ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「夜明けの合唱」  榛葉莟子

2017-05-28 10:49:58 | 榛葉莟子
2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。

「夜明けの合唱」  榛葉莟子

 
昆虫の本のヒグラシの頁には、朝と夕方にカナカナと鳴き涼しさをさそうとか、明け方と夕暮れに寂しい声でカナカナと鳴くとか簡単な説明で、確かにそうなのだけれど。ならば、あの夜明け方に聞いたヒグラシの合唱は何だったのだろうか。謎をかけられたように今も耳に残るヒグラシの合唱。夕陽が庭をあかく染めはじめる時刻、カナカナカナとヒグラシの声が聞こえてくる。周りの木々のどこかからまず一声が始まるのはまだ半袖には早い七月半ば頃。夕餉の食卓を囲みながら、あっ、カナカナだと顔を見合わせ今年も夏が来たねえと高原の夏の訪れを味わう。東京にいた頃はカナカナの声は八月末頃だったろうか。あの涼やかな声は夏のおわりと秋の始まりの狭間を告げるカナカナと思っていたけれど、カナカナにとってのその時は気温がかなめということのようだ。連鎖しあうカナカナの声は重ならず、間をおいては次次と繰り返されるほんのわずかな夕暮れの時。夕陽が沈むとともに何事もなかったかのようにぴたり鳴き止む。ほんとうにぴたり止む。

 カナカナと聞こえるようだけれど私にはシャシャシャシャとも聞こえる。割れた鈴を振るような、ブルースのハーモニカの音色のような高い声は、いく層もの紗がかかっているような透かした響きも感じさせる。透きガラスがわずかなゆがみや傷によっていっそう透き通って見えてくるようなそれと通じる。陽暮れ時に鳴くからヒグラシというのかと思っていたけれどそんな単純なものではないようだ。それはある日の明け方のことだった。何百何千と思えるほどのヒグラシの声が重なりあわさって、シャシャシャシャシャッと烈しい速さで響きわたる讃歌のごとくの迫力の合唱に、はっと目を覚ました。霧がかかったように白々としたカーテン越しの外は、いましも夜が明けかかる日の出の時刻ではないのか。いったい何事が起きたのだろう。迫力の合唱に聞き入るがじきにぴたり止んだ。朝がきたのだ。眠りを覚まされたにも関わらずまったくやかましいとも思えず目を閉じて聞いているうち、独特の声質の清らかさや、何か整然とした儀式のような緊張の心地良さを感じさせるあの合唱は何かに似ていると思えた。夜明けの合唱は数日続いたが、それもある日ぴたり終わった。耳に残ったまま気にかかっていたあの何かに似ている合唱の響きのかたちは、そうだ声明の響きに通じるとふとそう思えた。

 普段日の出の早朝に起きることはないけれど、日の出を待った新年の朝の経験がある。黒い峰の山々の向こうから、ゆらゆらと光を放ちながら昇ってくる太陽の真赤な頭がみえはじめたかと思うまに、ぽっと飛び出たかのような一瞬のまさに日の出の出現。いっせいにあたりを私たちをも黄金色に染めたまぶしい光りのなかで、そこにいた誰もが自然に胸の前に両手を合わせていた。ヒグラシならずとも何か昂揚感がひたひたと染みてきてさけんでみたい衝動は生まれる。日の出の瞬間ヒグラシの集団の鳴く声は最高潮に達したのだと想像すれば、夜明け方の声明にも似たヒグラシの合唱の響きの烈しさに、同じ生あるものとして根っこが揺さぶられる。

 真夏の日照りの日中ではなく、ヒグラシの鳴く時刻が日の出と日の入りの時刻の陽の光りのその時だけに声高らかと鳴くそのことに興味をそそられる。夕焼け空にみとれ沈む夕陽を見ていると遠くからオルガンの音色でも聞こえてくるような心のふるえは誰もが感じられる経験と思うけれども、その時カナカナの声が聞こえてきたら夕焼け派の人間ならずとも孤独な詩人になる。たとえばそれから、ゆっくりゆるゆると幕が下りてきて、ふりかえれば夜がそこにいる。ぼんやり白かった昼の月はくっきりこうこうと縁取られ輝いている。昼間青空に眠る三日月を見かけていたならば、その夜の三日月にこんばんわと挨拶なんかしたくなる。光りに反応するのはカナカナも人間も同じだ。心をつきうごかすおさえがたい衝動がそこに生まれるのはなぜだろう。そういえば暑い夜、網戸に突進してきた大きなクワガタがいた。いやクワガタは部屋の明かりに突進してきたので、網戸がそれをはばんでいたことになるけれど。夜の網戸には羽根のある小さな生き物が無数に集まりぱたぱた網戸を擦る羽音が聞こえる。網戸のこちら側の明かりの部屋で私と猫がじっと観察していると虫の目と合ったような気がする。観察しているのは向こうも同じかもしれない。

 常に謎々を仕掛けてくる暗示に満ちているこの世界。この夏経験した夜明けのヒグラシのことにしても、自分の釣り糸の先に引っかかってきた不思議と感じられる謎々は暗示のかたちで投げられた天からの贈り物ともいえる。

「風の吹く日に」 滑川由美

2017-05-24 11:12:52 | 滑川由美
◆滑川由美
「海の音を聞きながら (While herring sound of the sea)」
 183×122cm  2003年第35回日展出品

