1998年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 12号に掲載した記事を改めて下記します。
「素の記憶」 榛葉莟子
ある日のことだった。
突然ドンッ! 重い衝撃音、続いてキャン! と犬の悲鳴がすぐ近くに聞こえた。あっ、やった! 交通事故! あのキャン! は、犬が跳ねられたと直感した私はすっ飛んで外へ出た。ところが、外はしーんとしている。この無気味な静けさは何?
ふと、すぐ先に女の人が倒れているのを見て仰天した。犬ではなかった。一大事だというのに何故か、あたりに動きの気配がない。まるでその瞬間、この一角の何もかもがはっと息を呑んだまま凍りつき、停止したかのような無音の真空空白状態。あらゆる物がぎゅっと圧縮したぺちゃんこ感覚。
救急車! の声に、魔法が覚めたように、真空を抜け出てあたりはゆらゆら動きはじめた。
幸いなことに、女の人は大事もなく、まもなく日常の生活に戻ることができましたと、おろおろするばかりだった私を人ずてに聞いたといって律儀に訪ねてみえた。
女の人は道を渡るのに、行き来する車の空くのを待っていたにすぎなく、目の前で起きた衝突事故の巻き添えになってしまったという事だ。あたし、10m飛ばされたらしいのだけれど全然覚えていないんですよ。車の行き過ぎるのを待っていたって所までは覚えてるんですけれど、それから何が起きたのか記憶がまったくないんですよね、女の人は、そういって首をかしげて他人事のように微笑んだ。10m!その時私の脳裏を、弧を描いて宙に舞う、人のシルエットがスローモーションで描かれた。
その瞬間女の人の内側も真空だったのだ。
宙を舞った出来事は奥深く沈み隠れてしまったのだろうか。意識不明の状態であっても、耳と意識は最後まで機能していると聞くが、あの時女の人は呼びかけに反応した。励ましの声にうなずき、自分の名前を告げた。良かった意識がある! と、かけよった人々は胸を撫で下ろしたのだった。記憶がないと言っていた女の人の奥底に隠れたナニカはどのように浮上するのか、しないのか、どのように耕されていくのかは、その人独自の感覚が吸い取ったものであり、伺い知ることはできないが、私には新しい経験であった。外に出たあの瞬間、ふっと感覚したものは内側の磁石が吸い取った新たな記憶ともなり、それはずっと後になって示唆というのか、いまの自分の眼と結ばれていることに気がつき意識化され、少しばかり眼が開かれたような気がする。ということは素の記憶というのか、たとえば、代々続いている鰻屋さんには創業以来その店独特のタレが受け継がれ、秘蔵のタレの素はその店のいのちの素にまで発展している。何百年経とうが、タレの先端にたちのぼるタレの素は素のタレとして生きている事になる。たとえが適切ではなかったかもしれないが、ふっと感じ見えたものの先端には意識以前の素の記憶が光っていて、いつも先を行っているのだあということを言ってみたかったにすぎない。
事故直後のあの一角に真空を感覚した事と、この頃しきりにプレス機で刷る版画や転写の方法での制作が多いことは、圧力と時間を通して現れ見えてくる或るもの、とのつながりを感じている。
ある日、近くに住むTさん夫婦と三つになったばかりのユウちゃんが元気よく車から降りてきた。なにやかやと明るい声が庭に飛び交い、ふふふと口元に笑みをうかばせてTさんは、ほら、もうひとりふえましたと言いながら腕を開いた。腕の中にはまあるい赤ちゃんが眠っていた。若い友達のTさんとは一年ほど間があったということになる。二年も三年も会わなくとも会えば昨日の続きのような感覚になれる。私はこういうシンプルな関係がいい。お茶を飲みながら大人同士のおしゃべりの花が咲いている回りを、私とユウちゃんは猫を相手にきゃっきゃっと遊んでいた。赤ちゃんの目が覚めて、少女の匂いの残るおかあさんはそっと胸を開け、赤ちゃんにお乳を含ませた。ユウちゃんはちらっと見た。
「ユウちゃんはゾウさんのおかあさんなのよね」少女のようなおかあさんの言葉に、ユウちゃんはこっくりとうなずいた。ユウちゃんの身体の中には、ゾウさんがいるのだという。回りの大人が何やら植えつけた訳でもないのに、ある日突然、ユウちゃんは身体のなかからゾウさんを出すと、自分のおっぱいをあげていたそうだ。ユウちゃんだけに見えているゾウの赤ちゃん。ユウちゃんのゾウさんはね、ここ、ここんとこにいるのと言ってちいさなスカートの上から、おなかをさすってにっこり笑った。ユウちゃんのピンク色のスカートがぷっとふくらんだような気がした。ユウちゃんの中にやってきた、もやもやとした或るなにか。抽象でやってくる或る何か。ユウちゃんの想像力はゾウさんを呼び出した。
私はおもわずユウちゃんと握手した。
「素の記憶」 榛葉莟子
ある日のことだった。
突然ドンッ! 重い衝撃音、続いてキャン! と犬の悲鳴がすぐ近くに聞こえた。あっ、やった! 交通事故! あのキャン! は、犬が跳ねられたと直感した私はすっ飛んで外へ出た。ところが、外はしーんとしている。この無気味な静けさは何?
