白洲次郎からケンブリッジ時代の話しをきいた徳川家広の「徳川」で思い出したが、「徳川」で嫌でも離れない名前が「徳川泰圀」である。
慶応大学応援団の歴史の記述(75年通史ー戦後復活期)http://k-o-m.jp/history/2-1.html にこんなものがある。
「水戸藩徳川家の一族で元特攻隊員、後年はカトリックの司教というユニークな人生を歩んだ徳川はリーダー班責任者として華麗なテクニックを後輩たちに熱心に伝授し、後進の滝口登(獣医23)、大舘清次(獣医23)、予科の椎津康夫(経26)らもやがて応援席で華麗な拍手指導をおこなうようになる。」
この徳川泰圀の経歴が以下のようにのっていた。
1996年12月24日帰天
1921年3月8日生まれ、 神田教会で受洗
53年12月12日 司祭叙階
54年3月 浅草教会助任
56年5月 パリ留学
58年11月 東京大司教館
59年 北町教会主任
67年 志村教会主任
75年4月 大司教館事務局長
87年4月大森教会主任 この間東京カトリック幼稚園・保育園連盟事務局長・聖園幼稚園園長、 東星学園理事等を歴任した。
92年より病気療養のため、 司祭の家で静養していた。
鹿児島の特攻基地から飛び立つところ飛行機が故障で飛び立てずそのまま終戦になったこととよく語っていた。「特攻」と対峙したことからカトリック神父になったのかと信じ込んでいたが、思いもしないところの彼の同期生から、「あーあ、トクさん、失恋して神父になったんだよ。」と漏れ聞いて、どっちがどっちだか整理がつかなくなった。たしか、お父さんが「日本で初めて飛行機を操縦して飛んだ」はずだが。
練馬大根畑の真ん中にそれなりの敷地を購入しまずは幼稚園をつくり住宅乱開発と周辺の子供人口激増で経営を軌道にのせ、次に「お御堂(プロテスタント用語では「チャペル」結婚式にはこっちの方がいいね)」を建設するが、当時の子供の目から見ればそれはもう立派な白亜の殿堂であった。殿曰く、「ドイツのケルン教区からの援助で立てた。」というのはいいが、さらに「だからケルンの大聖堂に真似てつくった。」30年も経ってかそのケルン大聖堂(ドームというらしい、イギリスではカッシードラルCathedralだけど、日本はカテドラル?)の本物に行き、「大聖堂では神に近いてっぺんまで登る」というプリンスプルに基づきてっぺんまで登ったが、まるで1時間ちかく階段を登ったような感じでまあ大変だった。「ケルン大聖堂に真似た」なんという無茶な大ウソは本当に言ってはいけなかった、マッチ箱ぐらい真似た程度なのだから。
この殿、普段はやはり名門の出らしく高貴で知的なお方だったが、クリスマスや復活祭など大きなお祭りでたまに酒が入ったり、こっちは頻度が高いが説教で興奮してしまうともうとんでもない状態になってしまう。なんせ元特攻隊員・慶応大学応援団部で鍛えまくったその声たるや、「旧約の怒りの神」も尻尾を巻いて逃げてしまう大音響で「ケルン大聖堂を真似たちゃぽけなお御堂」ではとてもおさまらず「ケルン大聖堂そのもの」が必要だったぐらいだ。殿の後輩となる暁星に行っていた子が、教会のとっても品のいい誰もが憧れて当たり前の女の子にラブレタター出したということで、「はしたないまねしやがって、オレの聖なる暁星の名誉を傷つけたな!」とボンボコ殴り倒しそれでもおさまりきらず、(なぜかあんな高貴な出なのにこんな時は私と同じ下町江戸っ子弁の決まりきったさまざまな語句)で罵倒しまくって口から泡ふいていたこともあった。試験の前に(洗礼は赤ちゃんでやちゃうケースが多いので堅信礼は「試験」があってパスしないと駄目)「聖書講読コース」なるものを終えて、感想を訊かれて(プロテスタントだと「信仰告白」なんというだいそれたもの平然と人前でやるんだよね、面の皮があつくなるというか)「まるでお伽噺みたい。」と純粋な目をしてうっかり口を滑らしたからたまらない、もう手をブルブル震わせて顔が葡萄酒を飲んでいないにもかかわらず真っ赤になりーあの恐怖たるや思い出したくない。分厚いラテン語(ミサ(プロテスタント用語でサービス)はラテン語式辞?だった)のミサ典書?をもってこないと怒られる、こっちは朝5時おきて侍者に来てやっているのに、そのくせ、ラテン語を正式に真剣に教えてはくれない。井上ひさしさんが「ボローニャ紀行」で彼の「児童養護施設」の聖ドミニコ修道会の神父さんを敬愛を込めて書いているが、私は残念ながら殿も含めて出会ってきたカトリック神父にたいしてそうはいかない。