子供の頃に波と戯れた海は埋め立てられ道となる鶯やメジロの歌を聞いた山も削られ道や街となる自然の形を変えてゆく人間
煩悩や、時間の流れや便利さへの欲求
自然と共に生きること
青い海に懺悔し
山に向かって跪く

◆滑川由美
「風の吹く日に (The day is wind blowing)  」
130×164cm 1981年 第13回日展出品(初入選)

モチーフは蔵王のアオモリ椴松(トドマツ)の樹氷である。雪をかぶった樹、湿雪が凍りつき風によって形を海老の尾のように形を変えてゆく都会の喧騒や憂鬱を白い雪の中に溶かしてしまいたい、そんな思い出の作である。高山の寒さに耐えて成長する椴松の力強さを羨ましいと思った。好きな紫色を使い、若さあふれる作品、若き日の思い

◆滑川由美
「風景-ある日の午後に (Landscape-On the afternoon of the day) 」205×140cm 1986年 第18回日展出品

大自然の力強さや優しさ、四季の移り変わりのすばらしさをイメージ化し表現した

◆滑川由美
街 (The town)  198×140cm 1987年
第26回日本現代工芸美術展出品(グランプリ受賞作)

海峡の雪舞う白い道、緑の大地、海の色、太陽、大自然の中の小さな街、温かそうな家
そのような情景を糸に託し表現した。

◆滑川由美
「風のある街 (The town is wind blowing)」
210×140cm 1990年 第22回日展出品

街にはさまざまな表情ともいえる顔がある。昨日が、今日が、そして未来が爽やかな風が吹く街、そのような想いを表現した。

◆滑川由美
「風景92-Ⅰ(Landscape 92-Ⅰ)」 210×140cm
1992年 第31回日本現代工芸美術展出品

高速道路が車で溢れ、流れが止まっている。ふと山の手の方をみると太陽が沈もうとしている。木樹が光に包まれ幻想的な世界が広がっていた。サイザル麻を染めることにより自由度が広がった。

◆滑川由美
「風 (The wind)  210×140cm」1993年
第25回日展出品

人間を嘲笑うような 波 風自然の力の振れの大きさ自然の偉大さ、大切さ、自然への畏怖

◆滑川由美
「風の予感 (Presentiment of the wind)」210×140cm
1996年 第35回日本現代工芸美術展出品

爽やかな風の中に何かよいことが起きるような思いを感じた土台となる部分を不定形に織り、それを重ねてその隙間から新しい何かよいことが湧き出てくるようにイメージ縦糸を毛糸で巻き、裏が透けて見える。

◆滑川由美
「ある日の午後に (On the afternoon of the day)  」
183×122cm 2000年 第32回日展出品

気持ちが沈んでいる時、北西の空に飛行機雲がクロスを描いている。小学校の先生が答案用紙に描く×バッテンこれは私のことか空にまでダメだしをされてしまった。また飛行機雲が描かれていく、空を眺めながらいろいろな思いを込めた。高等学校国語総合教科書の表紙として2003年より使用されている。若い頃の思いを込めて製作しただけにとてもうれしい作品となった。

ある日の午後に
ある晴れた日の空遠く飛行機雲が描かれてゆく 南へ西に
昔 都会が憧れだった
飛行機が都会へ近づくと心が躍った
あの飛行機にはどんな人が乗っているのか
未来を創る人か
過去を担ってきた人か
青い空へと吸い込まれてゆく
雲が出てきた
明日も晴れることを願う


2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。

 「風の吹く日に」 滑川由美

風を感じる時
それは地球の揺らぎ、太陽の季節の変化
地球の呼吸と太陽と月の想い
海流と潮の満ち干、波の色
それらの揺らぎが複雑に変化した四季の表情
それらが明日への想いへと導いてくれるよう 

作品をつくること
 作品のエスキースを練っている時、思っていなかった何かが紙の上に現われるその瞬間が好きなのである。
 何を創ろうかと空を仰ぎ、朝に夕に山波を眺め、季節の変化がある海の表情をみて心に浮かんだものを全て描いてみる。
 そして自分のイメージに合うものを切り取り凝縮させる。糸を染めていても糸の持つ本来の色と染料が融け合い見本とは違う色が出てくるときがある。織りあがって糸の種類や材質を使い分けたものが自分の想いと重ね合うように出てくるとこれもまた楽しい時である。
 3ヶ月間のけだるい疲れと孤独な時間の中でワイングラスを傾けながら織りあがった作品をながめているとまだ熟成の時が足りないと、明日のためのエスキースを練りはじめるのである。
 これが四季折々に生きている私の作品制作である。

