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ビューティフル・マインド  ケム川の流れに

素直な瞳はその心の美しさをそのままあらわしている。それは、素直とは全く正反対の瞳とくらべればよくわかる。

徳川泰圀と特攻とNHK 「日本海軍400時間の証言」

2009年09月14日 | 日本東アジア
白洲次郎からケンブリッジ時代の話しをきいた徳川家広の「徳川」で思い出したが、「徳川」で嫌でも離れない名前が「徳川泰圀」である。

慶応大学応援団の歴史の記述(75年通史ー戦後復活期)http://k-o-m.jp/history/2-1.html にこんなものがある。
「水戸藩徳川家の一族で元特攻隊員、後年はカトリックの司教というユニークな人生を歩んだ徳川はリーダー班責任者として華麗なテクニックを後輩たちに熱心に伝授し、後進の滝口登(獣医23)、大舘清次(獣医23)、予科の椎津康夫(経26)らもやがて応援席で華麗な拍手指導をおこなうようになる。」

この徳川泰圀の経歴が以下のようにのっていた。
1996年12月24日帰天

1921年3月8日生まれ、 神田教会で受洗

53年12月12日 司祭叙階

54年3月 浅草教会助任

56年5月 パリ留学

58年11月 東京大司教館

59年 北町教会主任

67年 志村教会主任

75年4月 大司教館事務局長

87年4月大森教会主任
この間東京カトリック幼稚園・保育園連盟事務局長・聖園幼稚園園長、 東星学園理事等を歴任した。 

92年より病気療養のため、 司祭の家で静養していた。

鹿児島の特攻基地から飛び立つところ飛行機が故障で飛び立てずそのまま終戦になったこととよく語っていた。「特攻」と対峙したことからカトリック神父になったのかと信じ込んでいたが、思いもしないところの彼の同期生から、「あーあ、トクさん、失恋して神父になったんだよ。」と漏れ聞いて、どっちがどっちだか整理がつかなくなった。たしか、お父さんが「日本で初めて飛行機を操縦して飛んだ」はずだが。

練馬大根畑の真ん中にそれなりの敷地を購入しまずは幼稚園をつくり住宅乱開発と周辺の子供人口激増で経営を軌道にのせ、次に「お御堂(プロテスタント用語では「チャペル」結婚式にはこっちの方がいいね)」を建設するが、当時の子供の目から見ればそれはもう立派な白亜の殿堂であった。殿曰く、「ドイツのケルン教区からの援助で立てた。」というのはいいが、さらに「だからケルンの大聖堂に真似てつくった。」30年も経ってかそのケルン大聖堂(ドームというらしい、イギリスではカッシードラルCathedralだけど、日本はカテドラル?)の本物に行き、「大聖堂では神に近いてっぺんまで登る」というプリンスプルに基づきてっぺんまで登ったが、まるで1時間ちかく階段を登ったような感じでまあ大変だった。「ケルン大聖堂に真似た」なんという無茶な大ウソは本当に言ってはいけなかった、マッチ箱ぐらい真似た程度なのだから。

