妻がいて孤独

基本的にふざけろ

レイディ・チャタレー

2006-10-28 21:57:25 | Weblog
 英国人作家の、ロレンス「チャタレイ婦人の恋人」読了。
 この作品の発表が1928年(イタリアで)。
 今からおよそ80年前の作品ということになる。

 解説によると本邦での紹介は1950年というから、戦後五年ほどのちという勘定だ。
 後の警視庁による猥褻文書頒布のかどによる起訴、それに続く東京地裁での裁判についてはMIT卒のわたくしでも何となく知っている話。
 まあそれについては、この際どうでもいいです。
 わたくしが気になったのは、二十世紀における代表的なセキララ不倫小説の社会的不運の遍歴ではなかった。
 それは、小説が今のように洗練されたのはいつごろなのか? という問いでありました。

 うまい要約とは言えないと思うんだけど、例えば「性のゼッタイ的肯定」とか「性の解放」、または「男女のほんとうの結びつきとは因習を遠く離れなければ成し得ないのではないか」、あるいは「直感を信じて生きることの現代人の受難」、そして「産業革命以後の人間の根本的不幸」などなど、この小説の底流にあるテーマ。
 これらが現代的であることは、言うまでもないことだろう。
 でも、村上春樹や江國香織とか読み慣れた日本国男女が、この小説にある種の動かし難い古臭さを感じるのは間違いないことだとわたくしは予想する。
 つまり、小説が谷崎潤一郎みたいになったのはいつなのだろう? という問い。
 
 この小説は「現代は本質的に悲劇の時代である。」という、一文から始まる。
 平塚らいてうじゃあるまいし、この大上段にしてあまりに大喝的な冒頭に、いささか眉をしかめぬわけに参らない現代の小説ファンは少ないだろうと思う(ロレンスの圧倒的な筆力は別問題として、また、現代日本国の一般的小説ファンが当作を読むかどうかという大前提もまた、置いといて)。
 さらに続く第二章の、まずさ。
 一章二章第三章、このへん、まずいッス。
 たかだか数十年前、ついさっき、こないだ英国のインテリが書いた小説なのに。
 冒頭で大上段に切り込んだ上、うまくない説明を延々と書く19世紀的手法を、まだ反省しない時代であったのだ。
 小説の20世紀後半における洗練は、まず冒頭革命だったのかも知れない。
 今の小説って、まず「掴みはオッケー」ですもんね♪
 全人類的な、壮大なテーマに挑もうというココロザシこそ、持ち様もないけれど……。

 さて今日は、ふと新宿のかめや、通称しょんべん横町の立ち食いソバが食べたくなり、夕方京王線に乗って、名物の天たまソバ、340円食べて来ました。
 あのへん、変らないですね。
 カウンターの椅子に座りながら、向かいに建っている汚い木造家屋の二階を眺めて、ある種の憧憬を感じてしまいました。
 ぼんやり見上げる木造の二階って、いいものですね!
 ではまた。
 
  




 
  



 訳者伊藤整による本邦での紹介が昭和二十五年というから1950年か。

その前に、すべきこと

2006-10-17 23:35:16 | Weblog
 北朝鮮が核実験実施のむねを、当局が内外に発表したのが今月九日。
 それからさまざまな日本語が、TV、ラジオ、インターネットを通じ、わたくしの小さい耳目にも入ってくる。 
 こちらの力を奪うものばかり。
 何もする気が起りません。

 北の脅威に対して、わが国家のとるべき道はナニか。
 タカか、ハトか。
 あいつは右だ、左が右だ。
 いろんな意見が御座います。
 
 まあ、国家論、てやつッスカね。
 土下座外交に終止符をウガち、真に独立した国家としての矜持をウンタラ、アメリカ盲従の政策を改め、敗戦時にマッカーサーに押し付けられた憲法をバッシバッシ改正、北の脅威に対し国軍の整備と核武装のナンチャラ、以て東アジアの平定ウンチャラ、世界平和のツンツクツン。
 
