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【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

#追記

2025年01月07日 | 歴史

<ここは執筆途中です>

宮内庁と皇宮警察が過去に作成した私に関する記録は、全部、虚偽です。

 

 

 

〇鉛筆

案内された部屋には、窓が無かった。私は恐る恐る、宮内庁の年寄りに、「紙と鉛筆が欲しい。帰りの自動車の用意ができるまで、絵を描いて待っているから」と言ってみた。すると、意外なことに、私の要望は何の質問もなされず「お待ちください」という言葉で受諾された。まったく悪意の無い声だった。机が運び込まれ、その上に紙と鉛筆が置かれた。

 

三十分も経った頃、車馬課の男が来て、「車の用意ができました」と知らされた。私は大急ぎで椅子から降りた。もたもたしていると置き去りにされるからだ。その時、年寄りが振り返って、言った。「それはあなたにあげますよ」 紙と鉛筆のことだが、何となく妙な気がした・・・と言うのは、当時、鉛筆はもう文房具店にありふれていて、私は24色のクレヨンも持っていたからだ。しかし、私は親に教えられたとおり、「ありがとう」とお辞儀をして、芯が丸くなった鉛筆を右手に握ったまま、部屋を出ようとした。そこで、年寄りの「泥棒!」と言う声が聞こえたのだ。

 

何年か後になって、皇宮警察の日誌に「私が宮内庁の備品を窃盗した」と記録されていることを教えられた。

 

 

 

 

 

〇撃ってもいいんだ(その一)

「なあ、外国なら、何処がいいんだ?」 皇宮警察護衛官が作り笑顔で私に訊いた。この時、私はまだ四歳だったが、すでに何度も外国へ連れて行かれて、そのたびに死にそうなくらい危険な目に会っていた。一度は、船で樺太の近くまで行って、ロシア兵に銃撃されたし、また一度は、アフリカの草原を屋根の無いジープで走り回って、皇宮護衛官らがライオン狩りをしていたところ、腹をすかせたライオンが車の後部座席に飛び乗って来て、私が喰われそうになった。
「何処へも行かない」 私はきっぱり答えた。・・・それなのに、後日、飛行機の中で眠っている間に、米国に着いた。

 

私と護衛官は米国の閑静な住宅地を歩いていた。道路の両側にポプラか何かの大きな街路樹が植えられていて、二階建ての大きな邸が並んでいた。皇宮護衛官はいつものように私の少し後方を歩いていたが、突然、次のような言葉が私の背中を叩いた。

「ここではなあ、撃ってもいいんだぞ。アメリカだからな」

振り向くと、護衛官は右手に持った短銃を上方へ向けて構えていた。驚いた私は無暗に前方へ走った。街路樹は高いけれど幹が細いので、私の体が隠れるかしら?・・・と思った時、バンッ、と一発の銃弾が私の靴に近い地面に当たった。男は卑しい笑みを浮かべて、改めて私に狙いを付けた。
その時、女の鋭い悲鳴が上がった。護衛官は反射的に体を捻って、声の方角を銃撃した。弾は二階建ての邸の、窓枠に近い外壁に当たった。

 

パトカーが四、五台、サイレンを鳴らしながら走って来た。護衛官は私から二十メートルほど離れた位置に、銃を持ったまま立っていた。パトカーはそのまた後方三十メートルくらいの位置に、斜めに急停車し、大勢の警察官がこちらへ銃を向けた。すると、護衛官がまた撃った。銃弾は最前列のパトカーのボンネットに当たった。米国の警察は躊躇しなかった、警官の一人が住宅街で乱射している男の胸を撃ち抜いた。

 

帰国後、皇居にいる護衛官らが「仲間を殺された」と憤っていたが、私は無言だった。殺されたんじゃあない、彼らは悲鳴を上げた女性を救ったのだ。

しばらく経って、私は在日米軍基地へ連れて行かれた。基地の門番兵は、罪人になった我々を中へ入れてはくれなかった。護衛官らは、私だけを自動車から降ろして、「日本人が殺された、と叫べ」と言った。「そう言えばいいんだ。シュプレヒコールだ」 そして、自分たちは車に乗り込んで、少し離れた場所まで下がった。白人の兵士が上方へ向けて威嚇射撃をした。