何故作るのか
 糸の多様性の魅力に取り付かれたから子供の頃に布の緯糸を数本引き抜くと後ろにあるものが透けてみえるようになる。縦糸を抜くと穴があいてレース状のものになる。縫い縮めれば起伏のある布、何枚も重ね縫えば堅い布毛糸をほぐすとふわふわのタンポポの綿毛のように飛んでゆく
 布は切ってしまえば元には戻らない、しかし上手に糸を入れれば切り口がわからないようにもなる。
糸とは不思議なものと思った。この多様性を追及しつつ他には無いオリジナリティーを表現してきた。糸は種類と素材によって表情が変わる。
 染めても糸の持つ色と染料が混じり合い違った色が出てくる。
 同じ色でも梳毛、紡毛、綿糸、布として織られたもの皆違う言葉を持つ。
 これらを作品として出来上がったものがイメージ通りに出来ればうれしいと何時も思う。糸は縦糸と緯糸の組み合わせでいろいろなモチーフが出来る。無限に近い何通りもの組み合わせがあり、若い頃はこの複雑性を楽しんでいた。時間があればこのような幾何学的ともいえるような形の組み合わせもやりたいとは思っている。
 しかし今の時代ではコンピュータにまかせるべきなのか?
 さて振り返ってみると好きだからと言っても迷いが無かった訳ではない。学校を出てから帯などを織っていたが、テキスタイルデザインの仕事もしたいと思いデザイナーも経験した。その後、家で同じ仕事をしていたのだが何故か別の急ぎの仕事が来るのである、「お願い今すぐ来て!」という悲鳴の電話が入るのである。急病人が出たのか、とにかく服の販売とかデパートのディスプレーとか昔のことなので今の時代のメールで届くようなこととは違い、出来上がった広告を直接デパートに電車に乗って届けに行くなど、おかげでさまざまな仕事を体験しながら自分に合う仕事は何かを探し出すことができたのである。
 今になって思うことだがテキスタイルデザイナーとして昔日本や欧州で描かれた花や動物を元に服地やスカーフにアレンジする仕事は色・形すべて良い勉強となった。日本画や陶芸の基本の修行にも似たものであろうか。若い頃に色々なことにチャレンジするのは意味があるのかも。

体験よもやま話
 19歳の頃デンマークへ留学しようと思い学校を見学に行った。言葉はデンマーク語なのでまったくわからない。会話の本を片手に何を言ったか覚えていないが、快く学校を案内してもらったのである。ただ残念ながら違う、何かが違うのである。織りの学校なので当然なのだろうが基本と伝統を重視した教え方のようにその時は思えた。ただ欧州には素晴らしい本がたくさんあったので空港であきれかえられるくらいに旅行カバンが本でパンパンになっていた。
 結局、パリのシャンソニエでワインの香りと歌声に酔いしれた。空港でジャケットに惹かれて買ったレコード、レオ・フェレ、これが私の宝物。
 パリの裏通り、一人で古道具屋に入ったところ、店員が窓のよろい戸を閉め始めた、まだ明るいというのに、私はあわてて近くのドアから飛び出した、みんなに話すともしかして売り飛ばされたのではとのこと。
 だからというわけではないが、今は遠くへ旅行するよりも青い空を眺めてボーとしているのが好きなのである。お気に入りの場所は少し小高い所にある公園の展望台、そこから海と山をそして街を眺めている。

続けるために
 織りを続けるには体力が必要である。
体力づくりのために水泳とテニスを始めた。糸染めで鍛えていたせいかテニスのバックハンドは強烈との評価であった。更に腕の太さが増したことはいうまでもない。 コーチを探すことが染織を学ぶ者又指導者として反省をすることになるとは思ってもみなかった。
 結論としてコーチに教えてもらうのではなく良い技術は見て自分で練習して覚えるものである。受身ではなく自分が勉強していなければコーチの話も理解できないのである。テニスコーチの場合、話しが上手なのはとても良いことだが、話しが下手でも技術が優れていればそれを見て自分で身につけるのが上手くなる早道である。つまりダメなコーチに当たっても何故よくないコーチなのかを考えること、反面教師、それも効果的といえる。 指導者とは勉強のやり方を教えてくれる人という人もいたがその通りと思う。指導者が合わないといってやめる場合が多いが、何所に行ってもめったに自分に合う指導者はいないということか。
 水泳をやってよかったことは力を抜くということを身を持って感じることができたことであろう。力み過ぎると沈んでしまい前にも進まないのである。スーと力を抜くとスーと進む、長い時間泳ぐことができる。織りも余分な力を抜いてリズミカルに集中して織る、きれいに織るコツである。ある意味ではつまらぬ野心を持つということも力が入っていることになるか。

二兎を追うことの奨め
 今しなければいけないこと、若い人にとっては生活のためのアルバイトであろうか、好きなこと・趣味のために働く、よくあることである。
 しかし単にそれだけではない。意味があるのである。この好きなことというのが将来、自分に広がりをもたらす可能性が出てくることとなるのである。
 気分転換は勿論、別の世界の友人との触れ合い、アドバイスは貴重である。また好きなことにより自然に身に付く集中力というのはトレーニングによる集中力とは違う質のものと思う。自然に身についたものは大きい。
 身に付いた集中力だけでなく。そのときに過ごした時間、楽しさも苦しさも良き思い出となって残る。これも良き財産でもある。
 手や身体を動かすことで自分が体験したことは本人の身体にしっかりと身につくそして長く続けることによって深く大きな形となる。
 織りの仕事を続けていれば作品の厚みとなって現われるのではないだろうか。
 続けること、それはとても大切なことである、時間が無いとよく言うが週に3日間、一日2時間は捻り出せるのではないだろうか、週に6時間、1年で約300時間も好きなことができるのである。好きなことをするために準備をする例えば普段の仕事、それもとても楽しい時間となる。
 ただし二兎を追うことのすすめとはいっても自分の中では配分を良く考えること何に重きを置くのか、何のために今何をするのか良く考えて行動することが大切であると思う。
 
