goo blog サービス終了のお知らせ 

ビューティフル・マインド  ケム川の流れに

素直な瞳はその心の美しさをそのままあらわしている。それは、素直とは全く正反対の瞳とくらべればよくわかる。

激しさ絶頂!!女神学?

2007年04月20日 | Anatomy of the 絹川正吉
まったくの偶然、The絹川正吉の‘パートナー’である絹川久子の“女性の視点で聖書を読む”をパラパラとめくってみて、あの偉大な‘新ミレニアム最高傑作’を補う‘準傑作’なのではないだろうかと思った。

なによりもそのパートナーの‘最高傑作’やその他を読んでいて不可解に思っていたことが、この‘準傑作’によって解消することができたことである。「強制」ではなくて「共生」とか、「競争」ではなくて「共創」とか、その顔にはまったく似合わない洒落た言葉がその真意とはまったく反対にそのパートナーからよく出てくるが、その出所がどこからであったことが理解された。また、一小節でまとまった論理が展開されるのでなく、前句と後句の記述対象や論理がチグハグバラバラであっても平気であることや、例えば [エジプトの奴隷ユダヤ人」を奇々怪々な 用語である「出稼ぎ難民」と定義もなく記述するがようなことがあっちこっちにあることや、書いてある内容なぞどうでもよくともかく書き手の‘激しい勢い’だけが伝えようとするなどなど、その日本語の特徴がパートナーととてもよく共有されていることも納得した。

「女神学」は、「権威主義・家父長専制主義かつ差別主義である」「男神学」に対抗して、歴史的に「徹底的」に差別されてきた女性の視点から、いやそれのみならず、例えば「ブラック」「原住民」などの歴史的にかつまたグローバルに差別されてきた、その被差別者全体をそのテリトリーとして包含した「反差別・差別被害者統一戦線」の視点から、聖書を「創造的想像」によって読み解く「壮大な新しい神学」と、大風呂敷をまず広げる。「女神学者だから男神学者に差別されて大学の職を得られなかった」ことが「重大な差別被害」と「中流有閑階級的」差別被害者意識を吐露しているが、だからパートナーの学長職固守に大奥陣もしっかり組織し異様な執念を燃やしたのだろうが、だがそんなことよりもこんな大風呂敷をいとも簡単に大胆に広げられる「職業心理カウンセラー」がいることに「重大な危惧」を感じるのだが、それともそっちのほうは片手間なんだろう、そして「手篭めにされた」といった言葉があっちこっちに出てくるので精神分析的視点の誘惑に駆られてしまう。

「記述の上で歴史的制約」をもつヘブライ聖書の神が、ホロコースト・殺戮者である指摘は(あの異端とされた「グノーシス派」はすでに二千年近く前にその理由で旧約は除外すると正しく主張しているのだから)当然としても(「神という妄想」の著者リチャード・ドーキンズは聖書を「バイオレンスと異常性行動の記述過多」として、すくなくとも12PGにせよと主張しているのかな)、基督の神イエス君も‘差別者’として糾弾されてしまう。そこは「歴史的制約」で「聖書の記述が悪いので」しかたなく、それでは「創造的想像」を用いて「真の神のありよう」(だから自分勝手の神をつくりあげるのだが)を「女・被差別者連合」の視点からを示すべきだと吠えまくる。

問題の本質は、ヘブライと基督教聖書の「歴史的制約」が一体どんなものであったのか、「おぞましい古代カルト宗教の一つにすぎない基督教」の一群の「歴史的に文書としても捏造された聖書群や関連文書群」を、女も男も関係なく真剣な「科学的な読解研究」をする科学的な学問的立場を堅持することだ。しかしこの「女神学」たるもの、そんなことどうでもよく、「聖書を聖書自体そのものを対象とする」(スピノザが主張して400年以上経つにも拘わらず)のではなく、「反差別」の旗印のもと「(自分勝手な)真の神のありよう」を「創造的想像 」するのである。いわば「制約」から解放されて、なんでもありである。