この殿、普段はやはり名門の出らしく高貴で知的なお方だったが、クリスマスや復活祭など大きなお祭りでたまに酒が入ったり、こっちは頻度が高いが説教で興奮してしまうともうとんでもない状態になってしまう。なんせ元特攻隊員・慶応大学応援団部で鍛えまくったその声たるや、「旧約の怒りの神」も尻尾を巻いて逃げてしまう大音響で「ケルン大聖堂を真似たちゃぽけなお御堂」ではとてもおさまらず「ケルン大聖堂そのもの」が必要だったぐらいだ。殿の後輩となる暁星に行っていた子が、教会のとっても品のいい誰もが憧れて当たり前の女の子にラブレタター出したということで、「はしたないまねしやがって、オレの聖なる暁星の名誉を傷つけたな!」とボンボコ殴り倒しそれでもおさまりきらず、(なぜかあんな高貴な出なのにこんな時は私と同じ下町江戸っ子弁の決まりきったさまざまな語句)で罵倒しまくって口から泡ふいていたこともあった。試験の前に(洗礼は赤ちゃんでやちゃうケースが多いので堅信礼は「試験」があってパスしないと駄目)「聖書講読コース」なるものを終えて、感想を訊かれて(プロテスタントだと「信仰告白」なんというだいそれたもの平然と人前でやるんだよね、面の皮があつくなるというか)「まるでお伽噺みたい。」と純粋な目をしてうっかり口を滑らしたからたまらない、もう手をブルブル震わせて顔が葡萄酒を飲んでいないにもかかわらず真っ赤になりーあの恐怖たるや思い出したくない。分厚いラテン語(ミサ(プロテスタント用語でサービス)はラテン語式辞?だった)のミサ典書?をもってこないと怒られる、こっちは朝5時おきて侍者に来てやっているのに、そのくせ、ラテン語を正式に真剣に教えてはくれない。井上ひさしさんが「ボローニャ紀行」で彼の「児童養護施設」の聖ドミニコ修道会の神父さんを敬愛を込めて書いているが、私は残念ながら殿も含めて出会ってきたカトリック神父にたいしてそうはいかない。

でも日本の場合「カトリックの神父や修道女」は、「プロテスタントの牧師」連中に比べればズートマシだ。もう遅くなってガストで食事していると、二人のボンクラな顔の男たちが、ビールジョッキを傾けながら話していて、「聖書をいろいろ使って説教するのは、オレはいやなんだな。」とかとかが聞こえてきて、ひっくり帰るほど驚いた。もう夜の10時すぎてるんだよ、夜9時過ぎは黙祷の時間だろう、いくら東京神学大学の馬鹿学生だってすこしは修行しろよ、聖書どうのこうのと言う問題じゃないだろう、なんでビールジョッキで飲んでいるんだよ、殿が聴いていたら名刀なんとかでその場でお手打ちだぜ。「神に奉仕するパートナーズ」でいくら気取っても「独身を通す」決断と比べるアホらしいし、「牧師の子だくさん」も「プロテスタント系大学無償」でいけるから出来ることだ。それどころじゃない、「キリスト教学校教育同盟に属する大学」でどれぐらいの経常経費補助金をもらいながら、何匹の「牧師」を飼っているんだ、とんでもない憲法違反である。


NHKの「日本海軍400時間の証言:特攻」は、その現場にいた海軍関係者の証言で生々しいものであった。醍醐聰のブログによいまとめがある。(http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/nhk400-93c3.html)

海軍軍令部が非常に早い時期から「特攻作戦」を計画していたこと、特攻‘専用’武器を開発していたこと(当然海軍省は予算をあてている)、特攻の為の軍編成を行っていること、それにも拘わらず元軍令部参謀は、「特攻は、作戦戦術ではない、それより遥かに崇高な精神の発露である。」として、「自発的志願」によりボランティ精神で行われたことを絶叫していた。そして「特攻攻撃は無駄どころか40%以上の‘成功’だった」と主張する野蛮なサイトが平然と存在する。近代システムでは、設計者・製造者・ユーザーの‘経験知’がフィードバックされシステムの性能効率を挙げていくもののはずだが、このフィードバックのない「人道への犯罪」システムがどんな恐ろしいものか。プロスムが行われるアルバートホールの南に「サイエンス・ミュージアム」があるが、その最上階であろうか「航空機の歴史コーナー」に「戦時爆撃機」の説明コーナーがありその説明に、「無差別爆撃を行った爆撃機を開発したことにより、イギリス航空産業は技術革新を怠り戦後の航空機開発競争に致命的な遅れをとった」とあった。番組で人間魚雷回天の設計従事者が、「人道に対する罪」に問われるを恐れていたことが語られていたが問われて当然である。「人道に対する罪」は連合軍の専売特許ではない、トマス・ホッブスの「リバイアサン」、ジョン・ロックの「市民政府論」などで確立された近代統治主権原理の「自然法的」根幹なのだから。それは、オスマントルコ帝国のアルメニア人へのジェノサイドがイスラム統治原理からも「人道に対する罪」として免罪されることができないと同じことである。ドイツにおいてはナチ犯罪をニュルンベルグ裁判の後にみずからの手で継続的に行ったが、今なお自らの手で「人道に対する罪」を断罪していない我々は、今なお「やましき沈黙」=「おぞましき黙認」にあるのだろう。そしてこの「大日本帝国統治下にあるすべての人間を自由裁量による消耗品とみなす思想」は、派遣労働体制によりあくなき利潤の追求をおこなっている現代の「経団連」=「むかし軍部、いま経団連」に強力に引き継がれているのである。

