ART&CRAFT forum

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『つながれた記憶』 三隅摩里子

2017-08-10 10:36:38 | 三隅摩里子
◆三隅摩里子 “感覚浮遊”2002年 下山芸術の森発電所美術館 撮影:長縄 宣

◆“感覚浮遊”(部分) 2002年 下山芸術の森発電所美術館  撮影:普後 均 


◆“Being-触” 1997年 神通峡美術展

◆“内在するもの”(部分) 1991年 新制作展

◆“連鎖する心” 2001年 富山県立近代美術館こころの原風景展

◆“反転する意識 Hemisphere” 
2004年 ワコール銀座アートスペース

◆“反転する意識 Sphere” 2003年 北日本新聞社マンスリーアート展
 
◆“風門” 2004年  坂のまちアートinやつお展

◆“Swinging Sympathy” 
2004年 富山第一ホテルアートギャラリー桜


2006年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 41号に掲載した記事を改めて下記します。

 「匂いの記憶」  三隅摩里子
 なんら理由もなく妙に記憶を刺激する匂いを感じたことがないだろうか。自然、人工も含めて、香りや匂いのない場所など多分ないと思う。食欲をそそる食べ物や不快な匂いも、普通はその場限りで記憶の隅に追いやられ、過ぎていくものである。 
 私自身子供の頃、匂いがするというのはあたりまえだった。学校の行き帰りに通る田畑も今のように化学肥料ではなく人糞を使っていた。だから、その匂いも季節の植物の香りも、おいしい食べ物の匂いも同列で匂いや香りのするものばかりだった。 
 匂いを意識しだしたとすれば、進学して、東京に住むことになり、今まで当たり前に感じていたものを人工的な匂いの中から嗅ぎわけようとしたからだ。 その後、物作りに関わるようになって、自分の作品のみならず様々な匂いや香りを意識し、嗅ぎ分けるようになった。
 そして、制作の拠点を田舎に移したこともあり、作品の材料集めなどのため、山や森へと車を走らせるようになった。自然の中に足を一歩踏み入れると、柔らかな足裏からの感触とともに、落ち葉や草を踏みしめる音がする。人があまり立ち入らないせいと歩きやすい靴のせいか、フワフワした感触がある。山の中は、草、葉が落ち、枯れ、堆積し土に返り、上に生えるものの養分となることを繰り返している。そして、この柔らかなベッドの感触と共に全身に入り込んでくるのが匂いなのである。
 以前、目当ての植物を求めて何ヶ所かの山に行ったことがある。最後によく行く場所へ戻ったとき、腐葉土と青々とした草樹の匂いに体が満たされていく感じがした。自分に合った匂いと場所を自然に選んでいたことに気づかされた。
 そして、この感触や匂いとともに木立から漏れる光、空気、水のかすかな流れを感じ取っているうちに自然に同化し、そこにあるべきものになっていく錯覚を覚えた。 すると、静かなはずの森が心地よく、賑やかな場所となり、大きな流れの中でリズムを打ちながら共鳴しているように思えた。