歴史的制約で書かれた聖書の諸記述を素材に取り上げ、豊かな「創造的想像力で想像的創造」を行うならば、それは文学作品として面白いと思うが、あくまで文学作品だ!!、なぜこうも「想像的創造力による創造的想像」された「激しい勢いだけ」一辺倒なのだろうか。いやこれは、「女神・学」ならば豊かな有益な学問的知識を供給してくれているが、「女・神学」というものは、これまた「豊穣なカルトの尽きせぬ泉」である基督教の新たな(狂気の)「独創(正確には独走かな)分野」を切り拓いたものだけなのだ。

神なんぞ人間が勝手気ままに作り出し今でも再生産活動が活発であることはこの例でよくわかるが、問題は「自分が作り出した’に責任」をもつことである「‘自己責任」と叫ぶ連中が徹底した「無責任」であるように、「神を叫ぶ’連中」は、自らが「創造した神」に「無責任きわまりない連中」である。


国際基督教大学のFD 絹川正吉のIT活用ゲシュタポ・メール 

2006年05月19日 | Anatomy of the 絹川正吉
The絹川正吉がIT活用で唯一やったこと、しかも究極の”Faculty Development”としてThe絹川正吉の腰巾着でえばり”腐っている”(いい変換だ)吉田智行が提案しただろう、ゲシュタポ・メールの創設。学内に”監視の目”を張り巡らし、しかも読むのが”キリストの十字架の愛を遥かにあおぎみている”闇の洗礼を受けた男というジョージ・オーウェル”1984”さながらの世界。

基督の神が祝福したIT活用とFDの見事な融合。
”FDの最先端を行く”国際基督教大学のFDにならい、多くの大学もこのゲシュタポ・メールを設置していくだろう。
しかしよくこんな狂気の基督教ファシストをFDについて教えていただきたいと講演によぶものだ。本当にまともに聞いたのか?なにひとつ批判なぞ載っていない。日本の大学というのはよほどヒマと自らの学問への姿勢に自信がないものだ。みずからの学問に自信がないのは決定的退廃なのだから、やめてくれるのが日本国民により奉仕することだ。

そのゲシュタポメールに:
”he絹川正吉の社会的責任である”2000ー2004年度給料明細、旅費、交際費、退職金総額”などの公表をせよ”というまともなメールがきたらどうするのだろうか。

国際基督教大学 絹川正吉と調査報告(2)

2006年05月16日 | Anatomy of the 絹川正吉
またグールグで絹川正吉といれる。グーグルの巨大クラスターシステムのなかで一体どんなインデックスになって登録されているのだろうかとちょっと頭をかすめる。

学長をやめてからも”激しく生きている”ようである。”教養カレッジ”とか”教養は思想信条”とか要約を載せるひとが大変苦労したであろういつもの”独特の言葉の使用による言葉遊び”におどらされてはならない。

教養カレッジ? リベラル・アート・カレッジと旗を掲げて狂奔していたんじゃないか。

教養教育はすべての人生涯のすべての時期に開かれているべきであり、社会全体が、’教養教育を’担う必要がある。図書館、博物館、美術館、オープン・ユニバーシティ(日本は真似て一応’放送大学’つくっているのだが)、これらの教養教育の社会資本基盤システムがとんでもないほど日本では遅れている。

かっての一部のエリート層が大学予備の”教養”の為にあった旧制高等学校を戦後教養学部にして”教養コース”を強制したことから日本の大学教教育の歪みが始まる。大学は”専門”教育研究の場であり、その教育は専門教育であるのは言うまでもない。いつまでも専門が始まらないで”趣味教養”が強要されるのでレジャーランドになってしまっている恐るべき日本の大学の退廃。いやもっと深刻なのは、’専門教育にふれるまでの時間が浪費され教育を受ける者の負担必要経費がうなぎ上り、それを負担できない者が’専門教育を十分にうけられない’という’今の社会的専門能力をもってものでないと厳しい状況におかれるという、その格差社会の根源を作ってしまっていることだ。(まあ欧米では本当にそうだが、日本ではもっと歪むが)

”教養学部”廃止はあまりに遅すぎた、そして徹底していない。その一方”教養教育”の社会のインフラ整備が遅れすぎている。

趣味教養のリベラルアートでカルチャーセンターもどきを大学としてやっていきたいなら自己中心にやればいいだけで、すべての公的助成金を即座にカットすべきだ。

国際基督教大学 絹川正吉と調査報告(1)

