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ロシア版ホームズの連作をDVD化しましたAlt-artsです。
映画やDVDについて徒然なるままに書いていきます。

推測と流行と文献主義に依存する「学問」

2010-02-06 08:45:04 | 日記
創作家や文化産業に携わる人間(映画人も勿論そうだ)は、生涯、文化や経済や社会の現実と直面しなければならない。

スタジオシステム崩壊後の映画では、企画から完成・公開まで1年以上はかかるので、もしもヒット作を製作したければ、プロデューサーや監督は、流行を追うのではなくそれに先行しなければならない。

『蟹工船』が流行したからと言って、それを原作にした映画が売れるわけではないのは、一つにはそのためだ。
スピルバーグやルーカスが若い頃に監督した『ジョーズ』や『スターウォーズ』を、公開までは売れるかどうか確信が持てず、「これで自分の人生は終わった」と落ち込んだりハワイに逃げていたと言われるのは、前例のない作品を作った(流行に先行した)ためだ。彼らは映画人として、若くしてリスクを負い、結果的にはその報酬を得たわけだ。だが、同様にリスクを冒して破産した人々も大勢いたはずである。

文化産業は、規模が大きくなればなるほどリスクもそれだけ高くなり、「新奇さ」と「規範性」との間のバランスを見出す事が難しくなる。外れる確率もそれだけ高くなるのだ。

これに対して、学問、特に人文系の学問は、大抵の場合は極めて安全な領域でしか仕事をしていない。
中でも最も安全なのは、既に「古典」と見なされている作品や文献に「新しい光」を当てるという口実で、どうでもいいような歴史的な細部(大抵はある概念の語源やその「政治性」等の「文献学的」解明に過ぎない)を、さも重要なことのように論じるタイプの研究である。このような研究は、実際には現実社会には何の影響も与えることがない。

次に安全なのは、同時代の流行に乗ることであり、国内政策や欧米の思想潮流が変わると雨後の筍のように新しい「学会」が生まれるのもそのためだ。

学問的にはそれらほど「安全」ではないが、専門外の人でも易々と他人の土俵に踏み込んで新しい「対象」を見つけることができるのが、流行に乗って単なる「推測」を事実と思い込んで行われる各種の「研究」である。
そこには自然科学の世界で要求されるような対照実験も反証による検証もなく、数字も自分に都合の良い、自分の知っている国(せいぜい、日米英の三カ国)のものしか用いられず、最悪の場合にはそのような「研究」が同時代の政策に反映されてしまったりするのである。

「新自由主義経済」とはそのような、「推測」と「流行」に基づく無責任な「学問」を理論的基盤として行われた、生物学で言えばソ連のルイセンコ学説的な似非学問であり、文化の領域にまで様々な亜種をもたらした、最悪の思想の一つであった。この思想が蔓延が青春時代と一致していた人々には、私の知る限り、前出のような「推測」や予断に基づく薄っぺらな考えしか持たない若者が多い。
科学的精神も、人文系学問を尊重する姿勢も、欠如しているのである。自分が現実とは何のかかわりもない抽象的なモデルを作り上げていることにすら、気づいていない場合さえある。

これが、15年来の日本の文教政策の「成果」なのである。

映画に関する言説の重要性

2010-02-04 21:07:34 | 日記
マンガのような映画ばかりヒットするようになったと、心ある劇場の支配人たちはぼやいているそうだ。
「マンガのような」というのは、マンガが原作になっている映画だけでなく、テレビのアニメシリーズからの派生作品や、マンガ的な演出の実写映画も含めての話だろう。

動く映像は何でも「マンガ的」「エンターテイメント」化しているのだろう。しかし本当に、劇場まで出かけて、1800円も払って、2時間もの間そのような映像ばかり観ていられるものだろうか? 私は御免である。昔から映画が好きであった人々も同じ思いだろう。彼らはイーストウッドの『チェンジリング』のような作品に喝采は送っても『ONE PIECE』を映画館で観ようとは思わないだろう。

