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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

選抜出場校 こんなこと思い出しました2018 その5

2018年03月05日 | 高校野球

思いつくまま、気の向くままの連載記事。
第5回『中・四国編』です。
今年は四国の明徳義塾が明治神宮大会を制して「明治神宮枠」を持ってきてくれたおかげで、中四国の枠は例年の5校から大幅にアップして7校。それだけ見る方も、楽しみが増えたことになりました。
近年低迷が叫ばれていたこの地区ですが、今年は明徳義塾が全国制覇を狙うなど、レベルアップが見込まれており、楽しい春になりそうな気配ですね。

 

≪選抜出場校の思い出5≫

中国代表  おかやま山陽(岡山)      初出場
                             夏1度出場  甲子園通算0勝1敗

岡山から選抜初出場を決めたおかやま山陽。昨夏初めて甲子園の土を踏み、勢いに乗って秋も躍進しました。昨夏は甲子園の雰囲気にのまれた格好で、聖光学院の前に何もできずに完封負けを喫しましたが、この春は何とか初の甲子園1勝と行きたいものです。近年岡山では、関西・倉敷商・岡山理大付などをはじめとするの伝統校に加えて、創志学園・岡山学芸館・興譲館、そしてこのおかやま山陽などの新興勢力が力をつけて、群雄割拠の戦国時代を演出しています。しかしながらこのどこの学校も、甲子園で戦績を残すというところまで行っていないのが現状です。かつて「野球王国」とまで言われた岡山県勢が、甲子園で活躍できなくなって久しい現在、おやかま山陽に岡山勢復活の起爆剤になってほしい、県民はそう考えているのではないでしょうか。



中国代表  下関国際(山口)     初出場
                             夏1度出場  甲子園通算0勝1敗

こちらも全く上記のおかやま山陽と同様、昨夏に初めて甲子園の土を踏み、勢いに乗って秋を駆け抜け初の選抜を射止めた学校です。昨夏の甲子園では、監督が猛練習で選手たちに「やればできる」ということを植え付けて・・・・という、スクールウォーズの世界のようなチームであることが紹介されていました。甲子園では三本松に対して大敗を喫しましたが、その経験を糧にチーム力を伸ばしてきているのか否か。岡山県と同じく、この山口県勢も近年甲子園での成績を残せていません。80年代~00年代初頭にかけては、宇部商、岩国をはじめとした公立の名門校が実にいいチームを作って甲子園にやってきて、「山口県勢といえば粘り強い」ということを甲子園で満天下にとどろき渡らせていましたが今は昔。近年はその公立勢が相対的に力を落とし、それとともに甲子園で勝負できなくなってきています。こちらもまた、目の肥えた県民のファンをうならせるような強豪の出現が心待ちにされていると思います。



