強まる米国のインドパワー 外交にも影響力及ぼす存在に
Emerging Indian Power in the US― Stronger Influences on American politics and diplomacy
米国ライシャワーセンター東アジア研究所 客員研究員 竹内 幸史(日印協会『現代インド・フォーラム』2012年秋号掲載))
はじめに
オバマ大統領の就任後、インド系米国人のパワーと存在感を示す出来事がホワイトハ ウスであった。2009 年 10 月 14 日のことだ。
インドでの最大の行事である「ディワリ」の祝祭がオバマ大統領自ら主催する公式行 事として行われた。約 200 人が招かれたホワイトハウスのイーストルームに、マントラ (お経)を詠唱するヒンドゥー僧の声が響いた。ディワリは、ヒンドゥー教徒にとって新 たな年を祝う最大の行事の一つであり、三大神のうち宇宙を維持するヴィシュヌ神の妃 神ラクシュミを自宅に招き入れるために、人々は自宅等に光をともす。
大統領は、祝い事に使うギー(バター油)を入れたランプに火を灯し、こう語った。
「今週は世界中で、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、シーク教徒、仏教徒が集まって 光の祝祭があります。ランプに明かりを灯し、光が闇に打ち勝ち、知が無知に打ち勝つ ことを示すものです」 「飾り付けた家に家族一同が集まって祈り、おいしいご馳走を楽 しもうではありませんか」
「ハッピー・ディワリ!」 オバマ大統領の声に出席者たちが唱和し、大きな拍手がわい た1。
出席したインド系米国人の弁護士、アヌラグ・ヴァルマ(40)に感想を聞くと、「インド の祭典を大統領自ら祝ってくれるなんて信じられない。実にエモーショナルだ」と話し ていた。彼はインド系をはじめとする米国の少数派住民の権利擁護に働いており、感激 もひとしおのようだった。
大統領府は「出席者の多くはアジア系米国人」とだけ説明したが、大半はインド系米国 人だった。ホワイトハウスではブッシュ政権時代の 2003 年からディワリの行事が行わ れるようになったが、大統領は出席せず、スタッフだけの催しだった。
筆者は、南アジア研究のためワシントンに来て、1 年になる。米国の大学や企業、国 際機関を見ていると、一段と大きな存在感を発揮しているのが、インド人たちだ。この 中には、国籍がインドのままのものも多いが、影響力を発揮しているのは、米国に帰化 したインド系米国人である。後者は、米政府の要職にも就き、外交政策にも影響力を及 ぼしつつある。彼らの底力の背景を探ってみた。
I. インド系アメリカ人の目覚ましい影響力
1. 対外援助政策のトップに抜擢 ― 米政府幹部に相次ぐインド系の登用
上記のホワイトハウスでのディワリの出席者の中には、翌 2010 年に米国の対外援助 実施機関である米国際開発庁(USAID)長官になるラジヴ・シャー(39)もいた。シャーはイ ンドのグジャラート州からの移民二世。1973 年にミシガン州で生まれ、医学部を卒業 後、ビル・ゲイツ財団に勤めた。2008 年の大統領選でオバマ陣営の医療政策の顧問をし た後、政権入りした。USAID 長官としての彼の講演を聞くと、冒頭からスライドでムン バイのスラム街支援の様子を映し出し、「インドモード全開」だった。自分の家系を積極 的に語ることによって説得力のある講演になっていた。
オバマ政権では政府内にインド系幹部職員が増え、大統領府のチーフ・インフォメー ション・オフィサー、チーフ・テクノロジー・オフィサーという技術系の要職にもインド 系が登用された。
2. 日米印の対話でも存在感
インド系アメリカ人は、米外交の最前線にも登場している。今年 4 月、東京で日米印 三カ国の政府による協議があった。米国から参加したのは国務省、国防省、エネルギー 省の幹部計 7 人。顔ぶれを見ると、実にこのうち 4 人がインド系米国人だった。出席し た米国務省の幹部は「意識してインド系を増やしたわけではない。日本政府の人からは、 インドの代表団みたいだね、と冗談を言われたよ」と笑った。そのうちの一人、国務省 次官補のニーラヴ・パテルはグジャラート出身の移民二世だ。まだ若々しいが、国務省 では日本を含む東アジア太平洋関係を統括し、アジア太平洋経済協力(APEC)など多国間 問題を担当するキーパースンである。
日米印の三カ国対話は昨年末に始まった新しい枠組みである。シーレーン確保や反テ ロ対策など幅広い協力が課題とされる。4 月はミャンマーをめぐる協力も話題になるな ど、率直な意見交換が行われている。
