
まだJUNE本誌が刊行されてた頃に連載していた風と木の詩の続編小説「神の子羊」
竹宮先生の構想の中では初めから「ジルベールとセルジュ物語」と「ジルベール亡き後セルジュの生涯」の二部構成だったという事で、ストーリーの後半部分が小説になったものだそうだ。
無論当時興味を惹かれて連載中に読み始めたものの、本人達が直接出て来るのでなく彼らの子孫の話なのと、そこに描かれたセルジュのその後の人生は、漫画本編の強く真っすぐなセルジュ像からかけ離れていて何やら痛々しかったのとで途中で読むのを止めてしまった。
そしてその後図書館や書店で見かける機会も無かった為、今も読了出来ていない。
なので現在の私が知ってるのは物語序盤の基本設定とネットで拾い読みした幾つかの感想文からの情報程度です。
ちなみに私が把握しているのは
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舞台は「風と木の詩」から数代後の世代(孫かひ孫くらい?)
セルジュは作曲家、ピアニストとして後世に名を残していた。
ヒロインのフランは学生で、夏休みのリポートだか卒論だかの為に、音楽家セルジュ・バトゥールの軌跡を追っている。
他にはバトゥール家の子孫アンリとカールの子孫ヴィクトール、二人の少年が登場し、主人公はこの3人である(少年二人は途中恋仲になったりもするようだ)
バトゥール家に残されたセルジュの書簡や遺品を紐解いて行くと現れる「ジルベール」という謎の存在。
コクトー家の家系図にその名は無く、あるのはセルジュの懐中時計の中にある精密な肖像画と、書簡などに度々現れる名前のみ。
主人公達が当時の関係者の子孫を訪ねたりしつつ物語はミステリー仕立てで進む。
(ベートーベンの「不滅の恋人」を思わせる。激しい内容の恋文が残されているものの結局誰だったのか、何故その手紙は出されずにいたのか、解明していないらしい)
やがて明らかになる「風木」後のセルジュの人生。
セルジュが結婚したのは風木序盤、街でセルジュのピアノに拍手し去って行ったジルベールそっくりの少女イレーネ。
再会で一目惚れしたセルジュは彼女を妻にし、やがてジルベールそっくりの息子が生まれる。
息子を溺愛すると共に妻に無関心になり夫婦仲は冷え切った。
十年後セルジュはその息子をも置き去りにし、妻子を捨てて放浪の旅に。
最後はラコンブラード学院の音楽教授となり40代後半に死去。
なんかその間にも美少年を恋人にしたり色々やってたらしい。
芸術家としての名声は高かったが反面孤独な人生だった。
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↑まぁこんくらいです。
途中、夢の中で当時の人物達が続編の主人公達に語りかけて来たり映像を見せて来たり、というシーンもあったかと。
パットが万感の想いを籠め、心の中でセルジュへの愛を呟くシーンと(後に彼女は別の男性と結婚。パットを選んでいればジルを失った後にも真実の愛に満たされた幸福な人生への道はあった、って事でしょう)
夢に出て来たジルベールに主人公の一人が「オーギュの日記に書いてあったけど、君は本当にセルジュに殺されたの?」
と尋ねたら「なんでセルジュが僕を?」という反応をされ、かつて言葉に出来ない程の深い時間があった、と告げられるシーンがあるのも見た。
最終回の後パットと結ばれなかった、という部分だけでもう相当痛々しい;
聡明で情熱的で、セルジュと共鳴出来る知性を持ち、ジルとの一連の出来事と傷全て理解し受け止められる女性。
自分の中であの悲痛なラストの一縷の救いは「この後の人生はパットの愛が支えてくれるんだろう」という部分だっただけに。
でもセルジュがパスカルの家を訪問し大家族の団欒を見ながら、その風景を自身の未来とは遠い物のように感じ、孤独な未来を予感する、というシーンがあり、ジルそっくりの少女イレーネが登場してる以上、初めからパットとの未来は無かった訳だね;
(例え埋まらない空虚や傷を負っていてもパットと結ばれ家庭を築いたならば、彼が予感したような「壮絶な荒野のような孤独な未来」にはなりようがない。あと、まぁ恋愛対象でなかったにせよアンジェリンでもそう悪くはなかったんじゃないかと、少なくともイレーネよりは;)
そういえば「風と木の詩」におけるイレーネ登場シーンは妙に不可解だった。
この漫画には「無駄なエピソード」は他に全く見当たらない。
綿密な伏線で構成されており、登場人物同士の小さなやり取り、短い会話も過去の出来事や後のエピソードに繋がっている。
