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あをまる日記

つれづれエッセイ日記ですv

海の天使⑤ 運命の王子セルジュ(前編)

2022-01-14 01:13:06 | 風と木の詩
「風と木の詩」というタイトルの「風」と「木」は言わずもがな「ジルベールとセルジュ」であり「詩(うた)」は物語冒頭で語られる通り、風がこずえを鳴らすざわめき。
双方が奔放な風にはなり得ず。双方が大地に根を下ろすこずえにもなり得ないからこそ、激しくぶつかり合って奏でた戦いの音。
互いが風でも互いが梢でも音は奏でない。
異質だからこそ惹かれ合い、同じ強さや誇り高さを持つ故に、理解し合えないまま「共鳴」の音を奏でる。
恋とは時にそういう残酷なものだ、という意味を含んでいるのだと思う。


オーギュがジルの実父だと知らされた直後、駆け落ちを決意したセルジュの「このままでは君の将来は滅茶苦茶にされてしまう」「自分の事なんだからちゃんと考えろ」
と、ここに至ってさえ自身の最愛の人に「将来」なんて概念が存在しない事すら理解していない台詞の噛み合わなさは、やたら不吉で。

「セルジュに君は守れない」というジュール(=ジルに対して作中最も正しい判断を下せる人物)の予言を聞くまでもなく、この駆け落ちの先にはすれ違いと破綻が待っていると分かる。

「自我のある者は裏切る」という信念のもとに教育され、愛に依存し、愛する者の命が尽きたら迷わず自分も死ぬ。生きるのはその為だけであるジル。
オーギュにとって「社会性」「自我」なんて生意気な物は穢れであり、裏切りの芽でしかない。だからジルは自分の人生で何を成しどう生きるか、なんて主体性は一切持っていない。

対してセルジュの愛は、オーギュとは違う「人間として至極真っ当な愛」である。
自分のものにしたい、という欲望や独占欲だけでなく、相手の幸福と明るい将来を願い、自分がいなくても強く幸福に生きられるようになって欲しい、自分よりも彼を幸福に出来る相手ならば、時に涙をのんで託す決心も出来る。
それは最初に真っ当な親がむけるべきだった愛。けれどそれは「ジルにとって何が幸福か」を理解していない、という事でもある不幸。



それでも作中で、ジルの「運命の人」と設定されているのは間違いなくセルジュ。
だからセルジュがジルの前に現れた時からオーギュは警戒をし始めるし、二人が並ぶと似合う、絵になると評されるシーンが学院でもパリでも数多く登場する。

寄り添う二人を「綺麗」と称えるセバスチャン。
リリアスというモブ美少年の容姿は「ジルベールの美貌には到底叶わない」とされるのに対し、セルジュは上級生たちに「魅力の双璧」「論じる価値あり」と言われる。

パリの酒場の女性客も「褐色のピアニストと美形のギャルソンが寄り添う瞬間」に眼福し(腐女子か?)
ボナールも凍えた冬の底で身を寄せ合う二人を「絵になっている、きれいな二人」と評する。

ジルを育て、美少年を見慣れてるオーギュすら、腕の傷を見せる為に片肌脱いだセルジュの姿に思わずハッと息を呑む。
その後ジルが見ている事を一瞬遅れて思い出し「わざと甘やかす」演技を再開するも、息を呑んだ瞬間のそれは素の感嘆であり欲情だったと思われる。

(マルセイユでのセルジュへの暴行しながらの残酷な笑みは、憎しみを伴った懲罰行為である反面、ずっとモヤモヤ抱えていた嗜虐的な欲望を果たした男のそれにも見える)

セルジュの魅力はオーギュの策略に煽られてセルジュを憎んでいる真っ最中のジルも認めている。
上級生達にリンチされた後、裸で倒れているセルジュをジルが見下ろすシーンでは、月光に照らされた裸身にキラキラとエフェクトが描かれ(その姿はジルの眼にも眩しい程だ、という意味の表現)オーギュが彼を美しいと評した場面がよぎる。
発作的にジルも衣服を脱ぎ捨て、鏡の前でセルジュと自分を見比べた後、セルジュの裸身に憎しみを込めて鞭を振るう。「自分の目にも美しいと思う」「彼ならば恋敵にもなり得る」という危機感を感じたからだろう。

かつてはそんな風にジルの嫉妬と憎しみを煽ったセルジュの美しさは、マルセイユでの夏休みが明けてからは、別の意味でジルを揺さぶるようになる。
セルジュは成長期を迎え、序盤のクリクリ目の可愛い作画から、ややシャープなイケメン作画に代わり、同学年で一番背が高く、浅黒い肌が一層凛々しさを際立たせていると同級生から羨まれるようになる。
物語序盤はジルが誘惑者としてセルジュをかき乱していたが、夏休み以降はジルの心がセルジュに傾いた事で一転、今度はセルジュが誘惑者となっているのが面白い。

(傾いた、というよりも夏の事件がオーギュとの絆にヒビを入れた事で呪縛が解け、既にセルジュに向かって動き始めていた心の歯車が加速した、という印象。セルジュを同室に受け入れた瞬間から二人の関係性はゆっくりと始まっていた)

ただジルと違ってセルジュの誘惑は無自覚なところが罪深い。
目の前で無防備に着替えるセルジュの姿に悶々とし、何の悪気も無く触れられては跳ね上がる。
かつては面白半分に誘惑し、精神不安定な時は抱いてくれと懇願もした相手なのに、一度友人として認め、尊重し、真剣に惹かれているからこそ、それも出来ない。

この時点でもう心は移っており、オーギュは既に思慕の対象ではなく、幼少期から続いた強烈な依存、逃げたいのに逃げられない呪縛でしかなくなっている。


それでもまだ「アンジェリンとの婚約発表」で揺さぶった直後、セルジュがまだ踏み出せずにいるうちに自ら引き取りにくれば、完全な支配は終わり、解けかけた洗脳と巨大なわだかまりを抱えたままであっても、結局ジルが「考える事」を放棄した可能性もまだあったろうが、とことん「優位な立場から操る事」にこだわった果てに手遅れになる。

駆け引きの為に無関心を装いながら、実際はロスマリネを通じて常に見張られ、陰で人を動かし、自分が望むそれとは違う形で絶対的に執着されている事。
実父である事も隠し、ペットとして育てあげられた事。
身を挺しても自分を守ろうとし、暴行され骨を折られ皮膚を焼かれても自分の身を案じる真っ直ぐな恋人(セルジュ)との時間を、物陰から権力づくで壊そうとする汚い大人。
手の内が全て割れ、手遅れになってから漸く学院にお出ましして、愛されたい帰りたいと望んだ時には散々勿体ぶっておきながら、もう触れられたくない相手に成り下がってからは意に反したセックスを強制されても、ジュールの言う通り「もう全てが遅い」


帰る場所を失いながら生きて来た故に「ホームシック」という感覚が無く、入学早々自分の家のように学院に馴染むセルジュと、オーギュの側に帰る事だけを望み、そこに居場所を作る気が無いから孤独なジル。

物語序盤、最初にジルの誇り高さに惹かれたセルジュが望んだのは「信頼し合う友人になる事」だった。
恐らくはオーギュの干渉がなければ、セルジュは自分の力で真っ直ぐそこに向かっていったと思われる。
そしてオーギュへの思慕は強固なものであろうと「信頼できる友人を持つ」という事が徐々にジルを孤独でなくし、そのまま放っておけば凄くゆっくりとしたペースでそこに居場所を作り、オーギュしかいなかった世界がは広がったろう。

愛を知らなかった白紙の幼子を大人の知恵で支配したオーギュとは違い、正面からぶつかり、嘘の無い形でジルに侵食したセルジュに知られて困る秘密は無い。
心を晒し、真っ直ぐに向き合う、という事の出来ないオーギュはある意味初めから負けている(だからこそ憎いし否定したい)

ジルが同室を受け入れ、オーギュの仕打ちから自傷行為無しで立ち直らせたセルジュをけん制する為に予定外の面会に現れ、ジルの前でわざとセルジュだけをべたべたと甘やかして嫉妬を煽り、ジルが自覚もしない程僅かに築かれ始めていた友情を壊し、上級生をけしかけてセルジュをリンチさせ、学院に居づらくさせたタイミングでパリの音大に推薦し、渡りに船とセルジュが乗ったら二人は完全に引き離せる。
引き離した後はアンジェリンとの話は断り、後は時々親切ごかしにパリに立ち寄り、ジルへの手紙に
「以前おまえと同室だったセルジュはパリで頑張っていたよ。お前も見習いなさい」
とか書いて、自分には会いに来ないのにセルジュには会っている事をほのめかす、という嫉妬用の当て馬にでも使って終了。
…辺りがオーギュの計画だったと思われる。