2006年05月13日 | Anatomy of the 絹川正吉
公開されている資料を中心にとりわけ新ミレニアム最高傑作を分析することによって、The 絹川正吉なる人物にたいする端緒の段階の調査報告を”公開”している。極めて狭い世界のなかで権力を駆使してかき集められるた”事実”を使ってではなく。

The絹川正吉の社会的責任である”2000ー2004年度給料明細、旅費、交際費、退職金総額”などの公表をいつするであろうか。基督の神からの恩寵には、社会責任などどうでもいいことは確かであるが。

基督教徒の最大の祭典である”悪魔裁判””魔女裁判””魔男裁判”、これがなければたまりたまった基督教徒のエネルギーは発散できない。”宗教とはアヘン”でなく、宗教の最重要の機能は、マスタベーションなのだから。

とんでもない社会的犯罪人であるジョージブッシュが父ブッシュという基督の神に守られ、基督教によって”生き返り”基督教徒たちによって大統領まで祭り上げられ、おそるべき戦争と戦争犯罪をおこなっているが、それも基督の神の栄光と正義のための実践いや祭典なのである。しかし基督教徒には自分たちのためのマスタベーションですむが、戦争を仕掛けられた方はとてつもない残虐な行為で蹂躙されたのである。

The絹川正吉とタイプは違うが、似たような””妄想・幻聴”がその神からの恩寵の豊かな才能である腹黒のなかでオブラートされている"現代の傑作"尾崎敬二。その極度の狭い世界では祝福された腹黒男がそのストーカーの熱狂で長く長く溜め込んできた”データ”のさまざまなモチーフもとになり、基督教徒の狂乱する交響曲をかたちづくっている。ワーグナーのリングのモチーフとは、利用の仕方が正反対だが。

国際基督教大学 絹川正吉と「カウンセリング」臨床心理士と宗教カルト

2006年05月12日 | Anatomy of the 絹川正吉
ジョージブッシュが、”大悪魔サダム・フセイン”打倒と叫びイラク戦争につっぱしった。国連査察官ブリックス博士の”ない(大量破壊兵器)ものを探すのは極めて難しい”、そんな大義など(自分から言い出したにしても)、基督の神の栄光と正義の大義の前ではどうでもいい些細なものであったことがはっきりと判明している。

基督教徒の”神の栄光と正義”の”聖戦”は、”悪魔裁判”’魔女裁判””魔男”裁判としても歴史を彩る。

The絹川正吉の”私は復讐を決して忘れない”という”はなるかなる十字架上のイエス”に固く誓って、神の壮大なおはかりごとを賜ったのであろう。その壮大なエネルギーは、おさまることをしらない。

学長10か条には:
”カウンセリングにいっている”

わけのわからないどう答えていいのかわからない、The絹川正吉特有の言語で書かれた10か条のなかで、もっとも具体的な事実の糾弾があった。学長権力のもとで、「カウンセリングにいくこと」が糾弾の対象になる。

The絹川正吉は、カウンセリングにいって少しでも良くしよう、「はるかなるイエス・キリストの愛を仰ぎ見る」ことよりも、もっと自分を人間として生きていく真摯な努力などしたことがないことが判明している。

後記:
なんとこの絹川正吉のパートナーが、「心理カウンセラー」だった!! 激しさ絶頂!女神学で指摘しておいたが、反科学的反理性的の基督教カルトで貫かれた大風呂敷を展開するのが、「心理カウンセラー」なのだ、重大な危惧をおぼえざるを得ない。 

最近は医療保険はきかないが「臨床心理士」が一つの高度専門職として確立してきている。 医学の精神神経科が、さまざまな医学的見地から精神安定剤などの「薬」を中心とした「内科的治療」を専門にする一方、「臨床心理士」が、「臨床心理学を学問的基盤に、心の問題の援助・解決・研究に貢献する専門家として認定する資格である(国家資格ではない)」(Wiki)のように長時間の継続的対談などを通じて、悩む人間の「心の中を切り込んでくることもある、外科的療法」と位置づけられ、プログラマーのような「心を酷使する職業病」の治療になくてはならない存在になりつつある。精神科医より遥かに、「人間の心と接する、いやある意味操作するといったほうがよい外科的療法」なのだ。