でも日本の場合「カトリックの神父や修道女」は、「プロテスタントの牧師」連中に比べればズートマシだ。もう遅くなってガストで食事していると、二人のボンクラな顔の男たちが、ビールジョッキを傾けながら話していて、「聖書をいろいろ使って説教するのは、オレはいやなんだな。」とかとかが聞こえてきて、ひっくり帰るほど驚いた。もう夜の10時すぎてるんだよ、夜9時過ぎは黙祷の時間だろう、いくら東京神学大学の馬鹿学生だってすこしは修行しろよ、聖書どうのこうのと言う問題じゃないだろう、なんでビールジョッキで飲んでいるんだよ、殿が聴いていたら名刀なんとかでその場でお手打ちだぜ。「神に奉仕するパートナーズ」でいくら気取っても「独身を通す」決断と比べるアホらしいし、「牧師の子だくさん」も「プロテスタント系大学無償」でいけるから出来ることだ。それどころじゃない、「キリスト教学校教育同盟に属する大学」でどれぐらいの経常経費補助金をもらいながら、何匹の「牧師」を飼っているんだ、とんでもない憲法違反である。
NHKの「日本海軍400時間の証言:特攻」は、その現場にいた海軍関係者の証言で生々しいものであった。醍醐聰のブログによいまとめがある。(http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/nhk400-93c3.html)
海軍軍令部が非常に早い時期から「特攻作戦」を計画していたこと、特攻‘専用’武器を開発していたこと(当然海軍省は予算をあてている)、特攻の為の軍編成を行っていること、それにも拘わらず元軍令部参謀は、「特攻は、作戦戦術ではない、それより遥かに崇高な精神の発露である。」として、「自発的志願」によりボランティ精神で行われたことを絶叫していた。そして「特攻攻撃は無駄どころか40%以上の‘成功’だった」と主張する野蛮なサイトが平然と存在する。近代システムでは、設計者・製造者・ユーザーの‘経験知’がフィードバックされシステムの性能効率を挙げていくもののはずだが、このフィードバックのない「人道への犯罪」システムがどんな恐ろしいものか。プロスムが行われるアルバートホールの南に「サイエンス・ミュージアム」があるが、その最上階であろうか「航空機の歴史コーナー」に「戦時爆撃機」の説明コーナーがありその説明に、「無差別爆撃を行った爆撃機を開発したことにより、イギリス航空産業は技術革新を怠り戦後の航空機開発競争に致命的な遅れをとった」とあった。番組で人間魚雷回天の設計従事者が、「人道に対する罪」に問われるを恐れていたことが語られていたが問われて当然である。「人道に対する罪」は連合軍の専売特許ではない、トマス・ホッブスの「リバイアサン」、ジョン・ロックの「市民政府論」などで確立された近代統治主権原理の「自然法的」根幹なのだから。それは、オスマントルコ帝国のアルメニア人へのジェノサイドがイスラム統治原理からも「人道に対する罪」として免罪されることができないと同じことである。ドイツにおいてはナチ犯罪をニュルンベルグ裁判の後にみずからの手で継続的に行ったが、今なお自らの手で「人道に対する罪」を断罪していない我々は、今なお「やましき沈黙」=「おぞましき黙認」にあるのだろう。そしてこの「大日本帝国統治下にあるすべての人間を自由裁量による消耗品とみなす思想」は、派遣労働体制によりあくなき利潤の追求をおこなっている現代の「経団連」=「むかし軍部、いま経団連」に強力に引き継がれているのである。
慶応大学経済学部卒業(卒業時に直接もらったという小泉信三の自署の本があった)の徳川泰圀は、その毛並みとみずからのもつ頭脳と才能により、当然その「経団連」の主流を歩むことはいともたやすかったであろう,白洲次郎のようにチャランポランであったならば。かといって、こちらに被害が降り掛かってきたこともそう簡単には赦すことはできないが、 徳川泰圀の人生が、真剣に苦悩に対峙し慟哭の人生であったことは確かである。