世界の他の(日本以外の)映画製作国で、これほど映画の「マンガ化」を促進し、その結果に対して無責任な態度を取りつづけている国はない。まるで「儲かりさえすれば何でも結構」とでも言わんばかりである。それは、60年前のアメリカよりも寡占に甘く(当時のアメリカ司法省は8社に対して訴訟を起こしたが、今の日本はほとんど2、3の会社が映画興行を事実上支配している)、「メディア芸術」概念の非歴史的な出自を隠そうともしない(「メディア芸術プラザ」のサイトを見よ)、そういう姿勢に明らかではないか。

国民を舐めているのか、と言いたくもなる。

更に悪いことには、本来なら国民の血税が無駄にならぬように、こうした曖昧模糊とした概念や文化政策に対して多少なりとも「監視」を行い「批判」すべき大学人が、日和見主義的或いは風見鶏的な態度をとり続けてきたことだ。
彼らは一体、何のために高給をもらい、社会的地位を享受しているのだろうか?
正直言って、彼らは映画について語る資格も、更には文化について論じる資格もないのではないか? そもそも「メディア芸術」なる、結局映画にとってはマイナスにしかならなかった非歴史的概念を捏造したのも、大半が大学人からなる懇談会だったと言う。

映画文化は、映画に関する言説がまともでなくなった国では急速に衰退する。
映画文化が衰退した後の映画産業は、その後を追う(今年は某大手数社が絡んだマンガの実写化が大失敗すると予想される。よくもあんな馬鹿げた企画を通したものだ)。

1950年代の「キネマ旬報」や1960年代の「ソヴィエト・スクリーン」には、映画学者やそれに近い実力を持つ批評家の言説と、一般観客向けの新作広告やサービスとが共存していた。それが映画「黄金時代」の一つの特徴なのだ。今はどうだろうか?
映画に関するまともな言説は広く世に行き渡る状況にあるだろうか?

スタジオシステム崩壊後の今、そのような言説が生き延びるための環境を作るのは、国の役割である。
他の主要映画製作国では、そのような言説は国家助成を受けた映画専門誌(イギリスの"Sight and Sound"やロシアのИскусство кино)によって、映画に関する専門的言説の水準と多様性とが保たれ、「学界」の文献学的な窮屈さを免れて、熱心な観客の目に触れてきた。
それだけでは映画文化は存続しないだろうが、少なくとも非常に重要な要因であること確かである。これまで誰かその事を指摘しなかったのだろうか? 

ヒット作の興行成績は映画の復活を意味しない

2010-02-03 00:47:41 | 日記
今日本で大ヒットとされる映画作品を、何人の観客が映画館で見ているだろうか?
『崖の上のポニョ』が1000万人以上だったと言われているが、正確な数字は分からない。

しかし、1000万人というのは国民全体の10分の1以下でしかない。
10人に一人が見て「大ヒット」ならば、映画の全盛期にはそのような作品は一年間にかなりあったはずだ。
ちなみに、映画が「黄金時代」だった頃のソ連には正確な観客動員記録が残っていたが、当時2億以上の人口を抱えていたとは言え、1000万とか4000万人以上の動員がざらにあって、タルコフスキーの『惑星ソラリス』でも1000万人以上、『モスクワは涙を信じない』等の「国民的」ヒット作は7000万人前後、最大のヒット作では9000万人以上という数字がある。つまり、大ヒット作は国民の4人に1人程度が見たことになる。

日本でもアメリカでも、「興行収入」のことは語られるしデータも発表されているが、実際の観客動員数は推定でしかない。DVD等による映画の鑑賞者数に至っては、購買だけでなくレンタルも含まれるので推測の域を出るはずがない。
大手レンタルショップが料金の値下げを相次いで行った事を見れば、全体として決して増えてはいないだろう。十分な需要があれば、旧作280円だったものを100円に値下げする必要はないはずだ。商品でもサービスでもそうだが、値下げする理由は当該商品(この場合は劇映画のレンタルソフト)の人気に陰りが出始めたからである。

