独立独歩・孤立無援

センチメンタル排除排除!

チャオチャオ!ビックカンパニー

2009年06月30日 21時59分07秒 | Weblog
なんだって今日は早く帰宅してドロヨイだからってなはなしで、ロンファー激オモロだってばってなはなし。あらてめだがば、なんだってかんだって、ブラァーマヨものんすげー好きなんだば。えむわん一年後くらいからとりこだでよ。サイコウにおもろいんで、目がはなせんでってことでべ。いっちゃんすきだ。はらいてー。

はんにやわ?くそしてきえろ。むしろしね!

タカノマサオ

2009年06月21日 22時40分24秒 | Weblog
週末。帰路につく小雨混じりの早朝、NHKラジオ深夜便に耳を奪われ。
とあるはなし。とある人生。

敗者復活・「コヤシの思想」
高野雅夫さんは「旧満州」で生まれ、戦争で父親を亡くした。
終戦後、幼い彼は、母親と二人で日本へ帰ってくる途中、母親とはぐれ孤児になってしまった。どこからどうやって日本にたどり着いたのか覚えていない。

九州で「コジキ」の親方に拾われて、胸に何かを書いた紙をぶら下げさせられて「コジキ」商売をさせられた。文字を知らない彼にはわからないが、おそらく「親を亡くした哀れな子です。どうか少しだけでも恵んでやってください」などと書かれていたのだろう。

親方のところを逃げ出した彼は今度は百姓家に拾われた。
百姓の家で朝早くから夜遅くまでこき使われた。食べ物もろくに食べさせてもらえなかった。雪を見ればアイスクリームに見えた。牛や馬の世話をしながら、牛や馬がうらやましかった。

ついに、たまらなくなって家を飛び出した。
博多駅の周りで、チンピラ仲間と一緒に「野良犬のような」生活をしていた。万引き、恐喝など何でもやった。

ある日、彼と友人のゴンチはチンピラに囲まれた。
彼は額を傷つけられ、ゴンチが目の前で殺されるのを見た。それまで考えたこともなかった命の尊さ、命の重さを、生まれて初めて知る。

こんなところにいたら、いつか自分も殺される。そう思った彼は、無賃で汽車に乗った。そこがどこかわからないまま、終着駅の東京へ着いた。
どこへ行く当てもなく、飲まず食わずでふらふらになりながら上野の公園にいた。
そこで朝鮮人のバタヤのおじいさんと知り合いになる。

やがて彼は、生まれて初めて文字と出合う。そして自分の名前「タカノマサオ」という文字の書き方を教えてもらった。その時古い辞書を使って漢字を調べたので、名前の漢字が「口」の「高」ではなく、「はしご」の「」になっているのだ。

バタヤのおじいさんが集めた本の中に、荒川九中の塚原雄太先生の「夜間中学生」という本があった。

21歳で荒川九中二部に入学する。
夜間中学で、生まれて初めて差別のない社会があることを知った。
夜間中学では、仲間とともに、憲法をはじめ様々なことを学ぶ。

卒業後、行政管理庁の夜間中学校早期廃止勧告を知って、たった一人で廃止反対運動に立ち上がった。

全国を回り廃止反対を訴える中で、廃止反対という守りの運動ではだめだ、攻めの運動をしなければと、夜間中学創設運動を始めた。

大阪では、府教委、大阪市教委をはじめ教職員組合などを回って夜間中学創設を訴えた。
やがてその運動が実り、理解者が増えて議会でも取り上げられるようになり、ついに1969年6月5日、大阪に天王寺夜間中学校が生まれたのだ。