慶応大学応援団の歴史の記述(75年通史ー戦後復活期)http://k-o-m.jp/history/2-1.html にこんなものがある。
「水戸藩徳川家の一族で元特攻隊員、後年はカトリックの司教というユニークな人生を歩んだ徳川はリーダー班責任者として華麗なテクニックを後輩たちに熱心に伝授し、後進の滝口登(獣医23)、大舘清次(獣医23)、予科の椎津康夫(経26)らもやがて応援席で華麗な拍手指導をおこなうようになる。」
この徳川泰圀の経歴が以下のようにのっていた。
1996年12月24日帰天
1921年3月8日生まれ、 神田教会で受洗
53年12月12日 司祭叙階
54年3月 浅草教会助任
56年5月 パリ留学
58年11月 東京大司教館
59年 北町教会主任
67年 志村教会主任
75年4月 大司教館事務局長
87年4月大森教会主任 この間東京カトリック幼稚園・保育園連盟事務局長・聖園幼稚園園長、 東星学園理事等を歴任した。
92年より病気療養のため、 司祭の家で静養していた。
鹿児島の特攻基地から飛び立つところ飛行機が故障で飛び立てずそのまま終戦になったこととよく語っていた。「特攻」と対峙したことからカトリック神父になったのかと信じ込んでいたが、思いもしないところの彼の同期生から、「あーあ、トクさん、失恋して神父になったんだよ。」と漏れ聞いて、どっちがどっちだか整理がつかなくなった。たしか、お父さんが「日本で初めて飛行機を操縦して飛んだ」はずだが。
練馬大根畑の真ん中にそれなりの敷地を購入しまずは幼稚園をつくり住宅乱開発と周辺の子供人口激増で経営を軌道にのせ、次に「お御堂(プロテスタント用語では「チャペル」結婚式にはこっちの方がいいね)」を建設するが、当時の子供の目から見ればそれはもう立派な白亜の殿堂であった。殿曰く、「ドイツのケルン教区からの援助で立てた。」というのはいいが、さらに「だからケルンの大聖堂に真似てつくった。」30年も経ってかそのケルン大聖堂(ドームというらしい、イギリスではカッシードラルCathedralだけど、日本はカテドラル?)の本物に行き、「大聖堂では神に近いてっぺんまで登る」というプリンスプルに基づきてっぺんまで登ったが、まるで1時間ちかく階段を登ったような感じでまあ大変だった。「ケルン大聖堂に真似た」なんという無茶な大ウソは本当に言ってはいけなかった、マッチ箱ぐらい真似た程度なのだから。
この殿、普段はやはり名門の出らしく高貴で知的なお方だったが、クリスマスや復活祭など大きなお祭りでたまに酒が入ったり、こっちは頻度が高いが説教で興奮してしまうともうとんでもない状態になってしまう。なんせ元特攻隊員・慶応大学応援団部で鍛えまくったその声たるや、「旧約の怒りの神」も尻尾を巻いて逃げてしまう大音響で「ケルン大聖堂を真似たちゃぽけなお御堂」ではとてもおさまらず「ケルン大聖堂そのもの」が必要だったぐらいだ。殿の後輩となる暁星に行っていた子が、教会のとっても品のいい誰もが憧れて当たり前の女の子にラブレタター出したということで、「はしたないまねしやがって、オレの聖なる暁星の名誉を傷つけたな!」とボンボコ殴り倒しそれでもおさまりきらず、(なぜかあんな高貴な出なのにこんな時は私と同じ下町江戸っ子弁の決まりきったさまざまな語句)で罵倒しまくって口から泡ふいていたこともあった。試験の前に(洗礼は赤ちゃんでやちゃうケースが多いので堅信礼は「試験」があってパスしないと駄目)「聖書講読コース」なるものを終えて、感想を訊かれて(プロテスタントだと「信仰告白」なんというだいそれたもの平然と人前でやるんだよね、面の皮があつくなるというか)「まるでお伽噺みたい。」と純粋な目をしてうっかり口を滑らしたからたまらない、もう手をブルブル震わせて顔が葡萄酒を飲んでいないにもかかわらず真っ赤になりーあの恐怖たるや思い出したくない。分厚いラテン語(ミサ(プロテスタント用語でサービス)はラテン語式辞?だった)のミサ典書?をもってこないと怒られる、こっちは朝5時おきて侍者に来てやっているのに、そのくせ、ラテン語を正式に真剣に教えてはくれない。井上ひさしさんが「ボローニャ紀行」で彼の「児童養護施設」の聖ドミニコ修道会の神父さんを敬愛を込めて書いているが、私は残念ながら殿も含めて出会ってきたカトリック神父にたいしてそうはいかない。