慶応大学経済学部卒業(卒業時に直接もらったという小泉信三の自署の本があった)の徳川泰圀は、その毛並みとみずからのもつ頭脳と才能により、当然その「経団連」の主流を歩むことはいともたやすかったであろう,白洲次郎のようにチャランポランであったならば。かといって、こちらに被害が降り掛かってきたこともそう簡単には赦すことはできないが、 徳川泰圀の人生が、真剣に苦悩に対峙し慟哭の人生であったことは確かである。




蟹工船とロマンポルノの巨匠神代辰巳 しんゆり映画祭

2009年09月03日 | 日本東アジア
こんなタイトルだと石頭の共産党の連中に殴り込まれそうだが、これは 第15回しんゆり映画祭 の(隠れた)タイトルだ。昨年はこの映画祭のオープニングで96歳になる新藤兼人監督が「石内尋常高等小学校 花は散れども」の講演を行った。ちょっと前まで駅超近なのにタヌキたちが好き勝手に暮らしていた新百合の北口が大開発され、タヌキが棲んでいて「万福寺」なんだから、そのまま使えばいいものをなぜか「山の手」(むしろすり鉢だよ)と命名され、その入り口に映画劇場と演劇劇場をもった川崎市アートセンターが建設されてそこが映画祭の中心となった。東芝と富士通の本社が東京に逃げ税収がどーんと減った政令指令都市(国立大学がひとつもない)川崎市が、なにを血迷ってか「芸術のまちー川崎」のスローガンを掲げて、南口に「昭和音楽大学」を「駅から歩いて3分+公園つき」の至れり尽くせりで「来ていただいて」、それに「アートセンター」を造った。子どもの数の大減少で統合された小中学校(独立を維持したところが一学年20名まるで「黒川村分校」の復活だ)の跡地の民活で「映画大学」構想なるものも噂されている。でも所詮「うつわもの」ばかり増えているのにすぎず、内容がまったく伴わない。駅前では、ストリートミュージシャン・アーティストを気取った連中が演奏したり大道芸が繰り広げてそれなり頑張っているけど、ロンドンなどではクラシックの連中も地下鉄の通路でよく演奏しているが、「昭和音大の根性のない連中」はまったくその大道芸に「積極的に」参加していないし、オペラが上演できるご立派な劇場も年に数回ぐらいしか公演に使われていない。ともかく見せてものになるかならないかの世界なのにまったく怠慢この上ない。コベントガーデンなんか日曜は一切の公演がなくたって何らかの催しがあり、いつでもなんかやってフルに使われている。

ノーマ・フィールド「小林多喜二」岩波新書は、帯タイトル「蟹工船の作者の等身大の姿とは? 絵画も音楽も映画も愛し、ひたむきな恋に生き。。」そのとおりに今まで知られていなかった多喜二の生の姿が描かれている。特に驚いたのは、多喜二が拓銀の初任給で弟の三吾さんにバイオリンを買って練習をさせ、 三吾は戦後東京交響楽団の団員となったこと(47ページ)、そして地下活動に入った後、特高警察に拷問により虐殺される半年前に、バイオリストのヨゼフ・シゲティの来日コンサートで 三吾と最後の出会いをし「シゲティの演奏ぶりに涙し生きる喜びを感じたといった」(224ページ)というくだりである。そこまで多喜二が音楽を愛していたとは。