例えば「ジルベールの髪型」の話。
序盤でジュールがジルの短い髪に触れて「髪をお伸ばしよ、きっと綺麗だろう」と言うシーンがあるが、その後ジルの過去編ラストでオーギュに髪を切って貰うエピソードが出て来る。
ジルの髪が短いのは「別れの日、オーギュに切って貰ったそのままの姿で居る事」がオーギュへの愛と忠誠を示すもので、無論オーギュもそれは監督室から双眼鏡で眺めて知っていた筈。
ジルはセルジュを愛するようになってからその習慣を止めて髪を伸ばし始め、駆け落ち以降はかなり長髪である。
学院編終盤で、ジルの髪が長い事に気付いたオーギュが「髪を伸ばしているな」と(無論その意味も分かってるだろう)その髪に触れようと伸ばした手をジルがスッ、と身を引いて拒絶するという象徴的なシーンがあった。
だから「ジルベールと同じ顔の少女」が出て来る数ページのみが不思議だった。
「イレーネお嬢様」と、それとなく名前まで登場するのにその後一切出て来ない上、セルジュも一度たりと彼女を思い出さないまま物語が終わる。
だからたまに読み返したりすると「あれ、そういえばこんなシーンあったっけ。結局何だったんだろ?」と違和感を感じる程だったが、後のセルジュの嫁と聞いて納得。
彼女がこんな存在感のない描かれ方なのには勿論意味がある。
逆にセルジュとパットの出会いは鮮烈で、印象的な言葉が交わされ、パットはセルジュに恋してガラリと美しく変化して見せる。
そして後日、学院にやって来たパットを見たセルジュは頬染めて喜ぶ。
一方イレーネはセルジュのピアノに拍手し、優雅にお辞儀をして去って行くだけ。
二人の間に「言葉」は一切交わされない。セルジュも「ジルベールかと思った、彼の事ばっかり考えてたせいかな」と思うだけでその後全く思い出さない。
「神の子羊」にあるセルジュの書簡にも、アルルでのイレーネとの出会いを「その時の事を僕は覚えていないんだけど」とある。
凄く対照的だ。
つまり主人公セルジュにとってイレーネは「ジルと同じ見た目」以外何も持たない女性である、という事。
交わし合う言葉、内面や感性も、何一つ触れあえない人。
だから出会いの場面では言葉を交わさないし、当時はジルベール本人が生きていた以上、思い出す必要すら無かった人。
最愛の人を失くした喪失感を、姿かたちだけが似ている女で埋めようとして不幸な結果に転がり落ちてゆく展開は「ファラオの墓」にもあった。
明らかに不吉な恋だとパスカルが必死に思い留まらせようとするも、セルジュは耳を貸さず
「ジルベールとは違うあの屈託ない笑顔さえあれば何もいらない」「自分はイレーネが好きなのだ」と言い張る。
傍目には「不幸なまま死なせたジルの笑顔をもっと見てみたかった」という無念からの願望に過ぎないのが丸分かりだがセルジュは目を覚まさず、結果妻とはすぐに擦れ違いが始まり、ジルにさらに生き写しの息子が生まれた事で夫婦仲は完全に崩壊する。そしてその息子も捨てて家を出た、と。
(実の息子に何らかのヤバい感情を抱いたのが家出の理由ではないか、という読者予想をあちこちで読んだ)
母に見放され父にも消えられたその子もジルと同じ16で不幸な死を迎えたらしい。
夫としても父親としてもダメな男になっちゃってたんだね。うん、知りたくなかった;
パットは、セルジュがジルベールに出会わなかったら…という「if」ルートを握ってたもう一人の「運命の人」だったんだろうなと。
音楽家としての成功は「後世に残る」程でなくても才能に相応しくそれなりに成功しつつ、彼が幼くして失った「幸福な家庭」という故郷を伴侶と共に再び築き上げ、セルジュはアスランのような父に、パットはパイヴァのような母に、という風木本編のイメージのままのセルジュの「もう一つの未来」を抱いてた女性だったのだと思う。
(ジルとパットの会話は印象的で、ジルの美貌も喧嘩腰の態度も一切気に留めず「セルジュの親友なら私にとっても尊敬すべき人だわ」という振る舞い。ジルはジルでアンジェリンにもセバスチャンにも嫉妬はしないのにパットは特別な女性と直感しひどく警戒する)
そして人間離れした美しさを持ち、勉強にも音楽にもあらゆる方面で優れた才能に恵まれながら周囲に理解される事なく(そして当人も自身の才能自体に興味も持たず)歴史からも存在を消されたジルベールの資質は、世界にとって何の為にあったのか。
どういう必然の元にそんな少年が生まれたのか。
その類まれな美貌と才と魂は何だったのか、という問いへの解答が
「後世に残るものとなったセルジュの芸術」であり「彼の一生涯のミューズとなった事」なんだろう。
