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塹壕 其の壱

2012-06-16 10:07:43 | 日記


塹壕 - Wikipedia
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B9%E5%A3%95



塹壕


この項目では、野戦時に造られる壕について記述しています。城の周囲に予め造られた壕については「堀」をご覧ください。


1916年のソンムの戦いにおけるイギリス軍の塹壕



塹壕(ざんごう、英: trench)は、戦争で歩兵が砲撃や銃撃から身を守るために使う穴または溝である。野戦においては南北戦争から使用され始め、現代でも使用されている。日本陸軍では散兵壕(さんぺいごう)と呼んだ。個人用の小さなものはタコツボとも呼ばれる。戦闘陣地の一つ。


歴史


塹壕の中で潜望鏡付き狙撃銃を操作するオーストラリア軍歩兵。ガリポリ、1915年


塹壕は、攻城戦においては火器の普及以降、攻城側が防御側からの射撃を避けるために利用されてきた。大砲の発達と築城術の向上で巨大な要塞が生まれ、それに対抗する攻城術も生まれた。17世紀後半の代表的な攻城術は次のようなものである。


まず要塞に対して複数の包囲網を敷く。

内側で要塞の城壁に平行な壕(平行壕)を掘る。

これを起点として塹壕(交通壕、斜壕とも)を掘りつつ要塞に接近する。


塹壕は要塞からの縦射を避けるためにジグザグに掘る事が多かった。ある程度要塞に近づいたら第2、第3の平行壕を掘り、再び斜壕を掘って要塞へとにじり寄る。

中世から近世

中世に発明された銃は普及を続け、近世には銃剣の発明により歩兵の武器は小銃に統一されたが、やはり刀剣や銃剣を利用しての白兵戦が盛んに行われていた。この当時の銃はまだライフリングがないマスケット銃であり、命中精度が低く[1]、また前装填銃のため装填に時間がかかるため、歩兵同士での撃ち合いでは決着が付けにくかった。近代においても、隊列を組んだ戦列歩兵が「敵の白目が見える」ような至近距離まで伏せることもなくそのまま行進し、一斉射撃を交した後に着剣小銃で突撃、決着は白兵戦で付けられた。

このため塹壕は限定的にしか使われず、もっぱら攻城戦において防衛側から一方的に浴びせられる砲撃や銃撃から攻め手側を守るとき以外では使われなかった。

戦争の近代化と塹壕戦の発生

戦争の近代化は、戦場において兵士が銃火から身を隠す必要性を増大させた。すでに19世紀の南北戦争やクリミア戦争では、有効射程を大幅に増した銃砲の脅威が兵士に塹壕や掩蔽壕に隠れる必要を迫った[2]。連続射撃では視界を奪うほどの白煙を生む黒色火薬[3]は威力が増し残渣も少なく銃腔内を汚しにくい無煙火薬に取って代わられ[4]、後装銃の普及[5]と武器・弾薬の生産力補給力の増強と火力の密度が増し[6]、命中精度の高いライフル銃の普及により遠距離から狙撃されるようになった[7]。20世紀にさしかかる頃には手動式連発銃の普及と弾薬供給力のさらなる増強で火力の密度がより増した。

第一次世界大戦において機関銃の大規模運用により正面突撃を完全に破砕しうる火線が完成したこと[8]、発達した鉄道網による迅速な増援・補給が行われた[9]ことによって、従来の戦術で塹壕地帯を突破することは困難になった。しかも敵軍に塹壕を迂回されるのを阻止するために拡張を続けた両軍の塹壕は海岸線に達し、北はバルト海から南は地中海まで連なった塹壕地帯は欧州を完全に分断し、塹壕地帯を迂回して進軍することは不可能になった。防御優位の戦況は前線の膠着をもたらし、お互いに塹壕を築いて長期間にわたり睨み合う総力戦となった。この過程で戦争の中心は従来の野戦から、敵の塹壕を制圧する事を目指す塹壕戦へと変わっていた。第一次世界大戦当時の西部戦線では、壮大な機動戦を企図した初期のシュリーフェン・プランが失敗し、塹壕戦へと移行した。幾度もの攻防で数千から数十万の犠牲を積み上げるも双方塹壕地帯を突破しきれず、終戦までの約4年間、塹壕戦が続いた。