が、ジルに嫉妬と憎しみをぶつけられてもセルジュの心は折れず、リンチは予想より少々過激化して腕を負傷、リサイタルは失敗。
そして学院に居づらかろうともセルジュは「差し出されたチャンスに飛びついて逃げる」という選択をしない強い少年であり、ジルにどれ程嫌われ、憎まれていようとも自分の情熱は彼に向いていると認め「大切なのは情熱だ」と即答で辞退。
そう、少しも迷わない即答の辞退である。ジルと人生のチャンスを天秤に掛けて「少し考えさせて下さい」とすら言わない。
人間の利己的な部分に付け込んで人を思い通りにして来たオーギュがここで「彼は手ごわい」と感じる。
(そして、セルジュがそういう人間でなければオーギュには勝てず、ジルの運命の人にはなり得なかったろう)

そして、オーギュがマルセイユに引き上げる際の最後の置き土産。
やっと会えたのに飢えと嫉妬に苦しめられ、上級生の間で体を滅茶苦茶にされながらやっと耐えているジル(無論オーギュは全て把握してるだろう)がボロキレのようになって眠っている間に、セルジュにだけ別れを告げて学院を去る。

関係を一層壊す為のこの置き土産爆弾もまた、セルジュの変わらぬ優しさと情熱によって逆に作用し、引き裂くどころか、ここから急速に二人は仲良くなってしまう。
こうしてオーギュ得意の「陰からの画策」はことごとくセルジュの「正面突破」によって逆効果になってゆく。

そして夏休み。彼らをただこのまま二人で置いておけば、遠く離れているオーギュの居場所にセルジュが徐々に侵食しただろう。
ジルは何年も学院で孤独だったからこそ「飢えさせる」事は呪縛の強化につながり、風邪で気管支をやられれば苦しみながら「止めてオーギュ、苦しい」とここに居ない相手に縋る、その心細さもまた強い思慕に繋がるが(こういうトコ、本当にグロテスクな親だと思うよ;)

その手を握って咳を止めてくれる、どんなに突き放しても自分を心配してくれる。
そんな存在が傍にあったら、突き放し飢えさせ続けるのはもう逆効果、放置プレイは今後セルジュの有利にしか働かない。(遠距離恋愛中の恋人が甲斐甲斐しく尽くしてくれる身近な異性に奪われた、なんてよくある事だし)
となればもう、連れ戻すしかない。
(この咳を止めるシーンは、セルジュが今後、ジルの中のオーギュの居場所を侵食してゆく事を象徴している場面だと思う)

「このまま長く続けば、やがて離れがたい絆で結びついたかもしれない、二人だけの夏休み」は強制終了し、二人はマルセイユへ向かう。
二人を引き離すだけならジルだけを連れ戻せば良いものを、オーギュはわざわざセルジュも招待し、彼に自分との関係を見せつけ宣戦布告する。
「君には渡さない」
「他の誰にも代わりは出来ない。私はこの世でただ一人の彼の相手」
と、煽る煽る。
渡さないも何もこの時点でのセルジュはオーギュから奪う気も、友人以上の関係を望む気も無かったのに。
オーギュはその言い草とは裏腹に、彼こそが過去編のラストで自ら予言し、寄宿学校にて、共に青春を過ごす大勢の少年達の中からよもや現れはしないかと警戒し続けた「私から奪い取る者」
親を含む大勢の大人たちから見捨てられていたからこそ手に入れ、支配者となった自分から救い出す「運命の王子」と見做して対峙している。

だからセルジュにはマルセイユに呼びつけた上で「敗北を認め」「自らジルを見捨て」「自分から退場」させたかった。

かつて「御気の毒なオーギュスト坊ちゃま」に同情しながらも、保身の為に助けなかった老執事。
彼はその事を気に病み、ヨヨヨと泣きながらも「ジルベールを私の支配から救い出し、自分の孫として育てるというなら止めないぞ」と言われれば、結局「いや、私は使用人に過ぎないので…」と逃げを打ち、大きなリスクを冒してまではどちらにも関わらなかった。
(「今度こそ過ちは繰り返さない、救えなかったオーギュ坊ちゃまの償いの為にもジルベール坊ちゃまを救う」と言う返答をするなら、それもまたオーギュの救いになり得たんだろうけど、そうしない事も分かってるんだよね。この老人は罪悪感を抱いているようでいて、例え時が遡り、オーギュスト少年が引き取られた日に戻れたとしてもやはり保身の為に同じ選択をする人間)
自称親友どのも同じ。オーギュの教育がまずいと知りながら、自分の利益を優先して幼いジルを見捨てて行った。

自分がジルの「世界そのもの」になれたのは「どんな思惑が元であろうと、自分が初めてちゃんと関わった人間だから」だと理解している。
だからセルジュには彼らと同じように、自分の人生を優先させ、ジルを見捨てて立ち去るべきだと考えた。
大人の知恵で支配した自分と違い、真っ直ぐ向き合い、戦い、同じ青春の時を過ごし、そして自分の利益よりもジルを選び、迷わず手を取れる人間。
そんな者は居てはいけない。お前も自分を守る為に見捨てて去れ、お前は王子じゃない。そんな者は居ないのだと自ら証明し、私とジルベールの人生から消えろ、と。

「正統なる王子様」を怖れ、慌てて引き離したという屈辱、敗北感を払拭する為に。



海の天使 (その4) 天使の城の魔王

2015-08-25 10:48:16 | 風と木の詩
オーギュとセルジュ。ジルベールが愛した対照的な二人は人生の出発点から間逆である。

オーギュは恐らくは生みの親に捨てられたのであろう孤児。大富豪の養子として引き取られるも、実は異常性癖を持つ跡取り息子の玩具として買われただけだった。
その義兄も散々自分を弄んだかと思えば妻に心が移ればあっさりと捨て。密かに恋心を抱いた女性も実は自分を嫌っていてあっさりと裏切った。

そうして生まれた不義の赤子(ジルベール)の両親は、発狂して自分の子を投げ捨てる女(アンヌマリー)と、どうでもいいと背を向けた男(オーギュ)

その子供に偶然再会してみれば、大人達に遠巻きにされ、躾すら受けていなかった。
誰のものでも無い見捨てられた子供なら、自分を崇拝する忠実な猟犬に出来ると思いつき教育を始める。という、どこにも絆や真実の見えない始まり。



一方身分違いながらも運命的な恋に落ち、命懸けの駆け落ちで結ばれ、一生涯互いを敬い愛し抜いた夫婦間から生まれたセルジュ。
生まれた経緯が数ページの回想で終わるジルベール編と対照的に、セルジュの重要なルーツである「父親の青春と恋」は過去編の多くを占めている。
(セルジュが誕生してから学院に行くまでの成長過程はジルに比べてかなりあっさりした印象だったので、セルジュ編ってジル編よりページ数少なかったっけ?と思ったけど同じだった。そりゃそうだ、こちらは父親の人生が学生時代からみっちり描かれてるんだもん)

愛とは互いを信じ敬い合う事だったセルジュに対し、オーギュは「支配関係を維持しない限り人は裏切るもの」という価値観を持った。


幼いジルから母親代わりだった毛布を取りあげ、代わりに自分が同じ部屋で暮らし、同じベッドで眠り、時に虐待に近い接し方をしつつも本気で接する唯一の大人(他者)としてジルの世界に踏み込み、自分を保護者と認識させた。
義兄がしたような、相手に嫌悪や怖れ、内心の反感を抱かせたままの支配でなく「精神の底からの絶対的な支配」を行う為。

表面的には、実験動物を眺める観察者のスタンスながら、そこまでして誰かを自分のものにしたいと思うのは真実愛されたい、絆が欲しいという激しい「渇望」から来るものに他ならない。
(しかし、野生児っつってもよだれベタベタでやかましいガキだったりしたら放置して消えたんだろうな。生まれつきの優雅で美しく、既にトイレトレーニングだの夜泣きだのの時期が終わってた上、メイドだの執事だのの揃った何不自由ない環境で、飯の世話ひとつせずに自分になつくように仕向けただけで育てた育てたうざいなぁという気持ちも無くはない)

ボナールが登場した辺りではまだ「冷たい観察者」ポジションを保ち、攫われた後も「見つからなきゃ諦める」とあっさりしているが「売ってくれ」と持ちかけられた時には動揺を見せている。既に愛情は芽生えているが、あえてそれに目を向けまいとしているような印象。

そして、パリでボナールから挑発を受け、ジルを決闘で取り戻すと決めた時「ジルベールは一生誰にも渡さない」という意志を漸く固める。
その姿を見届けたボナールは「奴は本気で自分の気持ちを認め向き合った。今度こそジルは大事にされる」と安堵し、愛する者の幸福を祈り見送る。