徹底して世間から隠そうとしていたオーギュの計画通りの人生をジルが送っていれば、彼の運命は「オーギュの個人的なペット」で終わってただろうし(当人にとってどちらが良いか、ってのは別の話だけど。あとオーギュも「彼を見た奴に己を省みてあぜんとさせたい!」とか言ってる割に、理解者が現れると潰しにかかったり、才能開花させる気も無かったり。それじゃ一体「誰が」あぜんとするんだか。「理解者」が多くいなけりゃ誰もあぜんと出来ねーだろ;つくづく矛盾だらけの奴だなー)
「風と木の詩」のストーリーそのものは、セルジュにピアノの才能が無くても恋愛物、青春物として成り立たせられる話だったと思う。
ジルベールに出会って喜び、苦しみ、その感情を音楽にぶつけ、曲を作り、才能が飛躍してゆくという描写が挟まれるのはジルが彼のミューズとなる物語、だから。
(ちなみに他の芸術家といえば詩人オーギュと彫刻家ボナールがいて作中では名声も富も得ているが、セルジュ以外は後世に名は残らなかったようだ)
番外編「幸福の鳩」で「未だ死んだジルベールに捕われ、その喪失を音楽にぶつけなければ生きていられないセルジュの姿」が少し描かれたが、凡人の身として「芸術に魂をぶつけなければ生きられない運命のもとに生まれた天才」「生涯かけて創造し続けなければならない命題」を背負った人間に憧れる気持ちは無いではない。
けど、「風と木の詩」で「わが梢を鳴らす風」、ミューズジルベールを失くした後の激しい喪失感の中の彼の人生を思うに、
生涯芸術に打ち込むべき運命というものは、これ程の孤独を背負っているのだ、と思うと羨む気持ちは薄れる。
凡人でいーや;
「彼を見た奴に己を省みてあぜんとさせたい」と言うオーギュの言葉の意味するところなんですが、
自分は単純に
「エロスの化身そのもののジルベールの姿を見て、見た人が自分の内側にある欲望に気付かされ、あぜんとすれば良い」
という意味なのかな?と思ったんですがどうなんでしょうか?
「あぜんとさせたい」であり、の後は
「その為に私はなんだってする!」
とロスマリネがびびる程激しい口調で続けてましたし、無垢にしておくのが育てた目的、という話の後にジルの色気に他人を迷わせる為になんだってする、という話はしないんじゃないかなーと私は感じますが…
オーギュの言う「無垢」の意味についてはまたオーギュ語りの中で書こうと思っています。
(の、割にブログ放置状態で済みません;)
自分に好意を持っているソフィア嬢に対し、嫌がってる幼いジルベールにディープキスを教え込み酒を飲ませて強引にキスするように指図、ソフィア嬢に恐怖を与え自分から気持ちを離れさせるように仕向けたオーギュ、、、。
オーギュは異常で自分勝手な教育でジルベールを性的に隷属させ、学園に送り込むことによって若者達が混乱し、騒動を起こすことによって、自分自身が受けたトラウマを癒そうとしてたように思えるのですが、、、。
学院に入ってからのジルへの仕打ち、特に序盤にロスマリネを使ってやった「焦らして焦らして、一番ショックを与えられるタイミングを狙って手紙を渡して心をズタズタにしろ」という指示や、その後マリネとの「自殺未遂や自傷行為を行わずに立ち直ったのはおかしい、立ち直らせた奴を見つけて引き離せ」という会話も正直胸糞が悪くなります。
あの時ジルがやせ細ってストレスで胃液吐いてるような姿も無論計算づくでしょうし;
自殺未遂に追い込んだり強姦したりする奴を引き離すんじゃなく、自傷させずに「救う」ような奴を引き離せ、ですよ;
愛する者の笑顔や幸福を一切望まずストレスをかけてニヤニヤしてる奴の執着なんてうけるだけ不幸です。
今風に言えば典型的なモラルハラスメントですしね。
私は前半のソフィア嬢関連のエピソードは学院編での仕打ちに比べればさほど気にならなかったです。
あの時点でオーギュのジルへの目線は実験動物への調教、っぽかったし、親友どのもソフィアも彼にとって取るに足らない人間だっただろうから、オーギュの残酷さにも「矛盾を感じない」せいかもしれません。
学院編以降の仕打ちはジルを「生涯愛する者」と自覚した以降の行為なのでその矛盾を度し難く感じるのかも。
学院編での徹底した突き放しは「所詮人同士の絆は脆い」というオーギュの人生観から来てるものと私は解釈しています。
それまで自分を裏切らなかった人間は居なかったし、自分もまた幼子を調教、洗脳して愛を得た事も理解している。だからジルに一生涯変わらずに自分だけを愛させたいならば一生涯かけて調教や洗脳を続けなければならない。という。
