html

曰く、ラーフルは議会内で議員や記者に囲まれてこう語った。

「私に首相になりたいかどうか尋ねるのは、不適当な質問だ」「首相の座席は私にとって優先事項ではない。私は長期的な政治に信念を抱いている」

この記事によると、「ネール・ガンディー王朝」に忠実な国民会議派の面々の間では、ウッタラカンド州のヴィジャイ・バフグナ州首相のように、ラーフルの首相就任を要望する声がある。

ところが、ラーフル自身、こうした期待に正面から答えず、党の硬直化した体質の改革を求める発言を強めている。1月には国民会議派の副総裁に昇格したが、その際の演説ではこう語っている。

「国民会議派の頑迷なエリート主義をぶち壊す必要がある。」

http://www.washingtonpost.com/world/indias-rahul-gandhi-promises-to-change-old-ways-of-elitist-politics/2013/01/20/259038f6-630b-11e2-889b-f23c246aa446_story.html

「政治行政において、国民はもっと発言したい。閉ざされた扉の向こうで一部の人が不透明なやり方で国民の生活を決めてはならないと国民は考えている」「古い政治をうまく運営することではなく、完全に変革することである」

とも指摘し、開かれた国民参加型の政治を提唱した。

党の古い体質を変えようという威勢の良い発言を聞くと、「自民党をぶっ壊す」と言った小泉純一郎を思い出す。インド政界は平均年齢60歳ともいわれ、老害が目立つ。その中央にいる国民会議派の改革は、都市の新興中間層からすれば、大歓迎だろう。

だが、果たしてラーフルは、こうした主張を少しでも実行し、実績をもって示してきたのか。そこが小泉純一郎とは違うところだ。

ラーフルとは何度か、直接やりとりした経験がある。12億人のトップが務まる器なのか、どうか、だいたい見当はつく。老かいなインド政界を率いて行くには、まだまだナイーブだ。

1月の演説では、母ソニア・ガンディー国民会議派総裁が自分の部屋に来て、「多くの人が権力という害毒を求めて争っている」と嘆き、ともに涙を流したことを明かしていた。

何とも純粋な母子の姿であるが、貧困者がまだ3割もいるこの国で、国外銀行口座に巨額の預金を貯め込んでいる母子の対話かと思うと、白けてしまう。

インドのツイッターでは、未だに母離れが出来ないラーフルの青さを冷笑する言葉が飛び交っている。

こうした状況は、同情を通り越して気の毒でならない。ラーフルの責任だけでなく、ネール・ガンディー家の存在自体がインド政治を小さくさせており、ダイナミズムを奪っている。それが残念だ。

これは側近や政界、そしてメディアの責任が非常に大きい。ネール・ガンディー王朝の後継問題にインド政治の話題を収斂させていては悪循環だ。会議派にはメディア戦略を立てるブレーンが必要だが、その任に足る人材がなかなかいないようだ。

この硬直した党内構図によって、国民会議派から次世代リーダーが育たないし、有力な若手が離れていく原因にもなっている。

最大野党であるインド人民党(BJP)の若手政治家のひとりは、「ガンディー家の存在があるから、会議派ではトップになれない」と、人民党に入った理由を語っていた。 

会議派の立て直しは容易ではないが、来年の総選挙にかけてのインド内政で、最大の注目点だ。