光陰矢の如しと言いますが、本当に時間のたつのは早いものです。
あっという間に、今年も三分の二が過ぎてしまいました。
なんと、何もできないまま歳ばかりとっていくことか…
子供の時は、今の自分くらいの歳の人はものすごく大人に見えましたが、実際になってみると、中身は昔とあまり変わらない自分がいることが分かります。
飽きっぽい性格も、うっかり物忘れをするところも、あまり器用でないところも思うように改善されません。
歳を重ねたからいろいろできるようになったというよりは、むしろ、歳ばかりとって何もできない自分に焦りを感じます。
このままでいいのかなぁ…という疑問は、昔からずっと心の片隅にあったのですが、今も相変わらず同じ場所に居座り続けています。
もっとも、単純に歳をとれば完成された人間に近づくとか、優れた能力が身につくなどというホイッグ史観的ステレオタイプの考えは捨てなければいけないのかもしれません。
そもそも、何をすれば、何ができるようになったから、大人になれるというワケでもないのでしょうし。
にもかかわらず、二十代の頃よりは周囲の人たちが私の言葉に耳を傾けてくれるようになったのは、自分でも思いもよらないことです。
私自身は、物の考え方も人との付き合い方も、できることもできないことも、二十代の時と基本的に変わっていないのにもかかわらず、あの頃の私に意見を求めたり、私の主張を認めてくれる人はいなかったけれど、歳をとった今の私の意見には積極的に共感してくれるなんて、なんだか騙されたような、ちょっとした理不尽さを感じます。
あの時感じた、疎外感や孤独感や失望感は何だったのでしょうか…
(若いおネエちゃんの言うことなんか、相手にされなくて当たり前ですって!?年功序列!男尊女卑だわ!笑)
もちろん、周囲の人の反応の一つ一つに一喜一憂するのも、若い証拠なんでしょう。
思えば、学生の時は無愛想で不機嫌そうな大人に接するのが怖かったものですが、今では無愛想なくらいが気楽でいいと思います。
初対面なのに、馴れ馴れしく話しかけてこられると、逆に面倒臭さを感じます。
(まさに、自分が歳をとったんだなぁと感じる瞬間です。)
ともかく、年月を過ごすということは、人の感覚に何らかの変化をもたらすのは間違いありません。
高校生の時、《落下する夕方》江國香織著(1996、角川書店)を読みました。
その時は、物語を一通り読んで、「へえ…」と思っただけでした。
その時の私には、登場人物たちの言動がチンプンカンプンで理解できず、「なんでそんなことするの?」としか思えなかったのです。
しかし、数年経って、学生から社会人になろうとする時に、何気なくまたこの作品を読みました。
すると、前回読んだ時に感じた疑問はすっかり消え、登場人物たちがそれぞれ抱える心情や、それが原因で引き起こされる事件の一つ一つに激しく共感することができたのです。
物語が私の感覚にしっくりと馴染んだようでした。
私は昔から本を読むのが好きでしたが、それは紙に書かれた文字を目で追う行為が面白かったから、それに没頭するというのが、私にとっての読書でした。
当たり前ですが、本にはいろんな言葉が書いてあるので、「次に来る言葉はどんなだろう?」「どんなことが書いてあるのだろう?」と、知的好奇心を掻き立てられ、そういう意味で本を読んでいたのだと思います。
だから、初めてこの本を読んだ時は、江國さんのするすると読み手を内容へと巧みに引き込む言葉たちを上辺だけ、目でなぞっていたのだと思います。
(また、江國さんの言葉運びの心地よさといったら、絶妙です。)
それが、いつの頃からか、読んだ文字から情景や感情が私の中に喚起されるようになり、より物語の世界に肉迫できるようになったのです。
それをはっきり自覚したのが、二度目に《落下する夕方》を読んだ時でした。
歳をとるってこういうことか!と思いました。
大人になるってことは、今までできなかったことができるようになることじゃなくて、今まで気がつかなかったこと、感じなかったことに気づいたり、感じたりすることなんだ!と。
私は読書を通じて、無意識のうちに大人の階段を上っていたのだと言えるかもしれません。
(本来「大人の階段」という言葉は性的な意味を持ちますが…笑)
大人になるとか、階段を上ると言うと、いかにも以前より成長したとか、賢くなったという意味に思えるかもしれませんが、決してそんなことはなく、ただ考え方や感覚が変化していく過程のことを「大人になる」と言うのだと思います。
(それまで、ダメだったものが平気になるとか、その逆も言えますね。)
社会的には、二十歳を過ぎれば成人として扱われますし、誰でも歳を重ねれば、見た目は確かに「大きな人」にはなっていきます。
けれど、中身は「子供じみた」大人も沢山いる一方で、「大人びた」子供もまた沢山いるわけだから、具体的にどの年齢層が大人で、他はそうじゃないなんて、本当は断言できないはずです。
私たちは皆、変化の過程を生きています。
しかし、たいていの人はそれを認識せずに生きています。
今の自分は、それまで生きてきた過去の自分で出来ていますし、未来の自分を造るのは今の自分なのです。
そう考えると、私たちが上がっているのは大人の階段ではなく、人生の階段だと言えるでしょう。
何歳になったから、もう学ばなくていいというルールはありませんし、逆に生きている限り、必ずしも身を削るような努力をし続けなければいけないわけでもありません。
でも、努力することで自分の人生を豊かにしていけるのなら、たとえ僅かずつでもステップアップしていきたいものです。