中国代表   瀬戸内(広島)      3度目(27年ぶり)
                             夏2度出場  甲子園通算 3勝4敗   

昨夏の広陵の大躍進が記憶に新しい広島県勢。やはり中国地区の中では、「甲子園に出てきて何かやるのは広島代表」と言って差し支えないでしょう。県内の高校数もダントツで多く、しかも今も変わらぬ野球どころ。そんな中で、今年は瀬戸内が選抜出場を果たしました。この瀬戸内に関して、思い起こされるのは3つですね。まずは初めて甲子園に登場した77年選抜。当時、広島商、広陵の2強に崇徳を加えた3チームが覇権を争っていた中、この瀬戸内が何げな~く登場してきて、選抜に初出場してきました。あまりにも特徴のない普通のチームで、そして選抜では優勝候補の早実と初戦で激突し、これもまた何げな~い試合で、あっという間に去ってしまったという印象があります。当時のワタシ、広島代表といえば前年に全国を席巻した超大型チームの崇徳とか、ものすごい戦術を駆使する広商とか、とにかく「広島代表はものすごく強い」という刷り込みをされていたもので、このあまりにも淡々とした”無色透明の”チームであった瀬戸内に、何か妙に心惹かれる思いがあったのを思い出します。そして2つめの思い出としてはやはり後原監督ですね。”プロ野球経験者の甲子園監督第1号”となった監督で、長いプロアマの確執のなかでの雪解けの第一歩を記した監督です。そんな後原監督の”大河の一滴”は、今は大きなうねりとなって、たくさんの「元プロ野球選手」の監督さんを生み出しています。その後原監督、自身初の選抜出場となった91年には、このことが大きな話題となりました。そしてこの後原監督、他の高校野球監督とはその指導スタンスが大きく違って、「甲子園だけがすべてではない」と勝利至上主義を真っ向から否定して、選手の自主性を重んじ、自分で考える野球を実践していました。ワタシの頭の中では、この後原監督は、高校サッカー界においての静岡学園・井田監督と被るものがあり、注目してみていた覚えがあります。2000年にも夏の甲子園に出場。いい指導をしているも、甲子園にはなかなか届かなかったという印象もあるのですが、彼の「指導哲学」の中に、「甲子園に行ったからなんぼ」というのは、まったくなかったのでしょう。そういうこともあって、瀬戸内高校というと、なんだかとてもさわやかな印象があるんですね、ワタシの中には。そして3つめの思い出はなんといっても、山岡投手ですね。2013年に久しぶりに夏の甲子園出場を果たし、甲子園でも明徳義塾と熱闘を繰り広げたのですが、山岡投手といえば甲子園の試合ではなく、なんといってもハイライトは広島大会の決勝でしょう。広島新庄との決勝になったこの年の広島大会。ご存知のように、瀬戸内の山岡、広島新庄の田口の両校投手のまれにみる投げ合いで、延長15回を0-0の引き分け。そして再試合でも1-0という、両投手のまさに「鬼のような気迫の投げ合い」に魅了されました。両投手ともに160センチ台の、昔風に言えばいわゆる「小さな大投手」の風情で、もうそりゃあ、「打てそうにない球」を投げ続けていました。幸いにこのころになると、他の地区在住でもテレビの画面でこの好試合を観戦できる環境が整っており、ワタシはこの決勝を見ながらつくづく「こんな高校野球氏に残る好試合、本当に見られてよかったなあ」と思ったものでした。それ以来、田口投手、山岡投手のことはプロでも注目してみています。両投手ともに「プロとしては体格的に、どうかなあ・・・・」といわれていたものの、その有り余る素質でそんな声をはねのけ、今や若くしてプロ野球を代表する投手の一人に数えられる存在になっています。山岡投手の存在自体が、「瀬戸内高校」という名前を、全国に強烈にアピールする源となっています。そんな瀬戸内が選抜には27年ぶりに出場してきます。キビキビとして、なんとも言えない雰囲気を醸し出すチーム、ワタシは大いに注目しています。





四国代表   明徳義塾(高知)    18度目(3年連続)
                             夏19度出場 甲子園通算 57勝35敗  優勝1回   

今年も明徳義塾が、甲子園に出場してきました。00年代に入って、聖光学院、智弁和歌山、大阪桐蔭らと並んでこの明徳も、「甲子園出場が年中行事」の常連校の地位は揺らいではいません。この明徳、智将・馬淵監督に率いられ、37回も甲子園に出場しながら、いまだに決勝に進出したのは優勝した02年夏だけというのに、驚きを感じるファンも多いと思います。大阪桐蔭や智辯和歌山などと比較して、『最上位までは駆け上がれない』という歴史に、ベテラン馬淵監督は今年こそ終止符を打とうと目論んでいます。そのために明治神宮大会を、明徳には珍しくシャカリキに取りに来てそして秋に一足早く「全国制覇」を成し遂げました。今年の明徳、ちょっと今までとは、気合の入り方が違います。本気の本気で、紫紺の旗を獲りに来る春となることでしょう。さて、その思い出については、昨年、一昨年の記事を書きにコピーしましたので、ご覧ください。

昨年の記事;(コピー)

昨年は『お約束』の春夏連続出場を成し遂げた明徳義塾。まさに甲子園は『年中行事』の一つでしすが、春は何もできないまま初戦敗退し、甲子園の初戦は絶対に落とさないという『明徳神話にも陰りが出てきたか』と噂されました。しかし夏は見事に立ち直って4強に進出。明徳健在を力強く印象付けました。そのいい流れを汲んだ今年のチームは、馬淵監督をして『今年のチームで全国制覇を狙う』と宣言するほど自信を持ったチームのようです。総合力が高い明徳は、県内、そして四国内でライバルチームが少ないという事情もあるものの、およそ30年にわたって『3年明けたことがない』ぐらい頻繁に甲子園へ足跡を刻み続けてきています。しかし四国はかつての”四国四商”が元気だったころと比べて、明らかに地盤沈下を起こしている印象がぬぐえません。『四国の代表は、どこでも甲子園の優勝を狙える』と言われたのは今や昔。昨年は高松商が久しぶりに甲子園を沸かせてオールドファンが歓喜に包まれましたが、今のところ四国勢で『間違いなく全国制覇を狙える』というチームは、残念ながらこの明徳をおいてほかにはないという状況が続いています。それだけに明徳にかかる期待も大きいのではないかと思われます。今年馬淵監督をして『優勝が狙える』と豪語するこの明徳のチームが、全国の強豪に対してどんな戦いをするのか、全国のファンはかたずをのんで見守っている・・・・・という感じですね。