 よろしいんで御座いますのよ。
 国防意識。
 愛国心。
 あってシカルベシ。
 戦争って、意外とお祭りみたいで、楽しいかもよ♪
 いや、きっと生まれて初めてのコーフンに、高揚を憶え、熱狂する男女は多いハズ。
 サッカーの日本代表よりは、活躍してくれそうだし♪
 戦後60年、日本国もそろそろ先進国並の法と軍備を持っても、確かにおかしくないんじゃない?
 日本だけよ、こんなヘンな国。
 フツーに自国の意見を、主張出来る国になりましょうよ♪
 日本国という国家を、いいかげん米中韓並に、また欧州各国並に、インド・パキスタン並みに、イスラエル並みに、つうか金正日の北朝鮮ナミに、という議論は出てもちっともおかしくない。
 子供が大人になるように、日本も国際社会でヒトナミになりましょう。
 核武装やむなし! そんな意見、ちっとも不思議じゃあ御座いませんわ。
 
 イヤそれが安倍ちゃんの右傾化、という意見。
 その意見を何も知らない左派と決めつける意見。

 国家論、というやつッスカね。
 国家はいかにあるべきか。
 意見噴出、結構ですな。
 ただ、国家のあり方を論じる前に、世界に向けてわたしたちがすべきこと、もっとしなければならなかったことが、あったんではないでしょうか。
 
 わたしたちは、戦争の悲惨さを、どれだけ知っているでしょう。
 ジャングルで死んで行った兵隊さんの苦しみを、どれだけ想像したでしょう。
 戦争で家族を、友達を、夢も希望も失うということを、自分のココロの問題として、どれだけ考えたでしょう。
 戦争中の国家の腐敗なんて、現在の社会保険庁の問題の比ではありません。 
 戦時の人心のまとまりなんて、ウソの上にもウソの、ウソのウソのウソっぱちです。

 わたしたちは、世界唯一の被爆国として、国内でどれだけその「痛み」を教わったでしょう。
 全身が焼かれる熱さを、小学校で体験させられたでしょうか。
 中学校の校庭で、焼夷弾を上からばらまかれたでしょうか。
 高校生の時、両親を、目の前で殺されるサイコ・ドラマの実習でもあったでしょうか。
 大学生の時、教育実習で、小学生相手に原爆のリアルなパワーについて、何か語ったでしょうか。

 戦後、日本国政府は海外に対して、原爆症で苦しみ続ける国内の人々を、どれだけ紹介したでしょう。
 世界の子供たちに、「はだしのゲン」を広めたでしょうか。
 わたしたちは、国家の主体性を律する前に、すべきことがあるのではないでしょうか。
 あれだけコテンパンにされて、アタマの上に原子爆弾をふたつも落とされ、全身を焼かれ放射能に汚染させられた人々の「痛み」を、伝道師となって世界に伝えるのが、せめてもの使命ではなかったか?
 それを戦後60年間で、日本国政府はどれだけしてきたのか?
 世界のどれだけの子供たちが、被爆の実際の「痛み」を日本人に教わった?
 日本人のお陰で、わたしは核の恐ろしさを知ったって、何故だれも言わない?
 戦争の代価は、こうやって市民が殺されることで支払うのだと、だれも日本人から教わらない。
 それこそ日本人の使命に他ならないはずなのに。 
 日本人は感謝されるべきなのだ。
 被爆者たちの言葉を、無念を、痛みを、世界に伝えた「国家」として。 
 

モーツアルタン♪

2006-10-15 01:08:07 | Weblog
 今日はNHKの芸術劇場を見ながら、書いてます♪
 何故ならザルツブルグ音楽祭の特集だから♪
 しかもモーツアルト・イヤーで御座います。
 イヤー、行きたかったなあー。
 イヤイヤー、お金が無いって、さみしいもんですね♪

 はじめさんが酔っ払って撤去してしまったTVを苦労してつなぎ直し、今はドン・ジョヴァンニの序曲が部屋に流れている。。 
「すべての芸術は音楽に憧れる」って、どっかの西洋人が言っていたけれど、それは少しマチガイね。
 すべての芸術は、きっとモーツアルトに憧れているんだと思う。
 雲のように自然で、カセドラルのような建造物。
 彼は一瞬で楽曲の最初から最後までを思い付き、あとは雑談しながらスコアを書いたという。
 その伝説に、いささかの誇張が無いとは言えないでしょうが、それが信じられる。
 むしろ、それ以外には考えられない。

 ああ、いい気分♪

よっちゃんのこと

2006-10-13 23:20:30 | Weblog
今日は銀座で、お友達のよっちゃんと会いました。
 よっちゃんはMIT時代の同級生で、現在はパートで、町田の給食センターで働いています。
 週三日、朝六時からおしんこ詰めたり、ごはんを盛ったりしているそうです。
 その話を始めて聞いた時に、
「朝早くて大変ね」
 と言ったら、
「でも午後二時で終わるから、ラクよ」
 と、得意げに舌をぺろっと(実際に)出した、という記憶があります。
 まあ、よっちゃんとは、そういう女性です。
 ダンナは当時の先輩(現在某国立大の客員教授)で、二児の母であります。

