妻がいて孤独

基本的にふざけろ

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2008-03-01 17:49:49 | Weblog
    3
 日曜日。
 そとは雨。
 疲れがたまってもおり、いぎたなく眠り続けた。
 妻は掃除機をかけている。
「あなた、邪魔」
「はい」
 そういうときは、敷きふとんのへりをつかんで、全身でローリングする。シーツもケットも髪の毛も、いっしょくたに丸まっての、移動をなん度か繰り返した。
 午前十時すぎに、ようやく少ししゃんとして、無言で起きあがる。台所の対面にしつらえられた、かびくさいユニット・バスまで歩いていって、全裸になって湯をつかう。鼻唄のようなものをうなりながら頭をあらい、一週間ぶんのひげを剃った。
 ほつれたタオルで身体をふいて、洗面台に両手をついた。
 ひさしぶりに鏡を見た。よく寝たあとの、緊張感のかけらもない中年男の顔がそこにある。真上からの照明が目はなを照らし、疲れきってたるんだ皮膚のうえに、どこか凄惨な影をおとす。
 ニッと笑ってみた。口の端ばかりはよく上がったが、瞳にまでは力がおよばず、眠たげな、お義理ばかりに列席をはたした、宴会とちゅうの係長といったおもむきの表情に、ぬれた前髪がたれ下がっている。はれぼったい唇からふとく息をはき、しばらく目のまえの、おのれの真顔とつきあった。
「正視に耐え得る顔ではないな」
 四辺の白濁した鏡のなかで、男の唇がうごく。
 なにかおもしろいせりふを返そうと思い、少し考えたが、出てこなかった。
 パンツをはいて、暗い台所から、六畳間につうじるガラス戸を見る。格子にはまった安っぽいくもりガラス一面に、青やピンクの光が走ったり、翳ったり。引き戸を開けると、声優たちの元気いっぱいの声が、半裸のぼくに、固体となっての直撃をくりかえした。
 TVの前では、妻がとぐろを巻いている。また、アニメ攻めである。
 疲弊した筋肉の弛緩するのにまかせて、ひざから崩れて横たわった。畳のちくちくするのに辟易して、すぐにごろりと仰向けになる。
 模様のはいった窓ガラスが、さかさまになって見えた。それは年月をへて黒く変色した木の窓枠に四角くおさまって、そとの世界を白濁した単色にぬりつぶしている。雨つぶが、ときおり横風にあおられてぶつかって、ばらばらと鳴った。どこからか飛ばされてきた葉っぱも、窓ガラスのそこかしこにへばりついて、濡れてみどり色ににじんでいる。
 ぼくとはあまり直接関係なさそうに思える冒険譚は、エンディング・テーマがあって次回予告になって、ぷつんと切れた。
寝たまま、妻のほうをむく。
「お金ちょうだい」
「お金」
「お金さ」
 とぼく。
「いくら欲しい?」
「いくらあるの?」
「千円チョット」
「千円ちょっと、かいな。ふうん」
 いきおいをつけて立ち上がる。そのまま窓枠に片あしをかけて、右手のふとい二本の指を、引き戸の、ちょっとへっこんだ部分にかけた。模様のはいった窓ガラスを、ひと思いに開ける。白濁したばかりだった世界が、遠くに見えるガソリン・スタンドの看板や、国道沿いに立つ街路樹の色彩をともなって一変する。風がつよく六畳間に吹き込んで、雨つぶがパンツ一丁のぼくの身体を打ちつけた。あたたかい風で、思わぬ気持ちよさになんだか晴々としたこころもちになる。空には雲が、すごい早さで走っている。西へ、西へ。
「これ、ナポレオンかな」
 と,ひらめいた。意味はありません。
 で、きょとんと見ている妻を睥睨し、左手を胸のあたりに、きざにもってゆき、
「ナポレオンだア」」
 と、実際に言ってみた。繰り返しますが、意味はありません。
 ただこれが妻に受けて、彼女は畳のうえをのたくって、腹をよじって笑うのです。
「アハハ、アハハ」と。
「わしアのう、オレポナン」
 と間違えて、ずっこけた帽子をなおす仕草をしてから、
「いやいや」
 とふたたび大仰に、おごそかに。
「ナポレオン。ナポレオン・ボナッパアルトだぞ」
「アハハ、アハハ」
「馬はどこだ。馬、わしの馬」
「ハハハハハハハ」
 大口をあけて、赤い目になみだを浮かべて笑います。小学校も出ていない彼女が、ナポレオンとその運命を知っているとは到底かんがえられないのですが、たぶん半裸で、ばかなポーズを取っているという、こういうレヴェルの低い笑いが、好きなんですね。
 調子に乗って、六畳間をギャロップしながらぐるぐる回り、
「千円チョット、よこせイ」
 と命令する。妻はよたよた、という感じで四畳半に引っこんだ。
 勝負だ、と思い、ことさら滑稽な声色で、
「早く、よこせイ」「ぜんぶ、よこせイ」とふすまにむかって連呼する。近所に聞かれたらまずいなアという心配が首をもたげもしたが,日曜日の午前、世間のやつらもリラックスして過ごしていやがるんだろうとも思う。