 目覚めて潮風に向かい春を予感し
 川風のなかで夏を過ごす
 風になびく稲穂の囁きに秋をみつけ
 山からの北風で冬を聴く
 今日も風を感じて歩き出す
 明日へ

『平面から立体へ』 高宮紀子

2017-05-22 14:15:44 | 高宮紀子
◆高宮紀子 『Revolving two+five elements』25×13cm 再生紙.2004年制作

◆写真 2 マオリ族の立方体を作る方法。
ブレイドを作り、一周した所。

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

民具としてのかご・作品としてのかご 19 
 『平面から立体へ』 高宮紀子

 写真は最近の私の作品でタイトルは『Revolving two+five elements』です。素材は再生紙ですが、これは普通紙に比べると、折りじわがつきにくいこと、そして柔らかく手を切らないので気に入って使っています。最初の頃は白い紙を使っていたのですが、日に焼けそうなので、今は少し黄色い色がついた紙を使っています。これだと、多少退色しても自然に見えるからです。この作品は三年前のページでも紹介したRevolvingというシリーズです。タイトルについている“two+five elements”、つまり7本の構成要素は、この作品を作っている材の本数のことです。シリーズでは本数が重要なので、そのままタイトルにしました。形はヒトデのようですが、最初は単純な星形の面を二つ合わせたもので、それに材を巻いて重ねています。一番外側の材だけは表のみ、裏のみをそれぞれ1本の材で巻いていますが、それ以外の5本は表裏を交代に周りながら巻いています。最初、スタートの時点ではあまり立体的でないので面白くありませんが、巻いていくうちにどんどん、形が変化し、そこから派生した形が現れてきます。この形の現れ方が意外性に富んでいて面白いのです。今もシリーズの制作を続けているのは、この形の現れ方が面白いからで、まだまだやってみたいことがあるので続けています。

 形が現れるというのは、具体的にいうと、ちょうどミイラに麻布を巻くようにスタートからどんどん巻いていくと、全体が厚くなって太ってきます。でもただ太るのじゃないんです。巻いている軸方向から離れて積層するのと軸に近寄って積層する箇所が出てきます。最初は予想もつかなかった部分の差というのが形になって現れるのです。例えば、材の角度や組織の穴の形、三角とか四角とか、によって積層の特徴が違う。考えてみれば、当たり前かもしれませんが、予測がつかないことが多くありました。シリーズ名のリボルビングは、ちょうど回転ドア-のように平面が回転して厚みのある形になる、そういう驚きを込めて名づけました。

 このシリーズを続けるようになって今までの私の形の生成に対する考え方が変わりました。これは形の生成に関して予想がつかない部分、つまり私の意思でコントロールできない部分があるということ、そしてそのことに納得できるということです。コントロールできない、ということは私の場合、多くが悲劇です。ただ、このシリーズの場合のみ納得がいくのは、自分の意思が最終の結果に対していいバランスで関与していると思えるからなのです。うまく言えませんが、この辺は時間がかかっても伝えたいところだと思っています。

 これまで作品を作った方法に関して書きましたが、実際にご覧頂かないと、おそらく私が何を言っているのかご想像がつかないと思います。ルールを決めた私自身、まちがえたり、わからなくなったりで、たいへんでした。こんな私もそうですが、ほとんどのバスケタリーの造形をやっている人は作品を説明する時、“こういうふうに素材を使いました”とか、“作りました” とか、方法や素材のことを話します。聞いている人にとってほとんどわからない説明になる可能性もあるのですが、作ったプロセスを話します。それを話さずにはいられないからです。

 絵画などの芸術作品の解説ですと、もっと印象的な話になると思います。例えば人間
の生死とか、運命とか話は大きい方が面白い。それに比べてバスケタリーの場合は、ほとんど個人的な体験の話しです。この素材のこういう所が気に入ったとか、コイリングしてみたがうまくいかなかったので変化させてみたけれど、これもコイリングといえるでしょうか?とくる。聞いている人は聞きたいのはこっちです、と思うかもしれません。おまけに、バスケタリーの作品のほとんどが50cm角の展示台に載るようなものばかりです。天井の高い美術館で映える大きい作品や、生死のような重いテーマに感動される方からみると趣味の世界に見えるかもしれません。

 バスケタリーの作品を作る者にとって何故、個人の体験が人に伝えたいぐらい重要かというのは、作品を制作するにあたって、まず素材と自分しかないこと、そして、物作りをする方向とか、技術というものに対する個人の考え方が作品の中に表現されているからなんです。素材と自分との関係を繋ぐのが技術ということで、これらの要素自体が大きなテーマになります。つまり最初に他のイメージを用意する必要がありません。だから構造的、視覚的な面白さをひたすら追えばいいのです。何をやってもいい、という世界ですが、自分に与えられた条件を考えて方法を練りだす、あるいは実験をして造形するのは、時間が必要ですし、自ら壁を打ち破る熱意が必要になります。