II. インド系住民は高度人材
1. シリコンバレーの成功物語
米国でのインド系住民の勢いは目覚ましい。米国内のインド系人口は約 250 万人。日 本国内のインド系住民の百倍である。インド系移民は 19 世紀から世界規模で広がった が、米国への移住は 1947 年のインド独立後、パンジャブ州などからの農業移民が牽引 した。米国の移民法改正による受け入れ拡大や、アフリカ諸国からインド系移民が締め 出される事態もあり、米国移住が増加した。
1960 年代になると、職を求める技術系の人々の移住が増えた。インドではネール政 権下、高度な技術者養成のため、各地にインド工科大学(Indian Institutes of Technology; IIT)が設立された。IIT は、ケネディ政権で駐印米大使に就いた経済学者 ガルブレイスの進言で米国も支援し、インドのハイテク名門校となった。ところが、IIT を卒業しても十分な職がなく、渡米の道を選ぶ人が多かった。
IIT ボンベイ校卒のカンワル・レキ(67)は 1960 年代後半に渡米し、フロリダの宇宙開 発分野で働いた。アポロ計画の見直しに伴い、シリコンバレーに移ると、情報通信革命 の波に乗り、インターネットの基本原理開発に貢献して大成功を遂げた。
レキの成功物語を追うように技術系の流入が続き、インド系のエンジニアや経営者は シリコンバレーの一大勢力になっていった。高等教育を求めて渡米した若者の中には、 医師や科学者になる者も多かった。
2. 多数の高額所得者
インド国内では「頭脳流出」との懸念も起きたが、インド系の人々は米国で着実に地歩 を築いた。経済的に成功するケースは増え、米国のマイノリティー住民の中で、インド 系はユダヤ系と並ぶ裕福な存在になった。2000 年の米国国勢調査ではインド系の平均 年収は6万ドル以上あり、米国人の平均年収(約 3 万 8,000 ドル)を大きく上回った。年 収 100 万ドル以上のインド系の家庭は約 20 万世帯あるといわれ、高額所得者が多い。
異郷の米国で、同業・同郷のコネクションを生かした組織づくりも進められた。ホテ ル業界の団体、「アジア系米国人ホテルオーナーズ協会(Asian American Hotel Owners Association; AAHOA)」は、グジャラート州出身者を中心にインド系の経営者約 1 万 1,000 人(ホテル約 2 万軒)で構成する。会員にはグジャラートに多い「パテル」という名前が大 勢いる。この名前は米国のインド系ホテルの代名詞のようになっている。こうしたホテ ルは、「アメリカンドリーム」を求めて渡米する後続の移民たちに割安な宿と働き口を提 供した。その一方、銀行や不動産会社などに融資や取引の条件で差別を受けたため、1980 年代に協会組織を設立。交渉力を強め、地位向上を図った。今年 5 月、アトランタで開 いた総会には、ブッシュ前大統領が出席し、祝辞を述べた。
医師の団体も活発だ。「インド系米国医師会(American Association of Physicians of Indian Origin; AAPI)」は全米の約 3 万 5,000 人で構成。1995 年の総会には、当時のビ ル・クリントン大統領を来賓に招いた。
3. 強まる自尊心と団結心
インド系コミュニティーの結束強化には、インド本国の台頭に加え、在外インド人を 重視するインド政府の政策も働いている。
インドは 1991 年の外貨危機をきっかけに経済改革に乗り出した。同時に、在外イン ド人のネットワークを積極活用し、インドの国益拡大に向けた外交資源として役立てる 傾向が強まった。
これを明確に打ち出したのは、1998 年に発足したインド人民党主導のヴァジパイ政権だった。インドは、98 年 5 月の核実験後に日米など主要先進国から経済制裁を受け ると、在外インド人向けの国債を発行して財政の穴埋めを図り、難局打開の一助にした。 これを支援したのが、在米のインド系住民だった。
この当時、西暦が 2000 年になってコンピューターが誤作動する「Y2K 問題」が世界中 の懸念になっていた。地球規模のプログラム対策が求められたのに対し、インドの IT 産業は優れたマンパワーを提供し、貢献した。インド IT にとって最大の市場である米 国との橋渡しをしたのが、在米のインド系経営者たちだった。
米印両国は、核実験で悪化した関係修復のため、ストローブ・タルボット国務副長官 とジャスワント・シン外務大臣との間で戦略対話を開始したが、これは、2000 年 3 月の クリントン大統領のインド訪問に結実した。クリントン大統領は、インドの国会で演説 して喝さいを浴びた。その後、米国は共和党のブッシュ政権になるが、インドとの関係 はさらに強化拡大され、米印原子力平和利用協定の締結に至った。
