1年以上前に書いた記事で、ローベルト・シューマン(1810-56)について触れたことがあります。
具体的には言葉の効果的な使い方、あるいはテーマの提示の仕方だったような気がします。
というのは、シューマンの自論の展開の仕方が「対話」を用いているからです。
ただ主張をするのではなく、複数の視点を設定して、読み手の意識をより深く主題の中に引き込んでいく手法です。
読み手はあたかも目の前で繰り広げられる論争に参加しているような気分になり、つい自分の意見を言いたくなるというような感覚になるかもしれません。
文章を書くという行為は、音をつなぎ合わせて曲を作ることと似ているような気がします。
絶妙な文章は心に染み渡りますし、優しい音楽の調べは時にどんな慰めの言葉よりも心の傷を癒してくれるようにも思われます。
また、言葉で言い表せないものを音楽が表現していたり、言葉でしか伝わらないことがあることも事実です。
似ているようで、やはり別物という言葉と音楽の親近性が、私にはとても興味深く思われます。
その人が使う言葉、あるいは奏でる音がその人の人柄を映しているとは、しばしば言われることです。
「あのピアニストのピアノの音は、人柄の良さが出ているね」というように。
言葉については、私はよく、自分の発言が批判的であり、人を傷つけるものだと指摘を受けることがあります。
恥ずかしい話ですが、私自身には人を傷つけている自覚がまったくないのです。
もちろん、誰かを傷つけようと思って発言しているわけではありません。
自分の意見ではなく、ただ事実をそのまま言葉にしているだけなのですが、それが「上から目線だ」とか「生意気だ」と、相手を不快な気持ちにさせてしまうようなのです。
一方で、何も言わず黙っていると、主張のできないダメな人間だとバカにされるのです。難儀な世の中です。
いずれにしろ、私は誰かを不快にするのが好きではないので、極力、自分が使う言葉には気をつけるようにしています。
インターネットやSNSでは、自分が意図していないにもかかわらず、過去にした発言をまったくの赤の他人に違う用途で使われてしまう場合もありますので、言葉の選び方には慎重さが求められます。
とはいえ、私にはいったい自分のどんな言葉が相手を傷つけるのかということの自覚がないので、具体的に何を言ってはいけないのかということが分からず、相変わらず失敗の連続です。
もう言葉を発することをやめてしまおうかとも思うのですが、社会で生活している以上は何かしら話をしなければいけない場面に遭遇します。
存在している限り、人は何かに対して弁明しなくてはならない運命にでもあるようです。
今回【本の林】で取り上げた本はローベルト・シューマンの著述を吉田秀和が編訳した《音楽と音楽家》(1958 岩波書店)です。
※コチラをクリックして動画が再生されない時は、「本の林」で動画検索をお願いします。
子供の頃から本を読むことが好きだったシューマンの文章はとても文学的な言い回しが多く、夢見がちな世界が広がっています。
また一方では、若いブラームスを次世代のドイツ音楽を新たな方向へ導く道であると、力強く紹介する予言者のような一面も見せています。
さらに、音楽教育者として記した、音楽取得に際しての心構えや指針は、どの時代にも共通して用いることのできる有用なものばかりです。
音楽教育の場に片足とまではいかなくても、片方の爪先を突っ込んでいる私には、学ぶことの多い本です。
ローベルト・シューマンは、その最期を精神病院で迎えたことで、あまりポジティブな見方をされることが少ない作曲家なのですが、彼が残した音楽や言葉は不思議な魅力を感じさせるもので、その理由がなんなのか突き止めるために、学生の頃からずっとシューマンについて研究を続けているのかもしれません。
未だにその謎は解けていないのですが。。。
具体的には言葉の効果的な使い方、あるいはテーマの提示の仕方だったような気がします。
というのは、シューマンの自論の展開の仕方が「対話」を用いているからです。
ただ主張をするのではなく、複数の視点を設定して、読み手の意識をより深く主題の中に引き込んでいく手法です。
読み手はあたかも目の前で繰り広げられる論争に参加しているような気分になり、つい自分の意見を言いたくなるというような感覚になるかもしれません。
文章を書くという行為は、音をつなぎ合わせて曲を作ることと似ているような気がします。
絶妙な文章は心に染み渡りますし、優しい音楽の調べは時にどんな慰めの言葉よりも心の傷を癒してくれるようにも思われます。
また、言葉で言い表せないものを音楽が表現していたり、言葉でしか伝わらないことがあることも事実です。
似ているようで、やはり別物という言葉と音楽の親近性が、私にはとても興味深く思われます。
その人が使う言葉、あるいは奏でる音がその人の人柄を映しているとは、しばしば言われることです。
「あのピアニストのピアノの音は、人柄の良さが出ているね」というように。
言葉については、私はよく、自分の発言が批判的であり、人を傷つけるものだと指摘を受けることがあります。
恥ずかしい話ですが、私自身には人を傷つけている自覚がまったくないのです。
もちろん、誰かを傷つけようと思って発言しているわけではありません。
自分の意見ではなく、ただ事実をそのまま言葉にしているだけなのですが、それが「上から目線だ」とか「生意気だ」と、相手を不快な気持ちにさせてしまうようなのです。
一方で、何も言わず黙っていると、主張のできないダメな人間だとバカにされるのです。難儀な世の中です。
いずれにしろ、私は誰かを不快にするのが好きではないので、極力、自分が使う言葉には気をつけるようにしています。
インターネットやSNSでは、自分が意図していないにもかかわらず、過去にした発言をまったくの赤の他人に違う用途で使われてしまう場合もありますので、言葉の選び方には慎重さが求められます。
とはいえ、私にはいったい自分のどんな言葉が相手を傷つけるのかということの自覚がないので、具体的に何を言ってはいけないのかということが分からず、相変わらず失敗の連続です。
もう言葉を発することをやめてしまおうかとも思うのですが、社会で生活している以上は何かしら話をしなければいけない場面に遭遇します。
存在している限り、人は何かに対して弁明しなくてはならない運命にでもあるようです。
今回【本の林】で取り上げた本はローベルト・シューマンの著述を吉田秀和が編訳した《音楽と音楽家》(1958 岩波書店)です。
※コチラをクリックして動画が再生されない時は、「本の林」で動画検索をお願いします。
子供の頃から本を読むことが好きだったシューマンの文章はとても文学的な言い回しが多く、夢見がちな世界が広がっています。
また一方では、若いブラームスを次世代のドイツ音楽を新たな方向へ導く道であると、力強く紹介する予言者のような一面も見せています。
さらに、音楽教育者として記した、音楽取得に際しての心構えや指針は、どの時代にも共通して用いることのできる有用なものばかりです。
音楽教育の場に片足とまではいかなくても、片方の爪先を突っ込んでいる私には、学ぶことの多い本です。
ローベルト・シューマンは、その最期を精神病院で迎えたことで、あまりポジティブな見方をされることが少ない作曲家なのですが、彼が残した音楽や言葉は不思議な魅力を感じさせるもので、その理由がなんなのか突き止めるために、学生の頃からずっとシューマンについて研究を続けているのかもしれません。
未だにその謎は解けていないのですが。。。
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