 

 

 

 

 

 

〇撃ってもいいんだ(その二)

小学校の二年生か三年生の時、チャイムが鳴って、みんなが席に着いくと、一人だけ、男の生徒が立ち上がった。彼は右手に拳銃を持っていた。「なあ、本当にやってもいいのか?」

男子は誰に言うでもなく、言った。それから銃声が鳴って、女子の悲鳴が上がった。幸い銃口は床へ向けられていた。私は反対側の離れた席であったことを幸運だと思った。「警察がやれって、言ったから・・・」と、しわがれた男子の声が聞こえた。

 

しかし、中学生の時はそうは行かなかった。皇宮護衛官は、職員室に短銃とサリン弾と覚醒剤を置いて行った。
同じ幕間の寸劇のように、生徒全員が席に着いたところで、短銃を持った教師が教室へ入って来た。カチッと、安全装置を切る音が聞こえたので、私は反射的に机の上へ上半身を伏せた。二秒か三秒の間があって、銃声が鳴り、弾は一番前の席とそのすぐ後ろの席に座っていた生徒の上半身を貫通し、私の左肩近くを通過して、後ろの生徒に当たった。「二人死んだ」と後で誰かが言った。

 

県警のパトカーが来る前に、皇宮護衛官が教室へ走って来て、私に向かって「お前が撃ったんだ!」と大声で言った。それから、次々に三人ほどの生徒へ視線を投げて、「こいつがやったと言え。そうすれば、先生は助かるんだ」と指示した。

 

 

 

 

 

〇絵画

フランスのルーブル美術館だったと思う。絵の題名を知らないが、昼寝から寝覚めたばかりといった風情の女が、お尻の上までスカートがまくれ上がったまま寝そべっている絵画だ。五歳の私を連れて、この美術館へ来た皇宮護衛官が、突然、立ち止まって、その絵を指さした。私は通り過ぎようとした。すると、男が突然、私のスカートを掴んだのだ。掴んだだけではない、もう片方の手で、自分のズボンの前をこすり始めた。外国の美術館で半裸の女の絵を見ながら、自慰をしだしたのである。
「いや、離して」私は悲鳴を上げた。男が手を離したので、私は次の部屋へ逃げた。

 

すぐに守衛が駆けて来た。威嚇の銃撃音が響いて、護衛官は捕まった。私の傍にも女が走って来て、何があったのかと訊かれたが、あいにく私は言葉が判らない。「(あれは)お父さん?」と日本語で訊かれたので、「違う」と首を振った。別の若い男も駆け寄って来て、「パパ? ダディ?」と訊いた。「違う・・・」

私だけが出口付近で待たされた後、逮捕された護衛官の顔を確認させるために、ガラス張りの部屋のほうへ連れて行かれた。すると、透明ガラスの中で、護衛官が不意に立ち上がって、窓へ寄った。突然、銃声が鳴った。

 

 

 

 

 

 

〇サリンは、裕仁が使って良いと言った

私が生まれる前から、曾祖父らが「密偵」と呼んでいた皇宮警察は、度々、私の家を襲撃して来た。天皇裕仁が孝明天皇の子孫ではなく、徳阿弥を始祖とする徳川氏血統であることを知っている人間は戦後も極少数だが残っていて、我が家も奴らが監視せねばならない一つだった。


裕仁は、戦後に再開された九州北部の弥生時代遺跡の発掘で、「斉王」の陵墓から印璽や王冠などが発見されると、武官(皇宮警察)にサリン弾を使わせて、この副葬品を強奪させ、皇居へ隠匿した。その後、監禁されていた私が「毒ガスを使わないで」と皇宮護衛官に懇願すると、護衛官が「陛下に訊いてみよう」と言い出し、問答無用に私を裕仁の前へ連れて行った。そこで裕仁が宣下したのだ、「使っても良い」と。
以来、護衛官は私を皇居へ拉致すると、皇宮警察庁舎の横に建てられた犬小屋の様な監視小屋の外に私を放ち、そこへ走って来ては私にサリンを噴きかけた。もしくは、監視小屋の中から、麻酔銃で私を撃った。

 

 

 

 

 

〇お前、これが作れるのか?