「中国語で聴く阿Q正伝」のCDを初めて聴いた時、思いもしなかった激しいリズムの連続で驚いてしまった。それまでは当然日本語訳でしか読んだことがないが、魯迅の意図するところをじっくり読み解こうといったストーリを追っていく、それでも十分すぎるほど恐ろしいなとおもうが、中国語の朗読では狂乱するリズムのなかで、その渦に巻き込まれてストーリを追っていくなどの余裕すらない。多喜二の「蟹工船」でも重苦しいなかに地の底から這い上がってくる激しいリズムを感じる、良く似ているのではないのか。多喜二が志賀直哉を尊敬したのは、おそらく、あの「暗夜行路」にあるゆっくりと静かだがとどまることのないいつまでも続きそうなリズムに憧れたのではないかと思う。最近プロムスでは、ラベルのピアノ協奏曲をよく演奏する、今年はアルゲビッチとシャルル・デトアのコンビだった、あの第2楽章のような感じだろうか。

醍醐聰著「会計学講義第3版」を読んだ時、さまざまな会計学理論・概念がドイツ会計学のそれからてんこ盛りに導入されて説明されているのに、これは腰を抜かしてしまった。後で本屋で立ち読みした「会計学講義第4版」では、ドイツ会計学理論の色彩は随分と薄くなっているような気がするが(だから第3版が良かったか)、会計学=Accounting=英米会計学と思い込んでいたので、どうしてなのか聞いてみると、「帝大系はドイツ会計学、高商系は英米会計学だよ。」と指摘され、あーあなるほどと思った。

戦前の共産党の指導者の多くが東大新人会や河上肇などにみられるよう帝大系でありマルクス主義の原典はドイツ語なのであり「ドイツ語的翻訳」である。それに対して小樽「高商」卒で後にD.H.ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で刑法175条猥褻物頒布罪にとわれた伊藤整が後輩として多喜二の文学におけるライバルであったことを思うと、「シカゴ大学教授」ノーマ・フィールドがまったく疑問に思わないように、多喜二は英米系である。戦前の共産党指導部の<「帝大」「独系」>と<「高商」「英米系」>と超図式化すると小林多喜二は右側の随分と変わった位置にいる。ロンドンのマルクスはどんな英語を話したのだろうか?大英図書館の近くのバブに良く行っていたという。そういえばTrade Unionの本部もある。休みの日にはマルクスは、娘たちを連れて歩いてすぐ行けるハムステッド・ヒースで野外ランチや散歩を楽しんだであろう。ウォールストリートジャーナルに、「狩りを楽しむ将軍」エンゲルスが皮肉っぽく紹介されたというが、「英米系」そのものなんだからいいじゃん。「等身大」の小林多喜二、さらにマルクス(あの「風の男」白州次郎も20歳代にはマルクスを耽読したといっている)をもう描く時代ではないのか。

小樽商科大学出身の元日本オラクル会長の佐野力氏の支援のもと白樺文学館そして多喜二ライブラリが開設されていたが、白樺文学館は志賀直哉が住んだ我孫子市 の管理になり多喜二ライブラリは有限会社ゆとりというところが管理しているとのこと。2008年オックスフォード小林多喜二記念シンポジウムがキーブルカレッジKeble Collegeで開催されたとのことである。多喜二がロンドンにいることができたならば、「PROMS season ticket」を購入して毎日コンサート通いをしたであろう。

光州―李南煕を訪ねて(1)漢字ハングル混じり文を!