 バスケタリーというのは、編み組み全般の方法のことです。もともとこの方法は物と物を繋いだり、面を作ったり立体を作る技術だからなのです。ということは、ほとんどの人間の技術がこれから出発しているかもしれません。大きくとらえれば、組織的、構造的な物は全て含まれる。かごや編み組みで作る道具類はもちろんのこと、シンプルな建築も、果ては宇宙まで、という人もいるかもしれません。でもバスケタリーの方法というのは、ひょっとしたら、自然界の偶然の中で人間が都合よく拾いあげたものかもしれないと思います。先日、鈴木まもるさんの鳥の巣の展覧会を見ましたが、編む、コネル、築くということでは鳥が先輩のようですから。物と物を繋ぐ、面を作り立体を作る、というのは、そのまま造形の行為です。だから、作り手はいつも作品を作る際に技術をまっさらな状態にし、その場にある要素で変化させるという行為を常にやっています。それだから、そこに個性的な形の立体造形につながるチャンスがあるという思います。

 私の作品はかごの方法や技法から出発しています。でも、直接民具からヒントをもらってそのまま作るわけではありません。伝統のある民具の技術はそれ自体、技術や素材、機能、使う人との関係で成立しているものですから、それから自分の作品を作るというのは難しいし仮にできたとしても、民具と作品の距離が遠くないと落ち着かない。自分は新しい作品を作っている、またはかごからどんどん離れたように思うのですが、民具の中にはもうちゃんと存在しています。もちろん、民具は機能的、私の作品は造形的な表現であるので、全く同じではありません。民具に様々な造形アイデアがすでに含まれていると思うのです。まるで、自信に満ちた孫悟空が天空の端に行き着いたと思っても、お釈迦様の手の平を天空と間違えて飛んでいただけだった、そんな感じです。

 最近、マオリ族のニュージーランドフラックスの葉の編組品を紹介する本を見せてもらいました。ニュージーランドフラックスの葉は長く、ひじょうにしっかりしているので、組みの技法に向いています。一番有名なのでは葉を中心の柄から外すことなく、組んで袋にするものですが、他にもいろいろな物が紹介されていました。ヤシの葉でさいころのような立体を組んで作るのをハワイやインドネシアで見かけたことがあります。柔らかい若いヤシの葉を一枚、中心から縦方向に割いて使うのですが、そのままに2本に分けず、元の所まで割いて後は割かずそのままにして使う。それを使えば、元が一緒で先が2本の材になるのです。それを使って四角い形を作ります。こういう考え方は合理的だと驚くのですが、むこうでは当たり前なのかもしれません。マオリ族の本で紹介されていたのも、ハワイやバリの方法と似ていました。立方体を作る方法を紹介しますと、まず数本の材を組んで、一番外側の端の材を中心に動かしてブレイドを作るような感じで組みます。端から中心へ材を動かす時、葉を折り返さずに、同じ面を向けて進む方向を変えるので、そこだけ角度がつき、全体がカーブしてきます。それを四回やったら、スターと合わせるのです。もともとカーブになっていますから、最初と合わせやすい。そうすると立方体ができるというしかけです。一周、あるいは数周してそのまま材の端を組み目に通しいれると、立方体になります。見かけは別の方法、つまりプレイティングの角を四つ組んで斜めに立ち上がる方法と同じ結果です。この民具の中に含まれている造形アイデアが私の作品と似ています。写真の作品とはみかけは似ていませんが、立体を平面的な面の連続で作り出せる、というところは同じです。違うのは、その後の展開ですが。

 バスケタリーの作品は言ってみれば個人の体験に基いた実験的造形ですが、これに何の意味があるのかと問われれば、構造やテキスチャー、形を単純に楽しんでもらいたい、またその形の裏にその人の造形の根拠や出発点がどう全体の形と繋がっているのかを観ていただきたいと答えたいと思います。たとえ作った経験が無くても、見る人にとって素材、技術は目に映りますから、作り手に少し近づくことができる。そして作り手から言えば、自分で方法を生み出す、あるいは既存の方法の解釈を広げる、そういう面白さがあるからと答えたいです。たとえ自分がお釈迦様の手の上の孫悟空であることを発見しようと、いや、その状態を発見すること自体も楽しいのだと思います。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑦』 橋本真之

2017-05-19 13:56:12 | 橋本真之
◆橋本真之「切片群」ガラス窓に集いてⅡ の内、手前1994年(「かたちとまなざしのゆくえ」展)

◆橋本真之「切片群」 1994年
(東京テキスタイルフォーラム個展)

◆橋本真之「疑集力・展開」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群・接合」 1996年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群収集」 1966年、銅・酸化銅・木
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群収集」 1994年
(「空間の軋轢」展) 

◆橋本真之「連切片群」 1994年  (「現代美術の磁場」展)

◆橋本真之「ガラス・銅」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)  制作 2003年

◆橋本真之「ガラス・銅」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)  制作 2003年

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑦』 橋本真之

  「切片群」と「運動膜」
 「凝集力」の方向は、雲母状の薄片が乖離して、単に小さな銅片として散乱し始めるまで叩き続けたとしても、繰り返す造形行為の意味を、その先へ持久力をもって展開することは難しい。何とか散乱の一歩手前で立ち止まるだけで、この先には何も無いのだろうか?そうだとすれば、この散乱に至るまでの間に、見い出すべき運動展開を、あるいは結着点を捜しあてることに向かわねばならないだろう。しかし、この先は苦しい。この展開の方向を、最近になって、「凝集力・展開」によって見い出しはしたが、この膜状組織の呼吸と言うような成果を確実に成果として自己確認するためには、まだ数年の時を要するだろう。