BRICs の一員として、特に強大化する中国と競う「新興大国」として脚光を浴びる祖国 の姿に、在米インド系住民は自尊心と団結心を強めていった。
III. 若い世代で広がる米国政治への参政
1. 二人のインド系知事が誕生
インド系住民の経済的成功に伴い、米国の政治への関与も強まってきた。
移民一世は、米国社会に果敢に飛び込み、溶け込みながらも、政治への口出しは控え めだった。かつてはインド独立運動への支援が米国で盛り上がった時代もあった。また、 移民一世でもパンジャブ州出身のシーク教徒、ダリップ・シン・サウンドが 1952 年、ア ジア系米国人として初めて連邦下院議員に当選した例もあった。だが、多くの移民一世 は米国英語にも不慣れで、米社会に適応するのに必死だった。
ところが、二世、三世は米国文化の中で生まれ育ち、率直な自己表現能力を身に着け た。彼らが今、政治活動を活発化させている。
下院議員から 2007 年にルイジアナ州知事に当選したボビー・ジンダル(41)、2010 年 に当選したサウスカロライナ州知事のニッキー・ヘイリー(40)は、いずれもパンジャブ 州出身の家庭に生まれた移民二世だ。
ジンダルは 2008 年、大統領候補のマケイン上院議員の副大統領候補にも名前が取り 沙汰された。ヘイリーは 2010 年、南部の保守的な政治風土の中で全米最年少の知事に 当選した。ともに、キリスト教に改宗したうえのことだが、白人主導の保守政党である 共和党でのし上がってきたことが興味深い。
インド系の業界団体は、こうした政治家を支援している。AAHOA のウェブサイトを見 ると、ヘイリー知事や連邦議会、州議会や市議会まで各層のインド系議員を応援し、献 金集めもしている。
首都ワシントン近郊では、インド系の青年が中心になって「米インド政治行動委員会 (USINPAC)」を結成。インド関連の争点について超党派で連邦議会の議員らに働きかけを している。会長のサンジャイ・プリは IT 企業の経営者。米政界にインド系の声を反映さ せようと USINPAC を結成した。
2. 大規模で活発な米印友好議員連盟
キャピトル・ヒル(連邦議会)でも、インドをめぐる動きは活発化している。上下両院 に、インドと在米インド人関連の課題を扱う超党派の友好議員連盟(通称 インディア ン・コーカス)がある。冷戦終結とインドの経済開放の動きに応じ、1993 年にまず下院 で結成された。当初、議員数はわずか 8 人だったが、今では約 150 人に拡大した。
上院の友好議連は 2004 年に結成され、加盟議員は約 40 人。現国務長官のヒラリー・ クリントンは上院議員時代、議連の共同代表を務めた。ヒラリー自身、大変な親印派で、 若い時からインドの草の根民主主義や女性の社会活動に関心を抱いていた(*2)。ファース ト・レディーとして 1995 年に大統領に先駆けてインドを訪問し、2000 年の大統領訪印 の露払いをした。
彼女の選挙区だったニューヨーク州クイーンズ地区に行くと、いかにインドが大きな 存在かが分かる。インド系住民が多く、資金力がある。街にはインド料理店やヒンドゥ ー教寺院、ヒンディー語を教える文化センターがあり、ディワリなど季節の祭りも盛大 に催される。インド系実業家のひとりは、「ヒラリーに 2 万ドル程度の献金をすれば、 結婚披露宴の来賓として来てくれる」と語っていた。
3. 米印原子力協力で米印関係のパラダイムシフト
インド系住民と業界団体、そして友好議連が一体になって実現させたのが、2008 年 の米印原子力協定だった。
核拡散防止条約(NPT)に非加盟のまま核兵器を保有するインドに対し、ブッシュ前政 権は NPT の特例として認め、原子力平和利用の国際協力を進める大転換に踏み切った。 国際的には、NPT を拒否しながら核実験を行い、にもかかわらず原子力の平和利用で各 国からの協力を取り付けようとするインドへの反発が強かった。ブッシュ政権は、わが 国を含むそのような国際世論を押し切り、インドに対する原子力協力に踏み切った。米 国の原子力産業のインド進出やインドのエネルギー需要に対応すると同時に、インドの 民生用原発に IAEA(国際原子力機関)の査察を入れることによって核不拡散の網の目を 広げる意味があった。
ところが、2005 年の米印首脳会談で基本合意後、米国内では核不拡散を重視する人々 から強い反発が起きた。パキスタンへの悪影響が予想されたし、冷戦下で旧ソ連寄りだ ったインドへの猜疑心も働いた。