私はセーラー服を着ていたので中学生か高校生だったのだろう、いったい何十回目の「拉致」だったか判らないが、宮内庁庁舎の中の、あまり使用しない応接室らしい、暗く広い部屋に監禁されていた。皇宮護衛官は開口一番にこう訊いた。「芸能人では誰が好きなんだ?」 

しかし、当時の私はそんな呑気な生活ではなく、父親が殺された後は、何処か知らない街で一生独身のまま生きて行こう、などと考えていたので、「特に誰もいない。テレビもあまり見ないし・・・」と答えた。「誰でもいい。言えよ。言ったら、連れて来てやる」 護衛官は、私を強情な嘘つきと思ったのだろう、不満顔で「それなら、こちらで探してやるぞ」と言って、部屋を出て行った。半日か一日後、見知らぬ若い男が護衛官に連れられて部屋へ入って来た。護衛官よりも大きな男だった。

 

私は、部屋の対角線上に、彼らが入って来たドアから離れて、壁に張り付くように立った。護衛官が、子供の握りこぶしくらいのサリン弾を一個、男に差し出して見せた。「お前、これが何だか分かるか?」
男の表情は見えなかったが、男は護衛官が予期せぬことを言ったらしい、護衛官が半身を反らして、「何だ、お前!」と声を荒げた。たぶん、その手榴弾に似た物を見れば、大抵の者が怯えるのに、男の態度がふてぶてしく映ったのだろう。護衛官は「何だ、お前、これが作れるのか?」とからかうように言った後、原材料らしい化学物質の名前を二つか三つ教えて、知識をひけらかした。

私は叫んだ。「開けちゃ駄目。それは猛毒のガスが出るから!」
男は驚いて、渡されたサリン弾を床に落とした。そして、鍵がかかっていなかったドアから廊下へ逃げた。護衛官がサリン弾を拾って、男を追いかけた。男は廊下にいた別の護衛官に捕まっていた。「早くこれをやって、帰そうぜ」と言う声が聞こえ、ドアが閉められた。

 

一週間くらい経って、私の家へ電話がかかって来た。「なあ、あいつ、本当に作れると思うか?」
忘れていたのに・・・あの護衛官の声だった。私は無言で電話を切った。

三年くらい経った頃に、また電話がかかって来た。勿論、私は完全に忘れていた。「なあ、あの男を覚えているか? あいつなあ、本気で作っているぞ。お前、あいつの所へ行って、止めろよ」

数十年も経ってから、この時の大柄な男が「オウム真理教の教祖」に似ている、と思い出した。

 

 

 

 

 

〇大岡昇平と司馬遼太郎

「女は馬鹿なんだ。何もできない。アレをやって、子供を産むしかないんだ」と言ったのは司馬遼太郎で、会ったその日に、高校生だった私に抱きついてきた。

曾祖父も父も不審死した後、私は東京国立博物館に置いてある宝物をどうしたら良いのか分からなかった。社会へ出る前に、多少なりとも知識がある大人と話をしてみたかっただけなのだ。ところが、彼らは私が身体だけ成長した田舎の高校生なので、「都会の金持ちを見れば、やらせる」と期待して、「はるばる遠方から来てやったのだ」と言った。

 


数日後、大岡昇平と何処かの出版社の男が、覚醒剤の注射器を持って、私の家へ押し入って来た。田舎の一戸建てだったので、少々騒いだとしても近所の家には知られないと思ったらしい。大岡もまた私に抱きついてきて、顔を舐めた。両人が胸ぐらを掴み合ったまま、私が上になって押し倒し、一発、殴ってやった。すると、もう一人の男に注射器で脚を刺された。

しかし、二人ともすでに、外に停めた車の中で麻薬を打ったらしく、かなり腑抜けた様子だったので、私は大岡を力一杯突き飛ばし、男を蹴って、交番へ走った。

 

 

 

 

 

〇楽観

 警察庁「戦争になったら、逃げる。・・・当たり前だ」 
 防衛庁「戦争になったら、米国が助けてくれる。・・・そう思っていなければ、やっていられない」