さまざまな宗教団体のパンフレット、雑誌が頻繁に郵便受けになげこまれるが、その中で記事を書いている人の職業が「臨床心理士」となっているのが散見する。宗教信仰などごく個人的なマスタベーション装置が、その「神聖性の証拠」の為に、「臨床心理士」として、「心の外科的治療として悪用される」としたら一体どうなるのか。
「ノイローゼとは、あくまで現世現実にしがみつくことからおこるのです、ですから「神」にすべてを託し自らを解放するのです」
なんというのは神父、牧師、伝道師、伝道師崩れなどからよく耳にし目にすることがらだ。現在の宗教活動は、すべてフロイトなどからの心理学から「本質を抜き去り表面だけ」を応用していなければ成り立たない。「一段上の高級な宗教」を名乗っている宗教団体ほどその色彩が濃い。「書物の宗教」である基督教もそうだ。

臨床心理士は、すべて自分の信じる、あるいは慣習としての宗教を、はっきり明示すべきだ。その断りなしに「専門職」を名乗ることはできない。そして「宗教的偏向」による「外科的治療」への影響を徹底的に排除すべきである。まず、宗教大学に対して「臨床心理士コース」の設立を許してはならない。次に「業界団体」で、カルト的言動をとるものを監視調査すべきである。


”基督者の完全”

2006年05月01日 | Anatomy of the 絹川正吉
闇の洗礼を受けたThe絹川正吉なる人物が、イエスが十字架上で逆立ちしたってできない矢内原総長、湯浅総長なる’基督の神"があたえたもうた圧倒的な現実的利益を自己中心的に完全確保するため、カウンセリングによって治療することがなかったたぐいまれなる妄想・幻想機能の働きによる神から啓示よって、その本質の完全自己中心から自己中心的にちょっとだけ軌道修正したプロセス、すなわち”自己中心”と”自己中心的”のサイクルの中で完全自己完結した”キリスト者の完全”が、どう達成したのか分析することができた。

新ミレニアム基督教最高傑作には、いかにして学長なる地位を自己中心に強奪してその最高傑作が作成できたのか書かれていない。牧師の息子であった佐波正一元会長の”基督の神’が与えたもうた”学長の地位”を強奪したのは、自己中心的でなく自己中心からである。そこには、自己中心からの自己中心的への妥協により軌道修正するプロセスのサイクルの完全自己完結から、さらに高度になり、自己中心から自己中心にただ直接転移している超完全自己完結への”完全基督者の完全性”が実現されている。

極度に狭い基督教の大学のなかを、”完全基督者の完全”を達成したThe絹川正吉の'基督の神"によって教授の地位という現実的利益をいただき、The絹川正吉の成し遂げたこの大業績を乗り越える”極度に狭い基督教の野望と野心と享楽”を成し遂げようする連中で満ちあふれされたのも、この人物の偉大な業績である。

The 絹川正吉の”社会的責任”

2006年04月27日 | Anatomy of the 絹川正吉
The絹川正吉という人物は”大学の社会的責任”を叫んでいるそうだが、”みずからも社会的責任が非常に重い”とは夢にも思っていないようだ。大学の学長というのは、学長権力を思う存分ふるうことができる特権地位と勘違いしている。”天命、神のご命令”と勝手に決め込め”極度に狭い自らの大学”で好き勝手なことができたとしても、それで社会的責任から逃れるわけにはいかない。
 
The絹川正吉は、2期8年間の長きにわたり学長を務めた。後半の第2期では、規定を破り70歳を超え立候補し70歳以下の対立候補に過半数を取られ破れている。それを当時の理事長であった佐波正一元東芝会長の”別に大差ない”として、”元経団連副会長元東芝会長”という”日本の社会では無視できない地位”にある人物の権威をかり、学長にいすわった。佐波正一元経団連会長元東芝会長が”戦後民主主義原則を平気で破る人物であった”ことと、佐波氏の神の現実利益を”天命、神のご命令”と極めて基督教宗教感性で”神のおはかりごと”としてすすんでうけいれることとはまったく次元が異なる。その決定を”良心の呵責なく”などなくうけれるのは基督教の狭い世界では許されるだけである。

