まったくの偶然、The絹川正吉の‘パートナー’である絹川久子の“女性の視点で聖書を読む”をパラパラとめくってみて、あの偉大な‘新ミレニアム最高傑作’を補う‘準傑作’なのではないだろうかと思った。
なによりもそのパートナーの‘最高傑作’やその他を読んでいて不可解に思っていたことが、この‘準傑作’によって解消することができたことである。「強制」ではなくて「共生」とか、「競争」ではなくて「共創」とか、その顔にはまったく似合わない洒落た言葉がその真意とはまったく反対にそのパートナーからよく出てくるが、その出所がどこからであったことが理解された。また、一小節でまとまった論理が展開されるのでなく、前句と後句の記述対象や論理がチグハグバラバラであっても平気であることや、例えば [エジプトの奴隷ユダヤ人」を奇々怪々な 用語である「出稼ぎ難民」と定義もなく記述するがようなことがあっちこっちにあることや、書いてある内容なぞどうでもよくともかく書き手の‘激しい勢い’だけが伝えようとするなどなど、その日本語の特徴がパートナーととてもよく共有されていることも納得した。
「女神学」は、「権威主義・家父長専制主義かつ差別主義である」「男神学」に対抗して、歴史的に「徹底的」に差別されてきた女性の視点から、いやそれのみならず、例えば「ブラック」「原住民」などの歴史的にかつまたグローバルに差別されてきた、その被差別者全体をそのテリトリーとして包含した「反差別・差別被害者統一戦線」の視点から、聖書を「創造的想像」によって読み解く「壮大な新しい神学」と、大風呂敷をまず広げる。「女神学者だから男神学者に差別されて大学の職を得られなかった」ことが「重大な差別被害」と「中流有閑階級的」差別被害者意識を吐露しているが、だからパートナーの学長職固守に大奥陣もしっかり組織し異様な執念を燃やしたのだろうが、だがそんなことよりもこんな大風呂敷をいとも簡単に大胆に広げられる「職業心理カウンセラー」がいることに「重大な危惧」を感じるのだが、それともそっちのほうは片手間なんだろう、そして「手篭めにされた」といった言葉があっちこっちに出てくるので精神分析的視点の誘惑に駆られてしまう。
「記述の上で歴史的制約」をもつヘブライ聖書の神が、ホロコースト・殺戮者である指摘は(あの異端とされた「グノーシス派」はすでに二千年近く前にその理由で旧約は除外すると正しく主張しているのだから)当然としても(「神という妄想」の著者リチャード・ドーキンズは聖書を「バイオレンスと異常性行動の記述過多」として、すくなくとも12PGにせよと主張しているのかな)、基督の神イエス君も‘差別者’として糾弾されてしまう。そこは「歴史的制約」で「聖書の記述が悪いので」しかたなく、それでは「創造的想像」を用いて「真の神のありよう」(だから自分勝手の神をつくりあげるのだが)を「女・被差別者連合」の視点からを示すべきだと吠えまくる。
問題の本質は、ヘブライと基督教聖書の「歴史的制約」が一体どんなものであったのか、「おぞましい古代カルト宗教の一つにすぎない基督教」の一群の「歴史的に文書としても捏造された聖書群や関連文書群」を、女も男も関係なく真剣な「科学的な読解研究」をする科学的な学問的立場を堅持することだ。しかしこの「女神学」たるもの、そんなことどうでもよく、「聖書を聖書自体そのものを対象とする」(スピノザが主張して400年以上経つにも拘わらず)のではなく、「反差別」の旗印のもと「(自分勝手な)真の神のありよう」を「創造的想像 」するのである。いわば「制約」から解放されて、なんでもありである。
歴史的制約で書かれた聖書の諸記述を素材に取り上げ、豊かな「創造的想像力で想像的創造」を行うならば、それは文学作品として面白いと思うが、あくまで文学作品だ!!、なぜこうも「想像的創造力による創造的想像」された「激しい勢いだけ」一辺倒なのだろうか。いやこれは、「女神・学」ならば豊かな有益な学問的知識を供給してくれているが、「女・神学」というものは、これまた「豊穣なカルトの尽きせぬ泉」である基督教の新たな(狂気の)「独創(正確には独走かな)分野」を切り拓いたものだけなのだ。
神なんぞ人間が勝手気ままに作り出し今でも再生産活動が活発であることはこの例でよくわかるが、問題は「自分が作り出した’に責任」をもつことである「‘自己責任」と叫ぶ連中が徹底した「無責任」であるように、「神を叫ぶ’連中」は、自らが「創造した神」に「無責任きわまりない連中」である。
