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56- 平安人の心 「浮舟 前半: 浮舟を奪い合う匂宮と薫」

2021-08-16 09:33:28 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  浮舟が宇治に隠し置かれて三カ月半が過ぎた。匂宮は二条院で浮舟を垣間見たあの夕べ以来、浮舟のことが忘れられないが、中の君が頑として話さないため、浮舟の素性を確認できずにいた。一方、薫はいつもの調子でおっとり構え、浮舟を思いながらも忙しさから宇治を訪れず、京で浮舟を囲う邸を造らせていた。

  正月上旬、匂宮は二条院を訪れて、中の君宛てに贈り物が届けられるのに出くわす。女童(めのわらわ)の言葉で宇治からの進物と知った匂宮は、最初は薫からのものかと疑うが、添えられた文を見て、あの夕べの娘からのものと感づいた。匂宮は出入りの漢学者で薫の内情を知る大内記・道定に聞いて、薫が宇治に女を囲っていると知り、それこそ中の君に縁のある例の夕べの女ではないかと推理する。

  推理の当否を確かめたい思い、薫の相手への興味、妻の中の君が薫と共謀して何やら隠し事をしていたらしいという苛立ちが相まって、匂宮を駆り立てた。
  匂宮は除目で薫が多忙な日を狙い、道定や乳母子の時方らを共に宇治を訪れた。応対に出た女房・右近には薫の声色をまねて騙し、まんまと浮舟の寝所に忍び込む。浮舟は薫でないと気づくが、匂宮は抵抗もさせず激情のままに浮舟を我がものとした。

  姉・中の君の夫との関係に泣くばかりの浮舟。また匂宮も、想いは遂げたものの、またいつ京から宇治までやってきてこの恋しい女に逢えるのかと思うと泣けてくる。共に泣きながら、その涙のすれ違う二人だった。
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受領の妻、娘という疵

  紫式部は、父が越前守として下向したので、受領の娘である。だが「源氏物語」は、明らかに受領層を蔑視している。それは近親憎悪とも思えるものだ。都中心の価値観が徹底していた平安中期、国守として地方に赴いた受領たちは、どうしても雛イメージを免れず、見下されたのだ。

  「源氏物語」最後のヒロインである浮舟の継父(実父は八の宮)は、典型的な受領で、陸奥守と常陸介(国司の実務上の最高位は常陸介)を歴任している。都から遥か遠い東国に長年暮らしたせいで言葉は訛り、万事田舎臭くて美術を見る目も音楽を聞く耳もない。しかし財力はあり余っていて、婿候補の少将に対して継父は「大臣になりたければ資金はお任せあれ」と言い放つ。そうした継父に育てられたために、浮舟は琴が弾けない。また薫が宇治で初めて浮舟を垣間見たとき、周りの女房が二人して栗のようなものをぽりぽり食べる様子に、薫は思わず腰が引けたほどだった。

  浮舟以外でも、「源氏物語」に登場する受領の妻や娘は、軒並み強い田舎臭を放っている。例えば「空蝉」巻に登場する伊予の介の娘・軒端荻(のきばのおぎ)だ。継母の空蝉が公卿の出身で、不器量ながら慎み深いのに対して、軒端荻は胸もあらわに装束を緩め、行動にも落ち着きがない。空蝉を目当てに光源氏が寝室に入り込んでも気づきもせずだらしなく眠りこけ、目覚めては光源氏の甘言にころりとだまされて、何の警戒心もみせぬという愚かさである。
  また、「常夏」巻に登場する頭中将のご落胤・近江の君は、母が近江守あたりの娘で宮仕えに出、頭中将と知り合ったと考えられている。自他ともに認める早口と下品な言葉遣いで、周りは並行しているのに本人は悪びれず、双六に熱中する。
  明石の君は、明石で育ったとはいえ、父・明石入道の教育方針ゆえに都の上臈並みに教養が高い点で別格だが、やはり光源氏からは侮蔑され、本人は田舎育ちを卑下し続け、お腹を痛めた娘を紫の上に預けなくてはならなかった。「源氏物語」において、受領層であることは、かくまでも<疵>なのである。

55- 平安人の心 「東屋: 浮舟を訪う薫」

2021-08-15 09:12:05 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  浮舟を所望する薫の申し出に、浮舟の母・中将の君は困惑し答えあぐねていた。浮舟は母の連れ子として受領である義父に育てられ薫とあまりに身分違いであるうえ、正妻のいる薫に娘を委ねるのは、自己の体験からも不憫に思えたのだ。
  中将の君は、かねて浮舟を望んでいた左近少将を浮舟の相手に選び縁談を進めた。が、受領の財力目当てだった少将は浮舟が常陸介の実子でないと知ると意を翻し、薄情にも浮舟とは父親違いで常陸介の実子である妹に乗り換えてしまった。

