沖縄の外人住宅等を調べていてヒットしたのが、
下記サイトの研究報告書です。
沖縄の外人住宅に関する研究
-その歴史的展開及び計画内容を中心として-
http://hdl.handle.net/20.500.12000/28477
小倉 暢之(琉球大学工学部建設工学科 助教授)
1993年(平成5年)6月
財団法人第一住宅建設協会、財団法人地域社会研究所
沖縄の住宅のコンクリート化を著しく早めた主要な要因について
記載された部分を引用しました。
1-6 民間住宅
1945年に殆どが灰塵に帰した沖縄では文字通りゼロからの出発であった。一般住民は、終戦当時は地区毎に収容施設で暮らしていたが、翌年から元の居住地へ帰り始め、軍の廃材等を利用したバラック住まいからスター卜した。また同じ頃、沖縄住民の統治のために設立された諮殉会では1945年8月から3年間にわたり小規模な戦災復興住宅を約73, 500戸建設した。これは一般に規格家(写真一6)と呼ばれる住宅で、米国産のツーパイフォーすなわち2インチに4インチの断面の材木を構造材にしたものであった。規格は母屋が5坪、これに約1. 3坪の台所を付加した一室住居で、全ての住宅が画一的に作られたところからこの名がある。骨組みはツーパイフォーでも壁と屋根にはテントや茅を用い、熟練工を要せず誰にも施工しやすいものであった。戦後復興期における規格家はその量において住宅問題の解決に大きな役割を果たしたといわれる。しかし、一方では規格家に用いられた大量の米国産材、特に米松類はその後の白蟻被害によって住宅のコンクリート化を推進する大きな教訓を残すことになった。
やがて50年代に入ると民政が安定し、応急住宅的なものから次第に脱して行き本格的木造セメント瓦葺き住宅へと変化する。公立学校や公共施設は1949年頃から一斉に木造赤瓦葺きで建設され始めた。しかし、一般民家への赤瓦の採用はコスト的に高く、普及は難しい状況にあった。翌1950年になると復興金融基金局が開設され、杉材等の材木、建材の輸入が自由化され、それまで建設資材の入手に苦しんでいた一般市民にとって住宅建設が容易になってきた。それまでの市民の住宅用木材は主に本島北部の国頭村辺りの森林から調達しており、明治山から採れるシイの木は垂木等に用いていた。そして輸入の自由化を迎えると本土から大量の杉材が九州方面から、そして1958年頃からは南方のラワン材が入ってくるようになった。しかし、一般住宅の中には全てを新しい材料によって建てるものもある一方で、廃品利用のバラック小屋も多くあった。例えば軍のスクラップヤードからの梱包用木材を解体して板材としたり、ドラム缶、穴空き鉄板や相包用アングルの再利用という方法は頻繁に行われていた。
こうした木造住宅は、やがて白蟻による深刻な被害を被る事になる。取り分け防蟻処理のしてない梱包用木材、米松等の白蟻の好む木材はたちまちの内に被害を受けた。この頃の経験から杉材は、比較的白蟻に強く、しかもコストが低いこともあって、その後の木造住宅における主要木材の一つとなっていった。
一般住宅のコンクリート化は50年代には既に始まっているが、多量に普及し始めるのは1960年前後あたりからである。その様子は図-3に示す那覇市における構造別住宅建設割合から窺える。60年代前半は、それ以前の木造やバラック等が含まれていて総数では木造がやや多いが、60年代後半になるとプロック造を含むコンクリート造が木造の倍以上を占める迄に増えているのが分かる。19 6 0年には新築住宅建設に占める木造と非木造の割合がほぼ同じになり、10年後の1970年には非木造住宅が9割を超えるまでになった。
そして復帰後には殆どの住宅が非木造すなわちコンクリート造住宅になってしまった。その理由としては、木造住宅には白蟻、台風といった深刻な被害が伴った事、そしてそれらを防ぐため行政側が住宅の資金融資において積極的にコンクリート化を推進した事が一般住宅のコンクリート化を著しく早めた主要な要因といわれる。