でも日本の場合「カトリックの神父や修道女」は、「プロテスタントの牧師」連中に比べればズートマシだ。もう遅くなってガストで食事していると、二人のボンクラな顔の男たちが、ビールジョッキを傾けながら話していて、「聖書をいろいろ使って説教するのは、オレはいやなんだな。」とかとかが聞こえてきて、ひっくり帰るほど驚いた。もう夜の10時すぎてるんだよ、夜9時過ぎは黙祷の時間だろう、いくら東京神学大学の馬鹿学生だってすこしは修行しろよ、聖書どうのこうのと言う問題じゃないだろう、なんでビールジョッキで飲んでいるんだよ、殿が聴いていたら名刀なんとかでその場でお手打ちだぜ。「神に奉仕するパートナーズ」でいくら気取っても「独身を通す」決断と比べるアホらしいし、「牧師の子だくさん」も「プロテスタント系大学無償」でいけるから出来ることだ。それどころじゃない、「キリスト教学校教育同盟に属する大学」でどれぐらいの経常経費補助金をもらいながら、何匹の「牧師」を飼っているんだ、とんでもない憲法違反である。
NHKの「日本海軍400時間の証言:特攻」は、その現場にいた海軍関係者の証言で生々しいものであった。醍醐聰のブログによいまとめがある。(http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/nhk400-93c3.html)
海軍軍令部が非常に早い時期から「特攻作戦」を計画していたこと、特攻‘専用’武器を開発していたこと(当然海軍省は予算をあてている)、特攻の為の軍編成を行っていること、それにも拘わらず元軍令部参謀は、「特攻は、作戦戦術ではない、それより遥かに崇高な精神の発露である。」として、「自発的志願」によりボランティ精神で行われたことを絶叫していた。そして「特攻攻撃は無駄どころか40%以上の‘成功’だった」と主張する野蛮なサイトが平然と存在する。近代システムでは、設計者・製造者・ユーザーの‘経験知’がフィードバックされシステムの性能効率を挙げていくもののはずだが、このフィードバックのない「人道への犯罪」システムがどんな恐ろしいものか。プロスムが行われるアルバートホールの南に「サイエンス・ミュージアム」があるが、その最上階であろうか「航空機の歴史コーナー」に「戦時爆撃機」の説明コーナーがありその説明に、「無差別爆撃を行った爆撃機を開発したことにより、イギリス航空産業は技術革新を怠り戦後の航空機開発競争に致命的な遅れをとった」とあった。番組で人間魚雷回天の設計従事者が、「人道に対する罪」に問われるを恐れていたことが語られていたが問われて当然である。「人道に対する罪」は連合軍の専売特許ではない、トマス・ホッブスの「リバイアサン」、ジョン・ロックの「市民政府論」などで確立された近代統治主権原理の「自然法的」根幹なのだから。それは、オスマントルコ帝国のアルメニア人へのジェノサイドがイスラム統治原理からも「人道に対する罪」として免罪されることができないと同じことである。ドイツにおいてはナチ犯罪をニュルンベルグ裁判の後にみずからの手で継続的に行ったが、今なお自らの手で「人道に対する罪」を断罪していない我々は、今なお「やましき沈黙」=「おぞましき黙認」にあるのだろう。そしてこの「大日本帝国統治下にあるすべての人間を自由裁量による消耗品とみなす思想」は、派遣労働体制によりあくなき利潤の追求をおこなっている現代の「経団連」=「むかし軍部、いま経団連」に強力に引き継がれているのである。
慶応大学経済学部卒業(卒業時に直接もらったという小泉信三の自署の本があった)の徳川泰圀は、その毛並みとみずからのもつ頭脳と才能により、当然その「経団連」の主流を歩むことはいともたやすかったであろう,白洲次郎のようにチャランポランであったならば。かといって、こちらに被害が降り掛かってきたこともそう簡単には赦すことはできないが、 徳川泰圀の人生が、真剣に苦悩に対峙し慟哭の人生であったことは確かである。