☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
日本にも「夜、口笛を吹いてはいけない」という言い伝えがあったように、ヨーロッパでも、
人びとは笛や楽器の音色のなかに、何か魔的なものを感じ取っていた。では、この笛の悪魔的な
感情とはいったい何であったのか。おそらくそれは、かつてキリスト教が封圧しようとした、
民俗信仰のデモーニッシュなものの残滓であるように思われる。というのは音楽は、人間や
動物の感覚に作用し、一種のデモーニッシュなものを呼び出し、非日常の世界を創り出すから
である。…(中略)初期キリスト教の時代では、音楽そのものも異教的であり、悪魔やデーモン
とかかわるものであるとされた。とくに笛はダンスや音楽などの享楽につながるので、教会は
最初、これらを排除したが、やがて荘厳な神の世界へいざなうものとして、音楽を教会へ導入した。
『魔女とカルトのドイツ史』浜本隆志(2004)講談社より
西洋音楽、いわゆるクラシック音楽の起源を辿っていくと、だいたいの理論書に見られるのは、9世紀頃にまとめられたグレゴリオ聖歌であるという説です。
キリスト教の儀礼の一つであるミサの典礼文を、当初は仏教におけるお経のように唱えていたものが、やがて音楽として発展していったということになっています。
しかし、歴史的に見ると、厳格なカトリック教会においては楽器の演奏は禁止されていて、女性が歌うことは絶対にダメだった時期がありました。
そのため、こうした宗教上の制約が、男性に変声期前に去勢手術を施し、女声のように高音域で歌えるようにする、いわゆるカストラートを誕生させることになりました。
とはいえ、楽器の中でもパイプオルガンだけは例外で、キリスト教の発展とともに改良され、完成された鍵盤楽器です。
その他の楽器については、結構手厳しく批判されています。
笛は言うまでもなく、弦楽器も例えばバイオリンなどは、悪魔が1本弦で弾く楽器などと言われたこともあります。
このような傾向は、プロテスタントの教会では比較的ゆるやかだったようで、教会の合唱隊に女性が入るのは禁止されていませんでしたし、楽器演奏についても厳しい制限はなかったようです。
音が人の心に訴えかける力を持っていることは周知の事実だと思います。
音楽を一切聞かずに生活している人を見つける方が大変ですし、たいていの広告や宣伝には必ず音楽が使われています。
ちょっとしたメロディーにのせて、企業名や商品のキャッチコピーが歌われるのを聞いたことがあるはずです。
そうした方が、人の記憶に残りやすいからだと思われます。
このように音楽はたやすく人に近付き、心に入り込むことができます。
だからこそ、キリスト教の指導者たちは音楽を警戒し、また利用したのだと思います。
おそらく(というか当然)、音楽そのものはキリスト教成立以前から誕生していたと考えられます。
ですが、そう主張できる根拠となる資料が残されていなければ、学術的に音楽の起源を語ることはできません。
「現存最古」が「物事の起源」であるわけではないということです。
楽器誕生のエピソードは、ギリシャ神話の中に見ることができますし、古代エジプトの壁画やパピルスの中に音楽の様子を垣間見ることもできますが、再現性を持たない(あるいは乏しい)ものであるため、「実践音楽」としてはその存在を証明する説得力に欠けてしまうのです。
私は、キリスト教以前にも、人々はいろんなものを楽器にして音楽を楽しんでいたと思います。
そして、現在のポップスなどに見られるヒット曲のようなものも存在していて、大勢の人たちがその音楽に酔いしれていた。
だからこそ、その一種の集団ヒステリーとも思える狂乱状態をキリスト教会は危険視したのでしょう。
(昔のキリスト教指導者たちが、現在の日本のアイドルのライブ会場を見たら、どんな反応をするのかしら?笑)
音楽は沢山の人たちの心を一つにしてしまう。
その団結力によって生まれた狂気の矛先が教会に向いたとしたら、それはキリスト教にとって脅威だったはずです。
しかし、一方で、その音楽の力を上手に使えば、信者たちの心をキリスト教に繋ぎ止め、まとめることができます。
音楽には便利な一面と、危険なもう一面がある。クラシック音楽の変遷は、そのようなキリスト教による「音楽制御」の歴史なのかもしれません。
現在のように、人が没頭できる娯楽が少なかった時代に、人々に非日常の楽しみを与えつつ、熱狂はさせないギリギリのガス抜き要素さえあればいい。この考えが、クラシック音楽の様式を築いたのではないでしょうか。
クラシック音楽における協和音程、不協和音程、増減音程などの概念や、厳格な対位法、機能和声などの作曲技法上の制約は、音楽が奔放になり過ぎないための枷だと考えるのは飛躍しすぎているでしょうか。
日本では、クラシック音楽は堅苦しくて苦手という人が多いと思いますが、これは本場ヨーロッパでも同じで、たいていの人はクラシック音楽を退屈に感じるようです。
現代では、様々な娯楽が存在することも原因の一つと思われます。
ちなみに、日本人である私は、四十代になってから、和太鼓や横笛などの日本の伝統楽器の音を聞く方が、ピアノやバイオリンの音を聞くよりもリラックスするようになりました。
祭囃子や盆踊りなど、日本の伝統音楽も宗教との関わりが深いのですが、西洋音楽よりも人間の思惑があまり反映されていない、自然に近い音だと感じるのは、日本人としての欲目でしょうか。。。
ヒトコトリのコトノハ vol.93