素材の記憶
 今は紙、木、金属、繊維などの複数の素材を用いているが、当初は麻を用いていた。
私が東京テキスタイル研究所で学ぶようになったのは、先に始めていた織物の平面性にすぐに動きが取れなくなる思いを感じたからだった。それでも、織機を使ってレリーフ状の作品を作っていた。
 ところが、ある造形演習の後、短時間で作品を仕上げるという課題があった。ちょうど蓑のような作品を作ったところ、先生から「何故あなたはこの作品を織って作ろうとしたのですか」と指摘された。一瞬、自分のしたいことは織ることではないと、このあまりにも簡単な答えに縛られていたものから解き放たれる感じがした。
 しかし、素材に関しては織で麻を用いていたものの、まだ自分に合う素材に出会った感じがなかった。また、好んでいた糸状の天然素材を立体に組み立てるにはどうすればよいのかを迷っていた。
 そこで、自然の素材を用いて立体を作るバスケタリーの授業を受けることにした。技法によって素材が形作られていくのは非常に魅力的だった。しかし、ここでは自分の頭の働かなさに悩まされた。素材、技術、形という方向性でできてくるバスケタリーと自分の想像、素材の持つ意味、そして自分の技術を作り出さなければならない自分の制作とのスタンスの違いを思い知らされた。しかし、バスケタリーの技法と漠然と好んでいた麻が結びつくことで、自分の想いを成長させる作品に出会うことができた。
 それが複数の麻の繊維を用いたコイリングによる作品である。それは、それまでの織りやすい麻から、その性質を押さえつけても出てくる新しい魅力を持っていた。この方法は、空間を縦横無尽に無限にめぐる想像を可能にした。しかし、作品によっては1日1㎝も進めない時間とずっと回転しながら積み上げていく不自然な動作、とりわけ様々な方向へ伸びることで作品自体の重みにより下部が潰れる重量の限界を感じた。このままでは自分の想いを確認するどころか、生み出したものを維持し、移動することさえできない。8年間続いた制作は、次の展開を求めざるを得なかった。
この時点では、素材の性質が少なからず関与していたため、全く異なる性質の素材を使うことはできなかった。結局、自立性という点で木を使ってみることにした。
 最初は、細い枝を束ね、縫い合わせるようにかたまりにしていった。さらに、もう少し太い枝を湾曲させ、小枝の束を縫うように合わせることで、より内包した空間を作り出した。小枝の束はそれぞれ長さも曲がり方も異なっていたが、枠の中に合うものを順番に合わせていくと不思議に最後は全てを組み込むことができた。それは、同じ樹の一部として元に戻ろうとしているかのようだった。
 しかし、この自立性が、表現したいもの以上に制約を感じさせていった。覆えば覆うほどかたまり、樹に戻っていくように感じた。自分に引き寄せるか、自分を自然に添わせるかという駆け引きだった。
 そこで束ねることから、より木の密度を低くし、組み合わせることで中が見える柔らかな空間を作った。ここで、木も複数種のものを使うようになった。空間が生まれたことで、個々のパーツの中に想いを込められるようになった。より自分の皮膚のように思える形状、球体や人型などに近づけることができた。この時点で、木に加え、紙と金属の素材が加わることになった。
 紙は、実際に組み込めない石から形を起こしたものを繭のように合わせ、木の中により有機的な存在として用いた。金属も木や紙に添わせるため編むことで硬質で冷たいものから、柔軟で温度を感じる有機的な形状を現すことができた。