  中将の君は浮舟を慰めようと、浮舟の異母姉・中の君を頼り、浮舟の身を二条院に移した。だがそこで匂宮の他を圧する高貴さや中の君、若君家族の幸せそうな様子を目にすると、浮舟も貴人と結婚させるべきではないかと心揺らぐ。その思いは、二条院を訪った薫の姿を垣間見てますます募った。

  母が自宅に戻ったあと、浮舟は二条院で与えられた局にいて、浮舟を中の君の妹と知らない匂宮に襲われかけた。その場は凌いだものの、知らせを聞いた中将の君は心配を募らせ、浮舟を三条の小家に隠した。
  それを宇治の弁の尼から聞いた薫は、その仲介で浮舟の隠れ家を訪れると浮舟と一夜を共にし、翌朝、浮舟を宇治へと連れ出す。大君との思い出の宇治は、大君の身代わりである浮舟を隠し置くには格好の地だった。無教養な浮舟に物足りなさを感じつつも、大君に似た浮舟に薫は強く魅了された。
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一族を背負う妊娠と出産

  「東屋」巻、浮舟の母は、中の君・匂宮・若君家族の睦まじい姿を見て、心を騒がせた。これぞ玉の輿、我が娘・浮舟もあわよくば。そう思うと、夜一夜眠ることができなかった。

  中の君にこの幸福をもたらしたのは、妊娠と出産だ。匂宮を夕霧の娘・六の君に奪われかけるなかで、それはまさに起死回生の一発であった。また生まれたのが男子だったことで、日陰者だった中の君は一躍貴族社会に認められ、産養(うぶやしない)には公卿たちがつめかけた。

  さて、ことこの「妊娠」「出産」という物語要素については、平安文学における重要性たるや、近代文学とは比較にならない甚大さといってもかごんではない。人々は妊娠を男女の前世からの契りの深さを意味するものと考えていたし、出産はそれこそ家の繁栄に直結する大事だった。そんなわけで、平安文学には夥しい数の「妊娠」と「出産」が描かれている。

  この「源氏物語」宇治の中の君の場合、中の君の妊娠は、六の君と匂宮との縁談が本決まりとなった時期に重なる。中の君は零落皇族の娘で匂宮の単なる妻の一人に過ぎず、権力者の娘で堂々の正妻・六の君の前には、居場所を失いかねない。
  そこを救ったのが「妊娠」という切り札だった。だが中の君は、それを匂宮に突きつけたりはしなかった。食が細くなった中の君を見かねて、匂宮が「ねえ、どうしたの? 妊娠したらそんなふうになるって聞いたけど」などと聞いても、恥ずかしげにやり過ごすだけ、偉そうな「懐妊宣言」で六の君に対抗したりしない。このつつましさは、匂宮にも夕霧にも、また匂宮の両親にも好印象を与えたろう。計算か、偶然か、はたまた無意識の故意かは別として、彼女は懐妊という切り札を上手に使ったのだ。

54- 平安人の心 「宿木 後半: 薫、故大君に酷似の浮舟を垣間見る」

2021-08-14 09:46:05 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  俄に夕霧の邸から戻ってきた匂宮は、中の君に沁みた薫からの移り香に気づいて二人の関係を怪しみ、二条院にとどまった。これを聞いた薫は、慕情を抑えて中の君の後見に努めようと決心する。しかし時には文などで気持ちをほのめかしてしまう薫。中の君は困り果て、薫を遠ざけたい思いを募らせた。
  ある夕刻、訪ねてきた薫が「大君の人形(ひとかた)を作りたい」と口にしたことから、中の君は父八の宮の隠し子・浮舟の存在を思い出し、薫に明かす。薫は晩秋の宇治を訪れ、八の宮邸改築の指示を進める傍ら、弁の尼に聞いて、かつて八の宮が召人・中将の君を身ごもらせて母子とも棄てた経緯を知る。

  匂宮は、新婚の一時期こそ夕霧の娘・六の君に心を移したが、薫と中の君の仲を疑ってからは一転して中の君に執着し、傍を離れなくなった。業を煮やした夕霧は二条院に乗り込み、本妻の父として匂宮を強引に連れ去る。中の君は日陰の身の弱さを痛感した。だが二月に中の君が男子を産むと周囲は沸き立ち、明石中宮も産養(うぶやしない)を催すなど、中の君は一転して匂宮の妻と公認され、ときめく。
  一方、薫は裳着を終えた十六歳の女二の宮と結婚し、やはり華やかに祝われるが、内心ではまだ大君を想っていた。

