神功皇后は、三韓征伐帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産み、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛がありますが平定します。その後、太子は武内宿禰に連れられ禊ぎのため気比神に参詣します。
武内宿禰に連れられた太子は、気比神イザサワケと名の交換を行いました。夜、夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げます。
「私の名(気比の神様)を御子(応神天皇)の名と取り換えたいと思う」と言うと、建内宿禰は「それは畏れ多いことです。仰せのままに」と答えた。
そこで、「明日の朝、浜にお出でになるがよい。名を換えた贈り物を献上しよう」と言う。
翌朝、御子が浜に行くと、鼻がひしゃげたイルカが浦にたくさん寄せていた。御子は「神は私に御食膳の魚を下された」と言ったので、この神は御食津大神と呼ばれるようになった。そして今では気比大神と呼ばれる、という。
そのイルカの鼻の血がものすごく臭かったため、その浦を血浦と言い、それが今の敦賀となったという。
ここから、
「名(な)と魚(な)の交換」は「名の下賜」と「魚の献上」であり、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を表す説があるようです。
気比(越前)は、古代において強い勢力基盤があったことがうかがえます。気比、白山あたりに太古は王権があったのでしょうか。以前、建御名方神の母、ヌナカワ姫を調べた際、白山あたりにいた一族の姫であり、大国主命との間に建御名方をうみ、出雲が白山の王朝と融和を悦ぶ話がありました。白山あたりは、女性が長となっていた話がありました。
神功皇后のお子様の応神天皇が名前を交換した、この気比の神様は、いったいどなたをさしているのか?
それに関して、応神天皇の異母兄である忍熊皇子と父、仲哀天皇(神功皇后の夫)が関係している話がありました。
気比神宮の御祭神の中の第14代仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていると言われています。仲哀天皇は、日本武尊の子で神功皇后の夫にあたります。仲哀天皇の子には、応神天皇の他に、麛坂皇子・忍熊皇子がいます。
この2名の兄達は後継争いに負け、忍熊皇子は宇治川で遺体が発見されます。先日書きました菟道稚郎子と同じように、兄弟間での後継ぎ争いの後、同じ場所で亡くなっています。
菟道稚郎子は、応神天皇と角鹿(敦賀)の姫の間に生まれたお子様です。
角鹿や宇治に纏わる話が、神功皇后、武内宿禰、応神天皇、仁徳天皇、そして、悲しい最期をとげた忍熊皇子や菟道稚郎子には多くみられます。
その忍熊皇子と父、仲哀天皇(神功皇后の夫)に関しては、祟りを鎮めるために、気比神社の近くに神宮寺が建立されたようです。
廃仏毀釈により現在は廃寺になっていますが、その寺は霊亀元年(715年)建てられた気比神宮寺であり、建立は神宮寺の中で最古になります。また、近くには、劍神社も同年代に建立されます。
この建立に際しての話は、藤原不比等の長男の藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げ、仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したようです。
この宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求めたのは、
敗者として「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊であり、慰撫する必要があったのです。
全ての八幡宮の総本山、宇佐神宮に行った時に唯一参拝をガイドさんが外した菟道稚郎子の眠る春宮。
その菟道稚郎子と非常に似た形で、宇治川でなくなり生涯を閉じた忍熊皇子。この二者の共通点が非常に悲しい感じで伝わってきます。
「神功皇后と太子(応神天皇)がヤマトへ戻る際に謀叛があったのを平定し、太子は武内宿禰に連れられ禊ぎのため気比神に参詣します。武内宿禰に連れられた太子は気比神イザサワケと名の交換を行いました。」
とある、謀叛は、忍熊皇子や菟道稚郎子に関係があるのではないかと感じました。
宇佐神宮にこの夏参拝しました。八幡神とは応神天皇のことです。元は太古白山神社だったものが、八幡神社におきかわったと聞いた事があります。
宇佐神宮の宇佐は、神武天皇東征の折、菟狭津彦・菟狭津媛、 菟狭川の川上に一柱騰宮を造営したことからはじまったとあることから、菟狭が宇佐になったものだと思います。また、ウサギを意味する菟の漢字があります。どこか月にまつわ奉斎氏族や、隠された月の神様を想起させます。
また、イルカが鼻血とは、鼻から生まれたとされる記紀神話の中で悪者のように描かれた素戔嗚尊の暗示すら感じます。
菟道稚郎子、忍熊皇子、応神天皇(仁徳天皇)あたりの話は、神話となっていますが、古墳時代あたりの政変が絡んでいると感じます。
また、それは諏訪に押し込められた建御名方神とか、出雲の国譲りや、白山古代王朝とか、神代の時代とされた話も絡んでいると思いました。
つづく