伊勢一風花 落柿の音

もう一人の自分

稲藁のカメ

2011-10-26 | ヒト
 器用に細い縄を綯っている方の手もとを感心して見ていたら,亀の置物を持って行かれますか,と聞かれたので有難く頂戴することにした.ボクはおよそ絵画・造形のセンスがない人間で,三次元の現実を紙の上に二次元に表現することも苦手なら,空間に三次元のものを創出する作業もからっきしダメだ.稲藁を編んでみるみる間に素敵なカメになっていく過程をただただ感心して見せてもらった.近所のおばあさんに草履の編み方を習ったのがきっかけとお伺いしたが,このような才能はおそらく生まれつきのもので,およそ教育や訓練の結果とは思われない.心の進化にかかわる遺伝子が明らかになりつつあるが,芸術にかかわる遺伝子もきっとあるのだろう.ボクには備わらなかった遺伝子は,どんなものでどのように進化してきたのか知りたい.

落花生の収穫

2011-10-20 | 
 ピーナッツは誰でも知っているが,それが地面の中で膨らむことを知る人は少ない.ましてや自分で作っている人はもっと少ないのだろう.周りの若い人たちに落花生を見せたくて,畑にタネをまいてみた.順調に成長したくさんの花が咲き,その花柄が地面に向かって延びた辺りまでは至極順調だった.9月末ごろから落花生畑にカラスが来るようになった.何をしているのだろうかとも思ったがあまり気にも留めなかった.しかしそろそろ掘り上げようとしてびっくり,周辺に中身のない殻が飛び散っている.やつらは毎朝せっせと堀あげて食べていたのだ.カラスの残りモノを少しばかり収穫し,来年はどうしてこれを防いでやろうかと早くも作戦を練り始めた.

ゴジラ

2011-10-16 | 
 ゴジラは日本映画が生んだ世界でも最も有名な怪獣だ.ボクは小学生の頃見た『キングコング対ゴジラ』でゴジラを知った.その頃ボクの生まれた町内にも映画館があったのだ.すっかり国民的怪獣となったゴジラモノは一体何本作られたのだろうか.時は流れ,ゴジラ松井で再び国民的ヒーローのキャラクターとなり,若い人々もゴジラが何者かを知っている.サボテン界でもゴジラと名付けられた銘品がある.亀甲牡丹というサボテンで,表面のざらざら模様が大きくなった変異株が発見され,変異を拾うのがお得の日本人は瞬く間にこれを固定,さらにブラッシュアップした.数年前タイへいったとき,タイのサボテン屋さんがゴジラを知っているのに驚いた.秋本番となるころ,この厳つい外見のゴジラはまことに鮮やかなピンクの花を咲かせる.サボテン好きのボクは,さわやかな秋の太陽のもと,いつまでもこのかわいい花を眺めてしまう.

2011-10-10 | 
 染料の藍は大変有名だ.それが植物であることは良く知られているが.藍の花はごくごく普通のタデ科の小さな花で,もし野にぽつんと咲いていたらきっと目にとめることもないだろう.藍染は日本にとって伝統的な技術で,藍染の布は一種のノスタルジアの象徴のように,各地の土産物店に様々な商品が並んでいる.しかしその多くが中国で染められ,中国で日本語のタグが縫い着けられて国内に運ばれている.手間のかかることはそれが伝統に培われたものであれ,近代的な工業生産の一部であれ,経済効率という原則に勝てず知らぬ間にボクたちの身近なところからなくなっている.秋の太陽に生える藍の花を植物園で見ているという現実は,こうしたことの反映なのだ.

メタセコイヤの並木

2011-10-05 | 
 学生の頃よく通ったメタセコイヤの並木道を久しぶりに撮った.やわらかな姿は相変わらずで,残暑の太陽を遮り涼しくかつ何処か湿度を保ったような空間を作っていた.ボクは並木道を歩きながらときどき上を見上げ,すっくと伸びた幹に柔らかな黄緑の葉がひろがる樹冠を下から覗き込んだ.ヒトにとって30年という時間は,すっかり世代が変わり昔という言葉で語るタイムスケールだ.学生時代を過ごした下宿は,建物自体がなくなりすっかり街の様子も変わった.しかしメタセコイアにとっては千年が世代交代のタイムスケール,この木はおそらくまだまだ若木の部類なのだろう.ボクは過ぎ去った時間を超えて立ち続ける樹に寄り添い,しばし昔を想った.

リコリス

2011-10-01 | 
 ヒガンバナの仲間の多くは東アジアに自生している.これらは種間で交雑が可能で,多くの園芸品種が作り出されている.日本ではヒガンバナのイメージが大変悪く,この仲間は,切り花はおろかガーデン植物としても良く普及しているとは言い難い.しかしもともと日本の植物でもあり,病害虫も気にすることなく植えっぱなしで良い.夏の終わりから秋にかけて,気が付くと花茎を伸ばしてくる.ボクは院生時代にこの仲間の繁殖を勉強していたのでとても特別な思いがありいくつも庭に植えている.ただ生来いい加減な性格なので,いくつもの品種をまとめて植えてしまい,何が何だか分からなくなってしまっている.