これは、ジョージ・ブッシュが大統領選の投票結果を、違法に操作された可能性が極めて高い投票機の誤差の範囲内であることを、客観的には過半数をとっていないことをしりながらも、”投票機識別の誤差も”神のおはかりごと”として大統領を強奪したと”ほぼ同じことだ。”大差ない”というのは、牧師の息子であった人物のこれまた基督教的で、基督教は日米で民主主義に真っ向から破壊することを示している。

The絹川正吉なる人物は、それではみずから進んで、この”大差ない”という”神の声”に支えられ居座った学長期間中の、給与総額、諸手当、交際費、旅費、そして退職金、それらを全て公開しているだろうか。”財政が苦しく”といいながら、その給与の実態はどうだったのか。70歳をすぎつつましく生活するにはことかかない年金をもらっているはずだが。

大学は公的機関であり、多くの課税免除があり、そして直接には多額の政府助成金を支給されている。”神のご命令”で学長にいすわったとしてもそれは基督教の極狭い世界のことだが、一方、居座った4年間の給与総額、諸手当、交際費、旅費、そして退職金の詳細の公表はまさに社会的責任である。

”大学はサービス産業であり、学長はそのサービス業の社長”だからその必要がないというのだろうか。

言うことと行うことの完全不一致の完全性

2006年04月21日 | Anatomy of the 絹川正吉
The絹川正吉という人物は、”自分の言っていることが跳ね返って、自分の行動の社会的責任につながる”とは夢にも思ってはいず、自分の行動は社会的責任から超越しているとの頭脳の回路ができている。まこと都合のよい回路だ。

”大学は教育だ”、それでは”大学における数学教育はどうあるべきか?”、”理系でも微積分どころか三角関数でもひっくりかえる””分数ができない大学生”。 アメリカ大学院入試資格テストGMATの算数レベルに近づいた日本の大学生の数学能力れべる。微積分がしっかりできないような大学生卒業生が多数をしめるようになると”技術立国に本”はヤバイ。道具としての数学は必須であるが、数学者の純粋数学などホビーでひまにまかせてやればよい、天才をだせばいいだけだから。それでも”大学における数学教育はどうあるべきか?” なにも書いたものをめがふれたことがない。
聞いたことがあるが、薄っぺらな授業のハンドアウトを学生に2千円で購入させてたという。それっていったいなんなんだ。

リベラルアートを掲げて狂奔しているそうだが、小規模リベラルアートカレッジのラップトップ抱えて学生に混じって一緒に行動している学長というイメージからはまったくない。文学部リベラルアートならばそんな忙殺されるような仕事に追われるわけでもないのに秘書をかかえて大きな部屋でふんぞりかえっていたんじゃないか。リベラルアートカレッジに副学長、それに財務副学長なる余計な職種がなぜ必要なのか?しかもそれぞれ秘書がいる。巨大私立並みじゃないか。いやアメリの巨大私立大学なみだ。

”65歳で定年だ。定年者は大学から去れ。” 65歳から特任教授なるものになり、70歳すぎて規定を犯して学長選に再びえばりくさいって思う存分権力を楽しみ享受すし高給と学長宅なるものに自由にすむといういたりつくせりの現実利益の独占のため立ち、多数で負けているのに”大差ないからかまわん”で平気で”戦後民主主義の多数決原則”を破り、70歳すぎても学長職を強奪した男がいえることか。基督教徒なら民主主義の原則も社会原則を超越して良いという。そうすることが神のおはかりごと神の命じられたことだという。


”大学はサービス産業だ’という。ならば”サービス産業”として固定資産を含めて課税の対象となる、そうして欲しいのだろう。生活基本品、教育・医療に対してVATが免除されているヨーロッパ諸国に比べて日本の消費税5パーセントは欧州20パーセント前後と実質の荷重が同じとなっている。”教育事業”でさえ消費税で大変なのに、”教育サービス業”で課税対象に挑戦するとはなんと勇ましいことか。