昨年(一昨年)の記事 ⇒

高校野球ファンにはおなじみの明徳義塾。良しにつけ悪しきにつけ、本当に話題になるチームですね。『何もない』須崎半島の山の中にでんと校舎を構え、まさに『虎の穴』のようにスポーツ選手を鍛え上げる、特徴を持ち筋の通った学校です。野球のみならず、ゴルフ、相撲、サッカーなどなど、有名スポーツ選手の輩出は引きも切らず、『こんな田舎から、こんなすごい選手が』と驚きを持って、世間からは見られています。高校野球の世界でこの明徳の名を初めて耳にしたのは1979年(昭和54年)。それまで3強(高知商・高知・土佐)が覇権を独占していた高知の高校野球界に、『何やら新興の私立で、野球にえらい力を入れる学校ができるらしい』との噂が。それが明徳でした。初代監督に高知商の監督などを歴任した老将・松田監督を据え、素晴らしいグラウンドと全寮制の施設を兼ね備えた『本気で甲子園を狙うチーム作り』が話題になりました。翌80年、春の選抜で中西投手を擁する高知商が悲願の全国制覇を達成。高知はまさに『高知商の時代』が到来していましたが、この『最も強かった高知商』に果敢に挑んでいったのが明徳でした。のちにプロ入りする河野(元日ハム・巨人)をエースに、4番には横田(元ロッテ)を据えた『自称実力全国一』のチームは、高知商を土俵際寸前まで追い込んで、まざまざとその力を見せつけたものでした。そして57年春には初めての甲子園へ。これが明徳の甲子園デビューなのですが、その時がまたすごかった。前年の明治神宮大会で早実を力で破って見せて初出場ながら優勝候補の一角に堂々と名を連ねていた明徳。初戦では瀬田工(滋賀)を難なく退け、2回戦で”優勝候補筆頭”の箕島と対戦しました。この勝負が延長14回の逆転に次ぐ逆転の、『選抜名勝負』のひとつに数えられる激闘。明徳はこの試合で、松田監督の試合後の『武蔵が小次郎に敗れたわい』という名言とともに、甲子園のファンに『明徳強し』を印象付けたのでした。翌58年センバツでは、準決勝で夏春連覇を狙う【最強池田】に堂々と挑んで、8回までリードという試合を繰り広げました。最後は逆転負けしましたが、『明徳はさすがに高知でもまれた強豪だ』と、誰もが思ったものでした。ちなみにこの時期の蔦監督率いる【最強池田】も、明徳のことは大の苦手。蔦監督をして、『1県1代表になっていて本当によかった。もし昔みたいに、高知と南四国大会をやらなければならなかったら、明徳がいるけん、甲子園にも出れんかもしれん』
と言わしめるほど、あの池田にとっても、明徳は手ごわい存在でした。そこからしばらくの『昭和時代』の明徳が第1期だとすると、馬渕監督の『平成時代』
が第2期ですね。厳密にいうと、甲子園の試合直前に出場を辞退した05年までが第2期、そこからの苦難を経て現在までが第3期だと思いますね。
第2期の始まりは、物議をかもした星稜・松井の5打席連続敬遠という『負の遺産』を背負っての船出でしたが、その後はほとんど高知県で『明徳1強』の時代を築き、98年からは夏の選手権に7年連続出場という偉業も成し遂げました。(当時戦後最長の連続出場記録)その間、02年には悲願の全国制覇も達成。『明徳義塾』という名前は、高校球界の1大ブランドとして、君臨していきましたね。昨夏ついに止まったものの、【初戦勝利】の記録をずっと続けたのは、本当にすごいことです。何しろ、32度も甲子園に出場して、初戦で敗れたのがたったの3度。ものすごい記録です。しかし、それだけ初戦を勝ち上がりながら、まだ決勝には1度しか進出できていないというところに、明徳の隠れた『弱み』の部分がありますね。データを元に、試合を完ぺきなまでに組み立てられる初戦には無類の強さを発揮するものの、どんどん違う相手が出てくる上位まで勝ち進み、その試合を勝ちきるというたくましさを持ったチームが、なかなか出来上がっていないようにも見えます。そのあたりの課題に、ベテランの域に入ってきた馬渕監督、どんな答えを出していくのでしょうか。いよいよあの若かった馬渕監督も還暦を迎え、明徳の≪第3期黄金時代≫を築くのか?注目されます。