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
日本にも「夜、口笛を吹いてはいけない」という言い伝えがあったように、ヨーロッパでも、
人びとは笛や楽器の音色のなかに、何か魔的なものを感じ取っていた。では、この笛の悪魔的な
感情とはいったい何であったのか。おそらくそれは、かつてキリスト教が封圧しようとした、
民俗信仰のデモーニッシュなものの残滓であるように思われる。というのは音楽は、人間や
動物の感覚に作用し、一種のデモーニッシュなものを呼び出し、非日常の世界を創り出すから
である。…(中略)初期キリスト教の時代では、音楽そのものも異教的であり、悪魔やデーモン
とかかわるものであるとされた。とくに笛はダンスや音楽などの享楽につながるので、教会は
最初、これらを排除したが、やがて荘厳な神の世界へいざなうものとして、音楽を教会へ導入した。
『魔女とカルトのドイツ史』浜本隆志(2004)講談社より
西洋音楽、いわゆるクラシック音楽の起源を辿っていくと、だいたいの理論書に見られるのは、9世紀頃にまとめられたグレゴリオ聖歌であるという説です。
キリスト教の儀礼の一つであるミサの典礼文を、当初は仏教におけるお経のように唱えていたものが、やがて音楽として発展していったということになっています。
しかし、歴史的に見ると、厳格なカトリック教会においては楽器の演奏は禁止されていて、女性が歌うことは絶対にダメだった時期がありました。
そのため、こうした宗教上の制約が、男性に変声期前に去勢手術を施し、女声のように高音域で歌えるようにする、いわゆるカストラートを誕生させることになりました。
とはいえ、楽器の中でもパイプオルガンだけは例外で、キリスト教の発展とともに改良され、完成された鍵盤楽器です。
その他の楽器については、結構手厳しく批判されています。
笛は言うまでもなく、弦楽器も例えばバイオリンなどは、悪魔が1本弦で弾く楽器などと言われたこともあります。
このような傾向は、プロテスタントの教会では比較的ゆるやかだったようで、教会の合唱隊に女性が入るのは禁止されていませんでしたし、楽器演奏についても厳しい制限はなかったようです。
音が人の心に訴えかける力を持っていることは周知の事実だと思います。
音楽を一切聞かずに生活している人を見つける方が大変ですし、たいていの広告や宣伝には必ず音楽が使われています。
ちょっとしたメロディーにのせて、企業名や商品のキャッチコピーが歌われるのを聞いたことがあるはずです。
そうした方が、人の記憶に残りやすいからだと思われます。
このように音楽はたやすく人に近付き、心に入り込むことができます。
だからこそ、キリスト教の指導者たちは音楽を警戒し、また利用したのだと思います。
おそらく(というか当然)、音楽そのものはキリスト教成立以前から誕生していたと考えられます。
ですが、そう主張できる根拠となる資料が残されていなければ、学術的に音楽の起源を語ることはできません。
「現存最古」が「物事の起源」であるわけではないということです。
楽器誕生のエピソードは、ギリシャ神話の中に見ることができますし、古代エジプトの壁画やパピルスの中に音楽の様子を垣間見ることもできますが、再現性を持たない(あるいは乏しい)ものであるため、「実践音楽」としてはその存在を証明する説得力に欠けてしまうのです。
私は、キリスト教以前にも、人々はいろんなものを楽器にして音楽を楽しんでいたと思います。
そして、現在のポップスなどに見られるヒット曲のようなものも存在していて、大勢の人たちがその音楽に酔いしれていた。
だからこそ、その一種の集団ヒステリーとも思える狂乱状態をキリスト教会は危険視したのでしょう。
(昔のキリスト教指導者たちが、現在の日本のアイドルのライブ会場を見たら、どんな反応をするのかしら?笑)
音楽は沢山の人たちの心を一つにしてしまう。
その団結力によって生まれた狂気の矛先が教会に向いたとしたら、それはキリスト教にとって脅威だったはずです。
しかし、一方で、その音楽の力を上手に使えば、信者たちの心をキリスト教に繋ぎ止め、まとめることができます。
音楽には便利な一面と、危険なもう一面がある。クラシック音楽の変遷は、そのようなキリスト教による「音楽制御」の歴史なのかもしれません。
現在のように、人が没頭できる娯楽が少なかった時代に、人々に非日常の楽しみを与えつつ、熱狂はさせないギリギリのガス抜き要素さえあればいい。この考えが、クラシック音楽の様式を築いたのではないでしょうか。
クラシック音楽における協和音程、不協和音程、増減音程などの概念や、厳格な対位法、機能和声などの作曲技法上の制約は、音楽が奔放になり過ぎないための枷だと考えるのは飛躍しすぎているでしょうか。
日本では、クラシック音楽は堅苦しくて苦手という人が多いと思いますが、これは本場ヨーロッパでも同じで、たいていの人はクラシック音楽を退屈に感じるようです。
現代では、様々な娯楽が存在することも原因の一つと思われます。
ちなみに、日本人である私は、四十代になってから、和太鼓や横笛などの日本の伝統楽器の音を聞く方が、ピアノやバイオリンの音を聞くよりもリラックスするようになりました。
祭囃子や盆踊りなど、日本の伝統音楽も宗教との関わりが深いのですが、西洋音楽よりも人間の思惑があまり反映されていない、自然に近い音だと感じるのは、日本人としての欲目でしょうか。。。
ヒトコトリのコトノハ vol.93
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