ふと、すぐ先に女の人が倒れているのを見て仰天した。犬ではなかった。一大事だというのに何故か、あたりに動きの気配がない。まるでその瞬間、この一角の何もかもがはっと息を呑んだまま凍りつき、停止したかのような無音の真空空白状態。あらゆる物がぎゅっと圧縮したぺちゃんこ感覚。
救急車! の声に、魔法が覚めたように、真空を抜け出てあたりはゆらゆら動きはじめた。
幸いなことに、女の人は大事もなく、まもなく日常の生活に戻ることができましたと、おろおろするばかりだった私を人ずてに聞いたといって律儀に訪ねてみえた。
女の人は道を渡るのに、行き来する車の空くのを待っていたにすぎなく、目の前で起きた衝突事故の巻き添えになってしまったという事だ。あたし、10m飛ばされたらしいのだけれど全然覚えていないんですよ。車の行き過ぎるのを待っていたって所までは覚えてるんですけれど、それから何が起きたのか記憶がまったくないんですよね、女の人は、そういって首をかしげて他人事のように微笑んだ。10m!その時私の脳裏を、弧を描いて宙に舞う、人のシルエットがスローモーションで描かれた。
その瞬間女の人の内側も真空だったのだ。
宙を舞った出来事は奥深く沈み隠れてしまったのだろうか。意識不明の状態であっても、耳と意識は最後まで機能していると聞くが、あの時女の人は呼びかけに反応した。励ましの声にうなずき、自分の名前を告げた。良かった意識がある! と、かけよった人々は胸を撫で下ろしたのだった。記憶がないと言っていた女の人の奥底に隠れたナニカはどのように浮上するのか、しないのか、どのように耕されていくのかは、その人独自の感覚が吸い取ったものであり、伺い知ることはできないが、私には新しい経験であった。外に出たあの瞬間、ふっと感覚したものは内側の磁石が吸い取った新たな記憶ともなり、それはずっと後になって示唆というのか、いまの自分の眼と結ばれていることに気がつき意識化され、少しばかり眼が開かれたような気がする。ということは素の記憶というのか、たとえば、代々続いている鰻屋さんには創業以来その店独特のタレが受け継がれ、秘蔵のタレの素はその店のいのちの素にまで発展している。何百年経とうが、タレの先端にたちのぼるタレの素は素のタレとして生きている事になる。たとえが適切ではなかったかもしれないが、ふっと感じ見えたものの先端には意識以前の素の記憶が光っていて、いつも先を行っているのだあということを言ってみたかったにすぎない。
事故直後のあの一角に真空を感覚した事と、この頃しきりにプレス機で刷る版画や転写の方法での制作が多いことは、圧力と時間を通して現れ見えてくる或るもの、とのつながりを感じている。
ある日、近くに住むTさん夫婦と三つになったばかりのユウちゃんが元気よく車から降りてきた。なにやかやと明るい声が庭に飛び交い、ふふふと口元に笑みをうかばせてTさんは、ほら、もうひとりふえましたと言いながら腕を開いた。腕の中にはまあるい赤ちゃんが眠っていた。若い友達のTさんとは一年ほど間があったということになる。二年も三年も会わなくとも会えば昨日の続きのような感覚になれる。私はこういうシンプルな関係がいい。お茶を飲みながら大人同士のおしゃべりの花が咲いている回りを、私とユウちゃんは猫を相手にきゃっきゃっと遊んでいた。赤ちゃんの目が覚めて、少女の匂いの残るおかあさんはそっと胸を開け、赤ちゃんにお乳を含ませた。ユウちゃんはちらっと見た。
「ユウちゃんはゾウさんのおかあさんなのよね」少女のようなおかあさんの言葉に、ユウちゃんはこっくりとうなずいた。ユウちゃんの身体の中には、ゾウさんがいるのだという。回りの大人が何やら植えつけた訳でもないのに、ある日突然、ユウちゃんは身体のなかからゾウさんを出すと、自分のおっぱいをあげていたそうだ。ユウちゃんだけに見えているゾウの赤ちゃん。ユウちゃんのゾウさんはね、ここ、ここんとこにいるのと言ってちいさなスカートの上から、おなかをさすってにっこり笑った。ユウちゃんのピンク色のスカートがぷっとふくらんだような気がした。ユウちゃんの中にやってきた、もやもやとした或るなにか。抽象でやってくる或る何か。ユウちゃんの想像力はゾウさんを呼び出した。
私はおもわずユウちゃんと握手した。