四国代表   英 明(香川)      2度目(3年ぶり)
                            夏2度出場  甲子園通算 1勝3敗     

香川からは英明が2度目の選抜出場を決めました。英明といって思い出すのは、元巨人のドラ1、松本投手を擁した11年夏のチームですかね。あの時の松本投手はセンセーショナルでした。左腕からキレのいい球を、まさにビシビシと投げ込んでいく感じでしたね。それを見て巨人もドラ1指名を決断したんでしょうから、あの夏の甲子園での投球は見事なものでした。そのチーム以外の英明は、甲子園では勝利を挙げられていませんが、チームカラーとしては「強打のチーム」というイメージですね。この英明をはじめとして、香川県内には尽誠学園、寒川、香川西など関西からの野球留学生をチームの中心に据えた私学の台頭が目立っていましたが、初期の尽誠学園以降、どの学校もあまり甲子園で実績を残せていませんね。逆に県内の高校野球ファンは、一昨年春の高松商や昨夏の三本松、丸亀などの公立名門校が甲子園に出場するときは、非常に応援の「温度」も上がっている感じがします。特にベテランのファンの思い入れの強い【四国四商】の高松商の活躍には、ファンの目の輝きが違いました。そんなファンの目の輝き、英明も甲子園で快進撃を続ければ、手に入れることができると思っています。何せ香川の人たち、本当に野球好きですから。そんな大ブレーク、いっちょ起こしてほしいですね。



四国代表   松山聖稜(愛媛)      初出場
                            夏1度出場  甲子園通算 1敗     

さて、今度は愛媛の「新興勢力」松山聖稜です。一昨年の夏に長身のアドウワ投手を擁して春夏初出場を決め、甲子園では準優勝した北海と互角の激闘を演じました。アドウワ投手の印象とともに、甲子園のファンにインパクトを残す戦い方でしたね。その時に1年生だった選手たちが最上級生となって、あこがれの聖地に再び登場し、今度こそ初の勝利を願っています。松山聖稜といえば、率いる監督があの沖縄尚学で感涙の選抜全国制覇を成し遂げた時の選手であった荷川取監督。ちなみにその時のエースが、現在沖縄尚学で指揮を執る比嘉監督です。いつの日か両校が甲子園の地で相まみえること、楽しみにしているワタシがいたりします。愛媛といえば正岡子規を生んだ日本有数の野球どころ。愛媛県代表校は、長らく甲子園での勝率日本一を誇っていました。全国制覇も10回、準優勝が8回と、なんともまばゆいばかりの球歴を誇ります。逆に言えば、それだけファンの目も厳しく、簡単に負けて帰ってくるようなら、ブーイングを浴びるぐらいの覚悟が求められます。しかし近年の戦績は今一つ。甲子園では「済美以外は、よう勝たん」という状態が続いています。そんな状況に、この松山聖稜が風穴を開けられるか?思えば昨年初出場の帝京五は、東京の帝京高校で選抜準優勝の小林監督が指揮を執っていました。そして今年は荷川取監督。他県出身の元甲子園球児たちが、「野球の発祥の地」ともいえる愛媛の高校野球界で奮闘し、新しい風を吹かせようとしています。近年、あの一色監督(松山商、新田監督)や上甲監督(宇和島東、済美監督)などの全国の名将といわれた監督が亡くなり新しい時代に向かう中、今年の松山聖稜の活躍が、期待されています。




四国代表   高 知(高知)      18度目(5年ぶり)
                            夏13度出場  甲子園通算 34勝28敗 優勝2回 準優勝1回     