人攫いの児童強姦魔ながら、本気で愛し認めた者に対しては「幸福そうな笑顔が見たい」「喜ばせたい」というごく真っ当な感情しか持たないボナールにとって「本気で愛する」とは「大切に慈しみ二人で幸福に過ごす事」以外の何物でもなかったが、実際にオーギュが取った行動は間逆で、ジルのその後にあったのは、牢獄のような長い学院生活と、遠隔操作による壮絶な精神的虐待。

「支配」という繋がりには当然優位性が必要。愛し執着するという事は自分もまたその分だけ支配される事でもある。
裏切られる結末ばかりを怖れて真っ当に向き合わない臆病さは、常に愛の対象とマウントの取り合いになり、まるで勝負し続けるような関係を生む。
ジルベールに心を支配されていたからこそ優位に立つ事、敗北しない事に拘り続けたのかもしれない。

オーギュが義兄ペールに出した条件
「海の天使城を『自分が生きているあいだだけ』貸し与える事」

自分の一生の住まいにする、というだけの意味なら「生きている限り」あたりが妥当な言いまわしだろうがあえて、順当に行けば自分が老いて死んだ後に残される筈の息子、ジルベールの為の住居や財産は必要ない事を強調。
それは自分が死んだ時に迷わず後を追わせるという決意表明。

「一生涯自分だけを信じ愛し、保護者の愛に縋る0歳児の精神のまま、他に自分の世界を広げさせず、成長させず、未来の夢や新たな興味や信頼出来る友人が出来るような社会性は持たせない」と。

そして全身全霊で自分の愛を求める存在で居させるには「満たされない事、孤独である事」も恐らく必須。(ペットの狐を救う為に命を顧みずに猟犬と戦った純粋さは孤独故でもある)

自由な小鳥を飛べない人間が一生涯繋いで置くには、決して逃げられぬ頑丈な鳥籠が必要だ。
常に逃げられぬように見張り、籠の普請をし続けなければならないから、小鳥と慈しみ合ったり楽しく過ごしたりしている余裕など無い訳だ。


自分はかつて赤子だった彼を見捨てて去った実父であり、再会した時も動物実験のように調教する事を思いついただけ。
愛に飢えた幼児の白紙の心を、実に計画的に洗脳し手懐けて手に入れた事は自分が一番良く知っている。
(ただ、冷たくして怯えさせるような序盤のやりかたには個人的にピンと来ない。あれでは「突然現れた怖い大人」として嫌われるだけの気がするし。自分を守ってくれる保護者と認識させるには「温かく接し安心させ信頼させ依存に持ち込む」のが妥当じゃないの?)
そんな形で築かれた関係の中で、いざ自分が本気になったところで、引き返して「真っすぐ向き合い、相手を信じる」なんて道を今更選べる訳も無い。
そんな道を選べるのは、初めから真っすぐ向き合って来た者(セルジュのような)だけなのだ。

だからボナールが提案したような「どこかに引きこもり、お互いだけを大事にして暮らす」という選択はオーギュには出来る筈も無かったんだろう。


3歳のジルを「思い通りに教育しよう」と思いついた時点でのオーギュは「外界の常識から切り離された子供が将来どうなるか」といった事には無頓着だった。
「世間に適応出来ない子になったらどうするつもりか」という老執事の問いへのオーギュの答えは「世間など汚いだけだ」と答えになってない。
要するに「後の事などどうでもいい、知った事じゃない」という事だろう。
見捨てられた子供を洗脳教育の実験体にしただけで、守る者が居なくなった後の人生に対する責任や覚悟など持つ気も無かったのだろう。

そしてボナールとの決闘を経て本気で向き合う事になって取った方法がこれ。
こういう形で「ジルベールの人生全てを引き受け責任をとる」と決めた訳だ。


しかし、人の愛や誠意を信じる縁の無かったオーギュの人生にも「永遠の愛」はちゃんと存在した筈なんだよね。
他ならぬ「自分自身の中」に。

一生涯を支配する、とはつまり、自分もまた相手に一生の愛を捧げると言う事。
ジルベールへの自分の愛に、一生の確信を持っているという事だから。

それでも相手を信じ慈しみ合う道を選ばず、遠隔操作で虐待し続けた魔王は、その結末がどうであったにせよ、相手の幸福を望み、笑顔を見たい」と望んだ真っ当な王子の愛にジルを奪われる罰を受けるべきだったとしか思えない。

相手を信じる勇気から逃げ「狡猾な大人と精神面0歳児の子供」というハンデを散々利用して計画的に精神支配と虐待する事を選んだ奴の思惑通りの人生になるとか胸糞悪いし。

それに、「自分が駆け落ちに協力したのはオーギュが必ずジルを連れ戻すだろうと思っていたから」というパスカルの台詞を見るに、オーギュはジルを「連れ戻せなかった」のではなく「連れ戻さなかった」のは明白で。
(二人への嫌がらせの為には散々使ったマスコミを、ジルの捜索には一切使わなかった)

意図的に外界で生き延びられぬ子供を育て、その生涯の責任を持つと決めたなら、彼を「守る為に」だけでも連れ戻すべきだったろう。

「守る大人の居ない見目好い子供」が世間でどんな目に遭うかを身をもって知りながら、更に最低の処世術すら与えなかったのは自分だ。
ジルの悲壮な死は、責任者が責任を取らなかった結果なのだ。

続編「神の子羊」によれば「セルジュが悪い~セルジュがジルを殺した」と日記でぶーたれてたそうで(こっち未読だけど;)オマエ結局反省せんかったんかい;と。
やっぱりコイツ苦手だなって思う。


海の天使 (その3) ジュール

2014-11-15 10:11:21 | 風と木の詩
ジュールとロスマリネといえば主人公達とは別に、二次創作界隈で人気の高いペアらしい。
個人的にはあまり興味が無かったが。いや、ジュールは好きなんだけど、どうもロスマリネに感情移入出来ず…
理由は単純で、ジルベールを嫌うロスマリネがとにかく彼に残酷に当たるシーンが多い事。

その中で特にアレなのが学院編後半、ジルとセルジュが晴れて結ばれ、恋人同士として幸福な時間を過ごすようになった時
「一刻も猶予もない、すぐに二人を引き離しジルをマルセイユへ送り返せ」というオーギュの指令を受けたマリネの「残忍なサディストの生徒にジルを連日集団暴行させる」っつー行動がな、もう…;

そりゃ諸悪の根源はオーギュだけど、あんただってたった一回レイプされた傷がトラウマになってんのによくそんな真似出来るよなー、と苛立った。

あとはまぁ、単純に好みの問題で、金髪線の入った縦ロール長髪+感情の分かりにくい目元の描き方(本人の感情表現は豊かなんだけど)と、分かりやすく「美形脇役」の記号が揃ったキャラデザのせいもあるか。
といってもあくまで「微妙に感情移入出来ない」程度で嫌いという訳ではないのだが。
(そういえばロスマリネって作中では唯一ジルに次ぐ美少年枠なんだよな。ジル以外で「綺麗」と言われ、ボナールに口説かれてるのもこの人だけ。セルジュは「少女と見まごう」ってタイプとは違うし、学院編終盤辺りではもう美少年つーよりイケメン枠に移行してたっぽいし)

自分の指令に対するマリネの実行方法を、オーギュがどこまで把握&許容してたのかは明確にされていないが、マリネもそれまでのオーギュの歪んだやり方を見てるからこそ、あれでいいと考えたのだろう。
ジルとセルジュが結ばれ、完全に自分から心が離れてしまった後、オーギュはマリネを総監から降ろすが、それはあくまで「手際の悪さ」への処罰。
ジルを支配出来なくなった自分の不利益が問題で、非人道的な手段によるジル当人の苦しみなぞは当然無関係だろう。まぁジル本人にバレなきゃOKだったんじゃないのかな。

あの状況はそもそもマリネの手際以前に、オーギュのセルジュの存在への対処がとことんジルの精神をいたぶる、ストレスをかけて自虐に追い込む、という陰湿な方法の全てが裏目に出て二人の絆が育った結果だし、そこで省みるべきは「自分のやり口」であって「マリネの手際」ではない筈。(自分が実際にやっていた事がバレた結果の破局ならそもそもお前が悪い#)

ジルがオーギュに手の内がバレてる事を告げる台詞。
「もう駄目だよ、そんな脅しに セ ル ジ ュ は 乗らない」
これは自分への仕打ち以上に、愛する人(セルジュ)を恐ろしい暴力にさらした事への嫌悪だろう。
あくまでも陰から他者を動かし人を弄ぶオーギュのやり方と、命をかけても自分を守ろうとするセルジュの誇り高い愛と、一連の出来事の中でどれだけ隔たりを感じたか。

初めからオーギュの小飼いがジュールなら遥かに人道的手段にて何もかもスムーズにいってただろうなと思う。ジュールはマリネと違ってジルに好意的だし。
(そしてマリネとは逆にセルジュにはあんま好意的じゃないんだよね)