なによりもそのパートナーの‘最高傑作’やその他を読んでいて不可解に思っていたことが、この‘準傑作’によって解消することができたことである。「強制」ではなくて「共生」とか、「競争」ではなくて「共創」とか、その顔にはまったく似合わない洒落た言葉がその真意とはまったく反対にそのパートナーからよく出てくるが、その出所がどこからであったことが理解された。また、一小節でまとまった論理が展開されるのでなく、前句と後句の記述対象や論理がチグハグバラバラであっても平気であることや、例えば [エジプトの奴隷ユダヤ人」を奇々怪々な 用語である「出稼ぎ難民」と定義もなく記述するがようなことがあっちこっちにあることや、書いてある内容なぞどうでもよくともかく書き手の‘激しい勢い’だけが伝えようとするなどなど、その日本語の特徴がパートナーととてもよく共有されていることも納得した。
「女神学」は、「権威主義・家父長専制主義かつ差別主義である」「男神学」に対抗して、歴史的に「徹底的」に差別されてきた女性の視点から、いやそれのみならず、例えば「ブラック」「原住民」などの歴史的にかつまたグローバルに差別されてきた、その被差別者全体をそのテリトリーとして包含した「反差別・差別被害者統一戦線」の視点から、聖書を「創造的想像」によって読み解く「壮大な新しい神学」と、大風呂敷をまず広げる。「女神学者だから男神学者に差別されて大学の職を得られなかった」ことが「重大な差別被害」と「中流有閑階級的」差別被害者意識を吐露しているが、だからパートナーの学長職固守に大奥陣もしっかり組織し異様な執念を燃やしたのだろうが、だがそんなことよりもこんな大風呂敷をいとも簡単に大胆に広げられる「職業心理カウンセラー」がいることに「重大な危惧」を感じるのだが、それともそっちのほうは片手間なんだろう、そして「手篭めにされた」といった言葉があっちこっちに出てくるので精神分析的視点の誘惑に駆られてしまう。
「記述の上で歴史的制約」をもつヘブライ聖書の神が、ホロコースト・殺戮者である指摘は(あの異端とされた「グノーシス派」はすでに二千年近く前にその理由で旧約は除外すると正しく主張しているのだから)当然としても(「神という妄想」の著者リチャード・ドーキンズは聖書を「バイオレンスと異常性行動の記述過多」として、すくなくとも12PGにせよと主張しているのかな)、基督の神イエス君も‘差別者’として糾弾されてしまう。そこは「歴史的制約」で「聖書の記述が悪いので」しかたなく、それでは「創造的想像」を用いて「真の神のありよう」(だから自分勝手の神をつくりあげるのだが)を「女・被差別者連合」の視点からを示すべきだと吠えまくる。
問題の本質は、ヘブライと基督教聖書の「歴史的制約」が一体どんなものであったのか、「おぞましい古代カルト宗教の一つにすぎない基督教」の一群の「歴史的に文書としても捏造された聖書群や関連文書群」を、女も男も関係なく真剣な「科学的な読解研究」をする科学的な学問的立場を堅持することだ。しかしこの「女神学」たるもの、そんなことどうでもよく、「聖書を聖書自体そのものを対象とする」(スピノザが主張して400年以上経つにも拘わらず)のではなく、「反差別」の旗印のもと「(自分勝手な)真の神のありよう」を「創造的想像 」するのである。いわば「制約」から解放されて、なんでもありである。
歴史的制約で書かれた聖書の諸記述を素材に取り上げ、豊かな「創造的想像力で想像的創造」を行うならば、それは文学作品として面白いと思うが、あくまで文学作品だ!!、なぜこうも「想像的創造力による創造的想像」された「激しい勢いだけ」一辺倒なのだろうか。いやこれは、「女神・学」ならば豊かな有益な学問的知識を供給してくれているが、「女・神学」というものは、これまた「豊穣なカルトの尽きせぬ泉」である基督教の新たな(狂気の)「独創(正確には独走かな)分野」を切り拓いたものだけなのだ。
神なんぞ人間が勝手気ままに作り出し今でも再生産活動が活発であることはこの例でよくわかるが、問題は「自分が作り出した’に責任」をもつことである「‘自己責任」と叫ぶ連中が徹底した「無責任」であるように、「神を叫ぶ’連中」は、自らが「創造した神」に「無責任きわまりない連中」である。