わたしんちの医学革命と雑多な情報

「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

大慈大悲の病気観で人類は病気を克服するのか?

2016年02月04日 | 医学と健康

 

 

 

松本英聖著 「医学と生命」 第一部
より

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

松本英聖著 「医学と生命」 第一部

 

 37P
    第四章、 病は神罰か、浄罪か

  「ガレノスとアヴィセンナ《中世アラビア医学の泰斗(九八〇~一○三七)・『医学正典』を著わす》、この二人が真実の医学をねじ曲げ、我々を千年以上も騙し続けて来た諸悪の根源である!」
  パラケルススはこうアジると、真っ赤に燃える焚き火の中に 『医学正典』を投げ込んだ。
 呆っ気にとられる聴衆を尻目に、彼はさらに続けた。 「病は神罰ではなく、神の浄罪である!」
 一五二七年、聖ヨハネ祭の日(六月二四日)、弱冠三十三才の若さでバーゼル大学教授に迎えられたパラケルススが、市の広場で学生たちを前に就任演説をした時のことだ。この激しいアジ演説は学生たちを魅了し、熱狂的な興奮を引き起こした。


 それもその筈、それまで支配していた中世スコラ医学では病気は神罰であると説かれ、またローマ医学(ガレノス医学)では、病気は悪魔の所業と考えられていた。それが正反対の〝神の恵み″であり、〝浄罪″であると言い切ったのだから、まさに医学革命である


奇しくもその十年前(一五一七年)、マルチン・ルーテルは、法王庁が発行する〝免罪符″に激しく抗議し、宗教革命の口火を切った。〝医学革命〃と〝宗教革命″の同時進行である。
 なお一般の医史によると、ヴェサリウスは実際に人体解剖を行なってガレノスの解剖学上の誤りを指摘し(一五三七年)、それから九一年目(一六二八年)にハーベイが血液循環論を公表するに及んで、ガレノス医学の虚構性が明白となって幕を閉じた、と書かれている。無論その通りであるが、しかしこれは、基礎医学(解剖・生理学)だけの話であって、ガレノスが打ち立てた臨床医学観(攻撃的医療)、およびその根底にある疾病観(病は悪化作用)は微動だにせず、現代医学(臨床医学)に脈々として受け継がれ、今なお生き続けているのだ。
 ところがパラケルススは、ガレノス医学の根木的誤謬である《疾病観の誤り》を見破り、徹底的に非難したのである。

 

 


38P
    医学の革命児--パラケルスス

 パラケルススは、ゲーテの名作『ファウスト』のモデルとなった革命児で、一四九三年スイスに生まれ、激動する近世ヨーロッパの最中を「医学革命」の情熱を燃やして孤軍奮闘、生涯を独身で通し、流浪の旅先において四七歳の若さで波瀾万丈の人生を閉じた。


 彼は執烈なクリスチャンであったが、教会の権威を一切認めず、信仰の基盤を「内なる神」に置き、貧者や清貧を旨とする人々に「愛の医術」を実践すると共に、幾度も断食修行を行なうなど「貧者の医学」に徹した。

 彼はヒポクラテス以降の古典医学、民間療法、錬金鐵占星術など凡ゆる学問に通曉し、ヒポクラテスを高く評価すると共に、ガレノス医学の虚偽性を激しく非難した。そして彼は、ヒポクラテスの『自然順応』医学に止どまらず、それを越えてクリスチャンとして「神の医学」へと高めた。

 


 では、彼の考え方はヒポクラテスと、何処がどう違うのだろうか。


 まず彼は、病因をーー①天体因(占星学的要因)、②毒因(食毒など)、③自然因(環境条件)、④精神因(ストレス)、⑤神因ーーの五つに分ける。

そして①~④はヒポクラテスの自然順応医学で間に合うが、⑤番目の神因は、神の直接の意志によるものであるからヒポクラテス医学では及ばない。

即ち「自然のままに」ではなく、「御心のままに」という信仰の中に道を求めねばならず、ここに異教徒であるヒポクラテスの限界がある、というわけだ。


 彼の論理は、自然=神と考える汎神論的世界観から見ると奇異に思えるが、彼はクリスチャン(一神教)であり、そこでの世界観は神(創造主)と自然(被創造物)とは峻別されるからだ。 従って、彼が言う神の意志とは、キリスト教神観における神の「創造と予定(終末)」を意味するわけで、つまり個体的には「誕生と死」であり、人類的には「歴史の終末」である。仏教的に言えば「生病老死」の四諦と法滅観(仏教の終末観)と見ることが出来よう。


