わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

脳の科学ーー脳が先か、意識が先か 生命の根源とは?

2015年08月22日 | 医学と健康

段々とむずがゆくなってきた「生命の根源に迫る」論

 

 こんどは意識の問題です。

現代医学は唯物科学で進歩した科学でしょうから、脳が先で意識はあと。

となるでしょうね。(意識は物質ではないですからね。感情なども物じゃないし)

ところが、スピリチュアルの世界では当然のこと、意識が先ですね。

脳はあと。

それどころか、脳も含めあらゆる物質世界は実は夢のような非実在物だという。

これには驚きますね。試しにほっぺをつねってみました。

あ、痛くない!! やっぱり・・・夢?

途端に隣から

「イテテテェ~~~! なにすんだ!」

という叫び声が・・・

 

なんだ、やはりこの物質世界は夢なんかじゃ無い!と思ったのですが・

どうも最先端の量子物理学では物質というのはスカスカの空間みたいなもので、実体が無いのだという話も伝わってきますし・・・

どうなってんだろう? 夢にしては現実感が超リアルだし、それじゃあ、病気はどうなるんだ!

痛いし苦しいし、とっても夢なんかには思えないぞ!

 

と考えている事自体・・・さて? 脳が考えているのか、意識が先に考えているのか?

それにしても、意識って何なんだ。影も形もないじゃないか。

意識を出して見せて見ろ! 

たってねえ~~~

 

DNAは情報が満載だというけれど、じゃあ、その情報って一体なんなんだ?

これも不思議というか、謎というか、DNAは確かに物質としてある。だが、情報は無い(というか、情報そのものを取り出して見ることは出来ないようでし)

さらに、脳死が先か、心臓死が先か?

なんて事も言われて、もうワタシなんぞパニックだ。

考えるな、感じるんだ!

などと言われて久しいが、だいいち考えるのは脳なのか、それとも意識なのかさえ分からず、感じるってのも脳が感じるのか、意識が観じているのか?

あ、久しぶりにまえがきが長く書けた♪

 

まだあるんですよ、細胞が先か、血液が先か・・とね。


ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

248P
    (4) 脳の科学ーー脳が先か、意識が先か

 二十一世紀は「脳の時代」と言われていますが、今以て「脳と意識」の関係は五里霧中です。
端的に申せば「脳が先か、意識が先か」という問題です。
そして今の医学は「脳が先で、意識は後」と一方的に決め付けております。
「最初に脳ありき」ということで、これは「最初にDNA(細胞)ありき」という考え方と同一線上にあるもので、現に目に見えるものから出発するわけで、意識とか生命とか目に見えないものは無視するやり方です。
結果結果、何が起きているかとい言うと、ご存知のように脳死の問題です。
これは大変な問題を提起しているわけです。
今テレビでも盛んにやっていますから皆さんも注目されているでしょうけれども、あれは脳波が止まったら理論的に死んだと判定するのです。
しかし、この段階では心臓は動いていますし、血も流れています。
仮に人工受精したら子供を産む能力も持っているわけでして、もし子供が生まれたとしたら、その子は死人から生まれた子供になるわけです。
こういう状況の中で、脳死判定と臓器摘出にどう歯止めを掛けていけば良いのか。
少なくとも先進諸外国、特にキリスト教圏では健常時に予め表明した個人の自由音笠心を尊重するという方向で制度化が進められていますが、日本の宗教界は沈黙したままで、全くダラシがないと思います。

 次に生命が、どの時点で始まるかということに対しても、カトリックははっきりと《受胎の瞬間》であると定義しています。
日本は昭和二十三年に優生保護法という世界でも珍しい悪法によって中絶を合法化していますが、この根拠になっているのは、妊娠二十二週目(欧米では十二週間)迄は人間として認めないという考え方です。
カトリックは受胎の瞬間から人間と認めるので中絶には絶対反対ですが、イスラム世界もそうです。
つまり神の創造説を信じている国々では中絶はあり得ないのです。
今アメリカでは、最高裁のメンバーが変わって中絶禁止の動きが高まっています。
日本は今なお中絶を平気でやっていますが、昭和二十三年という戦後の極度の食糧不足の状況の下では、宗教的には兎も角としまして、政治論的には緊急避難的に止むをえなかった事情もありましょうから、一概に是非を論じることは出来ません。
けれども現在のように世界一の経済大国になり、贅沢三昧な生活をしながら、フリー・セックスの後始末として社会的・経済的理由だけで中絶をする自由は果たして許されるのでしょうか。
大体、二十二週未満は人間ではない、という考え方自体が可笑しいわけで、これでは生命の尊厳も庇ったくれもありません。
マザー・テレサは《中絶は平和の敵》と呼んでいますが、中絶は人殺しだということを日本人は真剣に考える時でしょう。
女性に「産む・産まないの選択権」があるならば、胎児には「産まれる権利」がある筈です。
しかも胎児はものも言えず、全く無抵抗です。
この弱者の権利を強者が保護することこそ最も必要なことです。

 私は汎神論的な東洋的直観哲理を実に素晴らしいと思っておりますけれども、こうした問題に対しては歯止めが全然付けられません。
仏教また然りです。
この意味で頼りになるのはやはりクリスチャンの方々と存じます。
もともと近代医学はキリスト教を土台にして発展したわけですから、その医学が中絶と脳死判定という人生の始期と終期にかかわる技術を可能にした以上、生と死を分ける時間の定義を明かにする必要があると思います。

 それから最近は、前世療法だとか臨死体験、あるいは幽体離脱等、見えない世界のことが盛んにテレビ等でも放映されるようになって参りました。
この前、私が読んだ本の中で、キリスト教でも大体七世紀頃までは前世の存在を信じていたと言うことです。
真偽の程は私には分かりませんが、その本では七世紀頃から、前世や来世等は無い、ということになったようです。
仏教では昔から輪廻転生を説いていますから、我々の頭の中には生き変わり、死に変わるという死生観が根付いています。
何れにしましても、生命は時間の流れですから、前世も有れば来世も有ると考えて少しも可笑しくないわけですが、そのためには個体の生と死の転機を含めて、生命と時間の関係をハッキリさせて置く必要があり、この点を科学的に明確にしない限り、中絶論争も脳死問題も真の解決はあり得ないと思います。


ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

松本先生も「いったいどうなってんだ!」とお怒りのご様子でしたね。

 

ところで、あの世では胎児になるひとが親を選んでくるそうですね。
だから「親は子を選べず、子は親を選ぶ」という事だそうですから、
親に

{ドウシテ、ワタシを産んだのよ~!」
という叫びは無効になりますね。

 

それにしても脳の能力の違いというのは厳然としてありますからねえ。

でも、オマエの脳とは違う  と言われたって、どこがどう違うのか・・
意識はちゃんとあっても脳が働かないという風になっているのかな?

考えてみたが、

やっぱり考えるより感じるんだ・・・・・・な¥

 

心臓が先か脳が先か?

脳死が人の死だとすれば、胸によく手を当てて考える・・・という標語は通用しなくなりますね。

胸に手を当てて、ようく考えるんだ  →  頭に手を当てて、ようく考えるんだ

胸騒ぎがする  →  頭(脳)騒ぎがする

胸くそが悪い →  頭(脳)くそが悪い

いろいろ考えているんだが・・・・

 

考えるなって!

 

 

 

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