主張していることと実践が根本的に違っている。それならば主張していることは、単なる空文句にすぎないのだが、そこがとてつもなく怖いところ。このお方にはしゃかりきな”絶対的”な踏み絵なのである。大きな枠組みの一部にすぎない相対的なものを、超大拡張してそれを絶対化し踏み絵とする。基督教徒特有の独善だが、大学は基督教徒の私物ではない。

ユダヤ人協会で自閉症の研究を切り開いているユダヤ人教授が、”他人の心を理解する能力と自分を顧みることのできる能力が人間の頭脳の働きの特徴だ”と言及した時、はっとした。日本人の心に直接通じる彼らの道徳性の高度さに衝撃を受けた。 

それに比べると、まさに基督教徒の完全性だ。独善と自己中心の現実利益だけに自己完結している完全性。こんな偉大な精神(自分でも正確に指摘しているが、”完全自己中心主義”で道徳性のかけらすらない、ジョージ・ブッシュの完全類型)がなんでできたのか?


国際基督教大学 絹川正吉と”大学教育”

2006年04月20日 | Anatomy of the 絹川正吉
絹川正吉というテキストをグーグルに放り込むと、”特色”あるのは、”大学の目的が教育である”というキャッチフレーズである。いくら教育基本法を改悪しようとする勢力が大きくなっても”大学の目的は教育研究である”のはことは大学の存在意義そのものなので変わることなく、また世界中そのように規定されている。この世界の常識を平気で否定する”大学人”がいることに驚嘆する。大学で教えたことがあるのだろうか。いくら日本の大学がアメリカ以外の世界の大学と違ってレジャーランドとなっているとしてもそれを肯定することなぞ許されることではない。もしそうならば絹川正吉なる人物は完全な”大学教員不適格者”である、いやそれ以上である、日本の現在の世界に冠たる世界に膨大な貢献をしている”技術立国日本”を支えた教育基本法を冒涜するとは。

自ら学長を務めた大学が、語学専門学校に教養文学部をつぎはいだ、予備校に毛が生えた程度の授業しかできないその程度の教員しかいない、およそ専門教育などまったくやる能力がないしその気もないが、なんとか"見てくれよく生存したい"といいう”大学経営者”の立場から経営戦術としてならば理解もできる。しかしそれは,しゃかりきになって”大学の目的が教育である”などとでしゃばるものではなく、防御的なものであって経営戦略のレベルではない。”経営戦術”と”経営戦略’のちがいもわからないのは、まるで基礎教養ができていない。これで利益を最大にあげたと思い込んでいるのだから。利益をあげたのは自分だけ。

”大学の社会的責任を問う”と平気で自分のことを棚に上げていってのけるこの人物。”絹川正吉の社会的責任を問う”と皮肉に言い返しても、”社会的責任を問われるそんな低い地位にいない、遥かに高いところにいる”とふんぞりかえるのであろう。

教育の現状の問題点を深く分析し解決への道筋を探し出すのでなく、”授業”のアメリカ方式(アメリカのもうがすべて優れていると鼻高々なんだから)テクニックレベルばかりをいじくりまわすだけの、教育テクニックデータ収集学者という全く不要の屑学者に生活費をあたえるという無駄なのだが、もっと本質は何年も何年も成果を科学的に検討することもなく、自分の完全性の極小的独善をしゃかりきに楽しんだだけなのだから。

頭の連中がいるようで、”大学の目的は教育”といって”教育研究”ができない大学の名称をもっ大学なるものを”教育大学”としむけていって、5年10年後に放り出す(助成金うちきり)。アジアからの留学生をもっと系統的システム的に取り入れていく整備をしないかぎり、今の日本の大学の3分の1は消滅させる必要があるのだから。









Anatomy of The 絹川正吉

2006年03月31日 | Anatomy of the 絹川正吉
日本の基督教の到達点とも言える日本の基督教の最高傑作とも言える文書も発表されている。その分析を通して、現在の見えないが深い時代閉塞の元凶をのぞいてみる。自分の心がその”闇の洗礼”をうけた底知れぬ深い闇に恐れおののくのを耐えながら。