(中略)
木造住宅の白蟻被害については、前述の通りであるが、防蟻処理のない梱包材等の再利用材の被害は著しいものがあった。そして台風被害については、1949年のグロリア台風(瞬間最大風速64. 5 m/秒。復帰以前の沖縄では米国式に台風の名称を人名で表現していた。)、1959年のサラ台風、シャーロット台風(瞬間最大風速54. 2 m/秒。那覇市の5時間の降雨量557.7mm)、エマ台風(瞬間最大風速54. 4 m/秒)等が記録的な台風として有名である。また1959年10月に宮古島を襲ったサラ台風、そしてその後本島を襲ったシャーロット、エマ等の台風は家屋、農作物に甚大な被害を与えた。これにより時の琉球政府行政主席大田政作は台風による被害を受けない家屋と施設の設計方法について米国陸軍技術協会に協力を依頼した。これを受けて米国民政府、琉球政府、琉球建築士協会等が協力して被害調査を行い、結果を報告した。ここでは白蟻駆除と併せてコンクリート住宅を積極的に推進する事を提案している。こうした活動は広く全島にわたってコンクリート住宅の啓蒙活動に影響を与え、続く60年代からは、またたく間に住宅の非木造化が進むのである。
(中略)
ここで住宅建設資金の公的融資制度についてみると、主要なものには1950年から59年まで行われた琉球復興金融基金(略して復金)と、それを発展的に解消して設立された琉球開発金融公社(略して開金)があり、後者は1959年10月から本土復帰の1972年まで存続した。
(中略)
復金の貸出条件については、後の開金同様コンクリート化を明確にしており、年利6%は同じものの、木造よりコンクリート造の方が最高貸付期間が長く、195 5年には20年間とされた。更に自己資金も同年には15%に下がり、また制限建坪も6坪以上25坪以下であり、一般市民にとっては利用しやすい融資条件であった。続く開金も木造とコンクリート造では利率は同じものの貸付期間を15年、20年とし、さらに貸付限度を木造で2千ドル迄、コンクリート造で4千ドル迄とし、コンクリート造住宅に対する優遇措置をとった。その結果、今日に見る様に新築住宅の殆どがコンクリート造となった。このように一般市民住宅のコンクリート化については、戦後沖縄を襲った大きな台風の被害とそれに伴う行政側の強力な指導によるところが大きい。
(中略)
上記より、
大量の米国産材、特に米松類、防蟻処理のしてない梱包用木材の使用
による白蟻被害、台風被害、それらを防ぐため行政側の住宅資金融資の
優遇措置により積極的にコンクリート化を推進したことが、
今日の沖縄において新築住宅の殆どがコンクリート造となった理由が
分かります。
奄美市一戸建て木造の割合 99戸/101戸=98%
大島郡一戸建て木造の割合 133戸/143戸=93%
隣同士でこの違いは、沖縄の行政側の住宅資金融資優遇措置により、
積極的にコンクリート化を推進したことも理由の一つであることは、
初めて知りました。
また、まとめには「建築技術においても多くの技術者や職人が関わり、
彼等がその後の本島・離島での住宅建設に広く関わっていることも
コンクリート造住宅の普及に強く影響している」と書かれています。
なお、この研究報告書の中で、
「この頃の経験から杉材は、比較的白蟻に強く、しかもコストが低いことも
あって、その後の木造住宅における主要木材の一つとなっていった。」
とあります。
現代の建築技術は、台風は問題ないです。
しかし、米松など使用している木造住宅はないでしょうか?
我が家ですが、そろそろ、床下点検したいと思います。
小倉 暢之氏の下記の研究報告書も紹介します。
戦後沖縄の近代建築における地域性の表出
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/10987
平成18年3月