時には目食耳視も悪くない。

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目に見えぬもの。

2017年08月25日 | 文学
 パワースポットという言葉が観光・旅行業界に浸透して大分経ちます。
 初めてこの言葉を目にした時は、気象学か電力関係の専門用語かと思いましたが。

 洋の東西を問わず、太古の昔から人間は現実に存在するもの以外への探求に非常な興味を持っています。
 「目に見えないものを見たい」という人間の欲求は宗教や哲学、科学や数学といった形で可視化されてきましたが、人間の面白いところは自分が望んだものに対して疑念を抱くというところです。

 例えば、「神は本当に存在するか」という問いです。

 宗教が発生する原動力は「神を信じたい」という欲求であるにも関わらず、それによって生み出された崇拝対象に対して疑念を抱くことは、明らかな矛盾であり、それはせっかく苦労して熾した火をわざわざ自分で消すようなものです。
 疑うくらいなら、最初から信じなければいいと思うのは、無宗教者の勝手な戯言でしょうか。

 とはいえ、キリスト教の場合、生まれてすぐに親が子供に洗礼を受けさせる習慣があるので、本人の意志とは関係のない入信の場合が多いようです。
 信仰心というよりは、因襲的に、社会的営みの一環として教会へ通っている人もいるようで、そうした行為が人間の社会生活と密接に関わっているのであれば、一概に宗教を「信仰心」のみで論じることはできません。

 同様に、自然の全ての事物に神が宿るというアニミズム精神が起源の日本人の精神性を、特定の一つの対象(キリスト教や他の一神教で言うところの「神」)との関わりで論じることもできません。

 元来、私たち日本人にとっては、自然そのものが神であるのだから、神が本当にいるのかどうか疑うこと自体が愚問に等しく思えてしまうのです。
 自然(神)への感謝こそが、私たち日本人の本質なのですから。

 だからこそ、パワースポットなるものが人気を得るのかもしれません。
 近年、欧米化やITなどの技術革新が進んだ影響か、薄れつつある物を大切にする精神も、このあたりが起源になっていると思います。

 つまり、本来日本人にとって「神」とは、生活の中に共存している身近なものであると同時に、人智の及ばない畏怖の対象(自然現象)なのです。
 地獄と天国(または極楽)という二極化された死後の世界観は仏教やキリスト教の概念であり、また「神が人を裁く」という発想とは程遠いのです。

 魂の復活に関しても考え方は違います。
 一部の宗教では、死んだ人の魂の復活には生前の身体を必要とします(そのため火葬しない)が、アミニズム信仰においては、魂は自然の中を循環すると考えられています。
 古代宗教の中には、人は死ぬと鳥や樹木になるなど、自然界に帰って行くと信じられているものもあります。

 仏教の輪廻転生では、動物に生まれ変わることを「畜生道に堕ちる」と言いますが、これは仏教の布教過程において、既存の信仰に対抗して成立した教えのような印象を受けます。
 キリスト教におけるマリア信仰も、古代宗教の女神信仰に代わるものとして成立したとの見方もあるようです。

 ギリシャ・ローマ神話における星座に因んだ神話は、自然循環信仰と関わりがあると思われますし、世界各国で今も残っている昔話や伝承において、恋人が小鳥や花などの自然の事物になったということは「死による離別」を暗示するものと捉えることができます。

 古代の人は目に見えない何かを自然を循環する普遍的な存在(神)だと捉えていたのだと思います。
 それは、宗教会議の度に人間の思惑や利権によってコロコロと存在意義が変化するようなものではなく、神の名の下に戦争を正当化するものでもないのです。

 人間本位とも思える宗教観で育った欧米の人たちと、自然共存(和)を旨とする精神性の日本人の考え方や行動パターンは違っていて当然ですし、どちらが正しいという問題でもありません。
 にもかかわらず、外国の人が「主張をしない」とか「主体性がない」と日本人を揶揄するのは、ちょっと表面的な見方だと思います。


 ところで、神の実在については、それをテーマとした文学作品が沢山書かれています。

 《愛の終り(原題:The End of the Affair)》グレアム・グリーン著/田中西二郎訳(1952、新潮社)もその一つです。
 初めて読んだのは高校生の時ですが、当然ながらその頃は独自の宗教観などは芽生えていませんでしたし、男女の関係についても一通りの知識しかなかったので、読んでも「ふむ…?」と腑に落ちないものがあったのを覚えています。

 最近、本屋で偶然、新しい訳を見つけたので読んでみました。
 《情事の終り》グレアム・グリーン著/上岡伸雄訳(2014、新潮文庫)

 今度は、登場人物の宗教観や、複雑な関係にある男女の微妙な葛藤やら愛情やらを読み取ることができましたが、小説の真のテーマとなっている「神の実在」あるいは「信仰心」については、やはり理解するのが難しいと感じました。

 この話をベースにした映画も観てみました。
 《ことの終り(原題:The End of the Affair)》(1999、イギリス・アメリカ)

 原作のエピソードと食い違う箇所が多々あり、どちらかというと宗教色というよりは恋愛色の方が、強く脚色されているなと感じました。

 やはり、個人的な信仰心(目に見えぬもの)から発生しているドラマをどうやって映像化するのかというのは、簡単な話ではないということが分かります。
 映像にすると、どうしても客観的にならざるを得ず、登場人物一人一人を、人物の内面まで原作通りに描き切れないということがあるのだと思います。

 小説であれば、ある程度書かれた言葉で表現を限定できますが、映像から読み取れる印象は人によって違ってしまいます。
 映像を作った側の意図が観る側にうまく伝わらないことは、頻繁に起こるようですし。

 しかし、この作品では個人の信仰心や神の実在を問うというよりも、人間のより原始的で単純な感情(愛情、嫉妬、憎しみ、憐み、悲しみ、愚かさ、etc.)の方を色濃く描写したと言えるのかもしれません。
 そういったものは、既に多くの映画作品でも表現されていますし、ともすると安っぽいメロドラマになってしまう危険性はあるのですが(実際、その印象は否めませんでした)、それでも、そういう愚鈍な人間性・人間臭さを愛したいという点においては成功しているように思います。

 結局、私たち人間というのは、本能として目に見えぬものを切望しながら、本質的には目に見える確かなものに帰結せざるを得ないのかもしれません。



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