セルジュの存在自体がジルにとって、つまりオーギュにとって危険だという事もよく分かってたし、もっと早い時期からオーギュのささやかな不興なぞ怖れずに「彼に小細工はききません、手遅れにならぬうちに今はジルを早く学院から引き取る事をお勧めします」と冷静に言ってたんじゃないかと。
ジュールが冷静でいられないのはマリネ関連だけみたいだし。

「オーギュは誰よりジルを理解している」
はジュール当人のモノローグだけど「好意的ではあれど別に惚れてはいない」立場故に恋愛当事者であるオーギュよりジュールの方が遥かに冷静にジルを理解していると思う。
(ジュールはオーギュのようにジルの養育者でもないのにジルとオーギュをを完璧に理解してる辺り凄いんだよな)

完全に心がセルジュに移ったジルを見てジュールは
「マルセイユに帰すべきだと思っていたがもうここまで来たら手遅れだ」
と理解出来るが、オーギュは当事者故にそれが見えない。だから
「何だかんだ言ってもジルはまだ自分に惚れている筈、一番絆があるのは自分の筈だ」という願望や自惚れに振り回される。


二人を引き離す為の大義名分である「同性愛疑惑」についてのオーギュとジュールの会話。

「セルジュがそれを認めるか?」(カムアウトして闘う?出来るか?重大な不利益や白い目を被ってまで闘えると?)
「セルジュはそういう子です」(あんたが出来ない人種なのは知ってるけどセルジュは出来るんだよ残念ながら。いいから潔くそこを利用しろ)

で明らかにオーギュを苛立させているが、その苛立ちも織り込み済みのジュールの冷静さ。
オーギュが口では「世間など汚いだけ」と見下しながら、その「世間体」「名誉」を絶対に切り離せない弱さを抱えた人間である事と、自分の意思と誇りを貫こうと出来る強さ(セルジュのこれはある意味ジルと同じ種類のもの。だから二人は共鳴した)を持つ者への劣等感を常に抱えている事。
そして苛立とうともオーギュならば自分のアドバイスが的確である事を理解し採用するだろうと言う事も。

セルジュへの危機感に本気で対処するなら、まだ自分への依存心が残っているうちにとっとと学院に乗り込んで強引に連れ帰るべきだったし、パリに逃げた後はセルジュやジルへの嫌がらせにばかり散々使ったマスコミを、二人を連れ戻す為にこそ使うべきだったろう。
(連れ戻せなかったのではなく連れ戻さなかったらしい事は、以前どっかで見た竹宮先生のコメントで確信。)

ジルはセルジュと結ばれてしまい、自分にはもう明らかに拒否反応を見せているのに、学院内でジルを犯してしまう辺りは自惚れ故の行動だろう。
「孤独を抱えているからこそ愛だけを至上とし、迷わず命をかけて人を愛する」
ジルがそういう人間なのを理解していて、そのままであれという教育を施したのは自分の筈なのに、その愛の対象であるセルジュからセックスで取り戻せると思った事。

セルジュとマリネに対しオーギュは(かつて幼い自分がそうされ来たように)セックスを「恐怖、恥辱による支配の最終手段」として使っている。
(マリネが襲われたシーンの回想でオーギュが「私を牛耳ろうとした事を後悔しろ」と言ってたけど、あれは「ジルベールとの関係」を察してそれをネタにオーギュを脅そうとしたんだね。んでワイン飲みつつまぁ今後のお話でも、としゃれ込んだらあっさり一服盛られたと)
学院でジルを犯すシーンの描き方もセルジュの時に負けず劣らずのホラーテイストになってるけど(あれは犯されるジル目線の描写なので)あれは別にセルジュ、マリネの時のように「生意気だから意志も尊厳も踏みにじって思い知らせてやろう」的な意味では無論無く、幼少から育て上げ、当人曰く「他の誰にも代わりは出来ない、この世で只一人のジルの相手」である筈の自分が一刻も早く抱いてぽっと出の青二才とのままごとから目を覚まさせてやらねば、って所だったんだろう。
「襖と夫婦はハメれば治る」精神で、幼い頃から愛(エロス)を体に教え込んで来たのは他ならぬ自分なのだから。と。
故に翌日ジルに「あんなに嫌だったのにオーギュに抱かれてしまった。この体をもう始末してしまいたい」と自殺を図られた時、自分とのセックスはジルにとってもうただの性暴力に成り下がっていた事を突き付けられて、内心大荒れだったろう。

ジュールは作中唯一、オーギュを完全に理解した上、自分の判断で、オーギュに味方している人。
「それは次期総監としての進言か?」という嫌みったらしい台詞の後に慌ててジュールを呼びとめて握手を求めるシーンでオーギュも理解している。
オーギュはジュールに対してだけは何も隠していない。

そして作中一番「全てを分かっている」ジュールの
「もうジルはセルジュのもの、もう全てが遅い」が、それでも「どちらかひとつの道しか無いのであれば、オーギュの元にいるべきだ。セルジュにジルは守れない」
というジュールの判断は「正しい」のだろうし、駆け落ち計画をオーギュに告げればジルは完全に自分を敵視する、と理解した上で、それでもジルが居る前で静かに告げたジュールはやっぱり唯一の賢人に見える。



番外編「幸福の鳩」で、印象的だったのが、ジュールと婚約者の関係。

ジュールは自分の結婚を没落貴族の自分と資産家の娘の打算的な取引関係と評し、婚約者を頭が悪い分悪意も無いから面倒のない女だと言い放つ。
彼女はロスマリネとよく似た髪と目の色をしていてそれも密かに実は気に入っている、とがあるが、ジュールはセルジュのように妻に「彼女自身が持たないもの」を何一つ期待していない。
その上外見がちょっとマリネに似てる事を充分評価している。

セルジュはジルベールの面影に捕われて、顔が似ているだけで、内面に何も響き合うものを持たないイレーネに多くを求めて失望し早々と家庭を崩壊させるが、打算的なジュールの結婚観の方が長い目で見れば遥かに良き夫、良き父で居られそうなのが皮肉である。

セルジュも「知的で情熱的なパットの内面」と「ジルに生き写しのイレーネの顔」を冷静に秤にかけて「それでもイレーネの顔の方が価値がある」と判断する男だったなら家庭崩壊にはならなかったろう。
無論出来ないからセルジュなんだし、そんな事の出来る男がこの物語の主人公になれる筈も無いのだけれど。


そして「最も全てを分かっている」ジュールがこの番外編にて「ジルベールは幸せだった」と言っているのが救いである。
ジュールがそう断言するのなら多分それが正しい真実に思えるからだ。


海の天使 (その2) 孤独な芸術家

2014-03-21 19:16:23 | 風と木の詩

まだJUNE本誌が刊行されてた頃に連載していた風と木の詩の続編小説「神の子羊」
竹宮先生の構想の中では初めから「ジルベールとセルジュ物語」と「ジルベール亡き後セルジュの生涯」の二部構成だったという事で、ストーリーの後半部分が小説になったものだそうだ。

無論当時興味を惹かれて連載中に読み始めたものの、本人達が直接出て来るのでなく彼らの子孫の話なのと、そこに描かれたセルジュのその後の人生は、漫画本編の強く真っすぐなセルジュ像からかけ離れていて何やら痛々しかったのとで途中で読むのを止めてしまった。
そしてその後図書館や書店で見かける機会も無かった為、今も読了出来ていない。
なので現在の私が知ってるのは物語序盤の基本設定とネットで拾い読みした幾つかの感想文からの情報程度です。

ちなみに私が把握しているのは

===============
舞台は「風と木の詩」から数代後の世代(孫かひ孫くらい?)
セルジュは作曲家、ピアニストとして後世に名を残していた。
ヒロインのフランは学生で、夏休みのリポートだか卒論だかの為に、音楽家セルジュ・バトゥールの軌跡を追っている。

他にはバトゥール家の子孫アンリとカールの子孫ヴィクトール、二人の少年が登場し、主人公はこの3人である(少年二人は途中恋仲になったりもするようだ)

バトゥール家に残されたセルジュの書簡や遺品を紐解いて行くと現れる「ジルベール」という謎の存在。
コクトー家の家系図にその名は無く、あるのはセルジュの懐中時計の中にある精密な肖像画と、書簡などに度々現れる名前のみ。

主人公達が当時の関係者の子孫を訪ねたりしつつ物語はミステリー仕立てで進む。
(ベートーベンの「不滅の恋人」を思わせる。激しい内容の恋文が残されているものの結局誰だったのか、何故その手紙は出されずにいたのか、解明していないらしい)