高知県とは浅からぬ因縁を持ち、高知県代表を応援し続けているワタシ。そのワタシにとって、高知商、土佐らと並んで特別な響きを持つ高校がこの高知です。早稲田カラーのえんじのアンダーシャツを身にまとい、胸にKOCHI。そのユニを見ただけで胸躍ってしまうワタシがいます。ワタシが高校野球にどっぷりはまったころの昭和50年代、高知と高知商、その2チームは本当に強かった。これに土佐を加えたつばぜり合いの中、甲子園にどこが出場するかは、大いに注目の的でした。そして出場したチームは、8強は当たり前。そんな時代、高知県はわずか20数校の加盟校しかないにもかかわらず、全国屈指の「野球強豪県」として君臨していました。そんな中で高知高校。ワタシが物心ついたときは、有藤、弘田らの卒業生がロッテで活躍しており、そのころはそんな関係でロッテを応援したりもしていましたっけね。ワタシが強烈に印象に残っているのは、75年春の選抜。原辰徳がいた東海大相模を決勝で下して選抜初優勝を成し遂げた年です。高知には三塁手に”超高校級”のスラッガー杉村が君臨。東海大相模・原とのスラッガー対決に、甲子園は大いに沸きました。この決勝の写真の中に、タイムリー3塁打の後3塁ベース上に立つ原に、杉村が何やら話しかけているというものがあります。その写真、「恰好いいなあ」と子供心に、大いに刺激された思い出がありますね。そのころはまだ、「スター選手」といえばまずサードを守っていた・・・・・そんな時代でした。延長13回で10-5の決着。それまでの甲子園で、そんな決着の仕方をした試合はあまりなかったので、この打撃戦には大いに酔いしれました。この高知のチームの中に、現在の春日部共栄の本多監督がいたりするんですね。だから、春日部共栄のユニフォーム、高知とそっくりでしょ。そんな高知ですが、甲子園で輝きを放っていたのはこの70年代まで。80年代になると、その勢いはぱったりと止まり、高知商、そして明徳にいいようにやられてしまう時代を迎えてしまいます。県内を勝ち抜けないのはもとより、県内を勝ち抜いても甲子園では思ったような成績を上げられないこともしばしば、という感じで今日まで来てしまっています。県内の公式戦、とりわけ夏の選手権大会予選で、明徳の前に屈したことは数知れず。80年代から2013年までは、甲子園に13回も出場しながらその間わずか3勝。3勝12敗というあり得ないような戦績で、明徳には何か腹に一物持っているベテランのファンにさえ「やっぱり明徳じゃなきゃ、甲子園では勝てん」とまで言われていました。しかし、2013年選抜で、本当に本当に久しぶりに、高知のエンジのユニが甲子園で躍動する姿を、目に焼き付けることができました。今までのうっ憤を晴らすような活躍で4強まで進出。準々決勝で優勝候補の仙台育英を破った時は、「こりゃ、優勝まで駆け上がるかも」と期待しましたが、準決勝で同じ四国の済美に接戦で敗れて頂点までは届かず。「絶対に勝てる」と思っていた試合を落としたので、かなりへこみましたね、あの試合は。これで『名門復活ののろしを上げたか?』と思いましたが、この辺りからまた明徳が勢いを盛り返してきて、厳しい戦いを強いられています。何しろ、2011年から2015年までの5年間、常に明徳と決勝で対戦すると、図ったようにすべての試合で1点差負け。接戦に持ち込んでいるだけ、本当に悔しい負けが続いているのです。そうこうしているうちに、2016年は中村に、17年は梼原に決勝に到達する前に敗れて、明徳の前までたどり着くこともできず、昨年の夏の大会後はワタシも高知高校のチームとしての退潮傾向を感じざるを得ませんでした。しかしながら、昨年の秋。高知高校は秋季四国大会の8強で敗れるものの、その四国大会を制した明徳義塾が明治神宮大会も制して「明治神宮枠」を持って帰ってくれたおかげで、まさかの選抜出場が転がり込んできました。例年の枠数であれば、考えられなかったことです。しかも長年のライバルであり、常に頭を押さえられる続けてきた明徳のおかげで、甲子園が転がり込んできたんです。明徳には感謝しつつ、これはやるしかないでしょう。こんなチャンスはなかなかないだけに、実力云々はさておいて、甲子園で「ここに高知あり」を証明してもらいたいと思っています。本当に楽しみな選抜です。



(つづく)

 

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