  その夏、宇治へ赴いた薫は偶然にも浮舟を垣間見る。養父が受領という身分の低さながら、大君その人と見まがうほど酷似した雰囲気である。薫は心を騒がせ、さっそく弁に仲介を頼みこむのだった。
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平安式、天下取りの方法

  「源氏物語」は光源氏の前半生を描いた第一部以来、摂関政治のありようをリアルに映していた、宇治十帖にも確かに政治の陰はちらついている。その大きな一つが、夕霧の娘・六の君の存在である。夕霧はこの鍾愛の娘を、薫と結婚させたものか、匂宮と結婚させたものかと心を揺らす。そしてその根本には、何よりも夕霧の政治的計算がある。宇治十帖で最も政治家らしい振る舞いを見せるのが夕霧ということは明らかだ。

  「宿木」巻で今上帝はすでに四十五歳、即位して二十五年が経ち譲位の意志を口にしている。次代の天皇となる東宮は、明石中宮の産んだ長男だから、夕霧にとって甥となる。この<ミウチ>ということに、特別な意味がある。国史学者の倉本一宏氏によれば、摂関政治において権力は、天皇、その両親(父院と国母)、天皇の外戚(国母の実家)という三者によって掌握された。

  親子関係、また親戚関係という<ミウチ>の強い絆で結ばれた彼らの意志は、公卿たちの総意を領導し、政治は彼らの望む方向に進む。外戚とは外祖父に限らないということが大切だ。娘を帝に嫁がせ、皇子を産ませ、その皇子を幼くして即位させ、自分は新帝の外祖父として摂政・関白に収まる、という理想形は、貴族の誰もが望んだものではあろうが、おいそれと達成できることではなかった。
  新帝の祖父がいなくとも、その家を継いだ息子たちは新帝の<ミウチ>だから、権力中枢の一員である。夕霧はこうして、光源氏の布石のおかげで、東宮の時代を安泰に過ごすことができるのだ。

53- 平安人の心 「宿木 前半:匂宮、中の君の懐妊と夕霧の六の君との結婚」

2021-08-13 09:06:54 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  時は遡って薫が八の宮の大君を喪う前の夏のこと。今上帝の女二の宮の母・藤壺女御が急死した。十四歳になる鍾愛の娘の将来を今上帝は思い悩み、薫への降嫁を思いつく。薫は即答を避けたが、噂を聞いた夕霧は娘の六の宮の結婚相手を匂宮に絞り込み、動き始めた。それが原因で大君は中の君の結婚を悲観し、その年の十一月、心労で亡くなったのだった。

  翌夏、藤壺女御の一周忌後に、薫は女二の宮との結婚を承諾するが、心では故大君を追慕していた。いっぽう匂宮は、春から中の君と二条院で暮らす傍ら、夕霧の六の君との縁談が本決まりとなった。中の君は一心に不安に耐えるうち五月に懐妊したが、子を持った経験のない匂宮には確とは分からない。

  八月、匂宮の婚儀が迫ると、中の君を大君の身代わりと慕う薫は同情し、中の君を訪ってはしみじみと語るようになる。その月半ば、豪華な婚儀のもと六の君を本妻とした匂宮は、六の君の予想外の美しさに魅了されて夕霧の邸に入りびたりとなり、中の君からは足が遠のく。傷心の中の君は薫を頼り、宇治に戻りたいと相談し同行を願う。
  中の君に初めて気を許されたと感じた薫は自制心を喪い、ついに御簾の中に入り、添い伏す。だが懐妊の印の腹帯に気がひるみ、中の君をいたわしく思って自分を止めた。中の君をつらい目に遭わせたくはない。しかし後見に徹することもできないと、思い乱れる薫だった。
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火のこと制せよ

  「地震・雷・火事・親父」は現代の言葉。だが人の恐怖感は平安時代でもそう変わらない。人々は日頃から、「火危うし」とか「火のこと制せよ」、つまり「火の用心」と言い合っては気をつけた。人家が建て込む平安京では、火は容易に燃え広がって、被害が大きくなりがちなのだ。

  「源氏物語」宇治十帖を読むと、八の宮が京の邸宅から焼け出されている。また薫も、母・女三の宮と住んでいた三条の邸宅を火事で失っている。実はこの平安中期、火事はきわめて日常的に起きる災害でもあった。
  「蜻蛉日記」(下巻)には、天禄三(972)年だけで三回も、火事のことが記されている。うち一度は、火元が作者・藤原道綱母の隣家だった。我が家とは土塀一つの隔てしかない。息子の道綱も、最近引き取ったばかりの幼い養女もいる。あわてふためき、作者は牛車で自宅へと急ぐ。四、五キロをやっとの思いで帰ったときには、火はすっかり鎮火していた。
  自宅は焼け残っており、胸をなでおろす。隣家の人々は焼け出されて、道綱母の家に身を寄せていた。聞けば、道綱が養女を避難させ、家の門をしっかり閉めるなどして、被害を食い止めたのだ。