これに対し、USINPAC などの組織は友好議連や米産業界と連携し、議会に理解を訴えた。議会に影響力がある退役軍人組織やユダヤ人ロビー団体にも協力を要請した。ロビ イストとして議会工作に走り回ったのが前述の弁護士、アヌラグ・ヴァルマである。イン ド北部からカナダに移住した移民二世。少数派住民の人権改善とインド系コミュニティ ーへの貢献を考え、法律家を志した。ヴァルマが所属するワシントンの法律事務所、パ ットン・ボッグスは、インド政府の米国でのロビイングを受託している。ヴァルマは議 会周辺で何度も説明会を仕掛け、米印原子力協力に反対する議員らの説得を続けた。ヴ ァルマは「過去の米印関係は互いに不信感に満ちていた。ブッシュ前大統領は両国関係 を『自然なパートナー』と呼び、本格的な改善を試みた」と語り、原子力協力がその大 きな突破口になることに期待を寄せた。
国際社会も、このような米国の対印政策を追認することになった。NPT 締約国以外に は原子力協力をしないことを決めていた核供給国グループ(Nuclear Suppliers Group; NSG)は、結局は米国の方針を追認し、英国、フランス、ロシアその他多くの国がインド と原子力平和利用協定を締結するに至った。日本も、現在、交渉の途次にある。
このような国際社会のインドへの対応を変えた点で、対印原子力協力協定は、米国の 対印政策のパラダイムシフトを象徴するものと言えよう。
IV. 今後の米印関係
1. 原子力賠償法で米企業は足踏み
もっとも、最近の米印関係を見ると、在米インド人が期待したほど順風満帆ではない。
原子力協力では、インドが 2010 年に立法化した原子力賠償法が障害になり、米企業 の動きは鈍い。原発事故が起きた場合、国際的なルールでは運営業者(電力会社)の責任 が問われるが、インドにおいては設備の供給者にも責任追及がなされるように法律が制 定された。これは、インド中部のボパールで 1984 年に起きた米ユニオン・カーバイド社 の事故で流出した有毒ガスにより、多数の犠牲者が出たのに、同社が不十分な賠償しか されなかったことが想起され、原発事故の際には外国企業の責任も追及しようとのイン ド議会の意思が働いたからであった。インドの左派政党を中心に根強く存在するインド 特有の反米意識も働いたようだ。このため、折角原子力協力協定ができたのも拘わらず、 ゼネラル・エレクトリクス、ウェスティングハウスなど米大企業がインド進出に二の足 を踏んでいる。
さらに、昨年のインド国防省による戦闘機の調達では、米国製がフランス製ラファー ル機に敗れた。「インドは原子力協力における米国の恩義が分からない国だ」という不満 の声が米産業界から漏れてくる。
2. 「一夜では変わらないインド」
ブッシュ政権で米印協力を主導したコンドリーザ・ライス前国務長官は、最近の講演会で「インドはブラジル、トルコと並び、米国が長期的に投資していくべき国」と評価し た。そのうえで、「確かにインドは簡単な国ではない。非同盟主義の国として長い歴史 があり、一夜にして変わるわけはない。今、インドとの間では我慢が必要な時だ」と述 べた(*3)。
ライスの指摘は、米国の親印派の間で共通する感慨だろう。確かに、米印関係は過去、 冷戦期を含め、対立関係にあった時期の方が長かった。21 世紀に入ってから大きく改 善したとはいえ、今も「山あり谷あり」の見通しにくい坂道を歩んでいるのかも知れない。
それでも、過去に比べて共通の協議課題が著しく増え、米印関係の基盤は拡大してい る。何より、幅広い分野のインド系住民の存在は、今後の米印関係の安定と発展の材料 になると見て良いだろう。
脚注
(*1) URL http://timesofindia.indiatimes.com/videoshow/5126165.cms
(*2) Strobe Talbott, Engaging India, Washington,D.C., The Brookings Institution,2004, pp.23-24
(*3) 2012 年 4 月 13 日、ヘリテージ財団での講演。URL http://www.heritage.org/events/2012/04/secretary-rice
筆者紹介: 竹内 幸史(たけうち・ゆきふみ)
慶應義塾大学卒。 朝日新聞社でニューデリー支局長、編集委員などを務めた後、 2011 年 9 月から現職。 岐阜女子大学南アジア研究所客員教授。
(2012 年 8 月 31 日)