 今日は彼女非番ということで、お昼前に待ち合わせ。
 四丁目の交差点で待っておりますと、向こうから、手を振りながら近づいてくる人がいます。
 三十代後半の女性です。
 口元にほくろ、あります。
 けっこう、美人なんであります。
 でも割烹着の上下、着ています。
 手首、ゴムで締まってます。
 アタマには、白い、丸っこい帽子、乗せています(ゴムで締まってます)。
 白い長靴も、バッチリはいています。
「久しぶり~」
 よっちゃんです。
「よっちゃん、どうしたの? その格好?」
 もちろん、開口一番で聞きました。
「それがサー聞いてよ~」
 よっちゃんが早口でまくしたてるの曰く、昨晩一張羅のディオールを間違えて洗濯機に入れてしまい、息子(中学二年・野球部)のユニホームと一緒に回して台無しにしてしまったとか何とか。
「その格好で電車乗って来たの?」
 どう見ても、新橋の裏通りからタバコ買いに出て来た、厨房のオバチャンそのものです。
「これしか無かったんだもーん」
 情けなさそうに、と得意げにを、半々に混ぜ合わせて言えるのは、よっちゃんだけです。
 てゆうか。
「それ帽子? 頭巾? シロ頭巾?」
「今日は日射しが強いからねえ」
 目を細めます。  
「でも長靴…」
「それはアンタ、コーディネート上の調和ってやつよ、調和」
 よっちゃん、胸を張って言いのけます。
 よっちゃんには、いつもヤラレッパナシのさちこなんです。

 よっちゃんが松屋(デパートではないほう)で何か食べましょうと提案するのを、反論する度胸も無く、松屋の新メニュー「キーマカレーチキンどんぶり」並盛り340円を仲良くカウンターで並んで食べる。
 それからぶらぶらと、無料の画廊を四軒ほどハシゴ(割烹着と一緒です。一応)。
 よっちゃんの美術批評はなかなか手厳しく、ぶつぶつ感想を呟きます。
 褒め半、ケナ半って感じッスカね。
 よっちゃんが今日言ったせりふでは、
「大人が、思想の無い絵を描いて褒められると思うなッて」
 というのが、何だか印象に残りました(割烹着着てますから。彼女。一応)。
「これはいいわね」
 と言ったきり口をつぐんだのは、わたくしも、イイナアと思った静物画で、十二号程度のアブラで、作家名も画廊も覚えていませんけれど、シブい、全体が茶色の、お花(バラ)の絵でした。 
 バラの花びらの薄い感じが、せつないようで好きでした。

 日が暮れて、わたくしは、松屋よりはもうちょっとマシな場所でゴハン食べて別れる、というコースを漠然とイメージしながら歩いていたのですが、結局歌舞伎座の裏で、彼女に言われるままam・pmまで買いに行かされた缶ビールを、道端にしゃがんで飲みながら、二時間ほど安倍内閣についての彼女の御意見を聞いて、別れました。
 よっちゃんの地下鉄の駅に向かって歩く、白い後ろ姿を眺めながら、いったい今日は、どういう一日だったのだろうと、わたしは深く、いぶかしんでしまいました。
 よっちゃんには、かないません。
 合掌。

ぺっぺっぺっ

2006-10-11 21:00:45 | Weblog
 午後三時、co-opより帰宅。
 紅茶を随時ガブ飲みしながら、午後七時半「ロリータ」読了。
 作者による後書きを読んでも、意味の通じない箇所多々あり(翻訳にも問題あるのかなあなどと思ったりもする)。
 その後書きで、わたしのような単純な感想(第二部が長い、とか一人称に辟易とか、その他もろもろ)を抱く読者は、作者のいう「素朴な読者」というヒトコトで斬り捨てられている。
 わたしはその「素朴な読者」を代表して、腹立たしかったし、この本を読んでいる間の数日間が、最後まで報われなかったことに対して、とても悲しかった。