日本映画製作者連盟の公表した21年度の「劇映画ビデオソフトの販売と鑑賞人口推定」と題するデータによれば、映画鑑賞人口は6億8,599万人で、昨年度比98.4%だという(http://www.eiren.org/toukei/index.html)。
レンタルも含めれば日本人は平均して年間6回程度はお金を払って劇映画を見ている、ということになるのだろうか。だが、映画館の利用回数はその6分の1程度しかない。この比率は非常にいびつだと言わざるを得ない。
映画ファンならばもっと頻繁に映画館で観ている可能性はあるが、全体として、購入すれば2000円も3000円もするビデオソフト(DVDが大半だろう)を映画館よりも多く利用しているからには、何かそれなりの理由があるだろう。かく言う私も、最近はソフトの購買やレンタルで見る映画の方が圧倒的に多い。

ビデオソフトの購買やレンタルによる鑑賞は、映画にとっては勿論、本来の形態ではない。映画館で観て気に入ったから購入するとか、もう一度観るためにレンタルするのはいい。
だが、「どこの映画館にもかからなかったから」或いは「地方までその作品が回ってこなかったから」「近くにそういう映画をかける劇場がないから」買う、借りるというのは、つまり興行や配給のシステムが需要に追いついていないということだ。また、「レンタルの方が安いから」劇場に行かないというのなら、それは劇場のチケットが高すぎることになる。

いずれにせよ、ヒット作の興行成績というのは映画産業や映画文化についてあまり多くの展望を与えてくれるものではないことが分かる。『ポニョ』を何千万人が見ようが、『ONE PIECE』を何百万人が見ようが、映画の黄金時代には及ぶべくもないのは明白であるし、それらの映画のヒットの影で公開延期や未公開に終わる映画が増えれば結局、映画の観客層は薄くなる。

大抵の場合、あれこれの作品やブランドに頼ったブームはかなり迅速に去るものであるし、国民の間で映画館で映画を観る習慣が徐々に失われていけば、その国の映画は衰退を免れないのである。

ロシアを「ソ連」と言い間違える人々

2010-01-31 10:55:24 | 日記
ソ連という国が存在しなくなってから、今年で20年目になる。

今時、ロシアを「ソ連」と言い間違える人間がいると想像できるだろうか? ところが日本にはいるのである。もうろくした老害でもホームレスでもなく、まだ50代の管理職の人間である。別に政治集会でも何でもない、民間会社のある会議の席だったので、本来なら「口を滑らせた」では済まない間違いである。
この例は、日本の支配層がいかに世界から遅れていたか、それを示しているように思われる。
そんなことだから、今の日本では、イギリスやフランスでは既に公開或いは特集上映されているような現代ロシアの映画作品が全く知られていないのだ。

大体、ロシア本国の劇映画でさえ、90年代初頭からソ連時代の歴史観を逆転させたものがかなり作られている。
「修正主義」的な歴史観に基づくそのような映画で最も早かった例の一つは、カレン・シャフナザーロフ監督の『皇帝殺し』(91)であり、故オレーグ・ヤンコフスキーと『時計じかけのオレンジ』に主演したマルコム・マクダウェルが共演し、カンヌ映画祭のコンペに出品された(日本未公開)。この映画ではニコライ2世とアレクサンドル3世を一人で暗殺したと思い込んでいる精神病患者と、その妄想に感染して自分がニコライ2世だと思いはじめる精神科医が登場する。
もう少し後の2000年前後には、もっとあからさまに修正主義的な歴史観を展開している映画が作られた。例えば、ニキータ・ミハルコフの『シベリアの理髪師』がそうである。
ごく最近の例は、今レンタルショップに「最新作」として並んでいるアンドレイ・クラフチュク監督の『提督の戦艦』(08)である。これは現代ロシア映画における「ハリウッド的」スタイルのかなり巧みな採用という点でも面白い。実際、下手なアメリカ映画よりは良くできている。

修正主義的な歴史観を展開するこれらのロシア映画は、映画としての芸術的完成度をイデオロギーによって損なっている場合が少なくない。
ただ、その辺りの微妙さは我々専門家にしか分からないと思う。
冒頭に挙げた、ロシアを「ソ連」と言い間違えるような人々には、それどころか内容すらよく理解できない可能性がある。自民党政権のもとでアメリカを礼賛・モデル化すればそれで通用した時代が実は20年前に終わっていたことにさえ、気づいていないからだ。

私が自分の会社からリリースしている「ホームズ」ものや、これから機会があれば日本に紹介したい作品は、歴史の修正主義とは全く無関係である。我々もイギリス人やフランス人のように、現代ロシアの映画を単に映画として評価すべきだと思うからである。