だから二人で幸せな時間を過ごす、という道は選べない。故に延々ジルを嫉妬や孤独で自分に執着させる為にやってたんじゃないかなと。
ご指摘を踏まえ再読してみましたがオーギュの支配を受け洗脳されきっている状態のジルベールの心理状態は、正直なところ、私には理解不能でした。オーギュによって二人だけの特別な世界が形成されており、なんといったらいいのか、とりつくしまのない感じ、、、。
この時点でのオーギュとジルベールは一心同体のように思えました。
オーギュは誰にも理解されることのなかった屈辱と苦しみに塗れた自らの人生をジルベールには理解してほしかったんじゃないかな? だからジルベールにこんなにも酷いしうちができてしまったのではないかな? とも思いました。
ラストの海の天使城のシーンで、私はソフィア嬢とジルベールの残酷な決別シーンを思い出しました。あり得ないことと承知で書かせていただくなら、オーギュがソフィアと結婚し、二人でジルベールを育てることが可能であったなら、ジルベールはもっと普通の少年になれたことでしょう。
一番胸を胸を衝かれたのは、マルセイユで過ごした夏休みの朝、「早く外へ行こう、日が高くなりすぎたよ
泳ぐ?それとも船がいい?昨日見つけたウサギの巣も見に行こうよ!」
とセルジュに話しかけるジルベールをオーギュが阻止し、
「待て!いいというまで接吻だ!」と無理やり接吻するシーンです。
残酷な少年時代しかなかったオーギュも、そしてそんなオーギュに育てられたジルベールも、本当に過酷な運命を背負わされた親子だったのだな、と
学院の面会日に
何を見ている?と問いかけるオーギュに対し
ロスマリネが
「息子を持つ親たちの奇態、特に自分がこの世で一番
息子とつながっていると信じている母親たちを」と答え
オーギュに対して
「あなたも母親からうまれたのでしょうね? オーギュストボウ」と、問いかけていますが、オーギュは無言のままです。
風と木の詩は、(恐らくはこれから男性と出会い、結婚して子供を持つことになるであろう、若しくはそうならなかったとしても、出産する性を持った)女性に向けて描かれた物語りなのだと思いました。
自分の将来の夢とか社会での立場とか友人関係だとか、やがて保護者の懐を出て世界を広げてゆくのが「育てられた子供」であり、そうさせてゆくのが正しい保護者の役目。本来なら。
そうさせない為の支配。
ジルが幼い頃、ペットの狐を助ける為に猟犬と闘い重傷を負うシーンが出て来ますが、
そこまで「愛」に対して命懸けなのはひとえに「孤独だから」な訳で。
その精神のまま成長させないように養育している為に保護者以外誰も信じず、オーギュが世界の全て、という「特別な世界」が形成されてるのかと思います。
夏休みの「接吻強要」シーンですが。
ジルとオーギュは同性&実の親子である事を別にしても20歳もの年齢差のある「年の差カップル」でもあるのですよね。
だからオーギュはジルを「調教して飼う」「支配する」事は出来ても、同い年の少年で、で同じく緑の中で育ったセルジュのように一緒に自然の中を駆け巡り、同じ青春を過ごし、一緒に育ってゆき、同じ目線で同じ世界を共有する事は出来ない。
これから青春期を迎え美しく成長してゆく二人の前でオーギュはこれから老けて行く親世代の立場。
支配教育抜きであれば、セルジュの方がどう考えても有利。
というかオーギュがああやって陰に日向にちょっかいかけ続けなければ放っておいてもいつかジルの心はセルジュに傾いてゆく気がします。
あのシーンは焦りと怒りの表れに見えました。
ジルがセルジュのミューズになる物語というのは自分では気付けなかった視点で、とても腑に落ちましたし、救いに感じました。
ところで、ジルが車輪にひかれるのは、ヘッセの車輪の下のオマージュらしいですね。って知っていたらすみません。自分が知った時、少し驚いたので。
物語中でセルジュが最初に作曲するシーンはジルからのリクエストでした。
「光の曲を」と言われてジルの金色に輝く髪のイメージを作曲したり。
オーギュの指示でジルとの仲を裂かれそうになった時は、腕も折れよとばかりに恋の苦しみをピアノにぶつけ、ジルを失った後の後日談的読み切りではジルに囚われながら、ピアノに向かっていなければ息が出来ないかのように演奏する姿が描かれましたね。
(ジルが生きている間のそれはともかく、失くした後の姿は痛々しいですが)
車輪の下は、まだ読んだ事がないですが、知りませんでした;(同作家の知と愛は若いころ読みましたが)機会があれば読んでみたいです。