 様々な展開の突破口を捜していた。出発を求めて、仕事場の隅に積み重なっている曲がりくねった銅板の切れ端を、戯れに金敷の上で叩いた。打ちすえた三角形の切れ端は、金敷の上で延展して鈍重な形の拡がりを示した。けれども、時として鋭い切れ端が金敷から飛びはねて、私を襲った。この危険な感覚が私をとらえた。様々な切れ端を打ち延べる試みの後に、直角三角形の銅片を立て、その直角の頂点を叩いた。銅片は初冬の陽だまりに乾燥した落ち葉のように丸まった。その両端の開口部の縁を叩いて閉じようとすると、そこに螺旋状にねじれた銅の曲面が顕れ出た。この艶めかしくも心踊る発見が、私を様々な切れ端で小さな空間を包み込むように叩く方向に導いたのである。私は、あらかじめ与えられた切れ端から、空間を包んだ様々な形態が顕われ出て来ることに夢中になった。巻貝のような形態、動物の角のような形態、蔓性植物のような螺旋をひきのばした形態、ドリルの刃のように危険な鋭い形態――様々な類型が出現した。ここに起きている事態が何事であるのかを、その時私は充分に理解していたのだろうか?確かに私は、あの瞬時に形態の発生する心踊る感覚に導かれてこそ、造形の意味を自覚する所にまで付き従うことが出来たのであった。金槌の一撃一撃の当たり具合で、曲面の方向が、あるいは表裏が瞬間に変わった。それは、切れ端の出来た時の、ちょっとした歪みが曲面の展開を方向づけるのでもある。「運動膜」の曲面に新たな銅板を付加して熔接する時に出て来るこれらの切れ端を、私は捨てることが出来ずにいた。1977年以来、今日に至るまで、銅の切れ端は仕事場の隅にうず高く積み重なって、行き場を失っていた。私はそれらの切れ端を片端から取り上げた。

 耐え難いほどの長い持久力を要する、それまでの「運動膜」の制作とは対称的に、瞬間に判断して即結果の出て来る歓びが私をとらえた。数ヶ月かけて一本の線を引くような、これまでの「運動膜」の制作に対して、危険な瞬発力が私をもう一方の徹底へと導いた。私は全てを渉猟しつくしてみようと思った。私はこれを「切片群」と呼んだ。

 様々な形態の「切片群」が出来て、仕事場の床にひしめき合って転がっていた。ある日、そのいくつかが互いに接触している様が、私の目をとらえた。その接触に新たな形が見えて来たのである。互いに接触している部分を真鍮鑞で接合した。事の発端はそのように始まったが、接合は新たな仕組と展開を呼び込んだ。この方向を「切片群接合」と呼ぶことにする。これはまだ密度も強度も持ち得ていないが、いずれ「切片群」の組織化に向かうのだろうか?「切片群」の展開は別の組織化をも呼び込んだ。箱の中に集めては互いの位置関係を固定する「切片群収集」である。この方向は少年時の収集癖を刺激した鉱物標本箱を思い出させる。仕事場の掃除機で集めたまま捨てることが出来ずにいた酸化銅や、仕事場の中の埃を樹脂で固めたものが、その箱の中にマテリアルとして侵入することになった。やがて、箱を離れて、廃棄物である「酸化銅」と「切片群」の接着のみで成立する形をとった。そして2003年には、ガラスに混入して「切片群」を包む形となるのである。この一連の展開は、まだ行きづまりが見えない。

 数百の「切片群」が様々な類型を出現させた頃、私には切片が出て来るその形の経緯が気になり始めるようになった。例えば球体が枕状に延びた形態を作ろうとして、正方形の銅版から円形の銅版を切り出そうとする時に、最も大きな円を切り出そうとするならば、常識的には正方形に内接する円を取るだろう。その時、四隅に同形の切れ端が出て来る。そうした切れ端から出来る「切片群」をいくつも叩いた後に、ある時、ふたつの切れ端がつながって出て来たことがあった。つまり、最初の計画で、ある大きさの正方形を切ったのだが、変更して少し円を小さくする必要が出て来たために、つながって出て来た切れ端なのである。その結果、つながった「切片群」が出来た途端、もしも、この四隅の切片が全てつながっていたら、どういうことになるのか?と興味を持ち始めた時、「切片群」が「運動膜」の形を動かし始めたのである。この一見些細な出来事が、私の作品世界を大きく揺さぶった。そうして、いくつかの「切片群」がつながったもの、すなわち「連切片群」(注)が出来ると、おのずと切片のつながりの形に強度を求め始める。つまり、正方形の銅版に内接する円を、半径で1cm小さくしょうとするのである。そして、次にはさらに2cm小さくしょうとするだろう。それによって、さらに小さくなった円形の銅版でつくる曲面のひと呼吸の在り方が、微妙なことだか変化するのである。小さな円による曲面のひと呼吸が短くなるということは、次につながる面を長くしてバランスを取ることになるだろう。あるいは短かい呼吸を続けることで、長い呼吸に替えることになるだろうか?あるいは、短い呼吸を続けた後に、ひどく長く苦しい呼吸でバランスを取ろうとするだろうか?しかし、これは私の造形上のバランス感覚の問題であって、誰にも納得できるように、明確に指し示せるような事例を持ち出すことが出来るものでもない。これは自ずと不随意筋によって鼓動しているような、私の目と手の内密な運動だ。しかし、確たる理由がなければ、目の前にある銅版の規格寸法に頼り勝ちな私自身の中の即物的感覚を、明らかに揺さぶり始めたのである。この明らかな意識化のないところでは、形は安易に流れ易く、悪くすると感覚的に慣れ親しんだ節度に左右されるままになるだろう。あるいは、なりわい仕事の手がツルツルになってしまう危険を避け難いものとなるのである。しかし、現在のようにそうした形態の質の違いの見えない目が横行している限り、いつまでも造形の質が問われることはないのだろうが、私自身にはそのことは格別のことだ。造形思考を自らの思想とする者は、ここに起きている内的な磁力を孕んだような運動感覚が、自らの形態を産むことになるのを知悉しなければならないだろう。この先は造形思考が言葉を見失い勝ちな場処だが、我々はこの先を自覚的に一歩一歩行かねばならないのである。