映画を映画的な質によって評価する、というのは、映画に対して職業的に取り組んでいる会社や個人にとっては当然のことである。我々は政治や歴史の問題に関わるべきではない。




ネット時代と映画

2010-01-31 00:17:15 | 日記
日本で映画館の利用者が減少し続けているのは確かだろう。
国民一人あたりの年間利用回数が1回以下になっても不思議ではない。

何故なら、今の30代以下の人々の多くは、映画とその他のメディアの本質的な違いが分かっていないように思えるし、映画を作っている人々でさえその傾向があるからだ。

実際、私が教えたある学生は、レポートで映画観客のことを「視聴者」と書いていた。「視聴者」はテレビを見る人々のことであり、映画を見る人々は「観客」であることを、その学生は意識していなかったのだ。

ネット動画を見る人々は「視聴者」だろうか。それは違うだろう。彼らは「ユーザー」と呼ばれているし、その呼び名は彼らの動画視聴スタイルにふさわしい。

「観客」(spectator)とは、ある場所に行き、特定の見世物(spectacle)を見る人々のことだ。ある場所にまで見に行くという行為は能動的であるが、見世物の壮観に身を任せる行為は受動的である。それらの行為の間にある落差は、そのまま、見世物に対する期待値を示している。古代から見世物は視覚的に豪華なものだったが、観客に視覚的イメージだけでなく同時に聴覚的イメージも与えていた。特に演劇ではそうだった。しかし映画では殆どの場合、視覚的イメージの方が優勢である。英語では、映画を見る人々をspectetorと言うだけでなくaudienceとも言うが、日本語における「観客」と「視聴者」の区別はまだまだ明確である。

「視聴者」(audience)とは、もともとは「聴衆」を意味した言葉である。
彼らにとっては「聴く」ことが中心であり、視覚的なイメージの受容は二次的である。ラジオやテレビは最初、ニュースや報道系番組、音楽やそれに近いバラエティー番組の放送からスタートした。そして視聴者は家から一歩も出ずにそれらを「聴いた」。今でも(どちらかと言えば昔風の)飲食店などでつけっ放しになっているテレビは、集中して「見る」ことではなく時々ちらちらと見ながら「聴く」ために置いてある。テレビ番組が基本的に言葉とBGMによって進行していくのは偶然ではない。それは基本的に、受動的で、「見世物」よりは注意散漫な消費を前提としている。

ネットの「ユーザー」は、動画をどのように視聴するだろうか? 集中して見る人もいるだろうが、それはたぶん「ダウンロード・コンテンツ」の場合が多い。YouTubeのようにリアルタイムで見る動画は、端的に言って「3分間の気晴らし」である。その短時間だけ、「ユーザー」はテレビの視聴者よりも視覚的・聴覚的イメージに注意を集中する。お気に入りのポピュラー音楽を聴くように、ネット上の動画を動画投稿サイトの「お気に入り」に入れて気の向いた時に視聴する。その行為はテレビの視聴よりは能動的だが、持続性がない。

ネット時代の映画は、このような「ユーザー」が事実上、世界中に何十億といる事実を無視しては作れないだろう。
面白いことに、ネットが普及し始めてからの「ブロックバスター」の多くは、異常なほどに場面転換が早く、ドラマツルギー的には破綻しているか破綻しかかっている。アメリカ映画だけではない。他の国の「ブロックバスター」にも同じ傾向が現われている。それは70年代の『ゴッドファーザー』や『ジョーズ』といった大ヒット作を見直してみれば分かることである。それらは今の「ブロックバスター」よりもスローで、冗長に見えないだろうか?

おそらく、このようなイメージに慣れた人々を映画につなぎとめるのは至難の業だ。映画は伝統的に2時間前後の上映時間を基本とし、その最も人気ある分野は劇映画なのだから。ヴィデオクリップの連続のような、ドラマ性の希薄な「見世物」を見に、わざわざ映画館に行く人がどれだけいるだろうか?
一方で人々は、ネット「ユーザー」化しておりイメージの素早い展開と転換を求めている。それは人間をある時間的・空間的連続性の中で描くドラマツルギーの要求とは矛盾するのである。