塹壕戦が始まると、塹壕を掘る作業が歩兵の最も重要な仕事の一つとなった。第二次世界大戦の頃には「歩兵の仕事は8割が塹壕掘り」と言われるまでになった。

構造



1914年のイギリス軍の歩兵向け野戦築城教範による塹壕構築の要領。壕の深さにはAの伏射用、BおよびCの膝射用、Dの立射用と何種類かある。



塹壕に篭る歩兵にとっての脅威は、塹壕内で砲弾や手榴弾が爆発した場合に飛散する破片や石である。これらの被害を最小限に食い止めるために、塹壕をジグザグに掘ったり、投げ込まれた手榴弾を処理するための穴や溝が塹壕内に設けられた。なお、手榴弾の威力は爆散する破片による負傷が主であり、数十センチから1メートル程度の穴に落とし込めば、周囲の人間が負傷することは無いとされている。

第一次世界大戦では、両軍とも敵に背後に回りこまれないよう両翼に向けて塹壕を掘り進めて行くうちに、スイス国境からイギリス海峡まで塹壕が到達した。塹壕の壁面は、砲撃による振動で崩れないよう木材などで補強された。また、地下水に対応するため、底部には排水用の溝が掘られ、通路面に木製の橋のような通路が設けられた。

それでも、降雨などの増水時には、兵士たちは汚物まみれのぬかるんだ泥に足を突っ込んだまま、いつ攻めて来るか判らない相手を待ち続けなければならなかった。このような特殊な環境によって、伝染病は元より、塹壕口内炎や塹壕足(重篤な水虫や凍傷によって循環器系障害を起こし、酷い場合は足を切断した)などの病気も発生した。特に寒冷地においてはその被害は甚大なものとなり、戦後復興に大きな影を落とした。

旧日本陸軍の塹壕には、立射用が通常、原則であるが、膝射用、伏射用などがあった。 形式上は自然地を堀拡するもの、自然地上に土嚢などで掩体を設けるもの、断崖その他の自然地を利用するものなどがある。 一般的に利用される堀拡式立射用塹壕について述べれば、胸墻、壕および背墻から成る。 壕は自然土を掘り下げ、胸墻および背墻は壕を堀拡した除土で構築する。 作業には小円匙あるいは円匙を使用し、土質が堅固な場合あるいは樹木の株、岩石地などでは小十字鍬、十字鍬または鶴嘴を使用する。 火線のための射撃設備は、照準高、臂座、内斜面、頂斜面および踏の形状を能率的に経始する必要がある。 照準高は立射のためには1m30cm、膝射のためには80cm、伏射のためには25cmとする。 臂座は照準の時に臂をもたせて銃身を安定させ、その上に弾薬を置くもので、内頂の下方25cmに設け、幅は30cmとする。 内斜面すなわち散兵の胸腹部が接する斜面は、射撃を容易にし、射手の掩護を良好にするためになるべく急峻にするが、地形が前方に降下する時はむしろ緩やかにするのがよい。
頂斜面の傾度は前地を自由に射撃し得るように適宜に決める。 踏は積土であるため敵に発見され
やすいのでなるべく低くし、表面は偽装で掩し、内頂から頂斜面の起部までは少なくとも1mとする。 背墻は塹壕の後方における弾丸の爆発の危害から射手を掩護するもので、敵に発見されないように胸墻より低くし、厚さは砲弾の弾子および破片に対しては40cm、小銃弾に対しては1mとする。 塹壕には、壕外への進出に便利ならしめるために足掛り、梯子または階段を設け、あるいは壕上の通過を容易にするために短橋が架された。

塹壕突破戦術



第一次世界大戦時のドイツ軍の塹壕線。左上はイギリス軍の塹壕線





セダン近郊で訓練を行うドイツ軍の突撃歩兵。1917年5月撮影



大規模な塹壕戦が展開された日露戦争では塹壕に潜む敵兵を殺傷する手段として小型爆弾を塹壕に投げ込む戦法がとられ即席手榴弾が使用された。 さらに遠距離の塹壕へ爆弾を投げ込むために日露双方で迫撃砲が作られた。迫撃砲を英語でトレンチ・モーター(塹壕臼砲)と呼ぶようになったのは塹壕戦で使用されたことに由来する。