 私達はどこに向かうべきなのか?語ることの困難な質の問題が、あえて語られるのでなければ、造形の問題は様々な安易に就き易くなる。常套句で語れる程のことであるなら、あえて語る程のことではないのだ。このことを人知れず自覚しているのでなければ、いずれ出会う「目」に全てが見透かされるはずだ。密度を細かな神経の集積物であるかのように誤解しているのでは、工芸における上手物や輸出産業ものの醜悪さに気付かぬままだし、安直な手慣れを無我と間違えるようでは、確かに無我は無我だが、物が見えずに、単に言葉の綾に蹴つまづいているだけだろう。

 工芸論が新たな思想を産むとしたら、手わざの問題を物質と物質の間から自らの言葉を導き出して構築しなおすだけの力業が必要なのである。職人仕事のなりわいに意味を見い出すためならば、新たな工芸論・造形論は必要あるまい。かって起きてしまったことの、ヘドロじみた日常の歴史検証をしていれば良いのである。その事によって、無名の人々が浮かび上がることもあるだろう。それがヘドロじみた日常を歓びに変えることだろうか?その事の意味は何なのか?確かに、消え去った見知らぬ工人の手もとから見えて来るものが在る。おそらく、物が残るということは、そうした他者との邂逅を待つということであるに違いない。しかし、私達はもっと先に行きたいのである。私達は人間的次元の変革に加担しょうとしているのでなかったとしたら、この苦渋の中で何の歓びを待とうとするのだろうか?まとわりつく日常の腐った自我を振り切って、私達は自らを踏み石として、先に行かねばならないのである。