2009年08月19日 | 日本東アジア
金大中元韓国大統領が死去された。東アジアの大きな光が去っていった。
金大中事件、朴正煕暗殺、光州事件、それぞれスポットとして日本の報道や雑誌記事ぐらいで知っているのみで、全体を通じての知識をもっていなかった。その全体像を教えてくれたのが書物ではなく、韓国ドラマシリーズ「第5共和国」であった。朴正煕暗殺から 全斗煥のクーデター・民主化闘争・光州事件・第5共和国軍事独裁政治の流れを詳細な人物描写を通して展開する「第5共和国」はとても衝撃的であり隣国韓国のことを何も知らなかったことへの新たな反省をもたらした。日本のバブル絶頂期と「ソウル・オリンピック」が単純に重なってしまうのだから恥ずべきことだ。

ソウル大学で講演をしたとき、最後に主題とまったく離れて:
「冬ソナ」によって韓流ブームが巻き起こり、進んでハングルを勉強する人が指数関数的に急増している、これは日韓の劇的な「草の根」からの関係改善となるだろう。
と'予言する'と、「ワールドカップ日韓共同開催」してもギクシャクした関係がまだまだ払拭できないのに、なんで冬ソナ如きで、なんて日本人は不真面目なんだ、といった空気が学生の間で流れた。本当に「日本人の不真面目さ」(いつもは不真面目で時々補うかのように極端に’真面目に’なるーまったくピューリタン的だよ日本人は)には同意するが、韓流ブームの流れはとどまることを知らず、ツタヤのど真ん中を占めているのが現実であり、「 冬ソナ」を起爆とする韓ドラブームが巻き起こらなったら、ツタヤに「第5共和国」などおかれることはなく、軍事独裁政権の凶暴さとそれに命をかけて戦った崇高な精神を劇的な形で知る機会は遠のいていたであろう。
続いて見た韓ドラがまったく偶然で韓ドラ定番の一つ「財閥?実子隠し子兄弟三角関係」パターンの「いつか楽園」シリーズで、「第5共和国」シリーズの独裁者「全斗煥」役の俳優さんが「リゾートホテルグループ・オーナーのお父さん」役に出て来て、その「お父さん」が独断的なことをすると、「またまた ゼントカンサンが独裁を、もうやめなさい。」と思わず言ってしまうことになった。

李南煕がいる光州に向かうため、ソウル駅から特急列車にのった。南がスタンステッド空港のようなガラスと骨組の近代的なビルになっていて北に大正期建築が残されているような複合体であったような気がする。急に韓国の鉄道網はどうなっているんだろうと思い、女性の乗務員の方に鉄道マップある?と聞くと、とても親切に探してくれたがそれはなく、どこをどう列車が走りどうついたのか、今思い出せない音の指定された光州の一つ前の駅に降りた。 李南煕に電話すると「なんで今頃ついたんだ」とオカンムリで、「お前を連れてゴルフにいくつもりだったのに。まあ、すぐ駅に行くから。うまい中華料理屋があるんだ。」 残念ながら韓国のゴルフコースを体験することは出来なかったがその代わり韓国の中華料理を楽しむことはできた。「戻るから一緒に来い。」ということで夜9時に彼の大学にいく。「ちょっと学生たちを見てくるから。」と一緒についていくと、女子学生を含め5人ぐらいが議論している部屋に入ると、全員が椅子の音をけたたましく立てて起立!し直立不動でナムヒーに顔を向けた。ナムヒーは、うんとうなずいて、(そこからは韓国語なので。。)起立直立不動したままの学生たちとやり取りをする。まあなんと羨ましい、礼儀などなーにもないチャランポランたちと比べると。

ナムヒーはマンション群を「9段階」で、この地域は「9のうちいくつ」と表現するのが好きで、彼の表現によると「9のうち4」レベルの彼のマンションに連れていってくれた。その夜はズート朝まで語り明かした。ナムヒーがなぜ光州にいるのかよくわからないまま来たので、なぜ頂点間際で韓国電信電話研究所を罷めて家族から離れ単身赴任で光州近くの大学に勤務しているのかおおまかな事情は話してくれたが、本質的なことは教えてくれなかった。それより、彼は自分が書いた本を渡してくれていろいろ説明してくれた。300ページにびっちり書き込まれて、所々に宇宙とか神とか自然法則とか漢字がホンのわずかばかりあり、今見てもとても何が書いてあるのか分からない。