 これは作者亀屋万年堂のナボコフを生んだ母なる大地のロシアにも責任があると断じ、聖・ペテルブルグの宿舎に国際電話をかける。
 はじめさんにでも八つ当たりしなきゃあ、腹のムシが納まらない気がしたのだ。
 四回ほどのコールの後、現地の世話役、タナベさんの奥さんが出る(はじめさんが旅立つ前、一度電話で挨拶したので知っているのです)。
「ハロー」(と、タナベの奥さん。低い声で、むしろアローと聞こえる)
「もしもし、丸野菜はじめの妻で御座います」(とわたし)
「……」
「もしもし?」
「ああ、ああああ。どうもどうも」
「夫がいつもお世話になっております」
「いえいえこちらこそ」
「あの、ウチの、おります?」
「……」
「もしもし?」
「……」
「もしもーし?」
 ここで電話は切れました。

 ナニやってんだろ?
 はじめさん?

やれやれ

2006-10-09 14:46:27 | Weblog
 バイト先のco-opから帰ってくると、家電がちかちか点ってる。
 何じゃいな、と思って見ると、留守録が一件。
 聞いてみると、近所の図書館からでした。
 どうやら3ヶ月以上も借りっ放しになっている本があるとかないとか。
 身に覚え、ないもーん♪
 ホッタラカシといたら、夕方また掛かってきた。
 よくよく話を伺ってみると、赤川侍郎・作「土佐犬ポワロの大弁論」なる文庫本、ほか一冊が未返却とのこと。犯人は、はじめさん。どうやら失くしちゃっていて、弁償するから、という所で止まっているらしい。
 顔から出火、司書の方に、丁重にお詫び申し上げ、電話を置く。 
 あー。
 ああー。
 あああああああああだらしない。
 情けないわねえ。
 男って、どうしてみんな、だらしないんでしょう。
 どっかにもっと、マトモな男って、いるんでしょうか?
 あああああイヤだ嫌だいやだ。
 だらしないダラシナイだらしない。
 ああああああ恥ずかしい。
 しかもよりにもよって、赤川侍郎って誰よ?
 廃版だっていうじゃない?
 よりによって、なんでそんなヤヤコシイ本、失くす?
 そもそも「土佐犬ポワロ」って何よ?
「ポワロの大弁論」って何ゴト?
 腹立つなあ。
 もう一冊はちくま文学の森・第三巻「幼さなかりし日々」だそうです。
 こちらも廃版。
「土佐犬ポワロ」はさておき、後述のちくまの森のほうはちゃんと弁償したいので、古書店情報など教えていただけたら幸いです。わたくしあまり、そういう方面は詳しくないので。

 しかしまあ、男はだらしない。
 わたくし兄と弟がおりまして、上は現在42才、下のは33才で御座います。
 どちらも独身。
 ひどいもんです。
 先日青梅の兄のアパートまで、ちょっと作り過ぎたお稲荷サンの差し入れに行ったのですが、おっさん昼間から酔っ払っちゃってて、ガンズ&ローゼスを大音響でカケまくってて、ハダカで踊っておりました。
 死んでおしまいってなもんです。
 一方の弟は、たまにハガキが送られてくる程度で、二年前から失踪中。
 最も近しいのは、
「あねき元きか おレモレツにこいをしている ヤドではがきかいてるよ バカよせよ な こいってスばらしい けっこんするら。もすすぐ。字もとのオヤブにきに入れられた すべてよくなってカエりますだよ よせよ はいけい」
 消印、06,09/04新潟県湯沢市。
 弟、ぐれまして小卒ですの。
 
 ではまた。
 さちこ、でした。 








つんつんつん

2006-10-08 11:51:46 | Weblog
 今日はバイトも無いので(わたくしパートでco-opのレジ係やってますの)、のんびりしてます。
 いいお天気。
 風が強くて、お散歩してても帽子が飛ばされそう。

 秋きぬと目にはさやかにみえねども 風のおとにぞおどろかれぬる
 (春でしたっけ?)
 自転車を修理に出したり、ほの暗い部屋で、ラジオ聞いて過ごしています。
 
 はじめさん、早く帰って来ないかなあ。
 ナニやってんだろ?
 まあ静かでいいけれど。

 そう言えばノーベル文学賞、そろそろですね。
 受賞者の予想オッズが、こないだ新聞に載ってましたけど(イギリス人って、ほんと賭け事好きね。感心するわ♪)。
 ハルキ・ムラカミ氏は34倍。
 ディープインパクトが凱旋門賞で負けちゃったから、ちょっと幸先悪い感じッスカねえ。
 フィリップ・ロス氏は11倍。
 ニュージャージーのニューアーク生まれってとこが好きで、応援しているの。
 馬券買えるのなら、単勝にお小遣いぜんぶ突っ込みたい気分です。
 もう十年近く前にピュリッツアー賞のノンフィクションで勝った時は、嬉しかったなあ。
 未訳のものが、翻訳されるかなって。
 ぜんぜんだったけど。
 ハルキ・ムラカミもいいけれど、やっぱフィリップ・ロス、頑張れ~♪