あっという間に、今年も三分の二が過ぎてしまいました。
なんと、何もできないまま歳ばかりとっていくことか…
子供の時は、今の自分くらいの歳の人はものすごく大人に見えましたが、実際になってみると、中身は昔とあまり変わらない自分がいることが分かります。
飽きっぽい性格も、うっかり物忘れをするところも、あまり器用でないところも思うように改善されません。
歳を重ねたからいろいろできるようになったというよりは、むしろ、歳ばかりとって何もできない自分に焦りを感じます。
このままでいいのかなぁ…という疑問は、昔からずっと心の片隅にあったのですが、今も相変わらず同じ場所に居座り続けています。
もっとも、単純に歳をとれば完成された人間に近づくとか、優れた能力が身につくなどというホイッグ史観的ステレオタイプの考えは捨てなければいけないのかもしれません。
そもそも、何をすれば、何ができるようになったから、大人になれるというワケでもないのでしょうし。
にもかかわらず、二十代の頃よりは周囲の人たちが私の言葉に耳を傾けてくれるようになったのは、自分でも思いもよらないことです。
私自身は、物の考え方も人との付き合い方も、できることもできないことも、二十代の時と基本的に変わっていないのにもかかわらず、あの頃の私に意見を求めたり、私の主張を認めてくれる人はいなかったけれど、歳をとった今の私の意見には積極的に共感してくれるなんて、なんだか騙されたような、ちょっとした理不尽さを感じます。
あの時感じた、疎外感や孤独感や失望感は何だったのでしょうか…
(若いおネエちゃんの言うことなんか、相手にされなくて当たり前ですって!?年功序列!男尊女卑だわ!笑)
もちろん、周囲の人の反応の一つ一つに一喜一憂するのも、若い証拠なんでしょう。
思えば、学生の時は無愛想で不機嫌そうな大人に接するのが怖かったものですが、今では無愛想なくらいが気楽でいいと思います。
初対面なのに、馴れ馴れしく話しかけてこられると、逆に面倒臭さを感じます。
(まさに、自分が歳をとったんだなぁと感じる瞬間です。)
ともかく、年月を過ごすということは、人の感覚に何らかの変化をもたらすのは間違いありません。
高校生の時、《落下する夕方》江國香織著(1996、角川書店)を読みました。
その時は、物語を一通り読んで、「へえ…」と思っただけでした。
その時の私には、登場人物たちの言動がチンプンカンプンで理解できず、「なんでそんなことするの?」としか思えなかったのです。
しかし、数年経って、学生から社会人になろうとする時に、何気なくまたこの作品を読みました。
すると、前回読んだ時に感じた疑問はすっかり消え、登場人物たちがそれぞれ抱える心情や、それが原因で引き起こされる事件の一つ一つに激しく共感することができたのです。
物語が私の感覚にしっくりと馴染んだようでした。
私は昔から本を読むのが好きでしたが、それは紙に書かれた文字を目で追う行為が面白かったから、それに没頭するというのが、私にとっての読書でした。
当たり前ですが、本にはいろんな言葉が書いてあるので、「次に来る言葉はどんなだろう?」「どんなことが書いてあるのだろう?」と、知的好奇心を掻き立てられ、そういう意味で本を読んでいたのだと思います。
だから、初めてこの本を読んだ時は、江國さんのするすると読み手を内容へと巧みに引き込む言葉たちを上辺だけ、目でなぞっていたのだと思います。
(また、江國さんの言葉運びの心地よさといったら、絶妙です。)
それが、いつの頃からか、読んだ文字から情景や感情が私の中に喚起されるようになり、より物語の世界に肉迫できるようになったのです。
それをはっきり自覚したのが、二度目に《落下する夕方》を読んだ時でした。
歳をとるってこういうことか!と思いました。
大人になるってことは、今までできなかったことができるようになることじゃなくて、今まで気がつかなかったこと、感じなかったことに気づいたり、感じたりすることなんだ!と。
私は読書を通じて、無意識のうちに大人の階段を上っていたのだと言えるかもしれません。
(本来「大人の階段」という言葉は性的な意味を持ちますが…笑)
大人になるとか、階段を上ると言うと、いかにも以前より成長したとか、賢くなったという意味に思えるかもしれませんが、決してそんなことはなく、ただ考え方や感覚が変化していく過程のことを「大人になる」と言うのだと思います。
(それまで、ダメだったものが平気になるとか、その逆も言えますね。)
社会的には、二十歳を過ぎれば成人として扱われますし、誰でも歳を重ねれば、見た目は確かに「大きな人」にはなっていきます。
けれど、中身は「子供じみた」大人も沢山いる一方で、「大人びた」子供もまた沢山いるわけだから、具体的にどの年齢層が大人で、他はそうじゃないなんて、本当は断言できないはずです。
私たちは皆、変化の過程を生きています。
しかし、たいていの人はそれを認識せずに生きています。
今の自分は、それまで生きてきた過去の自分で出来ていますし、未来の自分を造るのは今の自分なのです。
そう考えると、私たちが上がっているのは大人の階段ではなく、人生の階段だと言えるでしょう。
何歳になったから、もう学ばなくていいというルールはありませんし、逆に生きている限り、必ずしも身を削るような努力をし続けなければいけないわけでもありません。
でも、努力することで自分の人生を豊かにしていけるのなら、たとえ僅かずつでもステップアップしていきたいものです。
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