 要するにパラケルススは、生命を《誕生と死》によって規定される時間的存在として把握すると共に、この形而上的命題を医学の原点として真っ正面から取り上げ、クリスチャンとして「神の医学」を建設したのである。
 まさに「生命の質」の問題であり、ここにパラケルスス医学の卓越性と現代的意義を見出ださねばなるまい。


 そして彼は、キリスト教的死生観に立って「病は神の浄罪なり」という揺るぎない疾病観に到達したのである。


39P
     浄罪と浄化

 ところでーー、パラケルススが到達した「神の浄罪」と、ヒポクラテスが説く「自然の浄花作用」とは、どこが違うのであろうか。


 結論的に言えば、ヒポクラテスのカタルシスは心身の生理的浄化作用であるが、

パラケルススの浄罪は心身の浄化とそれに伴なう高次元の霊的浄化(魂の浄化と霊性の向上)を意味する。



 因みに、カタルシスとはギリシャ語の下痢のことで、体内の不浄物を排泄する浄化作用を意味するが、後のアリストテレスはこれを拡張して、悲劇的作品などを観て涙することも「心の浄化」と呼んだ。

 


 つまリギリシャ的カタルシスとは心身両面における生理的浄化作用(生理現象)であり、これによって心身が浄化され健康が回復するから、この自然回復力をヒポクラテスは「病は自然が癒す」と喝破したのである。無論、それなりに正しい認識であるが、この場合のカタルシスは病者を元の健康体に尿すだけの働きであって、病の原因である人間の反自然生活を正す働きではない。

従って、喉元過ぎれば何とやらで、健康が回復すれば、再び元の反自然生活に戻って同じ過ちを繰り返すことになる。これでは元の木阿弥であり、人は永遠に病から解放されない。まさに賽の河原の無間地獄だ。


 パラケルススの慧眼はここに気付いた。


 彼は、カタルシスによって健康が回復するということは、単に元の身体に戻るだけでなく、カタルシスという苦しい体験を通して、霊性が甦り、以前よりも霊的に向上した人間へとスパイラル的に回帰することである、と説いた。


 従って、病気とは神に背いた人間の無軌道な罪(反自然生活)を浄めるための「神の浄罪」であり、同時にそれは、人間の魂(霊性)をより高い次元に向上させるためのチャンスでもあるから、まさに『神の恩寵』なのである。仏教的には大慈大悲の働きと言えよう。


 即ち、この神意に目醒める時、人は自ずから神に感謝の祈りを捧げ、愛と報恩の生活を実践することによって、より人間性が高まり再び過ちを繰り返さないであろう。

要するに単なる神頼みではなく、霊性の向上に向けて精進することが重要であって、ここに人間の尊厳と人生の意義がある。
41P

 


  また、この神意を伝え導くことが医師の使命であるが、しかし医師自身は非力であって。「病は神が癒す」ことを悟らねばならない。何故ならば「生と死」は神の御心にあるからだ。


 かくして、彼は「内なる神」に導かれて「神の医学」を確信した。この確信は「神=自然」と観る汎神論的世界観においても共有し得る医学観であり、筆者はこの医学観こそ人を病から解放する真の医学であると信じて疑わない。

 

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

さすが松本英聖先生は文章が高潔であり深い味わいがありますねえ。

 

病気とは単なる肉体の浄化作用では無いというのでしょうかねえ?

つまり、病気という体験を通して自分自身を知る。

その自分自身とは数パーセントしかない自我意識でも無いし、潜在意識でもない。

それは神に通じる神意識の自分なのだと言う

単なる個人肉体の浄化作用で終わったらそれはまだまだ中途はんぱ

病を通して「内なる神」を知るという絶好の機会なのだ。

すると、病気になった人は凄い、そのきっかけを得たわけだ

が・・・それも知らずにもがくと

もっともがきが・・・

 

 

 

 

 

 

それに比べて・・・akyoon氏の文は

う、うるさい!

(え、まだ何も言ってないよ)

 

ただ、阿修羅掲示板で褒められたことはある♪

「あんたの文章は小学生並みだ」と。

 

フンフン♪ そらそうだ。

ボクは小学生にも分かる様に「あえて」書いているからだ。

 

「なんだかよう分からんね・・・」  (小学生談)

 

 

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