 
 

 

さちこのヘキエキ

2006-10-07 23:21:57 | Weblog
 今日はいい月だわ。
 昨日は一日中スゴイ雨だったけど。
 駅のホームで、中空に浮かぶ、冴え渡った月を見て得した気分。
 秋って大好き。

 昔から気になっていたナボコフの「ロリータ」を読み途中。
 いやいや冗長冗長。
 鼻持ちならないペシミズム。
 死んじまえ。
 まあ半分以上読んでしまったので、我慢して読み切ることにしようと思う。

 ところで、いろいろ調べてみると、オノレ・ド・バルザックおじさんは、「近代小説の創始者」と呼ばれているらしい。
「近代絵画の祖」がたくさんいる(レンブラント、ドラクロア、クールベ、コロー、セザンヌ、ドガ、マネetc、)のと一緒で、こいつはあまり、当てにはならない。
 しかし一方で、バルザックおじさんを全否定する文学史的議論もあるようだ(今たまたま読んでる亀屋万年堂のナボコフも、この輩)。
 亀屋万年堂に言わせて見れば、わたくしのこの度のフカーイ感動など、子供っぽい、芸術の何たるかを知らぬ、マサチューセッツ工科大卒の、つまらぬ極東おんなの感傷と、切って捨てられる類いだということだ。
 まあ人はそれぞれだから、エイヒレにお酒が好きな人もいれば、甘党で、ほうじ茶でもすすりながら亀屋万年堂でもむしゃむしゃやってるのが好き、という人もいるだろう。それはそれでいいけれど、わたしにとっては亀屋なんかより、バルたんのほうがはるかに「斬新」ッス。「世界文学」ッス。「現代文学」でもあるッス。

 細かい感想は後日。
 気が向いたら、また書きます。
 

やっぱっぱ

2006-10-05 00:45:57 | Weblog
「ゴリオ爺さん」の面白かったところについて。

 たとえばラスト近く。
 文庫の七ページ半、ゴリオのイマワの際の愚痴(せりふ)がえんえん書き連ねてある。
 この間、本当に、せりふだけで七ページ半である。
 歌舞伎の切腹じゃアあるまいし、こんなバカな小説、温室育ちのわたしは読んだことない。
 こういうのを、芸術家たちは、バカにするんだろう。
 わたしはこんなの、面白い。

「原理なんてのはない、出来事があるだけだ。法則なんてのはない、状況しかないんだ」
 悪漢ヴォートランの、前半での長せりふの一節(なんて素敵な翻訳でしょう♪)。
 この小説が風俗小説でありながら、同時に観念小説であることを、わたしはここではっきりと認識した。
 
 そして、ウージーヌ・ド・ラスティニャック!
 この貧乏で野心家の青年のココロの葛藤は、本遍の主題のひとつである。
 貧乏・野心・苦悩・大・学・生! 
 ああ19世紀、パリの大学生!
 これよこれ。 
 ラスティニャックは、いつしか心の中で誓う。
「出世するぞ!」
 なんて具体的で、社会的で、小説的な。
 この「個・対社会」という構図、この、キリスト教圏の感じ。
  
 悪党がいかにも悪党らしく、たおやめはたおやめらしく、青年は青年で、青年らしく苦悩している。
 そしてゴリオの極端な父性愛。
 金粉を振りまきながら書いたのかと訝しくなるような、めくるめく貴族社会の絢爛豪華。

 まあマンガといえば、こりゃあひどいマンガだ。
 強烈な人物たちが「偶然」ヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ街の、同じ下宿屋に住んでいる。
 出世を熱望する青年には「偶然」貴族のおばがいて、ゴリオの娘も「偶然」貴族に嫁いでいる。
 しょっちゅう「偶然」目撃したり、「偶然」出会ったりする。
 芸術家さんたちがバカにするのも、こういうご都合主義なんだろう。
 わたしは、こういうの、面白い。
 
 まだまだ続きますわよ。