やがて明らかになる「風木」後のセルジュの人生。
セルジュが結婚したのは風木序盤、街でセルジュのピアノに拍手し去って行ったジルベールそっくりの少女イレーネ。
再会で一目惚れしたセルジュは彼女を妻にし、やがてジルベールそっくりの息子が生まれる。
息子を溺愛すると共に妻に無関心になり夫婦仲は冷え切った。
十年後セルジュはその息子をも置き去りにし、妻子を捨てて放浪の旅に。
最後はラコンブラード学院の音楽教授となり40代後半に死去。
なんかその間にも美少年を恋人にしたり色々やってたらしい。
芸術家としての名声は高かったが反面孤独な人生だった。

===================


↑まぁこんくらいです。

途中、夢の中で当時の人物達が続編の主人公達に語りかけて来たり映像を見せて来たり、というシーンもあったかと。
パットが万感の想いを籠め、心の中でセルジュへの愛を呟くシーンと(後に彼女は別の男性と結婚。パットを選んでいればジルを失った後にも真実の愛に満たされた幸福な人生への道はあった、って事でしょう)
夢に出て来たジルベールに主人公の一人が「オーギュの日記に書いてあったけど、君は本当にセルジュに殺されたの?」
と尋ねたら「なんでセルジュが僕を?」という反応をされ、かつて言葉に出来ない程の深い時間があった、と告げられるシーンがあるのも見た。


最終回の後パットと結ばれなかった、という部分だけでもう相当痛々しい;
聡明で情熱的で、セルジュと共鳴出来る知性を持ち、ジルとの一連の出来事と傷全て理解し受け止められる女性。
自分の中であの悲痛なラストの一縷の救いは「この後の人生はパットの愛が支えてくれるんだろう」という部分だっただけに。

でもセルジュがパスカルの家を訪問し大家族の団欒を見ながら、その風景を自身の未来とは遠い物のように感じ、孤独な未来を予感する、というシーンがあり、ジルそっくりの少女イレーネが登場してる以上、初めからパットとの未来は無かった訳だね;
(例え埋まらない空虚や傷を負っていてもパットと結ばれ家庭を築いたならば、彼が予感したような「壮絶な荒野のような孤独な未来」にはなりようがない。あと、まぁ恋愛対象でなかったにせよアンジェリンでもそう悪くはなかったんじゃないかと、少なくともイレーネよりは;)


そういえば「風と木の詩」におけるイレーネ登場シーンは妙に不可解だった。

この漫画には「無駄なエピソード」は他に全く見当たらない。
綿密な伏線で構成されており、登場人物同士の小さなやり取り、短い会話も過去の出来事や後のエピソードに繋がっている。

例えば「ジルベールの髪型」の話。
序盤でジュールがジルの短い髪に触れて「髪をお伸ばしよ、きっと綺麗だろう」と言うシーンがあるが、その後ジルの過去編ラストでオーギュに髪を切って貰うエピソードが出て来る。

ジルの髪が短いのは「別れの日、オーギュに切って貰ったそのままの姿で居る事」がオーギュへの愛と忠誠を示すもので、無論オーギュもそれは監督室から双眼鏡で眺めて知っていた筈。
ジルはセルジュを愛するようになってからその習慣を止めて髪を伸ばし始め、駆け落ち以降はかなり長髪である。

学院編終盤で、ジルの髪が長い事に気付いたオーギュが「髪を伸ばしているな」と(無論その意味も分かってるだろう)その髪に触れようと伸ばした手をジルがスッ、と身を引いて拒絶するという象徴的なシーンがあった。


だから「ジルベールと同じ顔の少女」が出て来る数ページのみが不思議だった。
「イレーネお嬢様」と、それとなく名前まで登場するのにその後一切出て来ない上、セルジュも一度たりと彼女を思い出さないまま物語が終わる。
だからたまに読み返したりすると「あれ、そういえばこんなシーンあったっけ。結局何だったんだろ?」と違和感を感じる程だったが、後のセルジュの嫁と聞いて納得。

彼女がこんな存在感のない描かれ方なのには勿論意味がある。
逆にセルジュとパットの出会いは鮮烈で、印象的な言葉が交わされ、パットはセルジュに恋してガラリと美しく変化して見せる。
そして後日、学院にやって来たパットを見たセルジュは頬染めて喜ぶ。

一方イレーネはセルジュのピアノに拍手し、優雅にお辞儀をして去って行くだけ。
二人の間に「言葉」は一切交わされない。セルジュも「ジルベールかと思った、彼の事ばっかり考えてたせいかな」と思うだけでその後全く思い出さない。
「神の子羊」にあるセルジュの書簡にも、アルルでのイレーネとの出会いを「その時の事を僕は覚えていないんだけど」とある。

凄く対照的だ。

つまり主人公セルジュにとってイレーネは「ジルと同じ見た目」以外何も持たない女性である、という事。
交わし合う言葉、内面や感性も、何一つ触れあえない人。
だから出会いの場面では言葉を交わさないし、当時はジルベール本人が生きていた以上、思い出す必要すら無かった人。

最愛の人を失くした喪失感を、姿かたちだけが似ている女で埋めようとして不幸な結果に転がり落ちてゆく展開は「ファラオの墓」にもあった。

明らかに不吉な恋だとパスカルが必死に思い留まらせようとするも、セルジュは耳を貸さず
「ジルベールとは違うあの屈託ない笑顔さえあれば何もいらない」「自分はイレーネが好きなのだ」と言い張る。

傍目には「不幸なまま死なせたジルの笑顔をもっと見てみたかった」という無念からの願望に過ぎないのが丸分かりだがセルジュは目を覚まさず、結果妻とはすぐに擦れ違いが始まり、ジルにさらに生き写しの息子が生まれた事で夫婦仲は完全に崩壊する。そしてその息子も捨てて家を出た、と。
(実の息子に何らかのヤバい感情を抱いたのが家出の理由ではないか、という読者予想をあちこちで読んだ)
母に見放され父にも消えられたその子もジルと同じ16で不幸な死を迎えたらしい。

夫としても父親としてもダメな男になっちゃってたんだね。うん、知りたくなかった;



パットは、セルジュがジルベールに出会わなかったら…という「if」ルートを握ってたもう一人の「運命の人」だったんだろうなと。

音楽家としての成功は「後世に残る」程でなくても才能に相応しくそれなりに成功しつつ、彼が幼くして失った「幸福な家庭」という故郷を伴侶と共に再び築き上げ、セルジュはアスランのような父に、パットはパイヴァのような母に、という風木本編のイメージのままのセルジュの「もう一つの未来」を抱いてた女性だったのだと思う。
(ジルとパットの会話は印象的で、ジルの美貌も喧嘩腰の態度も一切気に留めず「セルジュの親友なら私にとっても尊敬すべき人だわ」という振る舞い。ジルはジルでアンジェリンにもセバスチャンにも嫉妬はしないのにパットは特別な女性と直感しひどく警戒する)


そして人間離れした美しさを持ち、勉強にも音楽にもあらゆる方面で優れた才能に恵まれながら周囲に理解される事なく(そして当人も自身の才能自体に興味も持たず)歴史からも存在を消されたジルベールの資質は、世界にとって何の為にあったのか。
どういう必然の元にそんな少年が生まれたのか。
その類まれな美貌と才と魂は何だったのか、という問いへの解答が

「後世に残るものとなったセルジュの芸術」であり「彼の一生涯のミューズとなった事」なんだろう。

徹底して世間から隠そうとしていたオーギュの計画通りの人生をジルが送っていれば、彼の運命は「オーギュの個人的なペット」で終わってただろうし(当人にとってどちらが良いか、ってのは別の話だけど。あとオーギュも「彼を見た奴に己を省みてあぜんとさせたい!」とか言ってる割に、理解者が現れると潰しにかかったり、才能開花させる気も無かったり。それじゃ一体「誰が」あぜんとするんだか。「理解者」が多くいなけりゃ誰もあぜんと出来ねーだろ;つくづく矛盾だらけの奴だなー)
「風と木の詩」のストーリーそのものは、セルジュにピアノの才能が無くても恋愛物、青春物として成り立たせられる話だったと思う。
ジルベールに出会って喜び、苦しみ、その感情を音楽にぶつけ、曲を作り、才能が飛躍してゆくという描写が挟まれるのはジルが彼のミューズとなる物語、だから。
(ちなみに他の芸術家といえば詩人オーギュと彫刻家ボナールがいて作中では名声も富も得ているが、セルジュ以外は後世に名は残らなかったようだ)


番外編「幸福の鳩」で「未だ死んだジルベールに捕われ、その喪失を音楽にぶつけなければ生きていられないセルジュの姿」が少し描かれたが、凡人の身として「芸術に魂をぶつけなければ生きられない運命のもとに生まれた天才」「生涯かけて創造し続けなければならない命題」を背負った人間に憧れる気持ちは無いではない。