ハングルをNHKラジオ講座で勉強しだして2年になり、それはもう韓ドラはツタヤで最優先で(オカンに入れるのはお気に入りの韓流俳優のコレクションで旦那さんのはいっさい入れないと決意している熱狂的韓ドラファンも存在するとのことだが)何本も「吹き替え絶対駄目字幕だけ」で聞いており、ほとんどパターン化されたシーンが多いのにも拘わらず、絶望的に学習が進まない。外国語の学習には、「すでに獲得したものを連用してフルに使う」のが一番のはずでフランス語を勉強するなら英語を援用するのがいいに決まっている、でもこの国の語学教師たちは、中国語を勉強するにも「簡体字―新体字対照表」などありゃしない「簡体字―繁体字対照表」から類推しなくてはならない、できるだけ障害は低くするという合理性を持っていない。日本の外国語教師の中で、韓国語教師は最悪だ。漢字は単語欄だけ(まだあるだけましか)で、ハングルだけの勉強のしんどさは、ひらがな・かたかなバカリでやっていたらいつまでも日本語学習の先に進まないと同じこと。亡くなった金大中元韓国大統領は、漢字復活論者だったという。金大中事件をウキィペデアでみると中国語のは目で追っていってなんとなく分かるが、ハングルは一つ一つ追っていって諦める。日本の韓国語学習を、「漢字ハングル混じり文」にすれば、ずーと面白いのに。ソウル大学の語学学者がインドネシアかどっかの島の少数民族言語をハングルで表記するプロジェクトを自慢していたが、ローマ字でやるほうが遥かに彼らに役に立つに決まっている。ソウル大学の博物館を見学したとき、多くのすばらしい漢籍の書が展示されていたのだが、この連中はこの素晴らしい文化遺産をどう考えているのか。(同期の比田井裕さんは、現代書道の父と言われる比田井天来のお孫さんだが、御本人はフルートばかりでもっと書道の方を教えてもらいたかった。)

ともかくナムヒーの気持ちが一体どんなものなのか、彼の「宇宙は生きている。」を少しでも読んで理解したい気持ちで焦るが、ナムヒーの本が「漢字ハングル混じり文だったらな。」と残念に思う。

戦後民主主義教育の勝利:2008年ノーベル物理学・化学賞

2008年10月19日 | 日本東アジア
入学したとき、偶然に湯川秀樹さんの定年退官する時であった。時計台の下の法経一番教室を超満員とした大講演会が輝く春の日の午後開催された。内容はもう記憶にない、湯川秀樹さんは講演があまりうまくなかったようなかすかな記憶がある。ただ湯川秀樹さんのどこからその音が発せられるかわからないどこまで鳴り響く笑い声にはおどろかされた。現在よく写真でみる湯川秀樹さんは髭を長くのばしたまるで仙人のようなものが多いが、その笑い声はそれとはまったく違う印象のものだった。

物理学科の素粒子論専攻を早くから決めていた友人たちは、気取ったそぶりで‘大ボス、中ボス、小ボス’などと当時も今になってはなおさら偉大な学者たちを分類してはよんでいた。当時はやりだったクォークについて、南部陽一郎さんの啓蒙書を楽しく読んでいたが、南部陽一郎さんは‘どのボス’だったのだろうか。彼らにとって小林誠さん、益川敏英さんは、まだ若い兄貴分の頼りになる助手の方々であったであろう。当時京大では、助手の方々を先頭にした’自主ゼミ運動’が展開されていて大きな成果を収めていたのだから。そして今では忘れられた大天才科学者ジョン・バナールの4巻本の’歴史における科学’(Science in History)はそのころ良く読まれていた。ジョン・バナールの盟友ジョセフ・ニーダムの’中国科学技術史’の成果を反映して宏大な視野をもっていた。その小林・益川さんの名古屋大学時代の恩師が坂田昌一さんであることを今回はじめて知った。