 無地のティーシャツに、安物のジーンズ。
 暗い玄関でサンダルをつっかけ、表へ出た。
 ポケットには、首尾よくせしめた一千数百円。
 ビニール傘をさして、そそくさと駅をめざす。
 住宅地をぬけて、少し広い道に出る。舗道を歩くうち、傘が必要ないほどに晴れてきた。白いパイプのガード・レールを、たたんだ傘で叩きながら、空をあおぐ。雲が流れていて、風にあおられた電線が、びゅうびゅう鳴っている。
 約束の時刻に駅についた。駅舎の赤い屋根は陽をあびて光っていて、樋がこわれているんだろう。雨水が屋根からきらきら光って、滝のように落ちている。その水音のむこうの暗がりに、見あまりようもない弟の、持ちぶたさな後ろ姿があった。掲示板を眺めている。
「おす」
 横にならんで声をかけた。
「あア」
 その声は、砂漠の星夜を思わせる。
「なに見てんだい」
 掲示板のなかの、目立って色彩豊かな一枚を、あごでしゃくった。
 プロレスのポスターである。聞いたことのない団体の主催するところの興行で、この町の公立中学校の体育館が、太字でうたってあった。日づけを見たら、つぎの週の土曜と日曜。 
 で、訊いてみた。
「行きてえのか」
「いや。まさか。そうじゃねえけど」
 と弟。
「ポスターだけで、じゅうぶん面白い」 
 一番大きな写真でうつっているのは、ぱんぱんに張って、よく焼けた二の腕をことさら誇示し、豊富な黒髪を横になで付けた、平凡な顔だちの男だった。稲妻のような自体で書かれた彼の名前も、漢字四文字の平凡なものだった。そのつぎに大きいのは、そのとなりのマスクマン。両手を、ちょうどおんな人のおっぱいを揉むような形にして、それをうえに掲げるといった、威嚇のポーズでこっちをむいている。これは全身像で、写真の合成があまりうまくいっておらず、赤いブーツが不自然に宙を踏んでいる。
「どっちが強ええんだろう」
 とぼく。弟は首をかしげてから、うすく笑う。
「そういう問題でもねエんじゃねえか」
「まアな」
 それですこし打ち解けて、顔を見あわせた。野郎は黒い、つるの細いサン・グラスをかけている。
「ところで義男、荷物はそれだけかい」
「ああ」
 肩にかけた、たぶん千円以内のリュックを揺する。プラスティックのかちあう硬い音。
「そんなに長くいるわけでもないし」
 白い襟付きのシャツに、ちょっと高そうなジーンズにスニーカー。不安にはんして、弟の生活はそれほど自堕落でも、不潔なものでもなさそうだった。
「食いもん買って行こう」
「うん」
 駅舎をあとにして、陽の当たる道にふたり並んで出た途端、夏が始まった。いつのまにかすっかり顔を出した太陽は、ぬれたアスファルトをさながら沖へとつづく海面のように光らせ、往来を吹きぬける風にはかすかに潮のにおいがした。街路に立つ木々から、その繁れる葉にためこんだ雨水が流れ落ち、それらは地面にとどく手前ですっかり蒸発し、町じゅうを肌にからみつく、真夏の空気に変えた。家々の屋根、軒からこぼれるしずくのうち、多くは江戸前の風鈴となって色づき、いっせいにカラカラ鳴り始めた。
「いや急に暑くなりゃアがったなあ」
 弟が、背後の太陽を振り仰いで言った。
「こっちこっち」 
 手をひかんばかりにして、横道にはいる。でこぼこの日陰が続いていて、ところどころ、家並をぬって差しこんだまばゆい光が、横縞のすじを道に落としている。木造家屋のまえで、老婆がおもてに出した椅子に腰かけている。通り過ぎるとき、手に持ったうちわで少し扇いでくれた。
「義男、そう言えば金、ちょっとはあるのか」
「まあ、ね」
「そうか」
 暑気から逃げるようにして、突きあたりに建つ平屋のスーパー・マーケットに入った。
 夫婦で営んでいるような小さい店で、目がなれてなお、うす暗い。大のおとな、それもおとこがふたりで買い物をする姿が珍しいのか、レジに詰める男が、いらっしゃいと声をかけたまま、大きいまるい目を開けて、ずっと見ている。
 食材をあらかた選びおえて、かごをカウンターに置くと、
「あんたたち、兄弟でしょ」
 と、思いがけないことを言う。
「わかるかい」
「わかるね」
 男はゆっくり頷いた。そして、かごの中のながねぎを取りあげ、
「あんたたちは、おんなじ野菜だ」
 と、断じた。
「それぞれは別モンでも、ほかとは見間違いようがない」
 それを白菜としゅんぎくの上に乗せて、こっちにまるい目をむける。
「含蓄ありますなア」
 と義男。
「ついでに負けとくれよ」
 と、ぼくが有り金すべてポケットから出して並べると、ひいふうみい、と数えてから、
「ちょっと足らねえけど、まいどありッ」
 と鼻のあなを広げて宣言した。ビニール袋をさげ、自動ドアから出るぼくたちの背後から、「あっ。スタンプ・カード押すの、またまた忘れちゃったよ」というつぶやきが聞こえたが、そのまま無視して外にでる。
「偉そうに。ひとを野菜にしやがって、ばかにしてやがらア」
 海風の中を歩きながら、義男が吐きすてる。その声を聞いて、はっきり気づいた。野郎の声には、夜の景色を連想させる吐息が、いつしかすっかり影をひそめていたのである。それはたぶん、ぼくにも作用した力だったのだと思う。
その日アパートに戻り、妻の手なる十年ぶりのすきやきに満腹し、いきおいに乗って弟の有り金すべて吐き出させて買いに行かせた酒に酔い、夕暮れ、しょうべんついでに洗面台の鏡を見れば、そこに映っているのはけっしてお義理に列席をはたした酔眼の係長ではなく、なにかもっと、しゃべりたがっている生気ある顔だった。
 朝方の返事をしてやろうと思ったが、鏡のむこうの男が、四辺の白濁した鏡の中からすぐに消えてしまったから、またしてもなにも言えなかった。
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