けど、「風と木の詩」で「わが梢を鳴らす風」、ミューズジルベールを失くした後の激しい喪失感の中の彼の人生を思うに、
生涯芸術に打ち込むべき運命というものは、これ程の孤独を背負っているのだ、と思うと羨む気持ちは薄れる。

凡人でいーや;



海の天使 (その1)

2013-12-15 01:23:39 | 風と木の詩
竹宮恵子「風と木の詩」は、三十年以上も前に発表された、今も色褪せぬ名作少女漫画である。
私の中で他のどの漫画とも別格の位置にあり語りたい事がやたら沢山あるので、今後それを少しずつ書いてゆく事にする。
ちなみに他の漫画や映画等に関しては一応読んだ事の無い人向けに作品解説を交えて書いていたが、このカテゴリ内の記事は全巻読破済みの人向けなのでネタばれもあるし、説明等足りない部分もあるかと思いますが御了承を。

まず最初は私が数年前から始めた「洋風建築の写真を撮る」という趣味にハマる理由となった場所『海の天使城(ケルビム・デ・ラ・メール)』について。
いつも心の何処かでこの城に憧れつつ撮り貯めた洋風建築の写真と共に語ってゆきます。


風と木の詩の舞台と聞いて多くの読者が思い浮かべる場所といえば、まず物語が始まる場所であるラコンブラード学院だろうか。
そしてもうひとつ挙げるなら作品世界を象徴する舞台でもあるジルベールの故郷「海の天使城」だろう。
作中でこの城が舞台となるのはジルベールの生い立ちを描く過去編と、オーギュに招かれてセルジュが訪れる夏休み編の二回。

「海の天使城」はその名の通り、マルセイユの海に面して建つバロック調(多分)の華やかな城で、周囲は外門、中門、内門で仕切られた広大な私有地となっている。
美しく整えられた豪華な庭園の外には、大理石の彫刻やギリシャ遺跡風の東屋が点在する深い森が続いていて、その広さは訪問客が外門でうっかり馬車を降りてしまうと延々城に辿り着けず迷ってしまう程である。
鬱蒼とした霧深い森の自然と優雅な城と幻想的な庭園、海までを備えた一つの閉ざされた世界。


この作者さんの特徴として、美しいもの、真っすぐで無垢なものを描く為にその何倍も醜いもの、残酷な現実を描いてそれと戦う姿を見せる、というのがある。
夢のようなものを際立たせる為、抗い難い現実の生々しい残酷さをこれでもかと描写し、美しいものの儚さを読者に焼き付けるような。
歪んだものを執拗に描くからこそ真っすぐなものが際立ち、徹底的に影を描くからこそ光に強烈な存在感が生まれる。

天使の如き美しさを持つ幼子が、世俗と切り離れ閉ざされた華麗な世界で無垢なまま成長する、という夢のような耽美世界は、それとはかけ離れた世俗と大人達のエゴイズムによって生まれた。

かつて海の天使城は大富豪の一家が住まう城だった。(だからその富に相応しくデカく作ってある)
が、その跡取り息子ペールは性欲を抑えられない性質で、好みの幼い男の子を捕まえては性犯罪を繰り返していた。
このままでは家名が傷つくと懸念した父親は最悪の対策を取った。
親の責任として何が何でも息子の行為を矯正させるのではなく「体面」「世間体」を第一に守る為、息子の悪質な性欲のはけ口にしても問題の起きない、つまりは「文句を言って来る大人や保護者の居ない」孤児の中から息子好みの子供(オーギュ)を選び出して養子として引き取り息子に玩具として与えた。
何も知らずにやってきた子供は屋敷に到着するなり義兄に犯される。(オーギュの顔を見るなり襲いかかる義兄の描写から見て、義弟が自分に買い与えられた玩具である事は事前に知らされていたようだ)

それからの長い年月、閉ざされた広大な私有地の中救いの手も無く、そこにいる全ての大人達に黙殺されながら義兄と、彼の友人であろう複数の「同好の士」と共にその仕打ちは行われ続けた。
やがて義兄ペールは美しい妻と政略結婚するが、相変わらず性的興味はオーギュのみに向けられ続けた為若い妻は腹いせに大嫌いなオーギュを誘惑、不本意にも一発必中で妊娠。そうして生まれた不義の子ジルベールは彼を産んだ母を始め大人達全てに疎まれ、家人達は全員赤子を置き去りにその城を逃げ出した。

家人が去った抜け殻のような城に捨て残された子供は扱いに困った従業員達に遠巻きにされ、衣食住だけは与えられたものの後は完全に放置されたまま育つ。
自分が生まれた理由も、子供は大人が育てるものだという事も知らず、広大な森と海の自然の中で動物を父と呼び、唯一自分を抱擁してくれる毛布を母と呼びながら野生児のように独りの世界を築き上げる。

家人に放棄されたとはいえ元々大富豪の本宅であり、従業員は大勢残されたままだから管理は行き届いていて常に夢のような美しさは保たれている城と庭。
(装飾過多な大邸宅や彫刻の並ぶ庭なんてもんは、それなりの人件費を使ってこまめなメンテナンスをしてなければあっという間に見苦しくなる。今まで撮影しに行った場所がメンテの甘さで廃墟化してた例は実際腐るほどあった。草花が伸び放題になれば瞬く間に建物を侵食するし、装飾が細かければ埃が積りクモの巣が張る。雨に打たれた彫像は黒ずみ不気味な姿に変わるもので;)
この辺の設定も良く出来てると思う。

そしてジルベールが11歳の頃、海外に逃げていたコクトー夫妻が帰国し、彼らの体面と都合の為に、ジルベールは守るものもなく世間に放り出される筈だったが、オーギュがコクトー家の過去をネタに莫大な金の動く取引を行った為ジルベールはオーギュの母校である寄宿学校へ入れられ、そして海の天使城は彼が(学院卒業後からオーギュが死ぬまでの)生涯を送る為の故郷としてそのまま保たれた。

全てを知る大人達の目線で描かれる「ジルベールの過去編」と
何も知らずに初めて訪れたセルジュの視点で描かれる「夏休み編」では、城の印象が結構違う。

過去編でも十二分に幻想的であり耽美的ではあるが、オーギュの過去を知る古参の執事や噂好きのメイド、野卑な清掃員、
時折訪れる社交界の友人や編集者など、大人の顔が良く見えたし世間の噂や声もよく描かれたが、夏休み編は多感で純粋な少年の目線で描かれるので一層幻想的でセルジュは「まるでおとぎの国だ」と素直に感嘆する。

過去編では5年ぶりにマルセイユに帰還したオーギュ一行を従業員達が玄関に勢揃いして出迎えるが、夏休み編でセルジュを迎えるのは見慣れぬ執事一人。
「夕食の支度で皆手が離せないので自分一人が出迎えた」と告げ、マルセイユでの日々は静かに始まる。

通常こういうシチュエーションならば、主オーギュが客人セルジュをもてなす「初日の晩餐」シーンが描かれるものだろうが、夏休み編で繰り返し描かれるのは光射す明るい食堂での「朝食」シーンのみで、過去編とは対照的に「人の気配が無い城」として描かれる。


過去編では、オーギュがコクトー家に引き取られた頃から仕えていた老執事が居たが、夏休み編では彼の姿は無く、存在感の無いモブ顔の執事と入れ替わっている。

夏休み編では、海の天使城という世界がもうオーギュの持ち物として完成されているので、彼のように一応の「顔と人格」を与えられた大人のキャラクターは既に不要であろう。彼はもう作中での役目を終えたのだ。
(二人が到着した時にモブ執事が出迎え、ジルベールに「お前誰?」と尋ねられるあのやり取りは「彼はもう居ないよ」と読者に知らせる為のものですね。ストッパーになりそうな彼が居るんじゃセルジュへの凶行も難しかったろうし、多分ロスマリネへのアレを実行した頃にももう彼は引退していたんじゃないかと思う)

例えばセルジュが訪れた時も過去編と同じよう従業員が玄関に勢揃いして二人を出迎え、メイドさん達が忙しく働く晩餐シーンが描かれたら夏休み編のイメージは随分違ったものになっただろう。
(普通に考えれば初日は3人で夕食を取ってる筈なんだし、夕食時に執事一人って事は無いだろう。静かなイメージ作りの為に描く場面を選んでるのですね)