レーニンの‘唯物論と経験批判論’の中の有名な命題‘電子といえどもくみ尽くせない’を発展させ、’自然の階層モデル’を提唱し科学的方法論としての‘自然弁証法’とその自然観を豊かに提示してくれた坂田昌一さんの幾多の啓蒙書は実に魅力に溢れたものであった。あるブログには坂田昌一さんの‘新しい自然観’の要約がしるされているが、突然懐かしくなる。(マルクスの‘資本論第1巻’とレーニンの‘唯物論と経験批判論’は教養中の教養書である。この2書は、マルクスとレーニンのともかく頭がよいその素晴らしい頭脳を堪能するのにもっともふさわしい。‘教養’というのは、キリスト教を徹底的に打倒したEnlightenmentsを学ぶことであり、この2書はその頂点をなすものの一部であろう。この2書を読んで頭脳を鍛えた後ならマックス・ウェーバーなぞ2流の頭脳とすぐわかる。まあ、キリスト教創始者のパウロなど詐欺師レベルの頭脳だが。詐欺のレベルが天才的?まあそういってしまえばなんでもありだが)

ノーベル賞受賞ニュースの後の文部大臣との面会で益川敏英さんは、‘選択式試験’を激しく攻撃した。‘選択式問題’によって、司法試験をふくむありとあらゆる官僚登用試験が実施されている。‘選択式’などというアメリカの異様な方式による試験は知的退廃以外なにもうみださない。同じアングロ・サクソンでもイギリスは初等教育から高等教育まで最初から最期まで記述式―エッセイ(小論文)試験であり、決定的に違う。’選択式問題の最優秀者’である日本の官僚連中は世界にでるとまったく歯が立たず競争できないのである。だが日本でとてつもなく珍しく京大の入試は徹底的に‘選択式’が排除され、すべてが記述式―小論文式であった。東大を目指す予備校で無駄どころか世界に出たとき有害きまわりない受験勉強をしたのがとてつもなく後悔される。京大の入試問題は、教科書の内容を深く理解ししっかり考える訓練をすればどんどん書いていける問題ばかりで、受験生の足下をすくって‘それひっかかったざまーみろ’というような歪んだ精神の出題者の手になるものとはまったく正反対のものであった。日本のノーベル賞受賞者の関係が東大関係と京大―名大関係に大まかに2分類されるのは当然のことかもしれない。ノーベル賞受賞者倍増計画なるもので悪質で恣意的な‘重点強化予算配分’をするより、アメリカ式選択問題(本当のアメリカのエリートたちはエッセイ問題で鍛えられているがーアメリカは徹底した分裂社会なのだから)を全廃し、京大―イギリス的記述式・エッセイ式を採用したほうが何倍も効果があるだろう。

下村務さんは、コンピュータ・セキュリティの世界では異色の天才としてよく知られている。その下村務さんのお父さんが今回ノーベル化学賞を受賞した下村脩さんだと知って驚いたものだ。下村脩さんの経歴が報道されるとさらに驚かされる。
実兄の方の‘中学の卒業証書がなく進路に大変な苦労をした’というコメントは、現在神格化されている野口英世を思いおこすような気分である。下村脩さんは神格化がまったく必要ない、誠実な科学の精神を体現する大学者としかいいようがないが。その息子さん下村務さんはファイマンのもとで研究をしたと経歴には書かれているが、なにがなんだかわからない。おそらくこの日本の閉塞した教育・高等教育では彼の才能は開花することはなかったのでないか。コンピュータ・セキュリティの天才は国家安全にともかく必要だ。最初のstack-overflowによるコンピュータ・ワームを作ってネットを破壊したロバート・モリス(Robert Morris)のお母さんのアンは、’まさかロバートがあんなことをやるとは思わなかった。小さいときから問題をおこしていた弟の方を心配でならなかったけど、大学に行かなかっただけで今では結婚して幸せに暮らしている。わからないものだわ’と言っていた。UNIXのパスワードの考案者の一人でコンピュータ・セキュリティでNSAで貢献した父ボブ・モリスに対して’警鐘’の意味で貢献したのだろうか。

南部・小林・益川・下村という大学者に与えられた今回のノーベル賞は、いまでは徹底的に痛みつけられた日本の戦後民主主義教育の輝かしい勝利の光であるとともに、それは最期の光なのだろうか。