第一次世界大戦では、防御側の塹壕をいかに突破するかという戦術に両軍とも頭を悩ませた。


砲撃

第一次世界大戦の戦死者で最も多かったのは塹壕内で砲撃を受けたことによるものであった。しかし砲撃によって防御側を殺傷できるのは不意打ちのときのみである。また、十分な準備砲撃をしようとすれば準備段階で敵に攻勢を知らせることとなり、敵に対する奇襲効果が薄れてしまい、逆に奇襲を優先すれば十分な砲撃が出来ないというジレンマに陥ってしまう。

歩兵による突撃

犠牲を覚悟で歩兵による突撃を反復して行えば、いつかは防御側の第一線塹壕を占領できるだろう。だが防御側の塹壕は二重、三重のラインで築かれているのが通常であるので、犠牲覚悟の攻撃を繰り返さねばならない。さらに、第一線塹壕は元の敵陣であるから防御側の砲兵の照準は完璧であり、攻撃側がその場に留まっていては砲撃の餌食となってしまう。また、このような犠牲の大きな攻撃を繰り返せば自軍の士気の低下も甚大なものとなる。事実、第一次世界大戦で、二ヴェル攻勢の失敗からフランスでは大規模な抗命運動や、反乱が続発した。

毒ガス

毒ガスは、イープルの戦いでドイツ軍が初めて使用した。使われた毒ガスは比重が空気より重いため、塹壕内や地下壕内の歩兵部隊に被害を与えることができる。だが、初期の毒ガスは呼吸器系統に作用する塩素系ガスであったことから、防御側の歩兵がガスマスクを適切に着用すれば、さほどの戦果をあげることはできなかった。そのため、皮膚からも作用するマスタードガスや、ガスマスク着用を困難にする催涙剤の併用戦術などが登場したが、これらも進撃する自軍兵士まで影響を受ける問題があった。

坑道戦

坑道戦は、防御側の塹壕の地下にトンネルを掘り進み、地下で爆弾を爆発させて塹壕を破壊するものである。イギリス軍はメシヌの戦いで坑道戦を実施し、地下に仕掛けた600トンの爆弾で1万人以上のドイツ兵を殺傷した。だがこのときのトンネルの掘削には2年半の作業期間を要した。坑道戦はあまりにも時間がかかりすぎ、特殊なケースを除けば実用的ではない。

戦車

戦車は、ソンムの戦いでイギリス軍が初めて使用した。戦車は、装甲が施され、無限軌道(キャタピラ)を装着して、有刺鉄線のバリケードや機関銃の弾をものともせず前進することができた。しかし、防御側が幅の広い対戦車壕を設けると、戦車でも突破しきれず、塹壕突破の決定的手段とはならなかった。また、野砲により戦車の装甲を破ることが可能であるため、砲兵の一部を対戦車戦闘に従事させることで撃破することは可能であった。

浸透戦術

浸透戦術は、ドイツ軍がカポレットの戦いや1918年の春季攻勢で実施した戦術である。長い塹壕線には部分的に手薄な地点や防御上の死角がどこかにある。分隊単位で編成された軽装備の突撃部隊(Stotrupp)が、現場の判断でそうした地点を探して突破し、防御側との交戦を避け、第二線、第三線の塹壕も突破する。多地点で同時にこの攻撃を実施することで防御側を混乱させ、その間に司令部や砲兵陣地を衝く。指揮系統との連絡や砲兵の支援を失った防御側の前線部隊は無力化されることになる。ドイツ軍は浸透戦術を採用してカポレットの戦いに圧勝し、西部戦線でも前進に成功した。だが突撃歩兵は限られた装備・補給しか持たないので、防御側が十分な予備兵力を持ち、迅速に戦線の穴を塞ぐと、それ以上の突破を続けることは困難であった。

電撃戦

第一次世界大戦で敗れたドイツ軍は、第二次世界大戦では戦車の集中使用による電撃戦を創始した。まず歩兵部隊が浸透戦術をもって防御側の戦線に穴を開け、防御側の予備兵力がこれを塞ぐ前に戦車部隊が穴から突出し、一挙に敵の背後に回りこむ。1939年のポーランド戦(厳密には電撃戦ではなく殲滅戦理論に基づいたものである)や1940年のフランス戦では、ドイツ軍は電撃戦により連合軍をわずか数週間で崩壊させた。しかしその後も、1943年以降のイタリア戦線や朝鮮戦争など、戦車の集中使用が困難な山岳地帯が戦場となった場合は、引き続き塹壕戦が展開された。

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