過去編では海の天使城という世界の重い成り立ちが大人の目線で描かれ、夏休み編では既に完成したその世界を改めて、家具装飾や外の景色までを第三者の視点で幻想的に描き直す。
浮世離れした美しい世界が描かれる夏休み編が私は特に好きなのだ。
風と木の詩はほぼ全般、主人公達はオーギュお得意のモラハラ臭い駆け引きに苦しめられているが、ここではオーギュのターゲットがセルジュのみに絞られている為ジルベールは何も知らずただ楽しそうなのもいい。
…ただ、ここでのジルベールの幸せは
「愛する者を側に置いてお互い幸せ」的な真っ当な愛情から与えられたものではなく、あくまでオーギュの対抗意識、「俺がちょいと呼び戻して満たしてやるだけで、コイツは簡単に幸せの絶頂になるんだよ、そらどうだバーカバーカw」的な「別のターゲットに当てつける」流れで生み出されてるので、それはそれでイヤなんだけど;
(何しろ「こんなに簡単にいつでも出来る」事を「あえて」やらず、今までにジルベールを執拗に追い詰め、自虐行為に追い込んでた事が一層浮き彫りになるからね)


初めて訪れたセルジュが「おとぎの国」「神秘の巣」と呼んだこの城。
ただ夢のように綺麗だったから惹かれた訳ではない。
主人公達は何も知らないが、読者はその影にある世俗の深い闇を知っている。

おとぎの世界とはかけ離れた世俗の闇の上に築かれながら、世俗から隔離された幻想世界。
エゴイズムと憎しみの中から産み落とされながら世界の汚れに染まらない無垢な魂、ジルベールがまだ外界を知らなかった頃を象徴する地。

「光」と「影」が立体という存在感を作り出して、それが一層儚く美しい世界となって、30年経っても消えない憧れを生み出す。

それを自分の日常から切り取りたくて、私は今も自分の周囲の風景にデジカメを向けている。


竹宮恵子とか星新一とか(その3)

2008-03-16 18:02:25 | 風と木の詩
オーギュの何が引っかかるってまず独占欲がジルの「精神」以外の部分に及んで
いないらしいトコ。

基本的に「完全に独占したい程激しく愛している相手」にされて嫌な事の
一つが「他のヤツとセックスされる事」の筈なんだけどコイツはまずそー
じゃない。
寧ろ最愛の相手の美しい肉体を積極的に多くの男共にさらしまくる;
「そうせずにいられない」ように巧みな遠隔操作で精神をズタズタにする
事で。

相手の精神を生涯完全に独占する、っつー最終目的の為に「不本意ながら
致し方なく」愛しい肉体を何年も多くの性欲と暴力に晒さざるをえない、
という印象は全く無く
寧ろ常にほくそ笑み薄ら笑いを浮かべた姿で描かれるこの変態さんは生粋
のサディストの類にしか見えない;

だからか、マルセイユの夏休み編でジルとセルジュが打ち解けた様子で
キスしてる姿を物陰から睨んでる姿に何か不自然な「ギャップ」を感じた
んですよ。
通常確かにオサーンの自分から見りゃお似合いの美少年同士がキスしてる姿は
嫌だわな。
自分の愛する者が自分ちで他の男とキス、普通ならね。

それにこのオーギュってキャラにとって憎しみの対象になるのは
「自分が独占、所有すべきジルベールの『心』に踏み込む存在」であって
「セックスしたりレイプしたり痛めつけたり負傷させたり虐めたり侮辱し
たりした人間」ではないらしいってキャラ設定も分かる。

しかし心に触れた人間、触れそうな人間への警戒、憎悪に対して身体を蹂躙する者
への無関心。
それが不自然なギャップとなって映り、私にとって理解不能な苛立つキャラ
になってるらすぃ;
訳わかんねぇどっちかにしろ#みたいな。
(肉体への執着、も過去編ではうっすらとは描かれてただけに余計に学院編
でそれを完全に捨ててるのが引っかかる#)

まずセルジュと対照的なのは「相手を幸福にしたいとハナクソ程も思わない」
っつー点。
ジルの過去編で描かれたコイツのモノローグによると
「明るく幸福そうに笑う姿に魅力を感じない」「飢えて孤独な姿がなおい
っそう美しい」そうなので、基本的に「幸せにしたくない」んだろーなっと;

強烈なのは序盤の「手紙」のシーン。
えー確かジルがクリスマス休暇にオーギュが会いに(迎えに?)来てくれるの
を待ちわびていて、中々届かない手紙を今か今かと待っている。
実は手紙はとっくに総合監督生のロスマリネの手に届いているが
「この手紙は隠して置き必ず指定した日に渡す事、その方が喜びも大きいだろう」
っつーオーギュの指示により渡されない。
ようやく手紙が届いたという連絡に飛び立つ思いで受け取りに行く、待ちわび
た手紙に口付けを繰り返しながら歓喜し封を切ると
「用事が出来たので会いに行けなくなった、春には行くから待っておいで」
とあり、用事で出かけるという日付はまさしく今日のもの。
衝撃にジルの心はまたズタズタに引き裂かれる。

っつーエピソード
「その方が喜びも大きいだろう」っつー言い回しが一見
「プレゼントは誕生日当日まで内緒に」
的な真っ当な保護者っぽい所も強烈さ倍増です;;;;
無論正しい意味は
「ギリギリまで勿体をつけて楽しみに待たせ、絶頂から絶望の奈落に突き落とす
タイミングを狙え、その方がショックも大きいだろう」
な訳ですが。
(しかも自殺「未遂」止まりで済むように「春には会いに行く」と生かさず殺さず
のうっすらした希望は与えて置く、まさに「愛と思慕」を最大利用でがんじがらめ)
何この病的なモラハラ;たまったもんじゃねぇ;

例えば…自分を信頼し慕っている純粋な子供に「誕生日に遊園地に連れて行って
あげるし素敵なプレゼントもあるよ」とかいってひたすらギリギリまで期待を煽り、しかしハナから連れて行く気は無いので準備も予約もしていない、しかし子供
はわくわくと待ち焦がれているらしいのを物陰からニヤニヤ観察し、当日の一番嬉しい
筈の日を狙って全てダメになった、と告げて、ショックと失望で泣く子供を観察
したがる、苦しみを和らげたりショックを受け止めたりする友人が現れたら徹底的
にその子に嫌がらせをして排除…しかし我が子に酷い虐めや暴力を行う者は放置。
…そんな接し方を持って
「自分はその子を愛しているのだ」と言い張る親がいたら、恐らく精神科医とか
なら何らかの病名をつけると思われ(ナントカ性パーソナリティ障害とか何とか)


ジュールは「セルジュにジルは守りきれない、オーギュの元にいるべきだ」
という見解だけども…
悲劇的な結末を考えれば一応確かに正解だし確かに学院を逃亡した後の生活は
悲惨なんだけど…

じゃあ学院生活がジルにとって悲惨でなかったかと言われれば常に「不幸」
そのものだったじゃん;幸せだったのはセルジュと結ばれて満たされて過ごした
期間、オーギュの差し金で不良達による地獄の輪姦三昧の日々が始まるまでの
短い期間だけだったやん;

生かさず殺さず、どうすれば一番その心をズタズタに傷つけ、苦しめられるかを
熟知した人間(それがまた当人にとって最も愛し信じる育ての親;であり全ての
仕打ちはその純粋な思慕をトコトン利用したもの)に計算ずくで遠隔操作で痛め
つけられ、レイプされようが負傷されようが虐められようが高窓からニヤニヤ眺め
その代わり自分を理解し、側に居る人間やらが現れそうになったらソイツを
リンチしたり嫉妬心を煽って憎み合わせたりと信頼に足る友人一人作らせない。
こんな迷惑な「愛」もそう無いだろーて;

そういう変態に所有され続けるのと(既にその屈辱的なカラクリがバレ、
自分が定義する愛とはかけ離れた調教者と知った相手の下で)

純粋に(正しい意味で)自分と同じ誇り高さを持ち、自分を幸福にしたいと望み、
但しその力量及ばない青二才の元で破滅に向かうのと。

…別にオーギュの方がマシだったとは全く思えないんだよなー;
学院でもボロボロだったじゃん;麻薬こそ無かったけども暴力もレイプも侮辱も
あった。
まー「生かさず殺さず」主義の親父が物陰から見張ってたから一応「命」は無く
さなかったんだろうけども。

竹宮恵子とか星新一とか(その2)

2008-02-11 19:10:31 | 風と木の詩
今回の記事は
竹宮恵子「風と木の詩」と星新一「月の光」の結末に関わるネタバレ満載です、ご注意下さい。


星新一の短編、中編集「ボッコちゃん」に収録されている耽美的短編「月の光」
===================
医師である金持ちの紳士とその最愛の「ペット」の物語。
紳士の屋敷の前に捨てられていた混血の女の赤子、紳士は彼女を自分だけの理想のペットに育てる。
温水プールのある美しい温室に入れて自分以外の人間には一切会わせ外の世界も見せず言葉も教えずに育てた。
紳士は夜毎そのドームを訪れ、自分の手から食事を与えて慈しみ、幸福な夜を過ごす。
ある日紳士は事故に遭い、ペットの少女に食事を与える事が出来なくなる。
紳士に仕える執事は彼女に食事をさせようとするも彼女は自分の飼い主以外の人間を知らない上、言葉も分からない、そして自分の飼い主から優しく慈しまれながらでないと物を食べる事が出来なかった。
「愛」という副食物無しでは食事が取れない生物だったのだ。
紳士が戻れぬ間、日に日に少女は痩せ衰えてゆき、とうとう紳士が病院で絶命したその日、少女も美しいドームの中で静かに命を失っていた。
=====================