空間の記憶
 作品発表をする際、公募展、グループ展あるいは個展でさえも展示上の制約の中で、どれだけ本人が意識したとしても結果としては差し障りのない消極的な展示になることの方が多い。
 当初作品発表を社会に触れると言うよりは、自分から作品を離す手段と考えていた。しかし、作品の素材が変わることによって、作品と発表する場所や意味も変化していった。今まで美術館やギャラリーという限られた場所であったものが、民家や野外で発表する場を得たからだ。私が展示をする機会を得たのは、おわらで知られる富山県のやつお(やつお得)という町であった。民家は町屋といわれる京都などにも見られるような間口の狭い、奥に細長い家である。ほとんどの家が道路側に客間を持っている。隣家とは隙間なく建てられているため、側面に窓がなく日中でも照明がなければかなり暗く、湿り気がある。展示空間として使えるのは道路側の客間や店舗の土間などである。そこは時には吹き抜けになっており、家の木組みと土壁が見える。当初は木と繊維を使った作品を発表した。
 この土地と空気と建物にどう関わるかという、自分に問うたことのなかった感覚が湧いた。単にそこにあるというだけではなく、その作品を通してどれだけ他と向き合えるのかということが課題だった。
 そして、季節の変化を風に表す町の空気と、守り続けられてきた土地や家の魂のような感覚を作品に込めることができた。
 また、現在は富山市となった風の町と言われる旧大沢野町で、三年に一度開かれる「神通峡(じんづうきょう)美術展」の野外展示に関わった時、冬はスキー場になる芝生の斜面が作品展示の場所となった。会期中、展示作品が壊れるほど非常に強い南風が抜けるところである。ここでは、作品よりも圧倒的な自然が眼に入ってくる。私の素材では自然に飲み込まれてしまうかもしれない。この自然という大きなスケールの前で、私に何ができるのか。作品は、それらに抗うのではなく直感したことを表すように、風を受け、あたかも土から生(お)いで、方向性を自由に変えられるかのような形となった。
 そしてこの頃から、今まで消極的な展示方法と思っていた美術館やギャラリーの空間も私の心の中では変わっていった。単なる器ではなく、建物やそれらを取り巻く自然も感じられるようになったからだ。
 それを最も強く意識した作品展が、元(もと)水力発電所を再利用した下山(にざやま)芸術の森発電所美術館での個展である。国の有形文化財のため導水管やタービン、計器などが建物の中に残されている。作品展は大量の木の枝を運び込み約一年をかけて実現した。
 建物の中の様々な痕跡が作品と関わってくる。通常の建物の縦、横、高さと言う範囲ではなく導水管の中や天井の大型クレーン、そして美術館の一番奥にある一基だけ残された発電タービンや計器の存在までも無視することはできなかった。
 そして、床面に設置するものはごくわずかで、空間を這うように建物と関わる作品となった。空間に吊り下げられたパーツは見る人の動きによるわずかな空気の流れで回転した。見る人は作品に対するというより、作品自体の中で自分自身を感じられる空間を生み出すことができた。
 こうした展示を通して、展示空間のみならず、その場のエネルギーを非常に意識するようになった。作品は作品が作り出す空間だけではなく、作品を置くことでより大きな空間と呼応した。

心の記憶
 自分がなぜ存在し、なぜ作るのかという問いがいつも働いている。
子供の頃、新たなものに触れ、驚き、遊びの中で何らかの再現を試みたことは誰しもあるだろう。実際、拾った木やボルトなどの金属でいろいろ組み立てて遊んだ。織物に興味を持ったのも、その延長線である織機への興味からだった。
 今のような仕事の仕方になるまで、織物を経由して素材の道をたどり、構造は大学で美術系に編入し立体を学ぶなど、自分の習性に従って経てきた過程である。しかし、これらの好みや習性も作品を制作する上では基礎体力であり、決定的な制作の理由とはならなかった。
 私が作品を発表し始めてすぐその意味を問われたのは、小品制作の後同じ技法で大きな作品を作った時のことだった。その発表をする時期と父の命の時間が競争になったからだ。命が問われた時、計りにかけられない選択を強いられた。なぜ今作らなければならないのか、これが私のしたいことなのか。自分の存在の重さと無力さを否が応でも感じた。しかし前へ進み自分を確かめ、示すためにはこれより他にできる事はない。長い行き先のない階段を自力で上らなければ何も見えないと思った。
 時間のかかる作業を肉体に課し、生きることを確認する制作が続いた。体力の限界が見え、自分の握りしめていたものと表れたものを振り返り、初めて次の階段を踏むことができた。
 それまで素材を、外との境界である皮膚として、その内にこもっていたのが、その皮膚を通して少しずつ触手を伸ばし、他のものと関連づけられるようになった。そして、作品の中に埋もれていた自分が自由になり、そこに入り込んだ第三者を、あるいは作品に注がれる外的エネルギーを感じとれるようになった。
 そして、今使っている素材全てが子供の頃から日々見て触れていた宝物であったことに気がついた。石は記憶を吸収し、紙は固まることで原形と感覚を呼び起こす。金属はかたまり、被い、繋ぐものとして形と性質を変容させる。初期に使っていた繊維は様々なものを繋ぐ存在となった。
こうして自分のものづくりを考えると五感と、もう一つの感覚と、昆虫のような習性が必要であったことに気づかされた。五感が基本であるならば、そのもう一つの感覚がそれらを繋いでいる。これからも見えていて見えない繋がりと五感や意識に触れるような作品制作に関わってゆきたいと思う。