  ちなみに、このとき道綱が家の門を閉じたのは、消火のためではない。当時の消火はもっぱら「撲滅」、つまり叩いて火を消すという方法で行っていた。道綱は火そのものではなく、火事に乗じた二次被害を防いだのだ。例えば、火事には野次馬がつきもので、押しかけた人により混乱が生じることがしばしばあった。
  また西山良平氏の調査によれば、平安京ではこのころ放火が激増していた。中には強盗が家を取り囲んで火を放つ事件もあったというから、火事場泥棒ではなく最初から強盗目的の放火である。道綱は、そうした凶悪事件のおそれもある火災から、父が不在で男子の少ない家を、懸命に守ったのだった。

52- 平安人の心 「早蕨:匂宮、中の君を京に迎える」

2021-08-12 11:41:43 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  姉大君を亡くした中の君のもとに、新春、山の阿闍梨から早蕨など春の山菜が届いた。昨春はこれを姉と共に受け取り、山寺で死んだ父を偲んだのだった。今年はそれもできないと中の君は歌に詠んで嘆く。その面差しは様々の物思いにやつれて大君に似てきており、気配などそのものと紛うほどである。

  同じく大君への喪失感の癒えない薫は、匂宮に思いを打ち明け、慰められてようやく立ち直る。そんな薫に匂宮が中の君を京に迎える計画を相談すると、薫は中の君を大君の形見と思っていると明かし、後見を続ける意志を伝える。ただ薫の胸中には、大君がかつて自分と結婚させたがった中の君への執着心が兆していた。だが薫は後見に徹し、中の君の上京の準備をこまやかに整え、出立前日には自ら宇治を訪れた。既に出家し宇治に残ると決めていた弁と共に、薫は世の無常を語らい、大君を偲んだ。

  二月七日の上京の途次、中の君は懐かしい宇治や大君の思い出から離れる憂いを感じていたが、京への道の険しさに気づくと、匂宮の訪れの間遠だったことが納得された。
  二条院では待ち受けた匂宮が中の君を寵愛する。この事態に右大臣・夕霧は苛立ち、我が娘・六の君(実は光源氏の乳母子惟光の娘)と匂宮との結婚準備をを進めた。渦中の二条院では、薫は心中に嫉妬と悔恨を抱きつつ中の君を訪ね、匂宮は薫に気を許すなと中の君を戒め、危うい均衡の上に身を置いて、中の君はあちらこちらに心を砕くばかりだった。
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平安の不動産、売買と相続

  実は平安時代でも、不動産の管理は人々が神経をとがらせることだった。「源氏物語」にもそうした例が散見される。例えば宇治十帖の舞台である宇治の八の宮邸は、八の宮と長女の大君が相次いでみまかった後、「早蕨」巻では中の君が匂宮の二条院に引き取られて、とうとう主なき宿となってしまう。こうした不動産は、その後どのように扱われたのだろうか。

  不動産は、売買されたり相続されたりして、所有者が変わる。平安時代の文書を集めた「平安遺文」には、現在でいうところの売買契約書にあたる土地建物の「売券」が数十点、収められている。それによれば、土地を売り買いする場合は役所に申請し、役所はその内容を確認して売券を作成した。
  そこには土地の所在や、建物がある場合はその詳細が記され、売る者、買う者、そして保証人が署名する。売券は二通作成され、一通は買った者、もう一通は役所が保管する。万が一、売券が火事で焼けたり紛失したりしたときには、申請を受けて役所が再発行することもある。平安の制度も結構きっちりしていたのだ。

  では、最初に触れた「源氏物語」の宇治の八の宮邸は、その後どうなるのであろうか。父と姉の亡き後、邸宅は中の君に相続された。だが「早蕨」の次の「宿木」巻以降、八の宮邸を解体改築しようと動くのは、おかしなことに薫である。他人の薫には何の権利もないが、中の君に提案して、邸をすっかり変えてしまうのだ。
  そこにはおそらく、薫の苦しみがある。八の宮や大君との思い出の邸宅、だが、だからこそ目の前からそれを、早く消し去ってしまいたい。改築の槌音を聞きながら、未練と諦観の間で、薫の心は激しく揺れているのだ。