(注)「連切片群」1994年「現代美術の磁場」展(茨城県つくば美術館)で初めて発表した。

『手法』について/丸山富之《作品02-81》 藤井 匡

2017-05-16 15:04:24 | 藤井 匡
◆丸山富之 《作品02-81》砂岩/60.8×99.0×62.5cm/2002年

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/丸山富之《作品02-81》 藤井 匡


 丸山富之は自身の制作に関して、かつて、図を用いて語ったことがある。(註 1)そこでは、第一項として「石・自然・物質」などが、第二項として「自分・人工・手」などが示され、両者の交通の中から〈あるがままのもの〉としての彫刻が〈すとんと落ちてくる〉ことが描かれていた。併せて、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間が、ぼくにとって最もリアリティを感じる〉ことも語られている。
 ここで述べられているのは、主体の内面を"表現"することを拒否する態度である。素材との交通――素材を道具として一方的に利用するのではなく――が可能となるためには、作者は作品世界に対して超越的に位置することはできない。作者はその世界を構成する一要素であり、そこで起こる出来事に左右される存在である。彫刻は主体の内面から演繹されるものとはならない。
 加えて、ここでは「石」と「自分」とが先験的に自明な存在として措定されていないことに注意が必要である。両者が交通したの結果として彫刻が産出されるのではなく、彫刻の方にこそ、〈あるがままのもの〉という高い優先順位が与えられている。彫刻が彫刻となることを通して、「石」と「自分」とが明確化されていくのである。
 主客未分化の状態が最初にあり、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉を経て「石」から「自分」が切り離される。つまり、正確には〈すとんと落ちてくる〉のは彫刻ではなく「自分」の方である。作者の言う〈つくる前に厳密に形を決めておらず、つくりながら、しっくりくる時を待つ〉(註 2)とは、こうした関係を指している。
 丸山富之のように制作方法を限定するならば、極端に突飛な彫刻が、突然に出現する可能性はほとんどない。実際、作者の幾つかの作品を見るときには、一点ごとの個別性よりも共通性や連続性の方が強く感じられる。しかし、その上でなお、それらが異なって存在する(制作され続ける)のは、制作を通して「自分」が異なっていくことに由来する。彫刻ではなく、作者自身が差異化されていくのである。
 こうした自己は交通の結果として出現するのであり、自己自身の中に根拠を見出すことはできない。交通という概念は、自己が本質に基づくのではなく、それが置かれる文脈によって構築されるとの思考から導かれる。ここでの彫刻は、存在自体に意味=価値が与えられるのではなく、作者を更新していく場として機能するのである。
         ◆         ◆         ◆
 《作品02-81》は、直方体をした砂岩の容積の大半を削り落とし、量塊を二枚の薄い板状になるまで彫り進めた作品である。形態を記述するならば、側面から見てL字形ということになるが、作品に対面するときには、形態はあまり強く意識されない。むしろ、強く意識されるのは表面の存在であり、形態から分離された表面が、それ自体自立したものとして提示されているように感じられる。
 石を彫り進む作業ではその奥へと向かう意識が要求されるが、《作品02-81》のように薄くなると、石が割れないようにその意識を変更しなければならない。ここでは、鑿を横へと進めながら、微妙な力の入れ加減を調整する必要がある。意識は石の奥行きにではなく表面に留まり、形態ではなく表面が強調されることになる。
 そして、この印象には、石から削り取られて生まれる空間が、展示室の入口側に置かれることも寄与する。見る者は、石の手前にある空間を石全体よりも先行して把握する。そのために、表面は石の形態を固定するものとしてではなく、石と空間とを分かつものとして知覚される。この表面は石と空間とを同時に発生させるのである。
 石彫の場合、作品は素材よりも必ず体積が減少する。この不可逆的な方向性によって、見る者は完成形態から原石を想像的に回復することができる。加えて、原石の外側に当たる二面が残存することは、彫り進む方向が手前から奥の一方向に限定されることを示しており、素材・技法だけではなく制作過程からも、見る者は原石を想像的に回復できるのである。
 この作品と原石との関係によって、L字形に包まれる空間(原石と作品との容積の差)は、それ以外の空間と分離されることになる。つまり、屋内空間にL字形の石が位置するのではなく、屋内空間に原石同等の量塊が位置し、その中に削り取られた空間が位置するのである。《作品02-81》における空間は二段に階層化されており、一般論としての彫刻と空間との関係とは同一視できない。そして、自己の差異化に関しては、その内の作者の身体が関与して生まれた空間が関与している。
 両者との関係は、作者の〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉(註 3)との言葉にも保証される。両者は上下関係を形成することなく、同一のレベルに位置づけられている。両者の間には単なる差異だけが存在するのである。
 作者の行為の量に比例して、石塊は減少し空間は増大していくが、作品として見れば全体の量は変化しない。ここでの彫る行為は、素材を別のものに変える(創造する)のではなく、量塊と空間との境目を移動させることを意味する。石を彫ることは同時に空間を彫ることであり、表面は両者の境界線の機能を担うのである。
 しかし、この境界線は無限に移動可能ではなく、最終的にはどこかで作業を停止しなければならない。彫り続けた挙げ句に石が割れてしまえば、空間も表面も「自分」も全て同時に失われることになる。その意味でも〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉のであり、作者はその後、別の視点から石を捉える作業に自動的に移行する。
         ◆         ◆         ◆
 「石」と「自分」との切断は、この制作後の視点から確認されるものである。丸山富之が近作で見せた変化は、ここから見えるものがより重要視され始めたと考えることができる。
 かつての丸山富之の作品は、自身の掌で扱える大きさに限られていた。それらには、薄い板状の空間的作品と一角を落としただけの石塊的作品があるが、基本的には《作品02-81》と同様のL字形が採用される。サイズの違いこそあれ、旧作も近作も、彫刻と空間との境界線を移行させていく志向は変わらない。ただ、サイズが大きくなることで、かつては見えなかった場が見出されることになる。
 小さい作品では、制作中の距離と制作後の距離とはほぼ一致する。このときには、制作中に見出された(石/自分)の関係は後々まで維持可能である。しかし、大きい作品になると、石を彫る視点と石を見る視点とは大きく離れてしまい、この関係が持続できない。それは、単なる距離の遠近の問題ではなく、{(石/自分)/自分}が見える、制作中とは位相が異なった視点が出現するのである。
 石を離れた場所から見るときには、(作品-作者)は(客体-主体)の構図に則る。そのとき、客体である石の中に、主体である自身の影が見出されてしまう。したがって、正確には作品が〈私の意識したこととちょっとずれた何物かを表す〉(註 4)のではなく、制作後の作者が制作中の作者とのズレを見出すのである。このズレは、自己が自己を見ること、制作後の作者が制作中の作者を自己として引き受けることから発生する。
 大きな石をL字形に一方向から彫っていく場合、作業の経過に従って、必然的に石の中へ引き込まれていくポジションをとることになる。それは、段々と石の中に包み込まれる感覚を引き起こす。小さな石では、二つの視点が連続しているため、それらを往還しながら制作を進めることになるが、大きな石では制作中と制作後の視点が分離されるため、ズレは突然に訪れる。〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉は、小さな作品よりも濃密なものとなる一方で、制作後の違和も大きくなるのである。
 しかし、作品サイズの巨大化が即、自己のズレを引き起こすのではない。石で形態を彫り出す思考ならば、最初から(客体-主体)が形成されており、仮に彫刻の中に自己を見出すとしても、それに違和を覚えることはない。それは、彫刻と空間との境界線を移動させる方法論からのみ生まれてくる。


註 1 作者コメント『〈かたまり彫刻〉とは何か』図録 財団法人小原流 1993年
  2 インタビュー『Chiba Art Now '02 かたちの所以』図録 佐倉市立美術館 2002年
  3 作者コメント『東日本-彫刻』図録 東京ステーションギャラリー 2002年
  4 前掲 2