愛と優しさ溢れる美しい短編という評価、たしか小学生の頃読んだ後書きにもそのように書いてあった。

私はボッコちゃんに収録された他の数多い短編、中編ユーモラスで時にブラックな珠玉の作品をワクワクと楽しみながら他のショートショートとは違う特別な位置に置いた。
耽美的で悲しく、浮かぶ映像の美しい作品、中学生だった私は確かに強く憧れた筈だった。

私は何に憧れたのだろう?
「他に類を見ない素晴らしいペット」を所有する紳士になる事にか。
「それとも無垢なペットの少女になる事」にか。
或いは単に美しい植物と温水プールで出来た世界のビジュアルイメージにか。

いかにも少女の好みそうな物語ではあるが…
風木のオーギュに苛立った以降何故かこの紳士を思い出した。

双方とも美しい養い子を「自分だけを信じ愛する無垢な愛玩物」に育てる男。
そしてどちらも「子供の養育」に置いて一般常識から外れたかなり勝手で独特な美意識をベースにしその子(どちらもその子を「ペット」と呼んでいる)を「自分無しで生きられる人間」にする気が無い。

特に老医師の方は「人間は言葉のせいで汚れるのだ」っつー美意識の元、少女に言葉を一切教えず世界に自分以外の人間がいる事も知らせず閉じ込めて育ててるし。

ただ個人的にどちらがよりマシかと言うならばこの老医師の方かなと;
勝手な美意識から人間にとって重要な他人とのコミュニケーション手段である「言葉」を奪い「老」紳士である自分の手からでないと物を食べない人間、「食欲」という生存本能すら「愛」無くては放棄する人間にしたら少女の未来がどんなもんかは知れている;
たまたま思ったより早く事故で逝っちゃっただけでどちらにせよ自分の方が遥かに早く死ぬのだから。
養い子の未来や幸福でなく自分の望みの為の執着、ではあるが。
育て方においてはよりアレなんだけども…

しかしこの紳士の目的はただ自分だけを信じ愛する素晴らしいペットとの幸福な時間を過ごす事、というシンプルかつ(ある意味)真っ当な物。
だから二人の時間はひたすら当人同士にとって幸福な物なのだ。
愛を込めて食事を与え、自分の膝で甘えさせ髪を撫でて無垢なペットを愛でる。
紳士が「言葉や嘘で汚れた世間は醜い」っつー美意識を持ちながらもお偉い医師をやってたのも手を尽くして自分のペットの心身を「守る」為ではあったようだし、死ぬ間際まで「エサをやらなければ…」とうなされ続けた姿はある意味正しく「愛」ではあろうと。


オーギュも確かに「特殊な子供を守る為」とかゆってはいたけども;
コイツの「守る」はペットの「心」でも「身体」でも無い、寧ろそれは何年もかけてあらゆる手段を講じて可能な限り…「痛めつける」という方法を取っていたし;
(だからボナールが怒ったんだよな;惚れてるなら「愛せば」いいじゃんか、と)
誤魔化しの効かない素直な子供を育てた上に、「自分への愛」「思慕」を利用し尽して決して逃げぬように縛ってその剥き身の精神を極限まで滅茶苦茶に痛めつけるっつー執着;
コイツの「守る」はペット当人のあずかり知らぬ(決して知らせぬ、自分の方は自身の的確なモラハラが作用して自分を慕い苦しむ余り何度も自殺未遂や輪姦三昧で自分から滅茶苦茶になり続ける姿を見張り報告させて常にペットの思慕を確認して悦に入ってるがペットの方には絶対に「安心」を与えない、どんな手段を講じても、って奴で;)
場所で当人にとって実にどうでも良いであろう「世間体」から守ってるだけ;
それもペットの為でなく自分の為だから実質「愛」という基準に置いては指一本動かしていないかと;

竹宮恵子とか星新一とか(その1)

2008-01-27 01:13:48 | 風と木の詩
去年はTVアニメの「地球へ…」にハマり、同人活動を再開してたりした訳だが、
その影響か最近は他の竹宮作品について考える事も多くなった。

「地球へ…」と同時期に少女誌で連載されていた竹宮恵子氏の代表作「風と木の詩」
もう30年位前の作品な訳だが無論今も色褪せぬ名作である。

初めて読んだのは確か小学五年の頃、学校の合宿に漫画、アニメ好きの友人が持って
来ていたのだったと思う、確かやけに地味な表紙の巻で主人公の一人ジルベールの
過去編だった。
無論凄いインパクトがあった訳で…
おかげでこの漫画の主人公はジルベールとオーギュだと思い込んでいて、後に彼女の
家で一巻を渡された時は表紙にいたもう一人の少年が誰なのか分からず
「は?セルジュだよ?」
と言われても「だから誰よそれ」?」状態だった(全く知らない奴が「主人公」だっ
た事に驚いた訳で;)

子供の頃正直実に怖くて嫌な悪役と感じたオーギュ。

歪みっぷりが終始細部まで一貫していて見事なキャラだと思うものの子供の頃は
「わからない」部分がやたら多かった。
いい年になってようやくああそういう奴かと飲み込めて来たけれど…
「今」なら彼をどう思うか?と自分に問うてみれば。

その答えはやはり「悪」。変わんねぇ……;

やはり私にとってコイツは絶対に「愛する者を失うべくして失ったカス」以外の存在
にはならないらしい;
(つかこれで彼が結局ジルベールを「所有」したまま思惑通りの人生が送れたらそれ
はあんまりだろうと;)
その答えの理由は子供の頃とは少し変化したけども。

コミックスのあらすじ解説では彼の執着を「屈折した愛情」と表記されている。
けどもあの不可解に歪んだ執着を「屈折した」という枕詞を付けた所で、例え底に
流れる感情がどうあれ私は「愛」にカテゴライズしたくないらすぃ;
せいぜい「執着」と呼びたい。

徹底的に自分の都合と思惑のみで相手をまともに慈しむ事もしなければ恐らく最期の
別れに到ってすら「亡骸をかき抱いて泣く」という「表現」も
しなかったんだろうと(それをするなら「執事だけよこして死体を引き取る」という
場面は描かれなかったろうしそう描かれた以上は自身の生き方を反省するでもなく
そこそこ長生きしたんじゃねーかと、ジルには自分の死後生かしておく気すら無かっ
た癖にねぇ;ジルを「生かそう」としたセルジュはいいけど「自分が死んだら当然
一緒の死を選ぶ」程自分への愛に殉ずる人格であって当然つー考えで育てたオーギュ
にはお前もちゃんと死ねと言いたいがそんな誠意は欠片も持つキャラである筈も無く;)

後に番外編でジュールがオーギュの執着を「表現の許されない愛で精一杯愛していた」
と評していたけども表現のされない愛は存在しないのと同じだと私は思うのだ。
(ここで言う「表現」は必ずしも「相手に伝える」事のみを指す訳では無い、自分の
為にだって「表現」する事は出来るのだ)
「愛する者を喪う」という罰は一応受けたが生涯「反省」なぞはしなかったんだろう
なと;いやそうでなくちゃいかんのだけれども、それでこそオーギュだしね(笑)

漫画評やらでは「幼い息子を犯した父」的表現で彼の罪がよく語られるが個人的に
ソコは別に問題じゃないんだな。
(私が拘るのは「双方の認識」の部分だけだから。ジルが喜んで受け入れた以上は
問題にしない)

世間や世俗を汚いと見下してそれと切り離された純粋な存在を無垢と呼び
それこそ美しいという美意識を持ちながら自分は世間体や人目やプライド
(この「プライド」はジルベールやセルジュが自身を恥じない、曲がるまいと抱き続け
た「誇り」という物とはかけ離れた卑小な物だ)を徹底して縛られいかなる時も死ぬま
でそこから出て来ないその矛盾と歪みこそがオーギュの最大の罪なんだな。

徹底してペットの調教に執着するだけの悪役ならばそれはそれでスッキリしたんだろう
けどジルベールの過去編で確かにこの人の冷たい愛着が決壊して「愛」の存在が描かれ
たからこそこの矛盾に嫌悪感を抱いた、らしい;この辺のツッコミは全部ボナールが
台詞にしてるんだけども…恐らく生涯一度の「愛」なる物が生まれながら頑なに「愛」
さなかった姿が滑稽でキモいと;)